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大正天皇死去と戦前「社団法人日本放送協会」のラジオ放送

2025-03-22 20:33:26 | メディア

 大正天皇(明治天皇の第3皇子、生母は柳原愛子。明治天皇の皇后は一条美子)死去(墓所は東京都八王子市長房町)したのは1926年12月25日である。同年8月には社団法人「日本放送協会」が設立されていた。その際の「ラジオ放送」はいかなる様相であったのか。朝日新聞などメディアは、伝えていないので以下に紹介しよう。

 当時、テレビ放送(1953年2月放送開始)はなく、週刊誌も、『週刊朝日』と『サンデー毎日』の2誌しかなかった。ラジオも「社団法人日本放送協会」(現NHK)1社しかなく、それも東京、名古屋、大阪の3局で放送しているだけであった。全世帯数の3%ほどの普及率であった。

 大正天皇が重体になった12月15日から、ラジオは放送時間を延長して、宮内省発表の病状を伝え、死去の事も、東京放送局は午前2時54分に、名古屋と大阪の放送局は3時に臨時ニュースで放送したが、その後はその年末まで、「時報」「ニュース」「天気予報」だけで、その他の番組はいっさい中止した。大晦日に、清水澄法学博士の講演「践祚の話」「と、「大喪の心得に就いて」を放送したのが、唯一の例外であった。

 つまりラジオは、「特別編成」の番組を放送し続けるのではなく、「何も放送しない」という形で、「哀悼の意」を表したという事である。

 ちなみに、「社団法人日本放送協会」は、東京、名古屋、大阪の3局を結ぶ中継回線を、昭和天皇即位」の儀式「大礼」を実施する1928年11月5日に完成し、6日から27日までの22日間にわたり、「大礼奉祝」番組を全国的に中継放送した。

※「社団法人日本放送協会」による、「学校放送」の開始は十五年戦争の開始と同じくし、「海外放送」は日中戦争開始と同じくし、7方向16言語で世界的に稀な大規模放送実施の開始は太平洋戦争開始と同じくする。

※「社団法人日本放送協会」は「ラジオ放送」について、「ラジオこそは国策の徹底、世論の指導、国民の戦意昂揚、それに海外への情報宣伝につとめ、大いにその力を発揮した」と。

※「社団法人日本放送協会」は「学校放送(国民学校放送)」(『放送の五十年』は、「学校放送」について全く触れていない)では、「皇基二千五百九十八年の新春を迎え、恭しく聖寿の無窮と皇室の弥栄とを寿ぎ奉り、併せて出征皇軍将士の御健闘を謝し、銃後教育家諸彦の御健勝を祝す。思うに昨夏(1937年7月)北支(中華民国北京盧溝橋)に端を発した支那事変(日中全面戦争)は、忠勇なる皇軍将士の果敢なる行動により偉大なる戦果を収め、昨冬(1937年12月)遂に敵の首都南京を陥れるに至った事は偏に上御一人の御稜威の致す処であるが、又皇軍将士一死報国の大精神と、銃後国民の熱烈なる愛国心による処大で誠に感激に堪えない情である。然るに頑冥なる(蒋介石)国民政府並びに支那(中華民国)軍閥は今に反省の色なく暴慢にも長期抵抗を揚言しているのである」と伝えている。

※「社団法人日本放送協会」の「海外放送」は、徹底して尊大な態度と挑発的揶揄嘲笑の内容あった。「米国民は今こそユダヤに尻押せられて、自分一個の野望を充たさんとしつつあるルーズヴェルト政権を葬るべきである。而して蘭印、豪州、新西蘭(ニュージーランド)、印度の各国民は、ルーズヴェルトやチャーチル、或は蒋介石等の没落者の巧言に乗ぜられて無益の犠牲を払うのを止めるべきである。そして日本と協力して、東亜永遠の平和を建設しようではないか。そこには洋々たる楽土があり、第二の香港、第二のマニラ、第二のシンガポールの如き惨事は再びあり得ないであろう」と伝えている。

※「海外放送」の「インド」向けでは、「日本道義の国であり、すべて人道主義者である日本人でも、ついにをとって起たねばならぬ現実を訴える」と伝えている。

戦後の日本放送協会(NHK)は、神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略戦争遂行意志の洗脳御用機関としての役割を果たした事により国内外に対し取り返しのつかない多大な「戦争犯罪行為」を導いた事について自己批判し公的な謝罪表明をしていない。その事が、戦後今日まで再び同じ道を歩むのではないかというおそれを感じさせてきた。

(2025年3月22日投稿)