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日本会議2001年刊『新憲法のすすめ……』を基にした自民党憲法改正草案と国民主権

2024-05-02 18:13:38 | 日本会議

 自民党と密接な関係をもつ「日本会議」の「新憲法研究会」が編集し、2001年に刊行した『新憲法のすすめ……日本再生のために』(明成社)は、自民党が2012年に作成した『日本国憲法改正草案』の基調をなしているが、その事を象徴するものとして、『新憲法のすすめ……』の「憲法前文」を以下に紹介しよう。一言でいえば、現行国民主権の憲法を否定するものである。

「我々日本国人は、古来、人と人との和を尊び、多様な価値の共存を認め、自然との共生のうちに、伝統を尊重しながら海外文明を摂取・同化する事により独自の文化を築き、天皇と国民が一体となって国家を発展させてきた。我々は、このようなわが国固有の国体に基づき、民意を国政の基礎に置く明治以来の立憲主義の精神と歴史を継承発展させ、国民の自由と権利を尊重するとともに国家の一員としての責任を自覚して新たな国づくりへ進む事を期し、併せて世界の平和と諸国民の共存互恵の実現に資する国際責任を果たすために、この憲法を制定する」としている。

 日本会議の事務総長を務めている椛島有三氏によると、国民主権を否定している。日本会議の実質的機関紙である『祖国と青年』からその事実を以下に紹介しておこう。

「日本の政治史は、天皇が公家、武士、政治家に対し政治を「委任」されてきたのが伝統である。天皇が国民に政治を委任されてきたというのが日本の政治システムであり、西洋の政治史とは全く歴史を異にする。天皇が国民に政治を委任されてきたシステムに、主権がどちらにあるかとの西洋的二者択一論を無造作に導入すれば、日本の政治システムは解体する。現憲法の国民主権思想はこの一点において否定されなければならない」(1993年4月号より)

(2022年12月5日投稿)

 

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憲法全面改正に手段選ばず見解翻し歴史歪曲も。その4憲法記念日と吉田茂とGHQ。吉田政権は憲法改正せず決定

2024-05-02 18:05:33 | 憲法

 ※以下の内容は2016年2月13日に投稿したものですが、今年も日本国憲法公布の日(11月3日)を迎え再投稿しました。

 現行の「日本国憲法」は、吉田茂内閣の下で成立した。しかし、彼は改憲論者であった事から、彼にとってできるであろう事として次に考えた事が「憲法をいつ公布し施行するか」という点での策略であった。その背景には彼の歴史認識があった。

 吉田茂は、日本の近代史のなかで、明治時代以来の神聖天皇主権大日本帝国政府の歩んだ道にはまったく誤りがなかったと信じていた。ただ、1931年9月の満州事変から1945年8月の敗戦までの間に限り、大日本帝国政府軍部の余計な干渉によって、変調をきたしたと考えていたのである。

 そのため、占領下日本について、新しい民主主義国としての「新生日本」として見る事は間違いであり、「再生日本」として理解すべきであり国づくりをすべきであると考えていた。つまり、満州事変から敗戦までの間を手直しする事が彼の目標であり、軍事主導体制を「君主制下の政治主導体制に戻すという事を目標とした。それは、天皇制の存続と、「国民」は今まで通りの「臣民」(天皇の家来)であらねばならないという認識であったという事である。そして、吉田茂は徹底した「反共主義者」でもあった。

 国民をどのように見ていたのかという点については、『回想十年』によると、強烈な大衆蔑視意識をもっており、「日本人は時代の風潮に流されやすく、軍国主義の時代になれば、それこそ一億右ならえであり、敗戦によって民主主義の到来という事になれば、それっとばかりにそちらに走り出す。そして共産主義の宣言に自ら呼応するといった状態になる、そのような大衆には強圧的に対応する事が必要だ」と考えていた。

 さて、「憲法をいつ公布し施行するか」という事である。吉田茂は日本国憲法施行において最大の関心を払ったのが敗戦までの天皇制と大日本帝国の記憶を国民の意識下に改めて刻みつけ将来の復活を図る事であった。このため彼は神聖天皇主権大日本帝国政府下では2月11日紀元節(神武天皇即位日)とし、それに合わせて大日本帝国憲法が発布されていた事を最重要視し、再生日本の出発点として2月11日を施行日とする事を目論んでいた。

 しかし、GHQはそれとはまったく正反対の考えを持っていた。それは、神聖天皇主権大日本帝国政府下で「明治節」(明治天皇誕生日)としていた11月3日に公布し、明治天皇の天皇主権欽定憲法国民主権(民定憲法)の憲法に変更して国家体制の変更を印象づける絶好のチャンスにしようとしていたのである。また、そうする事により、施行日が5月3日となるので、軍国主義日本から平和主義国家への転換を印象づける事ができると考えたからである。というのは、1年前の1946年の5月3日には、東条英機ら28名のA級戦争犯罪容疑者を裁く「極東国際軍事裁判(東京裁判)」が開廷された日(~48年11月)であり、その1周年記念日に戦争放棄・戦力不保持の憲法を施行する事で新生日本を印象づける事ができると考えていたのである。そして、この構想が実現したのである。

 吉田茂の構想は、結局どうなったのか。先ず、2月11日施行を考えていたが、憲法改正案の成立が10月7日であったため、不可能となった。そのため、「明治節」であった11月3日を「憲法記念日」とする事を考えたが結局それも実現する事はできなかったのである。

 吉田茂は完全にGHQに押し切られたのである。しかし、マッカーサーは吉田茂に配慮した事もあった。それは、日本国憲法制定に先立って、吉田茂対し「憲法が日本人の自由にして熟慮された意思の表明である事に将来疑念を持たれてはならない」として、憲法施行後2年以内に自由に改正できる権限を与えていた。

 これによって、1948年6月以降、国会や民間に検討のための研究会が設置され、見直しがされたが、吉田政府は、改正の意思がない事を表明し、憲法施行2周年の1949年5月3日に「自主的判断」により、現行憲法のままとする事を確定した。

 当時の改憲勢力の考え方については、1956年の参議院内閣委員会の審議に参考人としてよばれた鈴木義男衆院議員の「私の記憶に存する憲法改正の際の修正点」で知る事ができる。鈴木は片山・芦田両内閣で司法大臣や法務大臣を務め、戦前から戦後への法体系の大変革の時に中心となった人物であるが、彼によると、「改正論者の本当の目的とするところは、天皇制のある意味の復活、第9条の大改正、家族制度の復活、こういう風なところにあると思う」これらだけを持ち出すと抵抗があまりに強いので、カムフラージュするために項目をたくさん並べて焦点を多岐にわたらせて、なるほどと思わせて主たる狙いを完遂してしまおうというのである」と述べている。また、衆参両院議長に諮り、法制局でも改正点の調査を命じた事を述べ「修正したい所があったら申し出よと言ったけれども、いや良くできている、修正するような所はない。どこへ行って聞いてもそういう御意見であった」「当時の国民が日本国憲法を歓迎した」と述べている。

 1946年5月27日の毎日新聞による「憲法改正に対する世論調査」では、象徴天皇制については85%が支持、戦争放棄条項(第9条)については70%が支持、国民の権利については65%が支持、国会の2院制については79%が支持している。

 自民党のこの悔しさは、紀元節復活への思いを強くさせ、1966年末に紀元節であった2月11日を無理やり「建国記念の日」とする強行成立へ向かわせたのである。

(2016年2月13日投稿)

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憲法全面改正に手段選ばず見解も翻す歴史歪曲も。その③現憲法成立と天皇の暗躍

2024-05-02 18:01:28 | 憲法

  「大日本帝国憲法」の改正手続きにより第90回帝国議会で審議された「日本国憲法原案」は、1946年10月29日、内容は一部修正されて吉田茂内閣の下で成立した。その一部修正とは「芦田(均)修正」とも呼ばれたもので、「戦争放棄」を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という字句を追加した事をさす。(他の追加には第25条「生存権」もある。)この表現はのちに、「前項の目的(国際紛争の解決)」以外(自衛)のための戦力保持は憲法違反ではないという論拠となる。

 吉田茂は日本国憲法についてどのように考えていたのか。岸信介は『岸信介の回想』で述べているが、吉田茂は「俺も今の憲法は気に食わないけれど、あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかん」と述べたと。この言葉から、吉田茂は改憲論者であったという事がわかる。

 天皇は日本国憲法をどのように思っていたのであろうか。1975年の外国人記者団との会見では「(日本人の)戦前と戦後の(価値観は)変化があるとは思っていません」「第1条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあった(合った?)事でありますから、そういう法律的にやかましい事をいうよりも、私はいいと思っています」「今話したように、国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。その原因というものは、皇室もまた国民を赤子と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の思召しというものが、今日をなしたと私は信じています」「(戦前と戦後の役割を比較して)精神的には何らの変化もなかったと思っています」と述べている。つまり、天皇は戦前と戦後の価値観に変化はなく連続したものとして認識しており、第1条の意味は、「国民」は「無責任」の「象徴」である「天皇」を「象徴」として「統合」されているという事を意味しているという事になる。

 1945年12月17日に公布された「改正衆議院議員選挙法」について、天皇や支配層(米国もか?)の意識を知るうえで重要な点を付け加えておこう。女性参政権が付与された事はよく知られているが、植民地支配を受けていた朝鮮人、台湾人の選挙権及び被選挙権が停止されたのである。1925年の普通選挙実施以降この改正まで、日本内地に在住する外国人は、国政・地方のレベルを問わず参政権を有していた。ハングル投票も可能であったのだが。この「選挙法」に見える方針は、米国との共同作業であった憲法制定の段階でも日本側は押し通した。GHQ憲法草案には「外国人は法の平等な保護を受ける」という条文が存在したがそれを削除したのである。日本国憲法第14条には現在「法の下の平等」がうたわれているが、そこから意図的に削除したのである。この件は憲法施行の1947年5月3日の前日(5月2日)に天皇の最後の勅令として「外国人登録令」を出す事により、明確に憲法の権利保障の対象から除外するのである。「日本国籍」を有しているが「外国人」であると見なしたのである。さらに、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により、国籍選択の自由も認めず日本国籍をはく奪し、「外国人登録法」により、「指紋押捺」と「外国人登録証明書」の常時携帯を義務付けた。それ以降日本政府(自民党)の主導により日本社会は「国籍条項」に基づいて外国人に対する差別を正当化する。

 また、米軍の占領軍政下にあった「沖縄県」も「改正選挙法」の施行について日本政府は「例外扱い」とした。そのため、日本国憲法を審議した1946年の国会には沖縄県選出の議員はおらず、日本国憲法は沖縄県民を除外して成立したのである。そして、「日米安全保障条約」締結にあたっても同様に扱ったのである。

 また、「安全保障条約」締結については、締結にいたる裏側で「天皇」の暗躍があった。1947年5月3日に「日本国憲法」が施行された4か月後の1947年9月(天皇の暗躍は憲法違反であるにもかかわらず)、宮内庁御用掛の寺崎英成氏をマッカーサーの政治顧問シーボルトの下へ訪問させ、沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えさせたそれは、

「天皇は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望している。そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護を与える事になる。天皇は、そのような措置は、ロシア社会主義)の脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件を起こす事をも恐れている日本国民の間で広く賛同を得るだろう(憲法第9条により軍隊をもたないため、実は天皇制を護持しようとする天皇自身の強い希望)と思っている。さらに、沖縄(及び必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借(25年ないし50年あるいはそれ以上)という擬制に基づくべきであると考えている。この占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たない事を日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、特にソ連と中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。手続きについては、「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約(サンフランシスコ講和条約にあたる)の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の2国間条約(日米安全保障条約に結実)によるべきである。前者の方法は、押し付けられた講和という感じがあまりにも強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある」というものであった。

(2016年2月11日投稿)

※昭和天皇は戦後の日米両政府の望むべき姿について自ら構想し働きかけ、利害の一致した米国政府とともに、「天皇制護持(象徴天皇制)と軍隊放棄(憲法第9条)」と「日米安全保障条約締結」と「沖縄を犠牲にした米軍事基地化」を実現していったのである。昭和天皇は優しく親しみ安く善人そうな見かけとは異なり、本質は恐るべき冷酷非情で狡猾無比の策士「人非人」であった。現天皇も推して知るべしである。天皇家とはそういう人間の集団なのである。民主主義を大切にする国民はこのような「憲法に規定されない」特殊な価値観を持つ存在をこのままにして置かず、普通の人間の生活ができるようにすべきである。この事によって国民の思考や判断も「思考停止」状態に陥る事無く、すっきりとした科学的論理的なものとなり、曖昧模糊とした日本社会の価値観の混乱も解消されるはずである。

(2016年2月11日投稿)

 

 

 

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憲法全面改正に手段選ばず見解も翻す歴史の歪曲も。その②GHQ草案を飲んだ天皇・幣原・吉田内閣の本音

2024-05-02 17:53:22 | 憲法

 1946年2月13日に外務大臣官邸で、GHQの指示で「憲法改正」についての会合を持つ事となった。日本側は吉田茂外相、松本烝治国務相、終戦連絡中央事務局長白洲次郎、外務省通訳長谷川元吉。GHQ側はホイットニー准将、ケーディス大佐、ハッシィ中佐、ラウエル中佐である。

 GHQは2月8日に松本烝治が提出した憲法草案「松本案」を拒否した。そして、マッカーサー(連合国軍総司令部総司令官)の「三原則」に沿ってGHQによって作成された「GHQ憲法草案」を4人に渡し受け入れるか否か検討して回答するよう求めた。その際、ホイットニー准将はマッカーサーの意思を伝えた(『ラウエル文書』、松本烝治『松本会見記略』)。そして、GHQは認否の回答期限を2月22日と定めた。

「あなたたちが知っているか否かは別にして、最高司令官は、天皇を戦争犯罪に関係があるとして尋問すべきだという声が他国のなかにあるが、その圧力から天皇を守ろうとしている。これからも最高司令官は守るでしょう。しかし、その努力には限界があります。さしあたりこの憲法草案を受け入れる事で、天皇制は守られるという事になります。この憲法草案を受け入れる事こそ、あなた方の唯一の生き残りの道でもあるのです日本国民はこの憲法を選ぶか、こうした民主主義の原則を包含していない別な憲法を選ぶかの自由を持つべきだ最高司令官は判断しています」(『ラウエル文書』より)

上記のGHQ側の記録に対して、日本側の記録(松本烝治『松本会見記略』)では、 

「本案は内容形式ともに決して之を貴方に押し付ける考えにあらざるも、実は之はマッカーサー元帥が米国内部の強烈な反対を押し切り、天皇を擁護申し上げる為に、非常なる苦心と慎重の考慮を以て、之ならば大丈夫と思う案を作成せるものにして、また最近の日本の情勢を見るに、本案は日本民衆の要望にも合するものなりと信ずといえり」としている。

 つまり、「日本の為政者に対して、天皇は戦争犯罪を問われている、日本の為政者が、その地位と権力の源泉である天皇と天皇制に基づく国家体制を守りたいのなら、マッカーサーが守ると言ってるから、GHQ改正草案を受け入れる事をすすめる、日本国民の要望にも応えられる内容のものだから」というわけである。マッカーサーは『スターズ・アンド・ストライプス』(1946年2月15日)に、「天皇の命を救ったのは自分だ。当時の世界の世論は、天皇は日本の侵略戦争の最高責任者であるから、当然国際裁判にかけて絞首刑に処すべしという世論が圧倒的であったけれども、自分は、天皇を絞首刑にすると、日本の労働者や学生や日本人民大衆が勢いを得て、人民主権の民主主義の徹底的実現を要求し、とても占領軍がこれを抑える事ができないであろうと考え、むしろ自分が天皇の生命を救う事によって、天皇をして占領軍に協力させる事が占領政策上もっともよろしいと判断したのだ」と述べていた。

 米国におけるギャラップ社の世論調査(1946年6月初旬)では、「戦後、日本国天皇をどうすべきであると考えますか」という質問に対し、

①殺害する、苦痛を強いる餓死……36% ②処罰もしくは国外追放……24% ③裁判に付し、有罪ならば処罰……10% ④戦争犯罪人として処遇……7% ⑤不問、上級軍事指導者に責任あり……4% ⑥傀儡として利用……3% ⑦その他……4% ⑧意見なし……12%、となっており、米国民は天皇に対して厳しい処分を望んでいた。

 また、米国だけでなく、ソ連オーストラリアなど連合国内部には天皇の責任を問う声が強かった。

 先の会合後の2月19日、松本国務相は「閣議」でGHQの「憲法草案」について詳しく報告をした。それは「彼らの作成せる原案は、この憲法は人民の名によって制定する、天皇には統治権もなければ主権もない、総理大臣は議会が任命する、任命された総理大臣は各大臣を任命して議会の承認を得る事、貴族院は廃止されて衆議院の一院となる事など、あたかもソビエト(ソ連)の言いそうな、またドイツのワイマール憲法のような、主権は人民にありというので、現行憲法を改正せんとするにあらずして、むしろ、革命的な連合軍司令部より、この憲法によって民主政治を樹立すべしと命令せらるるに少しも異ならない……」というもので、天皇主権の国家体制を否定されている事に憤慨している。

しかしすでにマッカーサー(米国政府)は、日本の占領統治を進めやすくするために、主権をもつ「天皇制」を主権をもたない「象徴天皇制」に変更し存続して利用しようとしていた(1946年1月25日、アイゼンハワー大統領あての電報)。さらに米国は、東西冷戦下で、日本を共産主義の防波堤として利用するためにも天皇は重要であると考え、象徴天皇としようとした。

 同年2月21日、幣原喜重郎首相がマッカーサーに面会した。幣原はGHQ憲法草案で天皇が「シンボル」とされているを、「元首」としたいと伝えている。その意図は、同じく「人民」とされているのを今まで帝国憲法通り「臣民」のままにしておきたかったのである。その時マッカーサーは幣原に「48時間以内に回答を持参」するよう要求した。

 同年2月22日、幣原は閣議に、「主権在民と戦争放棄は、総司令部の強い要求です。憲法改正はこれに沿って立案するよりほかにない。それ以外はなお交渉を重ね、こちらの意向を活かすように努める。そうご了承賜りたい」と報告した。天皇制の護持のためには、GHQ憲法草案を受け入れて天皇をシンボルとする事と、戦争放棄に同意したのである。そして、閣議を中止し、天皇へ報告をした。それに対して天皇は「最も徹底的な改革をするが良い。たとえ天皇自身から政治的機能のすべてをはく奪するほどのものであっても全面的に支持する」と述べた。それを聞いた後閣議を再開し、閣僚に伝えた。全員反対せず、松本国務相も「やむなし」と納得した。ここで重要な事は、米国政府と天皇と日本の支配層それぞれの思惑利害が一致したという事であり、それが日本国憲法として結実するのである。

※これより前の1月1日に、天皇はマッカーサーのすすめにより、俗にいう「人間宣言」を発表していた。正式には「新日本建設に関する詔書」詔勅)という。天皇の戦争責任追及をかわすためと、戦後の日本の国家体制も天皇が作るのであり、それは大日本帝国(天皇制民主主義)なのだという事(戦前国家の再生)、を国民に明示する事を目的としたものであった。「宣言」(詔勅)については、1977年8月22日の那須御用邸での記者会見で「あの詔勅の第1の目的は五箇条の御誓文であった。神格(否定)とかは2の問題であった。民主主義を採用したのは明治大帝の思し召しであり、それが五箇条の御誓文で、それがもとになって大日本国憲法ができた。民主主義は決して輸入のものではない事を示す必要があった。日本の誇りを国民が忘れると具合が悪いと思い誇りを忘れさせないために、明治大帝の立派な考えを示すために発表した。」と述べている。何という厚顔無恥、無責任、狡猾、傲慢な態度である事か。 

 GHQ憲法草案を受け入れた天皇や幣原政府(支配者)は、英文の草案を日本語に訳し、手直しして「日本政府草案」(英文)として3月4日にGHQ側に提示した。幣原政府の翻訳については、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』によると、

「『人民の意志の主権』を強調したGHQ 憲法草案の前文を省略し、家族制度の廃止を条文化した条項を削除、衆議院の権威を制限するような参議院の創設を提案し、中央政府による支配を容易にするように地方自治に関する条項を変更していた。さらに政府は、多くの人権保障に関する条項を、時には大日本帝国憲法を連想させるような決まり文句を挿入する事で骨抜きにした。言論、著作、出版、集会、結社の自由は、今や『安寧秩序を妨げざる限りに於いて』のみ保障され、検閲は『法律の特に定むる場合の外』には行わない事になった。労働者が団結したり、団体交渉したり、集団行動をする権利も同様に『法律の定むる所に依り』という文言で束縛された。また、外務省が準備したGHQ憲法草案の当初の訳文では『people』を『人民』(米国では当たり前)としていたが、松本らはそれをやめて、本質的に保守的な用語である『国民』という用語を採用した」とし日本政府の抵抗を暴露している。

 ※「前文」は松本らはこれを入れるつもりはなかったが、GHQは譲らなかった。

 幣原政府による「日本政府草案」は、GHQと幣原内閣の間で相互の意思を確認しながら交渉が重ねられた末に作成されGHQは了承した。幣原政府は「GHQ了承案」を3月6日に閣議で正式に承認し、国民にも発表され、天皇は勅語を発表した。その内容(部分)は、

「国民の総意を基調とし、人格の基本的権利を尊重するの主義に則り、憲法に根本的改正を加え、以て国家再建の礎を定める事をこいねがう」と納得している。

 幣原首相はこの勅語について「「わが国民をして世界人類の理想に向かい同一歩調に進ましむるため、非常なる御決断を以て現行憲法に抜本的改正を加える事を了解した」と述べている。

 マッカーサーも声明を発表し、「この憲法は、5カ月前に余が内閣に対して発した最初の指令以来、日本政府と連合国最高司令部の関係者の間における労苦に満ちた調査と、数回にわたる会合の後に起草されたものである」と述べている。

 1946年4月10日、幣原政府の下で敗戦後初の衆議院議員選挙が実施され、保守の日本自由党が第1党となった。5月22日には吉田茂内閣が成立した。第1党は自由党の総裁は鳩山一郎であったが、GHQ に反抗的とみなされ、GHQによる軍国主義者の公職追放により組閣できず(幻の鳩山内閣)、衆院の議席を持たなかった吉田茂が「大命降下」による最後の首相として就任した。石橋湛山は大蔵大臣となったが公職追放となった。

 6月2日、吉田政府は第90回帝国議会に「日本国憲法原案」を提出した。その時の吉田は「皇室の御存在なるものは、これは日本国民、自然に発生した日本国体そのものであると思います。皇室と国民の間には何らの区別もなく、いわゆる君臣一如であります。君臣一家であります。国体は新憲法によっていささかも変更せられないのであります。」と述べた。

(2016年2月9日投稿)

 

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白虹事件は神聖天皇主権大日本帝国政府が新聞の政府批判に牙を剥いた言論弾圧事件

2024-05-02 11:32:21 | メディア

 1918年秋に起きた「白虹事件」は、同年8月3日に発生し9月にかけて全国的な広まりを見せた米騒動の中で新聞寺内正毅内閣(政党政治家を締め出し、軍と官僚のみで1916年に組閣)の失政を厳しく批判する姿勢を強めた事に対し、神聖天皇主権大日本帝国政府が徹底的な弾圧を行うために引き起こした謀略事件であった。

 事の起こりは、1918年8月26日付の「大阪朝日」が夕刊の記事文中に「大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。「白虹日を貫けり」と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」などの文章があった事による。この文章は、前日25日に開催された、名古屋以西の新聞・通信社86社の代表が寺内内閣弾劾決議のために集まった関西新聞社記者大会の様子を伝える記事の一部であった。

 「白虹日を貫けり」という言葉は、中国の故事では「兵乱や国家滅亡の予兆」を意味する言葉とされていたが、新聞への徹底的な弾圧の機会を狙っていた帝国政府はこの文章を、「記事は天皇制国家への敵意を含み、その掲出は皇室の尊厳を冒瀆、政体を改変、朝憲を紊乱しようとする行為に当たる」とこじつけ、新聞紙法第41条違反などとして「大阪朝日」を発売禁止処分とし、発行人・記事執筆者を起訴(禁固)し、大阪検事局も動かして新聞を取り潰すための発行禁止を目論み提訴した。

 帝国政府の姿勢に勢いづいた右翼、「国体変更の意思」「不敬」を理由に、村山龍平社長を襲撃する事件を起こした。

 存亡の危機に立たされた「大阪朝日」は同年10月15日には、村山社長が退陣し、鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長、大山郁夫、丸山幹治ら幹部記者が退社、河上肇など社友の京大教授グループも退社した。

 さらに同年12月1日には紙面に、「皇室を尊崇して国民忠愛精神を鼓励し……不偏不党公平穏健の八字をもって信条と為す(国体や政府を批判しない)」とする社告を載せるまでに至った。

 結果的に、発行禁止処分を免れたが、「大阪朝日」はその主体性を放擲してでも会社の存続を第一とする経営の道を選ぶ事となったのである

 しかし、新聞(報道機関)が、このような事態を招く事になった背景には、それまでの新聞(報道機関)の対応・姿勢に原因があったのである。それは1910年の「大逆事件」に対しての対応・姿勢にあった。

 新聞(報道機関)は、大逆事件に対して、それが思想・表現の自由への弾圧であると理解できず、自分たちには関係のない特別な犯罪事件として対応したため、天皇制政府への警戒心と批判力を欠いていたのである。そのため「白虹事件」という形で自らも天皇制政府によって弾圧を受ける事態を招いたのである。

 現代の新聞(報道機関)の昨今の皇室報道は、この過去を教訓としているとは思えない。それだけでなく、理念や信条も大切にせず、再び自ら進んで、神聖天皇主権大日本帝国への回帰をめざす安倍自公政権に、責任の自覚もなく(自覚した上であれば相当な悪人であるが)迎合しているだけのようである。

 しかし、国民は未だに「皇室」が大好きだなあ。「皇室」の存在が日本の民主主義(人権尊重意識)の発展を阻害する「重石」となっているのであるが、その事を理解できずに。この国民の意識が変わらない限り、皇室に対する新聞(報道機関)の対応・姿勢も変わる事はないであろう。そして、国民の「皇室」大好き意識を利用する安倍自公政権の皇室を利用する対応姿勢も変わらないのである。

(2019年11月11日投稿)

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