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台湾嘉義農林学校卒業生・呉連義の人生を、神聖天皇主権大日本帝国政府と戦後自民党日本政府がいかに蹂躙翻弄したか

2025-03-25 17:23:27 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府のアジア侵略政策戦後の日本国政府の政策対応がいかに人権を蹂躙し人生を翻弄したものであったかを、台湾の嘉義農林学校出身の呉連義の人生を通して、知り、現行憲法前文に定めている「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こる事のないようにする決意」を現安倍自公政権下においてこそ、より固くするために、大切な事実であると考え紹介したい。

 彼の存在については、1991年6月に、日本のテレビ取材班がベトナム北部ニンビン省の彼の家を取材する事により公けに知られる事となった。呉連義は、日清戦争の結果、中国が日本に割譲し日本の植民地となっていた台湾で、1924年に生まれ、育った。その後、国策会社・台湾拓殖に勤め、戦時中「綿作戦士」としてベトナムに赴任した。農民に綿花や黄麻を栽培させる仕事である。戦争末期には現地で日本軍に徴用され、軍需米の監視などに当たった。

 ベトナムに赴任した時は「新井良雄」という名前を使わされた。ベトミン時代は「カウ」と呼ばれた。その後はベトナム風に「ゴ・リエン・ギア」と名乗った。「自分が何国人だか分からなくなる時があった」と語っていた。

 1944年、台湾拓殖の社員として台湾を出航した。米軍の潜水艦に追われ、船は予定を変えてシンガポールに着いた。そこから陸路でハノイに向かった。着いたのは出航から2カ月が過ぎた5月5日、21歳の誕生日だった。新井良雄」という日本名を名乗らされる事になり、北部タインホア省農業試験場で地元の農民に綿花や黄麻などを栽培させた。

 仏印(仏領インドシナ、ベトナムなど)処理の後は台湾拓殖の子会社のクロム工場で日本人職員の警護に当たった。その後、日本軍に徴用され、商社の事務所で砂糖取引を装いながら、南部からくる軍需米の輸送船の監視などに当たった。平服に短銃を忍ばせ、赤いボタンが任務の目印だった。民間人でありながら情報班として日本軍の一線で働いた。 

 日本軍が進駐していた仏印には、台湾から多くの若者が日本人として渡った。日本の外務省資料によると、1945年10月にベトナムで引き揚げのために集まった人は4029人で、うち1400人が台湾と朝鮮出身者だった。ベトナムは45年春から夏にかけて、ひどい飢餓に見舞われた。呉によると、やせ衰えて道端に横たわる人々は、下痢で地面を黄色く染め、ハエで真っ黒になって息絶えていった。死んだ母親のしなびた乳首をくわえた赤ん坊が、息のあるまま母と一緒に穴に投げ捨てられたという。そして、日本軍は飢えた人を助けるどころか、軍需米をため込んでいたという。そして、「私もその手先だったのが恥ずかしい」と語っていた。 

 敗戦農業試験場で知った。引き揚げの準備のため集まるよう、クロム工場にも伝える事になった。呉が日本人の主任を載せて行くはずだった。しかし、異動してきたばかりの台湾出身の同僚が最後の機会なので工場を見たいというので交代した。出かけた二人は帰らなかった。工場からの帰りにベトミンに襲われ、二人とも殺されたという。

 ベトナム北部には、日本軍の武装解除のため、中国国民党軍が進駐した。日本軍に協力した台湾出身者の中には処刑される者もいた。北部タインホア省の農業試験場で働いていた呉は、中国国民党軍を恐れて逃げ回った。日本敗戦後、ハノイに集まった人たちは、台湾出身者は食べるのにも苦労し、台湾同郷会を作って助け合った。ハノイにいた台湾出身者たちの名簿「台湾同郷会・会員名冊」によれば、1946年3月には、20代の青年ばかり約300人が名を連ねる。

 引き揚げの機会を失った呉は、その後、知り合いの雑貨屋のおやじに出合った。事情を聴いたおやじは、ベトミンで働かないかと呉を誘った。おやじはベトミンの一員だった。呉はハノイから約100㌔南のニンビン省で、ベトミン軍に軍事教練や柔道を教える事になった。呉は共産党系のベトミンに関わった事が、その後半世紀もベトナム北部にとどまるきっかけとなった。

 ベトナムでは1945年9月、ベトミンを率いるホー・チ・ミンが独立を宣言していた。しかし、1946年になると、植民地支配の復活を狙うフランス軍が、国民党軍と入れ替わって北部にも上陸してきた。ベトミンは抗仏戦争を展開した。

 呉は1946年、ベトミンから共産党のニンビン省委員会に移った。当時、党は解散宣言をしていたが、組織は残っていたようだ。その委員会に1948年、新しい書記が着任した。呉は党員ではなかったが、書記は太い声で、呉の事を同志と呼んだ。書記の名前はド・ムオイ。後の共産党書記長である。

 1954年春、ベトナム北部のニンビン省で暮らしていた呉に、引き揚げのために集まれとの連絡が役所からあった。抗仏戦争が大詰めの頃で、ベトミンの支配地域に残る日本人が帰国できるよう、日越両国の民間団体が話し合って実現した引き揚げだった。

 呉はこの3年前に、マラリアで身体を壊して、共産党の省委員会を辞めた。その後、ベトナム人と結婚し、野菜を作ったりして暮らしていた。

 引き揚げる前に、政治学習を受けさせられた。中国国境に近い集合場所に行くと、90人余りがいて、5人が台湾出身者だった。日本の国内情勢や日米安保条約の意味など、ベトナムの共産勢力による学習は半年間続いた。11月、いよいよ引き上げる事になった。ところが、出発の間際になって、台湾出身とわかると、日本人だけが対象だと拒否された。引き揚げのための靴や工員服を支給されて、歓声を上げる日本人を、5人の台湾出身者は呆然と眺めていた。

 引き揚げの通知は59年にもあった。しかし、また台湾出身者は拒否された。南北ベトナムは1976年、正式に統一した。

 引き揚げの機会を失っていた呉は、農村の生活に溶け込むより仕方がなかった。北ベトナムでは55年から土地改革が始まり、農業集団化が進められた。呉も合作社(集団農場)に所属する事になった。配給は月に一人モミ6㌔。山に入って荒れ地の開拓もした。その時は800㌘の米で半月間食いつないだ。飯盒に、拾い集めたイモとタピオカを詰め、その上に米粒をそっと撒いて炊いた。

 ドイモイ(刷新)政策が始まってからは自分の収入のために働けるようになった。ベトナムの農村ではごく当たり前の自転車で物を運んで収入を得る生活を続けた。竹の棒で補強した古い自転車に、モミ袋を5つ積む。重さは130㌔にもなる。それを一日かけて指示された場所に運ぶ。5、6千ドンにしかならない。それでも仕事が欲しい。呉は倉庫の前で夜を明かして、荷を待った。

 1991年6月、荷物運びの仕事を終えて、呉が汗まみれで帰宅すると、人だかりができていた。日本のテレビ取材班が、ベトナム北部ニンビン省の呉の家を取材に訪れた。呉には連絡が届いておらず、突然の事だった。日本人に会ったのは30年ぶりだった。言葉をすっかり忘れていた。地面に絵を描いて、「なべ」「かま」と一言ずつ思い出した。取材されて、閉じ込めていた望郷の思いが、一気に噴き出した。これがきっかけで、呉はハノイの日本人大使館を何度も訪れた。それまでは、日本のスパイと疑われるのではないかと、怖くて行けなかった。日本大使館で呉は訴えた。「日本のために働いたんだから、日本政府が責任を持って帰してほしい」日本には割り切れない思いがあった。しかし、日本国籍がないのだから、何もできない」大使館ではそう言われた。

 1993年夏、細川首相日本の戦争責任を認める発言をした事を、日本から送られてきた新聞で知った。変化があるのではないかと期待したが、大使館の返事は同じだった。「日本政府は昔も今も、口先だけだ」と呉は怒る 

 上記の、引き揚げのために集まった、外務省資料にある1400人の台湾や朝鮮の出身者について、大日本帝国政府は敗戦により日本人として扱う事をやめ、引き揚げの対象から外した。そのため、自力で帰国を試みたり、あるいは各地へ散り、消息が分からない人も多い。

 1992年、台湾はハノイに事実上の大使館である台北経済文化事務所を開いた。呉は1993年末に初めてその存在を知り訪ねた。事務所は呉の台湾の戸籍を確認し、台湾の旅券を発給した。名前は呉義連である。

 1994年5月、呉は、大日本帝国の植民地時代には「新高山」と呼ばれた台湾の最高峰「玉山」の登山口にある嘉義市に半世紀ぶりに戻った。台北空港には、親類や知人が出迎えた。呉は、花輪を差し出した姉の呉彩鳳に抱きついて声を上げて泣いた。両親の墓参りをし、市役所で身分証明書を作った。出身学校の嘉義農林で、呉連義の存在を確認する卒業証書を再発行してもらった。

 日本語教育を受けた呉は台湾語ができない。姉や同級生とは日本語で話せるが、甥や姪には通じないので通訳を要した。呉は、台湾に3ヶ月間滞在して迷い続けた。懐かしい故郷で暮らしたい。しかし、言葉や年齢を考えると無理なように思えた。妻子もいるし余生も短い。そして、結局、7月、ベトナムのニンビン省の自宅に戻った。

(2018年11月19日投稿)

 

 


台湾の「親日」とは何か?神聖天皇主権大日本帝国政府による植民地化により100年先延ばしになった台湾民主化

2025-03-25 17:21:31 | 中国・台湾

※以下は2015年12月21日に投稿したものに加筆修正したものである。

 アジア・太平洋戦争が神聖天皇主権大日本帝国政府の敗戦で終わった後、それまで50年間神聖天皇主権大日本帝国政府植民地支配してきた台湾省中華民国政府へ返還されたが、共産党と大陸で内戦を続けてきた蒋介石率いる国民党軍(外省人)が逃げ込み統治した。しかし、士気の低さや驕りのため台湾人(本省人)の人気を失う。そして、1947年に2・28事件が起こった。国民党の弾圧圧政に対する台湾人の反抗である。それに対し、蒋介石(国民党総統)により武力鎮圧(白色テロ)が行われた。かつて植民地時代に日本に抵抗した人々、農民組合の人々、民衆党など(台湾人エリート)が弾圧を受けた。1949年5月に戒厳令が出され約40年間継続した(1987年7月、金門・馬祖以外解除)。政治犯とされた人の最長収監期間は34年7カ月。20年以上は当たり前で2万人。約4500人の死刑囚を出した。反日勢力であった、当時民衆の側に立った人たちが弾圧されたため、親日分子が残っていった。

 親日分子についてであるが、日本による植民地支配は台湾と韓国では全く異なっていた。韓国では封建制度や地主階級を徹底的につぶしたが、台湾ではそれをせず、地主階級を温存し、親日派として養成した。戦後日本との経済が深まるなかで彼らは復権した。しかし、彼らは自分が親日分子だとは言えないため、看板として付け替えたのが「台湾独立派」ということである。その実態は「親日」ということである。

 李登輝氏(2020年7月30日死去)は1996年に初の総統直接選挙を実現し台湾の民主化を推し進めた、と日本のメディアが高く評価する報道をしている。しかし、今日の日本の主権者国民は、これより100年前の日清戦争後の1895年5月末、神聖天皇主権大日本帝国政府が下関条約で清国に割譲させた台湾省を植民地化する事に台湾の人々が抵抗し、独立宣言を発し、台湾民主国を成立させた事実があった事こそ忘れてはならない。そしてそのような台湾省の人々の願いに対し、神聖天皇主権大日本帝国政府があらゆる手段を使って有無を言わせず植民地化を達成しすべての人々の人権を蹂躙した台湾征服戦争を強行した過去があった事こそ忘れてはならない。

 台湾民主国独立宣言文(総統唐景崧名義)は「日本清国を欺凌し、わが国土台湾の割譲を要求す。台民朝廷(=清国政府)に嘆願を重ねるも功を奏せずして終われり。倭奴(=神聖天皇主権大日本帝国政府)不日攻めきたらん事すでに知る。われもしこれを甘受せば、わが土地、わが家郷みな夷狄の所有に帰す。しかれども我もしこれを甘受せずんば、わが防備足らざるが故、長期持続し難し。われ列強と折衝を重ねしも、いずれも援助を期さば台民まず独立せよと主張せり。それ故わが台民敵に仕うるよりは死する事を決す。また会議において台湾島を民主国とし、すべての国務を公民によって公選せられたる官吏を以て運営せん事を決定せり。この計画のため、且つ倭奴の侵略に抵抗せんがため、新政府機構の中枢たるべき人物必要ならん。……」と主張している。

 台湾征服戦争は1915(大正4)年まで続いた。その間の帝国日本陸軍の戦死者は日清戦争を上回った。日清戦争時の陸軍戦死者が1161人、病死7234人、計8395人に対し、台湾征服戦争の陸軍戦死者は1988人、病死者7604人、計9592人といわれている。

  しかし、上記の「独立宣言」に対して神聖天皇主権大日本帝国政府は、圧倒的な軍事力(初めて機関銃を使用)をもって粉砕鎮圧したのである。帝国日本政府は北白川宮能久の率いる近衛師団を急派した。動員兵力はその後の増援部隊(乃木希典率いる第2師団、伏見宮貞愛率いる混成第4師団)を含め、2個師団余の5万人、軍夫2万6000人、馬9400匹。当時の陸軍兵力の3分の1を超えるものであった。台湾省の人々の抵抗の姿は都新聞記者として従軍した大谷誠夫『台湾征討記』では「既に夜も更けたれば敵無かるべしと思わるる方の岸に沿うて300メートルばかり流れ来りたる、東天漸く白みたるを以て最早進行し難し、如何はせんと思案に暮れしが傍らに昼尚暗き迄に生茂れる森林ありて潜伏するには屈強の場所なり、3人はこれ幸いと最も鬱蒼なる中を択んで入り、朝饗を喫せり、是にて携える所の食物は既に尽きたるなり、一行は潜伏所よりひそかに敵の動静を伺うに20人或いは30人づつ此処彼処に群れを為し、中には婦女子にして銃を執るあり、老幼にして槍を携えるあり、糧餉は多く婦人の手に依りて運ばれ宛然米国13州独立のパノラマを見るが如し」と記している。

 神聖天皇主権大日本帝国政府はこの台湾征服戦争を内戦だとして戦時国際法を適用せず、捕虜も取らず兵士や住民を殺害した。

 ちなみに北白川宮能久は1895年10月に台南を陥落させた頃、マラリアで死亡したため、神聖天皇主権大日本帝国政府は官幣大社・台湾神宮及び台湾の諸神社に祀った。敗戦後は、靖国神社に合祀した。李登輝氏は、日本人として海軍に進み、フィリピンで戦死し、神聖天皇主権大日本帝国政府は靖国神社に祀り、敗戦後もそのまま今日に至っている。

また、1930年には霧社で植民地支配に対する抗日反乱事件(霧社事件)が起きた。台湾総督府は飛行機・毒ガス(1928年ジュネーブ議定書発効で使用禁止)を使用する大規模な討伐を行い鎮圧し、敗戦まで植民地支配を続けた。

 上記のような歴史こそ、日本のメディアは主権者国民に伝えるべきであろう。また今日、岸田自公政府が「台湾有事」と称し防衛費を驚異的に増額する問題の発生原因の淵源は、かつて神聖天皇主権大日本帝国政府が中国(当時清国)台湾省を日清戦争の講和条約下関条約により割譲させ植民地支配したという歴史に存在する事を明確にし国民に伝えるべきであろう。この視点は今日の北朝鮮問題南北分断問題においても同様で、神聖天皇主権大日本帝国政府が大韓帝国に韓国併合条約を押し付け日本領土とした歴史がその発生原因の淵源である事を明確にし国民に伝えるべきであろう。つまり、どちらの問題もそもそも神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略行為が原因であるという視点に立つ認識が必要なのである。

 米国政府またそれに追従する日本政府が、台湾独立派(反中国)を利用し、習近平政権を危険な悪人視して、習近平政権が中台統一政策達成のために軍事行動を起こすと決めつけ、「台湾有事」なる言葉を吹聴し、日米両国それぞれの国民や台湾省の人々に理不尽との印象を広める事を狙い、危機意識を煽る姿勢をとる事は、日米両政府が習近平政権の中国の国力を抑え込み、世界秩序の主導権において優位に立とうとするための「中国封じ込め政策」を正当化するためのものであり、日米両政府の偽善者による「内政干渉」以外の何物でもないとみなすべきである(日本政府は過去の侵略行為の報復を受けるかもしれないという恐怖感もあるかもしれないが)。つまり真相は、世界秩序に関する、現勢力である米日と新興勢力である中国との主導権争いなのである。しかし残念ながら、すべてのメディアは、主権者国民に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府の価値観歴史認識を引き継ぐ歴代政権(自公政権)側に立ち、偏向偏狭な報道を行っており歴史の全貌を報道しようとしていないのが現状である。 

尚、神聖天皇主権大日本帝国政府による台湾の植民地支配がどのようなものであったのかについてはこれとは別に投稿します。


伊藤博文を顕彰する菩提寺「博文寺」が敗戦まで韓国ソウル南山にあった、伊藤を讃える安倍政権の歴史認識は偏向している

2025-03-25 17:16:10 | 戦争遺跡

 ※以下は2016年10月29日投稿のものを再投稿したものです。

 ※別稿「明治150年記念式典反対 大日本帝国憲法を称賛し国民のルーツである日本国憲法を否定する行為」を合わせて読んでください。

 韓国併合後の1932年10月26日(伊藤の24周忌)からアジア太平洋戦争の敗戦まで、現在の韓国ソウル南山の東(奨忠壇公園東の高台)、現在韓国最高級ホテル「新羅ホテル」があるあたりに、朝鮮総督府の事業として伊藤博文を顕彰する事を目的に造営された、菩提寺「博文寺」が存在したという事はあまり知られていない。正式名は「春畝山博文寺」で、「春畝」は伊藤の「」であり、元々伊藤の「祠堂」があった。

 菩提寺とはいっても、墓も檀家もない寺であったが、1930年代の日本では「大陸旅行」ブームが高まり、朝鮮や「満州」への観光、視察、修学旅行が盛んになった。京城(1910年韓国併合後、日本政府が改称)に立ち寄った旅行者の見学先の一つとして組み込まれていた。

 1930年代制作の絵ハガキの説明文によると、「博文寺は渓流や丘がある美しい緑に包まれた奨忠壇公園の丘上にある故伊藤博文公を祀った寺院であります。この寺院は昭和7年に竣工した曹洞宗の立派な鉄筋コンクリート造りです。吾々は明治偉勲の霊を弔い、その風貌を偲びつつ塵一つ落ちていない清浄な境内は勿論、鬱蒼と茂る松林をわたる風は岩にむせぶ渓流に和して、風韻洵に掬すべき四辺の風光を賞で乍ら散策する事は実に意義深いことであります」と書いている。

 日中戦争期には、戦死者を対象に「韓国併合功労者感謝慰霊祭」(1939年11月)などの国家的行事が開催された。

 造営の発端は、伊藤が統監であった頃に秘書官を務めていた児玉源太郎の長男・児玉秀雄が1929年に朝鮮総督府(第2次斎藤実総督)政務総監に就任した時に、伊藤を顕彰する施設を作る事を提唱した事にある。 

 財団法人「伊藤博文公記念会」が組織され寄付金を集めた。「記念会」は「伊藤博文公の徳風を敬仰し、赫々たる偉業を永く後世に記念する」、「公の冥福を追修し併せて朝鮮に於ける仏教の振興を期し、精神的結合を図り、以て朝鮮統治に貢献」する事を目的とした。

 設計は、東京帝国大学建築学教室の教授・伊東忠太(平安神宮、築地本願寺、朝鮮神宮も設計)で、鎌倉時代の禅宗寺院様式に朝鮮風を加味したもの伊東は地理的位置も考慮し、京城の北に日本政府の朝鮮統治機関・朝鮮総督府(1910年)、その南の南山に朝鮮全土の総鎮守府として天照大神と明治天皇を祀る朝鮮神宮(1925年)、そして総督府から南東に「博文寺」を置いて、京城をその中に取り囲むようにした。

 造営された「南山」は、李氏朝鮮王朝が名づけた「聖山」で、山頂に山神の祠「国師堂」がある朝鮮民族にとって開国精神が宿っている由緒深いところであった。また、第26代高宗皇帝が1900年に、閔妃暗殺事件の際に戦死した大臣を讃えて祠堂「奨忠壇」を建て、抗日の象徴として毎年春秋に祭祀を実施していたところであった。

 しかし、「国師堂」は、朝鮮神宮を建てる際に、ソウル北西の仁王山」へ移転させた。また、「奨忠壇」は、1908年、対日感情を悪化させるという理由で祭祀を禁じ、さらに1919年には、一帯に「」の木を植えて「奨忠壇公園」として公園化し総督府が管理するようにした。つまり、朝鮮民族の民族精神を抹殺し、日本人に同化させるために、その痕跡を隠滅したのである。

 そのような準備を整え、1932年、「公園」の東方に伊藤博文を顕彰する「博文寺」を造営したのである。

 さて本堂はコンクリート造りであったが、その他の建物の資材はどこで調達したのか。一言で言うと、王朝の宮殿の建物を移築したのである。例えば、庫裏は景福宮の「濬源殿」、鐘楼も景福宮の「石鼓壇」である。門は「慶煕宮」の「興化門」である。

 景福宮は、豊臣秀吉による文禄慶長の侵略により完全焼失したが、1865年に高宗の時代に復元された。しかし、朝鮮総督府は、主要殿閣を壊し、日本人料理店や寺院の装飾建築物として処分したり、京城の日本人密集地帯であった南山洞、筆洞、竜山などの日本人の住宅として売却した。

 集中的に撤去し始めたのは1915年夏に「景福宮」を会場として開催した「朝鮮物産共進会」(始政5周年記念事業)からであった。展示館を作るために大小の殿閣を壊し、7万坪の敷地を準備したのである。また、1929年には「朝鮮博覧会」(植民地政策20周年記念事業)が開催され、景福宮は完全に外見だけしか残らなくなったのである。歴代国王の肖像画を祀った「濬源殿」などは「博文寺」に移築され、1935年には一般公開された。

 ついでながら、昌慶宮には1907年に総督府は、動物園を開設した。22年には王宮内にを植えて、完全に公園化し、24年からは夜間公開を始めた。

 昌徳宮文禄慶長の侵略で完全焼失したが、総督府が再建し内部は完全に日本式庭園に変えた。

 慶煕宮は、1900年代に、日本人が宮内に学校を造るために破壊した。

 徳寿宮は、元々慶運宮であったが、1907年の「ハーグ密使事件」の後、高宗皇帝を退位させるとともに総督府が名称を変えたのである。「大安門」も同時に「大漢門」に変えた。意味は「大泥棒が住むところの門」というもので、総督府による皇帝に対する腹いせである。

朝鮮民族に対する植民地政策、それは朝鮮民族の民族性民族精神を抹殺し、日本人に同化させる政策であるが、日本政府朝鮮総督府はすでにこの時点から着々と進めており、その苛烈さがどのようなものであったかが感じとれるであろう。日本政府は韓国皇族については韓国併合によって日本の皇族に編入していたのである。これ以降の民族性抹殺政策は周知のとおりである。

 さて、この「博文寺」は1932年10月26日に落成した。この時、昭和天皇銀製の香炉とともに香華料を下賜し、日本の皇族もすべて花瓶を下賜した。

 1945年日本の敗戦による、解放後、博文寺は仏教系青年・学生寮として使用されたが、壊されたのであろう。その後その場所に、迎賓館が建設され、1970年代には韓国最高級ホテル・新羅ホテルも建設された。また、南山の朝鮮神宮も取り壊され、そこには伊藤博文を暗殺した朝鮮民族の英雄として安重根の碑と資料館が建設されている。さらに、景福宮に建設した朝鮮総督府庁舎も取り除かれた。

 ※最近、安倍政権は「明治150年記念式典」を実施する事を発表したが、それは彼らが過去の日本の真実の姿を隠滅し、彼らにとって都合のよい事だけを取り上げ称賛し、国民に対して「明治以降の日本は素晴らしい国である」という「作り話」(歴史を書き換える歴史修正主義)を作り信じさせ、それを誇りに思わせ、彼らの意のままに従う人間に改造し、憲法を改悪し、理想とする大日本帝国を復活させようとしているという事である。「明治100年記念式典」を実施した事支持した事は過ちである。それに気づき再び過ちを繰り返してはならない。我々のルーツは「日本国憲法」である。安倍自民党の歴史認識は偏向しており、無批判に受け入れてはいけない。

 この時代錯誤の安倍政権を支持翼賛する事は、安倍政権と同類同罪の否定的な評価を受け、自らの生活を破滅に導くであろう。 

  


テレビ放送開始は日米両国政府の軍事的政治的目的が密接に関係していた。

2025-03-25 12:26:47 | メディア

 敗戦後の日本でテレビ放送は、何時開始されたのだろう?またその放送開始には、どのような目的があったのだろう?そこにはある目的があった事を、NHKをはじめ他のメディアは国民に報じていないが、「隠しておきたいのであろう」ある目的が存在した事を紹介したい。

 テレビ放送を日本で初めて開始したのはNHKテレビ(日本放送協会)で、1953年2月1日であった。そして、同年8月28日には初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始した。その誕生普及には実は、日本政府(と米国政府)軍事的政治的目的が密接に関係していたのである。

 きっかけとなったのは、米国の国営ラジオ対外放送「ボイス・オブ・アメリカ」を作ったカール・ムント上院議員が、「共産主義」に対抗するための米国の宣伝機関として1951年6月、テレビ版「ビジョン・オブ・アメリカ」を世界中に作るべきであり、ドイツと日本に先ず作るべきであると提唱した事であった。1950年6月から朝鮮戦争(~53年7月)が始まっており、古島一雄馬場恒吾「読売新聞」社長らは共産主義革命が起こる事を心配していたので、日本に共産主義に対抗するテレビ局を作る事に賛成した。しかし、米国政府が作るのではなく、日本人自身が作るべきであると考えた。これに正力松太郎賛成した。

 1951年9月、「日本テレビ放送網」株式会社の構想を発表した。「」という文字を付けているのが「みそ」であった。各地の山頂に中継所を設置し、日本全国をマイクロ・ネットワークで結ぶ計画であった。米国政府国防省も支援し、資金援助のために米国輸出入銀行に「かかるネットワークは、望ましいものであると同時に必要とされるものであり、軍事的能力を増進し、日本を外部からの侵略から防衛せんとする日米相互の努力に相当の助力になります」という推薦状を書いた。マイクロ・ネットワークは、レーダー基地としても、軍事情報網としても転用できるものだったのである。そのため、日本テレビは、「」という文字を付けたのであった。

 しかし、日本政府は、マイクロ・ネットワークを、一民間企業が独占する事は不都合であったので許可をせず、「電電公社」に建設させた。1952年通産省テレビ技術電子兵器生産の基礎になるとみなし国産化体制をとり、53年にはテレビ研究補助金を出すとともに、54年には受像機ブラウン管輸入を全面禁止した。その間、53年2月1日にはNHKテレビが、同年8月28日には日本テレビが放送を開始した。

 1959年4月10日明仁皇太子正田美智子さんとの結婚式が実施されたが、NHKテレビ民放テレビも、式後の皇居から東宮御所までの8.9kmのパレードを中継した。民放は、この結婚式に間に合わせるために、同年4月早々開局したばかりの8社を含めた30社が、「ラジオ東京テレビ」と「日本テレビ」の2系列に分かれ、それぞれ系列会社の機材や人員を動員した。これが後に「民放」にニュースや番組のネットワークができるきっかけとなった。

(2025年3月25日投稿)