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「戦争マラリア事件」(沖縄県・八重山諸島)に対する政府の対応への怨念は消えない

2024-06-16 11:00:11 | 沖縄

※2023年5月24日朝日新聞は、沖縄地上戦下での島民の「マラリア」被害=「戦争マラリア」の実態に関する記事を掲載した。以下に参考までに拙稿2022年4月22日の内容を紹介したい。

 2022年4月5日の朝日新聞は、「戦争マラリア 忘れない」というタイトルで、アジア・太平洋戦争沖縄戦において「戦争マラリア」で亡くなった波照間島民慰霊碑忘勿石之碑」(西表島南風見田)の修復と波照間島に新たな碑を建立するため、それを企画した有志でつくる期成会寄付を呼びかけているとの記事を載せた。

 戦争中のマラリア被害問題全体を、戦争マラリア「問題」と呼び、軍命による強制疎開でのマラリア被害問題を戦争マラリア「事件」と呼び分けるべきであり、戦争マラリア「事件」も、甲戦備令が出た強制疎開であるか、甲戦備令が出ない強制疎開であるかを分けて考えなければならない。そのように考えたうえで、八重山郡全体での戦争マラリア「問題」としての死者は3825人だといわれ、そのうち軍命強制疎開させられ、戦争マラリア「事件」として死亡した人は3459人だといわれている。

甲戦備令とは……敵軍が島に上陸し、戦闘に突入する状況にあるから、守備軍は陣地を展開して迎撃態勢に入れ、合わせて、住民は指定された地に避難せよ、というもの。

 石垣島と竹富島は甲戦備令が出たが、波照間島、黒島などは甲戦備令が出ない避難命令(1945年4月)であった。後者の場合は、非合法での避難命令であったといえる。その結果、波照間島の島民1590人(1270人説も)は、99.8%が罹患し、死者は西表島南風見田で亡くなった85人(うち学童66人)を含め477人(461人説も)であった

 「忘勿石之碑」の元となる「忘勿石」(刻字10文字、「忘勿石 ハテルマ シキナ」)は波照間島を南方に臨む西表島南風見田浜にある。この碑の由来は、当時マラリアの蔓延汚染地帯であった西表島へ軍命により強制疎開させられた波照間島民がほとんど全員が罹患し、うち学童66人が死亡した事態を識名信升校長が悔やむとともに、島民の3分の1が死亡した事を悼み、自ら軍に直訴して疎開を解除させ波照間へ帰島する際に、この事実を決して忘れてはならないという思いから、刻み残したものである。この碑が2019年の台風18号で破損したため修復したいという事なのである。また、波照間島にも新たな碑を建立をしたいという事なのである。

 軍令による強制疎開によって起きた波照間島民の戦争マラリア「事件」原因は、神聖天皇主権大日本帝国政府による本土決戦作戦のための時間稼ぎであった沖縄持久作戦だったのであり、家畜の屠殺を順序良く進める軍の家畜大量略奪計画の実行のために出されたのである。石垣島でも、住民をマラリア地域(東部)や奥地へ移動させたあと、軍が家畜その他の略奪を行っているのである。つまり、軍が軍を守るために島民の命を犠牲にしたのである。また、軍と県は有菌地を避難地疎開地に決定していたのである。

 1989年5月28日、遺族は「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」(会長 篠原武夫琉球大学教授)を石垣島で設立し、日本政府に補償を求める方針を決めた。沖縄県議会も同年11月7日、戦争マラリア犠牲者の遺族補償を関係機関に要請するために政府に要請団を送った。「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の適用を受けるためには、一般県民は「戦闘協力者」としての認定を必要とするが、遺族は「軍命」による退去だとして認定を求めた。しかし、1995年、政府は個人への戦後補償を認めず、「祈念館建設などの慰藉事業として3億円を支出する」という決定を県民に一方的に押し付けた。政府は補償要求から、この事件の責任が政府機関へ及ぶ事を避けようとしたのである。いまだに政府によるきちんとした事実解明は行われていないだけでなく、謝罪や個人補償も行われていない。この日本政府の冷酷無情な対応に対し、八重山の島民にとっては現在も、忘れたくても忘れる事のできない、これからも語り継ぐべき残虐な事件として記憶されているのである。

(2022年4月10日投稿)

 

 

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