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憲法全面改正に手段選ばず見解も翻す歴史歪曲も。その③現憲法成立と天皇の暗躍

2025-03-26 23:40:05 | 憲法

  「大日本帝国憲法」の改正手続きにより第90回帝国議会で審議された「日本国憲法原案」は、1946年10月29日、内容は一部修正されて吉田茂内閣の下で成立した。その一部修正とは「芦田(均)修正」とも呼ばれたもので、「戦争放棄」を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という字句を追加した事をさす。(他の追加には第25条「生存権」もある。)この表現はのちに、「前項の目的(国際紛争の解決)」以外(自衛)のための戦力保持は憲法違反ではないという論拠となる。

 吉田茂は日本国憲法についてどのように考えていたのか。岸信介は『岸信介の回想』で述べているが、吉田茂は「俺も今の憲法は気に食わないけれど、あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかん」と述べたと。この言葉から、吉田茂は改憲論者であったという事がわかる。

 天皇は日本国憲法をどのように思っていたのであろうか。1975年の外国人記者団との会見では「(日本人の)戦前と戦後の(価値観は)変化があるとは思っていません」「第1条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあった(合った?)事でありますから、そういう法律的にやかましい事をいうよりも、私はいいと思っています」「今話したように、国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。その原因というものは、皇室もまた国民を赤子と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の思召しというものが、今日をなしたと私は信じています」「(戦前と戦後の役割を比較して)精神的には何らの変化もなかったと思っています」と述べている。つまり、天皇は戦前と戦後の価値観に変化はなく連続したものとして認識しており、第1条の意味は、「国民」は「無責任」の「象徴」である「天皇」を「象徴」として「統合」されているという事を意味しているという事になる。

 1945年12月17日に公布された「改正衆議院議員選挙法」について、天皇や支配層(米国もか?)の意識を知るうえで重要な点を付け加えておこう。女性参政権が付与された事はよく知られているが、植民地支配を受けていた朝鮮人、台湾人の選挙権及び被選挙権が停止されたのである。1925年の普通選挙実施以降この改正まで、日本内地に在住する外国人は、国政・地方のレベルを問わず参政権を有していた。ハングル投票も可能であったのだが。この「選挙法」に見える方針は、米国との共同作業であった憲法制定の段階でも日本側は押し通した。GHQ憲法草案には「外国人は法の平等な保護を受ける」という条文が存在したがそれを削除したのである。日本国憲法第14条には現在「法の下の平等」がうたわれているが、そこから意図的に削除したのである。この件は憲法施行の1947年5月3日の前日(5月2日)に天皇の最後の勅令として「外国人登録令」を出す事により、明確に憲法の権利保障の対象から除外するのである。「日本国籍」を有しているが「外国人」であると見なしたのである。さらに、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により、国籍選択の自由も認めず日本国籍をはく奪し、「外国人登録法」により、「指紋押捺」と「外国人登録証明書」の常時携帯を義務付けた。それ以降日本政府(自民党)の主導により日本社会は「国籍条項」に基づいて外国人に対する差別を正当化する。

 また、米軍の占領軍政下にあった「沖縄県」も「改正選挙法」の施行について日本政府は「例外扱い」とした。そのため、日本国憲法を審議した1946年の国会には沖縄県選出の議員はおらず、日本国憲法は沖縄県民を除外して成立したのである。そして、「日米安全保障条約」締結にあたっても同様に扱ったのである。

 また、「安全保障条約」締結については、締結にいたる裏側で「天皇」の暗躍があった。1947年5月3日に「日本国憲法」が施行された4か月後の1947年9月(天皇の暗躍は憲法違反であるにもかかわらず)、宮内庁御用掛の寺崎英成氏をマッカーサーの政治顧問シーボルトの下へ訪問させ、沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えさせたそれは、

「天皇は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望している。そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護を与える事になる。天皇は、そのような措置は、ロシア社会主義)の脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件を起こす事をも恐れている日本国民の間で広く賛同を得るだろう(憲法第9条により軍隊をもたないため、実は天皇制を護持しようとする天皇自身の強い希望)と思っている。さらに、沖縄(及び必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借(25年ないし50年あるいはそれ以上)という擬制に基づくべきであると考えている。この占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たない事を日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、特にソ連と中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。手続きについては、「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約(サンフランシスコ講和条約にあたる)の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の2国間条約(日米安全保障条約に結実)によるべきである。前者の方法は、押し付けられた講和という感じがあまりにも強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある」というものであった。

(2016年2月11日投稿)

※昭和天皇は戦後の日米両政府の望むべき姿について自ら構想し働きかけ、利害の一致した米国政府とともに、「天皇制護持(象徴天皇制)と軍隊放棄(憲法第9条)」と「日米安全保障条約締結」と「沖縄を犠牲にした米軍事基地化」を実現していったのである。昭和天皇は優しく親しみ安く善人そうな見かけとは異なり、本質は恐るべき冷酷非情で狡猾無比の策士「人非人」であった。現天皇も推して知るべしである。天皇家とはそういう人間の集団なのである。民主主義を大切にする国民はこのような「憲法に規定されない」特殊な価値観を持つ存在をこのままにして置かず、普通の人間の生活ができるようにすべきである。この事によって国民の思考や判断も「思考停止」状態に陥る事無く、すっきりとした科学的論理的なものとなり、曖昧模糊とした日本社会の価値観の混乱も解消されるはずである。

(2016年2月11日投稿)

 

 

 


ソ連への和平仲介の依頼工作:近衛文麿特使携行の和平条件要綱に沖縄県民の意志を無視し切り捨て

2025-03-26 23:13:49 | 沖縄

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、敗戦前から和平条件として沖縄県を日本領土から切り捨てる方針を決定していた。それは沖縄県を戦争終結の交渉材料としていたという事である。結果的には目的を達成できなかったが。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、沖縄戦の敗北が明確となり、またドイツが無条件降伏(5月8日)すると、重臣グループの木戸、岡田、東郷、米内は当時の鈴木貫太郎首相を動かし、5月11日から14日にかけて停戦問題を議題とし最高戦争指導会議(首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長)を開かせた。阿南陸相と梅津参謀総長は本土決戦論をとなえ、米内海相と東郷外相らは和平促進を主張。とりあえず、「ソ仲介対米英和平」を元外相広田弘毅を介して駐日ソヴィエト大使と打診交渉を行う事を決定した。しかし、失敗した。

 しかし、6月8日、木戸はソヴィエトの仲介による和平交渉をあきらめず、具体化するための試案を起草し、6月18日の最高戦争指導会議に提案し、三つの方針を決議させた。それは、①日ソ中立条約の延長(ソ連は4月8日にすでに不延長通告)、②ソヴィエトの好意的中立の取り付け、③ソヴィエトに戦争終結の斡旋を依頼する、である。

 6月22日には最高戦争指導会議で昭和天皇が対ソ工作を指示した。

 7月10日には最高戦争指導会議で近衛元首相を天皇の特使としてソ連派遣を決定した。

 7月12日、天皇が近衛を特使に下命し、東郷外相はモスクワの佐藤尚武大使に対して、無条件降伏方式の緩和によって戦争終結が可能となる事を示唆した申し入れをモロトフソ連外相に行う事と近衛が天皇親書を持ち訪ソする事のソ連側の了解を求めるよう訓電した。

 この近衛特使派遣の際携行する予定で作成されたものが「和平条件の要綱」であった。この作成には近衛と酒井中将が練り上げ直接天皇の御璽をいただくというものであったという。内容は、一、方針には、聖慮を奉戴し、なし得る限り速やかに戦争を終結し、以ってわが国民は勿論世界人類全般を、迅速に戦禍より救出し、御仁慈の精神を内外に徹底せしむる事に全力を傾倒す、とある。また、二、条件としては、まず、国体の護持は絶対にして一歩も譲らざる事とし、国土については、止むを得ざれば固有の領土を以って満足すとし、固有領土の解釈については、沖縄、小笠原、樺太を捨て千島は南半部を保有する程度とする事、として沖縄県を捨て、と明記していた」(『近衛文麿』近衛文麿伝記編纂所)。

 この事はつまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「固有の領土(本土)」の安全や利益を守る事だけを重要事とし、そのためには必要とあればいつでも沖縄県を切り離して(トカゲの尻尾切り)、政治経済上利用できる材料として沖縄県を扱い犠牲とする事を厭わなかったという事である。日本本土に対しての外部からの脅威や圧力の緩衝地帯として位置づけられていたという事であり、沖縄県民は本土の日本人とは平等待遇ではなくそれ以下の差別的待遇を受けていた事を示している。そして、その位置づけは敗戦後の昭和天皇の意志と吉田茂日本政府が日米安全保障条約を締結し米国政府の施政権下に置くという選択によって、その後も継続したのである。

 さて話をもどして、モスクワの佐藤大使は訓電の内容を7月13日にソ連側に申し入れた。しかし、モロトフ外相はドイツのベルリンへ出発する(ポツダム会談7月17日~8月2日出席)ために多忙という理由で応じなかった。

 そして、7月18日、ソ連側から佐藤大使に、「近衛が何をしに来るのか分からないので回答できない」という返事が伝えられた。

 これに対し、7月25日、佐藤大使が、「近衛の使命は戦争終結のためソ連政府の尽力斡旋を同政府に依頼する事にある」と改めて申し入れたが、その申し入れの交渉が停滞した。そして、

 7月26日、ポツダム宣言が発せられたのである。

(2016年6月3日投稿)

 


琉球処分(沖縄県設置)強行後の領有問題(沖縄県民の意志を無視した清国との分島交渉)

2025-03-26 22:56:33 | 沖縄

 神聖天皇主権大日本帝国政府が、琉球藩を廃止し沖縄県を設置(琉球処分)したのち、琉球は大日本帝国と清国の両政府にどう対応したのか?清国と大日本帝国の両政府は琉球(沖縄県)の領有についてどう対応したのか?清国はグラント前米大統領に「琉球領有問題」の調停を依頼した。

【経過】

1871年、清国と大日本帝国の両政府は対等の立場で「日清修好条規」を締結。条約は大日本帝国と清国の両政府が西洋に対抗するという「日清提携路線」が基調。清国政府は「日清提携路線」という立場を継続したが、大日本帝国政府は「小西欧主義」へ路線変更し清国政府を裏切る。

○清国政府はこの意外な展開に、大日本帝国政府に対し「琉球処分」の撤回を要請。1879年、清国へ来遊してきたグラント前米大統領に「琉球領有問題」の調停を依頼。

 〈グラント調停案(分島改約案)〉

 ➀沖縄を2分し、先島諸島(八重山列島、宮古列島)を清国に譲渡。➁日清修好条規の改正(日本に一方的に西欧並みの条約上の権利=最恵国待遇を認める)。

 〈李鴻章清国案〉

 沖縄を3分し、先島諸島を清国政府、奄美諸島を大日本帝国政府に、沖縄本島の独立

○1880年、大日本帝国政府は、グラントの調停に応え、清国政府側に「分島改約案」を提案。

 「分島」……先島諸島清国政府に割譲する事。

 「改約」……「分島」の代償として「日清修好条規」を改正し、大日本帝国政府に清国内地での欧米並みの通商権(最恵国待遇)を一方的に与えるという条項を追加する。

○1880年10月、日清両国政府は「グラント調停案」に同意。しかし、清国政府は調印を引き延ばした。理由は密使幸地朝常(脱清人)らが李鴻章(清国政府総理)を訪ね「琉球分島案」に同意しない事と、琉球王国完全復活を泣訴したため。北京の久米村出身の林世功は「祖国救援」嘆願書を書き、同年11月20日自殺李鴻章は「最恵国待遇条項」の追加は、不利と考え調印回避し、事実上「分島改約案」は不成立

脱清人らは琉球再興の訴えを、この後も彼らが清国で死ぬまで続けた。

○1895年4月17日、清国政府から朝鮮国の支配権を奪うために大日本帝国政府が仕掛けた日清戦争後の下関条約で「琉球」大日本帝国政府の領有を確定させた。その後、日本語教育を徹底し、本土との同化を進めていった。

(2023年12月7日投稿)