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核廃絶の本気度が疑われる広島平和記念館:リニューアルとは帝国日本政府のアジア諸国への「侵略」「加害」責任と自国民を被曝させた責任を不問にする事なのか?

2024-05-14 20:34:06 | 核兵器

  今回の改装は3回目である。2回目の改装を行った1994年からは、アジア侵略の拠点であった広島の「加害」の歴史も展示するようになった。しかし、それが、今回の改装は、これまでの取り組みの成果を、意図的に認めず、触れない内容になってしまった。それは「被害」だけの強調、原爆の悲惨だけを訴えるものに逆戻りしており、またポツダム宣言が発表されてから、投下された前後、宣言受諾にいたるまでの、日本の戦争指導者がどのような対応をしたのかについて触れない内容に変えてしまったという事である。一見「科学的」な装いを持たせながらも、実は「非科学的」な内容に変えてしまったという事である。「被害」や「悲惨」だけからは十分な「教訓」は学べないのであるが、それを巧妙に行った展示というべきである。

 「加害」についていえば、広島平岡敬元市長は次のように語っていた。「50年たった今、加害の側面を広島が理解していなければ、アジアを始めとする世界の人々に、人類が破滅するという歴史の教訓は伝えられない。被爆の惨状を訴えると、米国からは「パール・ハーバー」、アジアの国々からは「私たちは、もっとひどい目にあった」という反論が出る。戦争を遂行してきた日本の歩みをきちんと位置づける事なしには、その意識のズレを埋める事はできない」と。また、「加害の過去を語れば、死んでいった人は立つ瀬がない、という意見もあります。でも、それは国家の次元に立った見方ではないか。国のレベルを超えて、人類の立場から見るのでなければ、核廃絶の視点は出てこないと思う。現実は違う、と人は言うが、理想を失ってはいけないと私は思う」と。

 長崎本島等元市長も同様の事を話していた。「アジアの国は原爆を神の救いと言い、フランスの新聞は、原爆投下に欣喜雀躍した。世界の人たちの少なくとも半分以上は喜んだという現実を忘れてはならないと思う。そこに日本の悲劇があった。あの戦争で、アメリカが犯した唯一の犯罪は原爆投下だったと思う。光で完璧に焼かれ、さらに爆風で体がちぎり取られる。しかもその後も放射線で細胞はずっと蝕まれ続ける。やはりそれは、戦争犯罪だと言い切っていいと思う。核兵器使用の違法性について、日本は核の傘の下にあるから適当に逃げてきたが、そこのところをごまかしてはいけないだろう」と。

 二人が語っている事は、被害について真正面から語り原爆の違法性を告発するためには、自らの加害の歴史を直視すべきである、という事である。この考え方こそ国民が戦後長い月日を経なければたどり着けなかった忘れてはならない大切な考え方なのである。

 「加害」について、さらに忘れてはならない重要な事は、投下前後の神聖天皇主権大日本帝国政府の最高戦争指導会議や御前会議の動向を国民が詳細に正しく知り、その責任の所在を明確に知り、教訓を学ぶ事である。ポツダム宣言の受諾を一旦8月10日の御前会議で決定し、ラジオと中立国を通じて連合国側に伝えられたにもかかわらず、なぜ結局8月14日になったのか、その原因は何なのか。メディアが8月15日になぜ「聖断」という言葉を使用して国民に終戦(敗戦)を伝えたのか、についてである。

 7月26日、米・英・中三国は、日本に戦争終結の最後の機会を与えるためにポツダム宣言を発表した。しかし、天皇を中心とする最高戦争指導者たち日本の支配者は、戦争を続けながら、神聖天皇主権国家(国体)を維持し何とか彼らの地位と面目を維持する形で戦争を終わらせようとしていた。そのため、宣言の前半に、

(1)われら合衆国大統領、中華民国政府主席およびグレート、ブリテン国総理大臣はわれらの数億の国民を代表し協議の上日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与える事に違憲一致せり。(2)合衆国、英帝国及び中華民国の巨大なる陸、海、空軍は西方より自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加えるの態勢を整えたり。右軍事力は日本が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意により支持せられかつ鼓舞せられおるものなり。(3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益かつ無意義なる抵抗の結果は日本国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合において全ドイツ国人民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、計り知れざるほど更に強大なるものなり。われらの決意に支持せらるるわれらの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全なる壊滅を意味すべく、また同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。(4)無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者により日本国が引き続き統御せらるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定すべき時期は到来せり。  

との内容が存在したが、戦争指導者はこれを国民に発表せず、「本土決戦」「一億総特攻」「一億玉砕」のスローガンを掲げ、狂気の戦術を指示し続けた。それは大本営陸軍部編纂『国民抗戦必携』によると、敵が上陸したら国民は「敵陣に挺身斬り込みを敢行」せよ。又敵との「白兵戦の場合は竹槍で敵の腹部を狙ってひと突きにし、又鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口その他手頃のもので背後から奇襲の一撃を加えて殺す事、格闘の際は水落を突いたり睾丸を蹴り上げて敵兵を倒すよう訓練を積んで置かなければならない」というものである。そして7月28日、鈴木貫太郎首相は「ただ黙殺するのみである。我々は戦争完遂に邁進する」との談話を発表しているのである。

  その結果、8月6日8時15分、広島に原子爆弾が投下されたのである。その際、米大統領トルーマンは、原子爆弾である事を明らかにしたうえでポツダム宣言を受諾しなければ、今後相次いで原爆攻撃を行う事を予告している。これに対し大本営はこの真相を国民に知らせず「新型爆弾」と発表しただけで、最高戦争指導会議も閣議もこの問題について特別には開かなかったのである。8日にはソ連が日本に宣戦布告し、9日未明に参戦した。そこでやっと午前10時30分から最高戦争指導会議が開かれ、午後には閣議、そして、深夜に皇居内の防空壕(お文庫の事。1941年4月着工。建設に当たって防空壕とは言えなかった)で御前会議が開かれたのである。その間、9日11時02分には長崎にも原爆が投下されたのである。指導会議では天皇の地位の保障(国体護持)のみ条件をつけようとする外相案とその他に、自主的な武装解除、日本の手による戦争犯罪人の処罰、連合軍の日本占領に対する制限などの3条件をつけようとする軍部案が対立する状況であった。しかし、枢密院議長や鈴木首相などが、食糧事情の悪化などからも、戦争を続ける事は天皇制支配体制を脅かすような国内危機を招くとの発言があり、天皇は国体護持の条件だけ(外相案)でポツダム宣言を受諾する事を決定した。10日「天皇の国家統治の大権に変更を加えるいかなる要求をも包含していないという了解のもとに」という条件を付けて、ラジオと中立国政府を通じて連合国側に伝えた。それに対し11日、米国バーンズ国務長官が、「降伏の瞬間から天皇及び日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に従属するものとする。最終の日本国の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべきである。天皇は一切の日本国陸、海、空軍官憲及びいずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、降伏条項実施のため、最高司令官の要求する事あるべき命令を発する事を命ずべきものとす」と回答した。12日、軍部はこれでは国体護持の保障がないとして再紹介を求めるとともに、それでも保障が得られない場合は戦争を継続すべきだと主張し、対立を蒸し返した。しかし、米国の新聞情報から、連合国の回答は日本の申し入れ(国体護持)を認めたものだという事を知り、日本は14日、再び御前会議を開き、天皇が「敵は国体を認めると思う。これについては不安は毛頭ない」と述べて、受諾を決定したのである。

 上記から分かるように、天皇もそれを取り巻く支配階級も、明治維新に樹立した神聖天皇主権国家という国家体制(政治体制)によってこそその権力を掌握し続ける事ができたその体制を連合国側に認めさせる事=「国体護持」こそが最重要課題だったのである。

 そして、天皇はもちろん、天皇制によって自己の地位を保障されている支配階級は、国民に対しても敗戦後も引き続き「神聖天皇主権国家体制」=国体を認めさせるための工作をするのである。メディアももちろんこれまで同じ穴の狢であった関係から加担した。それが「聖断」という一大演劇イベントの実行であった。敗戦によって生じる可能性のある混乱と革命(神聖天皇主権大日本帝国政府は社会主義やソ連をずっと恐れてきた)を恐れた天皇と支配階級は、天皇の権威を最大限に利用して国民を欺き乗り切ろうとしたのである。それは見事に成功した。明治憲法によれば、戦争についての宣戦や講和は天皇大権として定めているのであるから、宣戦(中国に対して布告はしていない)をした天皇が終結講和を主導するのは当然の事なのである。ポツダム宣言を受諾するかどうかは天皇の決断によるべきなのである。(ついでながら、「聖〇」という表現は「聖旨」「聖慮」など天皇を表す言葉としては特別な言葉ではなかった。)しかし、支配階級は、その天皇を、戦争責任を有する当事者でない第三者であるかのように変装偽装させ、天皇自らも「慈悲深い天皇」であるかのように演じ、「平和をもたらした」とアピールしたのである。その事によって支配階級も戦争責任を回避しようと試みたのである。新聞・ラジオのメディアも玉音(放送)を拝して感泣嗚咽」「朝夕詔書を奉戴して再建へ」と「天皇の御仁慈」を強調し自らを正当化しようとしたのである。

 8月17日に、天皇と支配階級は、戦争処理内閣として皇室が「平和主義」であるかのようにアピールするために史上初の皇族内閣である東久邇宮内閣を成立させた。この皇族内閣は、9月4日、戦後初の帝国議会(帝国議会は92回の1947年3月31日まで)である第88臨時帝国議会において、敗戦の原因につき国民は総懺悔せよと述べ、「天皇に絶対帰一」してポツダム宣言を誠実に履行し、「平和的、文化的日本の建設」に向かって邁進しなければならぬと説いた。そして、貴族院では「聖旨奉戴に関する決議」、衆議院では「承詔必謹決議」を可決した。9月27日には、天皇が、自らの地位について了解を得るためマッカーサーを訪問し、二人が並んだ写真を撮影した。

 平和教育において最も重要な事は上記のような事を教訓として学ぶ事なのである。だから、以上の点から目を反らし、反らさせようとする展示からは、教訓を得る事はできず、誠実な平和教育をしようとする意志はうかがえない。

(2020年3月12日投稿)

 

 

 

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