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神聖天皇主権大日本帝国田中義一政権は緊急勅令で治安維持法改正、山本宣治襲撃事件、ファシズムの強化と中国侵略本格化

2024-05-03 18:36:41 | 緊急事態

 山本宣治(1889~1929)は1928年2月の第1回普通選挙で、労働農民党から当選した代議士であった。第56帝国議会で治安維持法改正反対し奮闘したが、29年3月5日に右翼の黒田保久二により暗殺された。

 1889年、父は山本亀松、母はタネといい、京都府に生れた。宣教師の「宣」と明治の「治」をとり、「宣治」と名づけられた。19歳の頃、カナダに渡った。皿洗い、ホテルの臨時給仕、新聞配達などをし、鮭缶工場などでも働いた。牧師の世話で、英人小学校からハイスクールにもすすんだ。「父、病重し」との電報を受け取り、5年間のバンクーバーでの生活を後にした。帰国後、同志社、三高、京都大学に通い、植物学、遺伝・生態などの動物学を学んだ。東京大学の時には、マルクス主義研究の「新人会」に加わった。

 学校を終えると、同志社大学予科で「人生生物学」と名づけた「性教育」講義を始めた。1922年、米国から産児制限運動家サンガー夫人の来日をきっかけに、労働者、農民の間に産児制限運動を始めた。やがて各地の労働学校、農民組合、水平社、学生の社研などに東奔西走した。

 1926年1月には、治安維持法違反で、河上肇とともに家宅捜索を受け、同志社からも追放された。同年5月には南山城の小作争議の指導に奔走。

 1928年2月、第1回普通選挙で、労働農民党から当選した。労働農民党・社会民衆党・日本労農党など無産政党は466議席中8議席しか得なかったが、日本共産党左派が労農党の背後で活動したと考えた時の田中義一政権(1927年4月~29年7月)は、28年3月15日、治安維持法を適用し、共産党員とそのシンパ約1600人の大検挙(3・15事件)を行った。4月16日にも大検挙(4・16事件)を行った。山宣は事件の犠牲者救援運動の先頭に立ち、全国各地を回り、被告の受けた「拷問」についての調査をし、これに基づき政府を徹底的に糾弾した。

 しかし、1928年6月29日、田中政権は昭和天皇の緊急勅令治安維持法を改悪し、最高懲役10年であったのを、無期及び死刑に改めた。枢密院で承認を受け、公布・即日施行した(7月には未設置の全県警察部に特別高等課設置)。

緊急勅令……天皇大権(天皇が議会の協力なしに行使できる権能)の一つ。緊急の必要により議会閉会中に天皇が発令し、法律に代わらせた勅令。ただし、事後に議会の承認を必要とした。

※勅令……国務大臣の輔弼のみにより議会の審議を経ないで制定される立法

 1929年3月5日、山宣は衆議院第56議会で、治安維持法改正(改悪)に反対(事後承認に反対)したが、討議打ち切りの「動議」を出されて発言を封じられ、249対170の票差で「事後承認」されてしまった。

 そしてその夜には、神田の定宿「光栄館」にいた山宣は、右翼の黒田保久二により襲撃され殺されたのである。部屋の壁には「戦争撲滅のため奮闘せよ」と書いた紙を貼っていた。

 さらに今日の主権者国民が驚くべき事は、警視庁(東京)特捜課長が、黒田を「正当防衛」と発表したのである。この事は検察庁をも驚かせたというが、神聖天皇主権大日本帝国政府の恐ろしさを示しているといえる。

 この事件の後、神聖天皇主権大日本帝国政府はファシズム化を強め、1931年9月18日には満州事変を引き起こし、中国東北部への侵略を本格化したのである。

(2020年5月3日投稿)

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衆議院議員の任期延長は戦前に1回、その後「翼賛選挙」強行へ、自公政権は緊急事態条項で議員任期延長への危険性

2024-05-03 18:24:27 | 帝国議会

 林銑十郎内閣時1937年4月30日に第20回衆議院総選挙が実施された。次回第21回は通常どおりでは1941年4月30日の予定であった。しかし、1940年7月22日に成立した第2次近衛文麿内閣(~1941年7月16日)は、日中戦争(1937年7月7日~1945年9月2日)下である事を理由にして「議員任期を1年延長」し、任期満了は1942年4月29日とした。そして、その間、第2次近衛内閣は「大政翼賛会」(1940年10月12日)を成立させ、陸軍大臣と内務大臣を兼任した東条英機内閣(1941年10月18日~1944年7月18日)が1942年2月18日に「翼賛(政府推薦)選挙貫徹基本要綱」を閣議で決定し、同年4月30日に「翼賛選挙」(第21回総選挙)を実施した。投票率は全国平均83.2%(前回73.2%)であった。

 神聖天皇主権大日本帝国東条内閣のこの総選挙における目的は、「大東亜戦争完遂」のため政府・軍部に全面的に協力する翼賛議会を確立し、議会勢力を再編成して「政治力の結集」を図る事であった。新聞の見出しは、「国民の熱意・翼賛一票に顕現、全国の投票頗る好調、征戦完遂へ一致邁進」と煽った。

 政府は部落会・町内会・隣組(隣保班)を動員し官民一体の一大啓発運動を展開し、最適候補者推薦(候補者推薦組織として翼賛政治体制協議会結成。推薦候補へは選挙資金臨時軍事費から流用)の機運を盛り上げた。政府がその基本方針を決め、運動全般を指導し、地方官庁は基本方針に応じて地方での運動を指導した。大政翼賛会翼賛壮年団や在郷軍人会がそれに協力して運動を展開した。

 地方の翼賛壮年団は1942年1月には「大日本翼賛壮年団」として全国組織化した。彼らは、非政府推薦候補者に、「親英米的」「自由主義者」「非国民」「反軍思想」などとレッテルを貼って攻撃した。鳩山一郎尾崎行雄片山哲中野正剛は「翼賛(政府推薦)選挙」を批判したため選挙妨害を受けた。また、内務省は、斎藤隆夫の8万数千枚に及ぶ選挙運動用の印刷物すべてを差し押さえた。警察は、非政府推薦候補者の選挙事務長や運動員を経済事犯として検挙し、選挙関係の書類や資金を押収した。またその選挙事務所を訪れた者を直ちに留置した。

 「翼賛選挙」では「選挙」は、国民にとって、政治に参加する権利行使ではなく、政府の政治に翼賛する義務とされた。ゆえに「棄権」行為は義務を怠る行為として厳しく非難された東京府当局は、「棄権」する者はその理由を隣組長報告するようにという通達を出した。

 選挙結果は、当選者総計は466人、推薦者381人(81.8%)、非推薦85人(18.2%)であった。1942年5月20日、政府は翼賛政治会を発足させた。帝国議会衆議院予算審議権立法権も実質的に大幅に制限された。

 清沢洌の『暗黒日記』(1943年7月22日)は「議会とは現地派遣軍に感謝決議を行うところである」と皮肉と憤りを記している。

追記:「衆議院議員の任期延長に関する法律」は1941(昭和16)年2月24日公布、即日施行された。現任衆議院議員に限り1年間延長する事や、現任衆議院議員の在任期間中は現職議員数が定数の3分の2未満にならない限り補欠選挙や再選挙を行わない事を規定。翼賛選挙(第21回総選挙)での議員改選により、この法律が対象とする議員がいなくなり実効性は喪失したが、1954(昭和29)年5月1日公布、即日施行の「自治庁関係法令の整理に関する法律」により廃止された。

(2022年12月16日投稿)

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