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原爆投下の損害賠償をアメリカ政府に訴えさせなかった吉田茂

2024-05-21 23:02:00 | 核兵器

 原爆投下の犯罪性について法廷で初めて提起されたのは、極東国際軍事裁判(東京裁判。1946年5月~48年11月)においてであった。A級戦犯の弁護人であったアメリカ人弁護士ブレークニーが「真珠湾攻撃が殺人罪に問われるならば、原子爆弾での殺人はどうなるのか」と提起したのであった。しかし、極東委員会を構成していた11カ国から各一人が任命されていた裁判官たちは合議の結果、却下している。

 原爆投下による被害に対する損害賠償請求訴訟の動きは、1952年4月28日のサンフランシスコ講和(平和)条約発効後に起ってきた。それを提唱したのは岡本尚一という弁護士であった。彼は『原爆民訴惑問』というパンフレットを発行し、「原爆投下は国際法違反であり、被爆者やその遺族はアメリカ政府に対し損害賠償請求訴訟を起こすべきである。そして、悲惨な状態に置かれている被爆者を救済し、今後原爆の使用を禁止させよう」と訴えた。しかし、日本政府が講和条約の第19条で「日本国及び日本国民被爆者を含む)による連合国及び連合国民(アメリカ国及びその国民)への賠償請求権を放棄」したという事で、アメリカ政府を訴える事ができないと理解した。そこで1955年4月に、広島、長崎の被爆者5人が後遺障害や家族を失った被害の賠償を日本政府に求めるため東京地裁に提訴した。判決(裁判長古閑敏正、三淵嘉子、高桑昭)は1963年12月に下った。内容は「残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという国際法の基本原則に違反している」事を詳細に指摘して認定した。しかし、現行国際法の下では被害を受けた個人には賠償請求の権利は認められない」と賠償請求は棄却した。この時訴訟代理人の一人であった岡本弁護士はすでに亡くなっていた。判決は、今日まで世界で「唯一」原爆投下を違法としたものとなり、この後訴訟の原告の名前から「シモダ・ケース」と呼ばれ海外でも知られていった。

 1996年に国際司法裁判所が示した「核兵器の威嚇使用は一般的には国際法に違反する」という勧告にも影響を与えたといわれている。

(2024年5月21日投稿)

  

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蒋介石国民党支配の50年代台湾

2024-05-21 08:40:13 | 中国・台湾

 蒋介石国民党は1950年以降、地方公職選挙を導入して、台湾人エリートの地方政治への参加を可能とし、中央政治における外省人支配との二重構造とした。青年層対策では1952年10月、蒋介石の長子蒋経国中国青年反共救国団を設立し、青少年に軍事訓練や娯楽を提供するとともに、これを組織化、政治的教化をし、反政府化を予防した。

 1950年代には、外省人知識人らによる雑誌『自由中国』が、国民党公認の反共自由主義から国民党の独裁を批判する傾向を強め、1959~60年には蒋介石の憲法改正、総統三選の動きを社説で批判、また、「中国民主党」結成を図った。

 この動きに対し、1960年9月、国民党は同誌編集長を逮捕・投獄し、同誌を廃刊とし、少数のリベラル知識人による民主化運動を圧殺した。

 この結果、中国大陸で共産党との内戦に敗退した国民党は、台湾での体制改革基盤強化に成功し、権威主義支配を再建した。

 これを可能にした背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府が1905年から45年の敗戦まで植民地として支配するために作り上げた、すべての土地・住民を把握する体制がすでに存在していた事があり、国民党はこれを基盤として強固な支配を確立したのである。

(2022年11月25日投稿)

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国民党政権が台湾で生き延びられた外的要因

2024-05-21 07:45:45 | 中国・台湾

 中国大陸における国共(国民党と共産党)内戦で共産党軍に敗退し台湾へ後退移転した蒋介石国民党政権がその後生き延びる事ができた外的要因は、朝鮮戦争の勃発(1950年6月25日)東西冷戦の激化であった。

 蒋介石国民党政権中華民国では、1946年7月以降、国民党と毛沢東共産党の内戦が全面化した。1948年から49年には、国民党軍は相次いで共産党軍に敗退し、危機的状況となった。そのため蒋介石は台湾を国民党政権の最後の根拠地と定め、国民党中央軍及び党、政関係者の大陸からの撤退と台湾での権力基盤強化に力を注いだ。1949年12月7日には大陸で敗れた中華民国政府は正式に台湾台北へ移転し、政府とともに大陸から兵士、公務員、教員など100万人近い人々が当時人口700万人ほどであった台湾へ逃れてきた。

 米国政府の動きは、1949年8月国務省『中国白書』を発表し、国民党政権の腐敗や無能を嘲笑した。また、1950年1月5日にはトルーマン大統領台湾海峡不介入の声明を発表し、蒋介石国民党を見放した感があった。

 そして、その間の1949年10月以降、共産党軍が台湾解放作戦敢行の準備をすすめ、国民党政権の命運は極まった状況があったが、この状況を転換させた要因が、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化であった。

 1950年6月27日、トルーマン米国大統領米国第7艦隊を台湾海峡へ派遣し、共産党軍の台湾攻撃を抑止し、また、国民党政権と軍への援助を再開したのである。そのため、共産党軍は台湾解放作戦を取りやめ、軍を東北や朝鮮へ向かわせる事になったのである。

 そして、米国政府は台湾(蒋介石中華民国政府)が国際連合の中国代表権常任理事国の地位を維持する事を支持するとともに、吉田茂日本政府に対しては、毛沢東中華人民共和国政府(1949年10月1日建国)ではなく、蒋介石政府平和条約を締結するよう圧力をかけ、吉田茂首相は1952年4月28日日華平和条約を締結した。

 この結果、蒋介石台湾中華民国政府は日本政府との関係を正常化できたが、戦争賠償権を放棄させられている。

 上記のように、蒋介石台湾中華民国国民党政権は冷戦の展開米国政府の支持により、その後しばらくの間、存続を維持する事が可能となったのである。

 一方、米国政府反共産主義政策として中華人民共和国政府封じ込める上で台湾の軍事的地政的価値を重視し利用するために、1950年から67年の間に、総額約24億ドルの巨額な軍事援助を行った。1951年以後には、軍事顧問を派遣し、最盛期の1955年には2347人の顧問を各部隊に配属し指導した。

(2022年9月9日投稿)

 

 

 

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