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4月28日は沖縄「屈辱の日」。米国占領下の沖縄県は北緯27度線が日本国との国境だった。

2024-05-07 14:08:06 | 沖縄

 今年ももうすぐやってくる4月28日は、日本の第3次吉田茂内閣(自由党)が1951年9月8日に調印したサンフランシスコ講和条約が翌年発効した月日である。沖縄県民はこの日を「屈辱の日」としている。吉田内閣は日本本土の主権を回復するために、沖縄県民を引き続き米国の支配下に置く選択をしたのである。吉田内閣は主権を回復するために、米国政府に対し沖縄県民を日本本土のスケープ・ゴート(犠牲の山羊)として差し出したのである。この選択はこれより以前すでに、新憲法の下では政治的行為を認められていない昭和天皇連合国軍最高司令官マッカーサーなどに伝えていた「天皇の意志」そのものを表していた。

(沖縄県についての「昭和天皇の意志」……1947年9月GHQ政治顧問シーボルトの「マッカーサー元帥のための覚書」。宮内庁御用掛・寺崎英成が「天皇のメッセージ」として伝えたもの)

寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望している、と言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護を与える事になる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件を引き起こす事をも恐れている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借─25年ないし50年あるいはそれ以上─の擬制に基づくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たない事を日本国民に納得させ、また、これにより他の諸国、特にソ連中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の2国間条約によるべきだと、考えていた。寺崎氏によれば、前者の方法は、押しつけられた講和という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある」

 このような経緯をへて、サンフランシスコ講和条約の第3条に基づき下記の地域が日本国から分離された。

「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)、嬬婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖ノ鳥島及び南鳥島合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に置く事とする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

 その後順次、上記の地域は日本復帰してゆく。1952年2月4日には北緯29度以北の十島村(現十島村)が日本復帰。1953年12月25日には北緯27度以北の奄美諸島が日本復帰。1968年には小笠原諸島、南鳥島、沖ノ鳥島が日本復帰した。そして、1972年5月15日には北緯27度以南与那国島までの琉球諸島が日本復帰した。

 同じ南西諸島に属する、奄美諸島の日本復帰と琉球諸島のその時期には約10年の年月があった。その間、奄美諸島以北は日本国であり、琉球諸島は米国であって、北緯27度線をもって国境と定められ、パスポートを持って行き来しなければならない関係に置かれた。琉球諸島沖縄県民は祖国復帰をめざす動きの中で、1960年には沖縄県祖国復帰協議会結成した。運動の盛り上がり中で、1963年からは、北緯27度線上での海上集会(1969年まで)を開始し、奄美側からもたくさんの人が船に乗ってきて、海上で紙テープを投げ合って繋がり、絆を確かめ合った。しかし、日本復帰後、現在まで、日米両政府は沖縄県を軍事的植民地として扱い、日本政府(自公政府)自体が沖縄県(民)を日本国憲法適用外の県(民)のような扱いを続けている。

(2022年4月11日投稿)

 

 

 

 

 

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