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朝日写真館 プロパガンダ 戦意高揚突き進んだ果て「1936年毒ガスマスク装着防空大行進」は自国の犯罪行為への報復を怖れる証拠写真 

2025-04-15 09:04:35 | アジア・太平洋戦争

 2022年8月13日の朝日新聞「朝日写真館」欄が、「プロパガンダ 戦意高揚突き進んだ果て」の大見出しで掲載した写真中に、「1936(昭和11)年 空襲による毒ガス攻撃を想定し、防毒マスクを着けて大阪市内を歩く人たち」とし、「朝日新聞社が主催した『防毒面装着防空大行進』で、2・26事件後に軍国主義が強まる中、防空演習防毒訓練が各地で頻繁に行われた」と説明したものがあった。もし毒ガス兵器に関して、広い知識やそれを基にした適切な認識力を培っていない人が、これは若い人とは限らないのであるが、この写真を見、説明を読んだ際、果たしてどのように認識するだろうか?正しく認識できるのかその事が心配であった。メディアは読者に誤解を生じさせないよう、伝えたい意味内容目的を明確にし、その意味内容目的が正しく伝わるよう、「丁寧な説明」を添えるべきだろう。安易な気持ちで簡単な説明を添え写真を掲載したのであれば、歴史事実を修正改竄する犯罪行為に陥る事になるだろう。

 アジア・太平洋戦争で、日本本土各地が初めて米国政府空軍による空襲を受けたのは1942年4月18日であった。本格的な空襲が始まるのは1944(昭和17)年7月7日サイパン島陥落以後であった。同年11月24日以後は連日のように襲った。しかし重要な事は、米国政府空軍は「毒ガス弾」を投下した事実はまったくなかったという事である。爆弾ナパーム焼夷弾を投下したのである。B29が投下したナパーム焼夷弾は、B291機に80個積まれ、投下後目標上空300mでさらに48個の焼夷弾に分散して降り注いだので、1機が3840発の焼夷弾を投下した事になる。「米国戦略爆撃調査団報告書」によると、米国政府空軍が投下した爆弾や焼夷弾の総重量は16万1425㌧、B29の出撃回数は353回、延べ出撃機数3万3041機で、損失率は1.4%であった。

 さて、話を本題へ戻そう。神聖天皇主権大日本帝国政府下における、空襲に関しての対応については、2・26事件が起こった1936(昭和11)年6月には(翌37年には日中戦争を開始)、東部防衛司令部が『わが家の防空』というパンフレットを編纂し、「これからの戦争は、空襲に始まって空襲に終わります。ですから我々国民は宣戦布告の前から戦争の全期間にわたって、絶えず敵の空襲のあることを覚悟しなければなりません」と述べ、1937年10月1日には内務省が「防空法」を施行し、防空演習防空訓練を実施するよう定めた。パンフレットの内容は焼夷弾を想定した消火訓練、「ガス弾に備えた防護訓練」、灯火管制の実施などであった。そして、各家庭に周知徹底するために『家庭防空の心得』なる印刷物を配布した。

 『心得』の中の「防毒」と題した囲みには、その囲み右側に「主要毒ガスの性能と救急処置」として表形式で「生理作用による区別」「毒ガスの名称」「臭気」「作用時の形態」「主なる生理的作用」「消毒剤」「救急処置」「持久力」「防毒具」などについて詳しく説明している。表の下部には「毒ガスに対する処置は」の見出しで、➀決して騒いだり慌てたりしてはならぬ➁火の元に注意せよ③家に在る者は戸障子を閉め防毒室防毒蚊帳の中に入り少なくとも一名は防毒面を着て外を警戒せよ④屋外に在る者は早く退避せよ⑤ガスは風下に流れるから風向きに注意して風上に避難せよ⑥防毒面がない時には手拭等を濡らして鼻口にあて出来れば一時呼吸をやめて速やかに被毒地域を逃れよ⑦ビランガスが身体に附いたら直ちに拭い取る等の応急処置をして救護を受け⑧ガスに中毒したと思う者は速やかに救護班の救護を受けよ、とある。そのさらに下部には「防毒室の造り方」として、「適当な一室を『防毒室』に充て、戸障子、天井其の他の隙間をハトロン、障子紙等で充分に目張りをし、老人子供の避難所を設けねばならぬ、防毒室の入口は押し開きか、立てかけの戸がよい」としている。また、防毒室・防毒蚊帳の棲息可能時間(約7時間)の「広さ」とその「収容人員」を細かく記載している。このような動きが背景にあった事を示す写真であったという事である。

 しかしなぜ、早い時期から、「防毒演習」や「防毒訓練」を実施したのだろうか?その理由は、神聖天皇主権大日本帝国政府の「毒ガス兵器」=化学兵器開発に対する姿勢にあったのである。

 化学兵器に対する国際社会の動きは、

1868年セント・ぺテルスブルク宣言(化学兵器禁止の条約として最古のもの)

1899年第1次ハーグ条約(窒息性ガス或は有毒ガスの散布を唯一の目的とする投射(投げたり・撃ったり)物の使用禁止の宣言を採択(大日本帝国の批准は1900年))

1907年第2次ハーグ条約(有毒の兵器使用の禁止。大日本帝国の批准は1911年)

第1次世界大戦では、毒ガスを兵器として大々的に使用。毒ガス被害者は100万人を超えた。

ドイツは、ハーグ条約が規定しているのは「投射物」の使用禁止で、ドイツ軍が使用した毒ガスは固定したボンベの中から放出させたのだから条約違反ではないと言い逃れた。そこで化学兵器の使用禁止を実現するため、

1925年ジュネーブ議定書(第1次世界大戦の悲惨な経験を経て、「戦争中に窒息性、毒性あるいはその他のガス及び細菌作戦装置を禁止」した)。しかし、ここでは毒ガス兵器の実戦使用だけを禁止し、研究・開発・保有については制限していなかった。大日本帝国政府は調印したが、調印後、批准しないまま(批准は1970年)それ以前から進めていた化学戦の準備を秘密裏にさらに進めたのである。

1918年陸軍軍医学校に化学兵器研究室(責任者小泉親彦)をつくる(シベリア出兵で大量のガスマスクを送った)。陸軍省に臨時毒ガス調査委員会を設置し、毒ガス研究を開始(欧米視察)

1919年陸軍科学研究所を創設し、毒ガス委員会の主力メンバーが移った。

1926年参謀本部に毒ガス研究委員会を設置(29年化学戦委員会へ)

1929年広島県大久野島東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所を設立し、毒ガス製造を開始した。戦前は国民の眼にできる地図から消され、毒ガスの製造はもちろん、島の存在さえも秘密にした。

※大日本帝国軍が実戦で初めて毒ガスを使用したのは、1930年の台湾の原住民によよる抗日闘争「霧社事件」の時であった。

 毒ガス工場では、各種の毒ガスを製造したが、1935(昭和10)年までにはドイツ式・フランス式ビラン性(インペリット、ルイサイト)、中毒性(青酸)、窒息性(塩化アセトフェノン、ホスゲン)などを製造した。陸軍による毒ガス戦(化学兵器戦)の実態については、軍関係者以外の日本人には秘密にしてきたため、国民は事実を知らなかったが、1984(昭和58)年マスコミが報道し、研究開発は旧陸軍科学研究所(東京)、大量製造したのは大久野島、充填は曽根(北九州市)、運用・訓練は旧陸軍習志野学校で行われたという大日本帝国政府による化学兵器戦の構図が国民の前に明らかになった。

 中国における大日本帝国陸軍のよる毒ガス攻撃地点は中国の全都市に及び、1937~1945年の間に2091回の毒ガス使用が確認されており、9万4000人の死傷者を出していた。しかし、「毒ガス戦」は第731部隊(細菌だけでなく毒ガス兵器の効力も捕虜を使って生体実験していた)と深く関わりを持っていたことから、「細菌戦」と同じく、戦後の極東国際軍事裁判では不起訴となった。

 大日本帝国陸軍は敗戦後中国に大量(中国側調査では総数200万発で薬剤100㌧)の化学兵器を遺棄してきた。吉林省・河北省・黒竜江省・遼寧省・浙江省・江蘇省・江西省などの30数か所に及んでいるが、大部分は戦後中国政府が吉林省敦化市郊外のハルバ嶺に集めて埋設した。戦後、漏出した液剤などで数千人の中国人が死傷したといわれる。そのため、1997年4月29日に発効した化学兵器禁止条約には遺棄毒ガスの廃棄義務が盛り込まれている。

 敗戦後米国政府軍により廃棄処理された日本国内の毒ガス(弾)は大久野島内に埋設されたほか、北海道の屈斜路湖、関東の銚子沖、相模沖、東海の遠州灘、四国の土佐沖、九州の別府湾、中国地方の周防灘、大久野島周辺域など8カ所の地域に海洋投棄されたままである。

(2022年9月18日投稿) 

 

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戦時中、大日本帝国政府は日本全国で敵国人を抑留。米国政府は日系人強制収容で謝罪補償。

2025-04-03 19:02:15 | アジア・太平洋戦争

 アジア太平洋戦争中、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「敵国人」を日本全国約60カ所抑留(強制収容)した。実態を調べてきた横浜市の元高校教師である小宮まゆみさんによると、日本全国で連合国側の米・英・加・蘭国籍など約1200人抑留(うち50人死亡)したという。これまで実態が明らかにされて来なかった事である。

 米国では、米国市民を含む12万人日系人を内陸の10か所の収容所抑留したが、1988年8月10日、「1988年市民的自由法」を成立させ、米国政府(レーガン大統領)は日系人に対し謝罪するとともに、一人2万ドル補償を行った。ちなみに、「市民的自由法」を成立させ、「謝罪と補償」を実現した「日系人強制収容補償運動」は、収容を体験した世代よりも、その経験のない三世たちによって突き動かされてきた。そして、その源流には1960年代の黒人たちの「公民権運動」と、それによって目覚めた新しい「アジア系米国人」の運動があった。

 「戦時市民転住収容の関する委員会」(1980年7月米国議会に設置可決)の人々をはじめ、日系人補償を主張・支持した一般の米国人たちは、このような過ちを今後二度と繰り返さないためにこそ過去を罰する事が必要だと考えたのである。つまり、自らの民主主義の確立・維持のためにこそ、その原則からの逸脱に十分な懲罰を与える事が必要であると考えたのである。上記委員会報告は下記のように述べている。

「我々に困難な時でも民主主義的価値を守る力があるとすれば、それは、自由と正当な手続きをうたう憲法を蔑ろにしたあの悪夢を我々すべてが忘れない事でしか実現しない。不正義を忘れ、無視する国民は再びそれを簡単に繰り返してしまう」

市民的自由法

議会は、戦時市民転住収容に関する委員会が述べた通り、第二次大戦中における市民の退去、転住、収容により、日系の市民及び永住外国人の双方に対して、重大な不正が行われた事を確認する。同委員会が認定した通り、こうした措置は、十分な安全保障上の理由もなく、同委員会が認定するいかなるスパイ活動、利敵妨害活動もないのに行われ、多くの場合、人種的偏見、戦時ヒステリア、及び政治的指導の失敗によって動機づけられていた。退去させられた日系人は有形無形の甚大な被害に苦しみ、教育、職業訓練の計算尽せない喪失が起こり、これら全ては膨大な人間的苦悩をもたらしたが、適切な補償は行われなかった。これら日系人の基本的な市民的自由と憲法上の権利の根底からの侵害に対し、議会は国を代表して謝罪する」

(2021年12月18日投稿)

 

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東京大空襲ひと月前の「近衛文麿戦争終結上奏文」の「真の目的」

2025-03-17 20:28:05 | アジア・太平洋戦争

 朝日新聞2025年3月17日付社説「大都市連続空爆80年」に「近衛文麿元首相が昭和天皇に敗戦必至の情勢を説き、早期講和上奏した」との言葉があるが、これだけであれば読者が近衛華族)の「早期講和」の「真の目的」について誤解を招くので、その「真の目的」を以下に「上奏文」に基づいて紹介したい。

 近衛は、1945年2月14日(小磯國昭内閣1944.7.22~45.4.5)に単独拝謁の際、昭和天皇に「戦争終結」について上奏した。

上奏文

 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。……国体の護持の建前より、最も憂うるべきは、敗戦よりも敗戦に伴って起ることあるべき共産革命に御座候。……ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居候。……かくの如き形勢より押して考えるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、パドリオ政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、治安維持法及び防共協定の廃止等々)。……今後戦局益々不利とならば此の形勢は急速に進展致すべくと存候。……」

 小磯内閣時、7月サイパン島の日本守備隊が全滅し、10月フィリピン沖で「神風特別攻撃隊」による米艦攻撃を行い、11月24日にはB29による初めての東京空襲攻撃を受けたりしため、天皇内閣軍部など支配者為政者は「戦争終結」への動きを見せてきた。その一つがこの「上奏」であるが、近衛の「戦争終結」上奏の「真の目的」は、「敗戦」よりも恐るべき事は「共産革命」であり、「天皇制維持」「国体護持」、近衛にとっては「華族制度維持のためには「共産革命」を未然に防ぐ事であり、そのためには一日も早く「戦争を終結」すべきであるという考えを昭和天皇に説く事だったのである。以後、支配者為政者はこの考え方を同じくし、小磯内閣の次の元侍従長鈴木貫太郎内閣も同じ考え方をもって成立したのである。

(2025年3月17日投稿)

 

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「泰麺鉄道」建設と「軍用道路」建設

2025-03-13 20:44:15 | アジア・太平洋戦争

 1942年神聖天皇主権大日本帝国政府大本営は、対中華民国侵略戦争(日中戦争)を好転させるために、ビルマ(現ミャンマー)経由の「援蒋ルート」の壊滅をめざす大量の軍需品と兵隊を輸送するため、南方軍に2つの指令を出した。一つは、タイとビルマの国境を結ぶ「泰麺鉄道建設」、もう一つは、タイとビルマの国境を通じる「軍用道路建設」であった。

 「泰麺鉄道」(単線軍事鉄道)は、414.716km(ビルマ・タンビュザヤ~タイ・ノンプラドッグで、東海道線の東京~大垣間に相当)で、1942年7月から43年10月までの1年4カ月の短期間(1カ月890㍍)で作られた。建設工事は、ビルマとタイの国境の人跡未踏のジャングルを切り払い、ビルマとタイのクワイ川沿いの断崖を削るという難工事であった。しかも時間的制約は厳しく、機械力に頼らず、シャベル、ツルハシなどの道具を中心とした人海戦術によるもので、物資、資材についても「建設用資材の不足は、主として南方占領地域内より募集し、極力内地よりの追送を避く」という、「現地調達主義」で推進した。普通6~7年かかるのが鉄道隊の予測であったという。また労力は「現地労働者及び俘虜を充て」たため、連合国軍の俘虜(英・蘭・豪)5万5千人(6万5千人とも)、タイ・マレーシア・インドネシアから10万余人(20万人とも)を労働者として動員した。「泰麺鉄道」は欧米では「死の鉄道」と呼ばれている。

 「軍用道路」は、「インパール作戦」に間に合わせるために建設された。1943年5月より44年5月までの1年間で、タイとビルマの山系に通じる旧道を自動車の通れる軍用道路に改修した。しかし、全く新しい道路を建設するのと同じであった。地図上の直線距離で300kmほどある熱帯の地の大密林を切り開き、地面を平らにし、山々を上り下りする道路であった。樹林を切り倒し、巨大な倒木を爆薬で吹き飛ばして取り除いていく難工事であった。建設に従事させる兵力はないので、タイ側に依存した。日本軍はチェンマイ~メーホーソン間の建設進捗のためには、タイ側責任者をチェンマイ知事とし、タイ人の「ロームシャ」を出してもらい、先ずはこの間の工事にかかった。翌年5月には、建設を急ぐため、ビルマ側へ前進すべき師団を一時工事に当たらせ、「インパール作戦」に間に合わせた。しかし、どちらの建設工事も、作戦には有効なものとはならず、「インパール作戦」も失敗に終わった。

 泰麺鉄道建設工事で「ロームシャ」を徴集した日本軍将校説明を以下に紹介しよう。

「これから現地へ行ってやる仕事は、すべてアジア人を英国植民地主義者の手から永遠に解放し、アジア諸民族全体の共栄のためのものである事。アジア諸民族の共存共栄をめざして、一部のビルマ人青年、壮年たちとビルマ独立義勇軍が、兄貴分である日本と手を結び、英国植民地主義の悪魔と戦い、殲滅しつつある今日、後方にいる「労務者」隊も「大東亜戦」勝利のため力の限り鉄道建設に当たるべき事。この鉄道完成の暁には、日本から衣料品、食品、機械などがビルマ国民のために送られてくる事。であるから道中で、あるいは現地のキャンプから逃亡しないように。もし逃亡すれば厳罰に処するものである事」

 「労務者」の死亡者8万と推定されている。その多くは、農民と下層労働者で、酷使、食料の酷さ、気象条件からくるマラリア・コレラなどの蔓延によるものであったが、病院もなく医者もいなかった。

 カンチャナブリクワイ川のほとりにある「戦争記念館」には、日本軍による連合国軍俘虜虐待の資料がある。「記念館」入口には「Forgive   But   Not   Forget」(許す、しかし、忘れない)と書かれている。又、カンチャナブリには「連合国軍共同墓地」が作られており、その傍には「泰麺鉄道博物館」が作られている。

(2025年3月13日投稿)

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小林多喜二『書簡集』に見える思想の一端

2025-02-28 14:18:09 | アジア・太平洋戦争

 小林多喜二(1903~1933)は、1933年2月20日、治安維持法違反や不敬罪に問われて逮捕され、築地署で、警視庁第二特高課テロ係の手により拷問を受け、同日虐殺された。労働者の生活や闘争を中心に描いたプロレタリア作家として活躍し、作家同盟の書記長ともなった。代表作は『蟹工船』『一九二八・三・一五』である。彼の思想の一端を知れるものとして多喜二の『書簡集』より、「恋人・」あてのものを以下に紹介したい。

「『があるからがある』。そして、闇から出てきた人こそ、一番本当に光の有り難さがわかるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しい事を味ってみなければならない。ちゃん(恋人・娼婦)たちは嫌な生活をしている。しかし、それでも決して将来の明るい生活を目当てにする事を忘れないようにね。そして、苦しい事もそのためだ、と我慢をしてくれ。」

 警視庁特高課による多喜二の拷問虐殺の姿(汐文社『ドキュメント昭和50年史』)

「小林多喜二の遺体もなんというすごい有様であろうか。毛糸の腹巻になかば隠れている下腹部から両足の膝頭にかけて、下っ腹といわず、ももといわず、尻といわずどこもかしこもまるで墨と紅がらとを一緒に混ぜて塗りつぶしたような、何ともいえないものすごい色で一面染まっている。その上、よほど大量の内出血があるものとみえて、ももの皮がぱっちりと、今にも破れそうにふくれ上がっている。その太さは普通の人間の2倍位もある。……電灯の光でよく見ると、これはまた何ということだろう。赤黒く膨れ上がったももの上には左右両方とも釘か錐かを打ち込んだらしい穴の跡が15~16ヶ所もあって、そこだけは皮が破れて下からじかに肉がむき出しになっている。……痛烈な痛みを我々の胸に刻みつけたのは、右の人差し指の骨折である。人差し指を反対へ曲げると指の背中が自由に手の甲につくのだ。人差し指を逆に握って力いっぱいへし折ったのだ。」

※1929年3月5日夜には、山本宣治衆議院議員(労農党)が、「治安維持法改悪に対し、帝国議会でただ一人、身を挺して反対し続けたが、右翼暴力団員(黒田保久二)により刺殺され、39歳の生涯を閉じた。

 山本宣治の衆議院における質問

「こういう風な(拷問の)実例は多くあります。用いられた道具は例えば鉛筆を指の間に挟み、あるいは三角型の柱の上に座らせてその膝の上にを置く、あるいは足を縛って逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流して気絶するまでうちゃらかしておく、あるいはに座布団を縛り付けて竹刀で殴る。あるいは胸に手を当てて肋骨の上を擦って混迷に陥れる。あるいは生爪を剥がして苦痛を与えるというような実例が至る所にある。……ただいま申し上げました実例に関しては、全部責任ある事実に基づいた陳述である。これに関して当局が如何にせられるか、とにかく我々は、あくまでこの現代の社会における97%を占める無産階級の政治的自由、これを獲得するために、こうした暗澹たるこの裏面には、犠牲と、血と、涙と、命までを尽しておるという事を申し述べて、私の質問を打ち切ります。」

(2025年2月28日投稿)

 

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