※以下は2016年10月29日投稿のものを再投稿したものです。
※別稿「明治150年記念式典反対 大日本帝国憲法を称賛し国民のルーツである日本国憲法を否定する行為」を合わせて読んでください。
韓国併合後の1932年10月26日(伊藤の24周忌)からアジア太平洋戦争の敗戦まで、現在の韓国ソウル南山の東(奨忠壇公園東の高台)、現在韓国最高級ホテル「新羅ホテル」があるあたりに、朝鮮総督府の事業として伊藤博文を顕彰する事を目的に造営された、菩提寺「博文寺」が存在したという事はあまり知られていない。正式名は「春畝山博文寺」で、「春畝」は伊藤の「号」であり、元々伊藤の「祠堂」があった。
菩提寺とはいっても、墓も檀家もない寺であったが、1930年代の日本では「大陸旅行」ブームが高まり、朝鮮や「満州」への観光、視察、修学旅行が盛んになった。京城(1910年韓国併合後、日本政府が改称)に立ち寄った旅行者の見学先の一つとして組み込まれていた。
1930年代制作の絵ハガキの説明文によると、「博文寺は渓流や丘がある美しい緑に包まれた奨忠壇公園の丘上にある故伊藤博文公を祀った寺院であります。この寺院は昭和7年に竣工した曹洞宗の立派な鉄筋コンクリート造りです。吾々は明治偉勲の霊を弔い、その風貌を偲びつつ塵一つ落ちていない清浄な境内は勿論、鬱蒼と茂る松林をわたる風は岩にむせぶ渓流に和して、風韻洵に掬すべき四辺の風光を賞で乍ら散策する事は実に意義深いことであります」と書いている。
日中戦争期には、戦死者を対象に「韓国併合功労者感謝慰霊祭」(1939年11月)などの国家的行事が開催された。
造営の発端は、伊藤が統監であった頃に秘書官を務めていた児玉源太郎の長男・児玉秀雄が1929年に朝鮮総督府(第2次斎藤実総督)政務総監に就任した時に、伊藤を顕彰する施設を作る事を提唱した事にある。
財団法人「伊藤博文公記念会」が組織され寄付金を集めた。「記念会」は「伊藤博文公の徳風を敬仰し、赫々たる偉業を永く後世に記念する」、「公の冥福を追修し併せて朝鮮に於ける仏教の振興を期し、精神的結合を図り、以て朝鮮統治に貢献」する事を目的とした。
設計は、東京帝国大学建築学教室の教授・伊東忠太(平安神宮、築地本願寺、朝鮮神宮も設計)で、鎌倉時代の禅宗寺院様式に朝鮮風を加味したもの。伊東は地理的位置も考慮し、京城の北に日本政府の朝鮮統治機関・朝鮮総督府(1910年)、その南の南山に朝鮮全土の総鎮守府として天照大神と明治天皇を祀る朝鮮神宮(1925年)、そして総督府から南東に「博文寺」を置いて、京城をその中に取り囲むようにした。
造営された「南山」は、李氏朝鮮王朝が名づけた「聖山」で、山頂に山神の祠「国師堂」がある朝鮮民族にとって開国精神が宿っている由緒深いところであった。また、第26代高宗皇帝が1900年に、閔妃暗殺事件の際に戦死した大臣を讃えて祠堂「奨忠壇」を建て、抗日の象徴として毎年春秋に祭祀を実施していたところであった。
しかし、「国師堂」は、朝鮮神宮を建てる際に、ソウル北西の「仁王山」へ移転させた。また、「奨忠壇」は、1908年、対日感情を悪化させるという理由で祭祀を禁じ、さらに1919年には、一帯に「桜」の木を植えて「奨忠壇公園」として公園化し総督府が管理するようにした。つまり、朝鮮民族の民族精神を抹殺し、日本人に同化させるために、その痕跡を隠滅したのである。
そのような準備を整え、1932年、「公園」の東方に伊藤博文を顕彰する「博文寺」を造営したのである。
さて本堂はコンクリート造りであったが、その他の建物の資材はどこで調達したのか。一言で言うと、王朝の宮殿の建物を移築したのである。例えば、庫裏は景福宮の「濬源殿」、鐘楼も景福宮の「石鼓壇」である。門は「慶煕宮」の「興化門」である。
景福宮は、豊臣秀吉による文禄慶長の侵略により完全焼失したが、1865年に高宗の時代に復元された。しかし、朝鮮総督府は、主要殿閣を壊し、日本人料理店や寺院の装飾建築物として処分したり、京城の日本人密集地帯であった南山洞、筆洞、竜山などの日本人の住宅として売却した。
集中的に撤去し始めたのは1915年夏に「景福宮」を会場として開催した「朝鮮物産共進会」(始政5周年記念事業)からであった。展示館を作るために大小の殿閣を壊し、7万坪の敷地を準備したのである。また、1929年には「朝鮮博覧会」(植民地政策20周年記念事業)が開催され、景福宮は完全に外見だけしか残らなくなったのである。歴代国王の肖像画を祀った「濬源殿」などは「博文寺」に移築され、1935年には一般公開された。
ついでながら、昌慶宮には1907年に総督府は、動物園を開設した。22年には王宮内に桜を植えて、完全に公園化し、24年からは夜間公開を始めた。
昌徳宮は文禄慶長の侵略で完全焼失したが、総督府が再建し内部は完全に日本式庭園に変えた。
慶煕宮は、1900年代に、日本人が宮内に学校を造るために破壊した。
徳寿宮は、元々慶運宮であったが、1907年の「ハーグ密使事件」の後、高宗皇帝を退位させるとともに総督府が名称を変えたのである。「大安門」も同時に「大漢門」に変えた。意味は「大泥棒が住むところの門」というもので、総督府による皇帝に対する腹いせである。
朝鮮民族に対する植民地政策、それは朝鮮民族の民族性民族精神を抹殺し、日本人に同化させる政策であるが、日本政府朝鮮総督府はすでにこの時点から着々と進めており、その苛烈さがどのようなものであったかが感じとれるであろう。日本政府は韓国皇族については韓国併合によって日本の皇族に編入していたのである。これ以降の民族性抹殺政策は周知のとおりである。
さて、この「博文寺」は1932年10月26日に落成した。この時、昭和天皇は銀製の香炉とともに香華料を下賜し、日本の皇族もすべて花瓶を下賜した。
1945年日本の敗戦による、解放後、博文寺は仏教系青年・学生寮として使用されたが、壊されたのであろう。その後その場所に、迎賓館が建設され、1970年代には韓国最高級ホテル・新羅ホテルも建設された。また、南山の朝鮮神宮も取り壊され、そこには伊藤博文を暗殺した朝鮮民族の英雄として安重根の碑と資料館が建設されている。さらに、景福宮に建設した朝鮮総督府庁舎も取り除かれた。
※最近、安倍政権は「明治150年記念式典」を実施する事を発表したが、それは彼らが過去の日本の真実の姿を隠滅し、彼らにとって都合のよい事だけを取り上げ称賛し、国民に対して「明治以降の日本は素晴らしい国である」という「作り話」(歴史を書き換える歴史修正主義)を作り信じさせ、それを誇りに思わせ、彼らの意のままに従う人間に改造し、憲法を改悪し、理想とする大日本帝国を復活させようとしているという事である。「明治100年記念式典」を実施した事支持した事は過ちである。それに気づき再び過ちを繰り返してはならない。我々のルーツは「日本国憲法」である。安倍自民党の歴史認識は偏向しており、無批判に受け入れてはいけない。
この時代錯誤の安倍政権を支持翼賛する事は、安倍政権と同類同罪の否定的な評価を受け、自らの生活を破滅に導くであろう。