* 身近な人の死に接すると考えずにすませる事は出来ない、逃げられない問い。宗教的&倫理的な正解を求める事さえ善ではない問いが『尊厳ある死とは?』だ。
繰り返すまでも無く、単純に言えば「尊厳死」と「安楽死」には、<延命謝絶死>と<公認自殺>の違いがある。共通するのは【死の自己決定権の行使】だ。
自分の命は超越者に貰ったものではなく、大自然の一部。「だから、周囲に迷惑をかけてでも成り行き任せで良いのか?」の疑問を消せない人が大多数ではないか?
私はその一人。下に抜粋した井上氏の言葉を読み、答えの無い問に向かう自分を振り返った。
安楽死は正解のない哲学: 井上 英介(毎日新聞/徳島支局長・大阪本社元編集局次長)
安楽死を認めるスイスでは希望者が所定の団体に登録して審査を受け、医師が出した致死薬を自ら飲むか、体に入れる点滴のバルブを開ける。一昨年、静岡県熱海市の自宅で95歳で亡くなった脚本家の橋田寿賀子さんは晩年、スイス行きを熱望していた。オランダは医師の致死薬投与という踏み込んだ安楽死を認めるが、ホームドクター制度のもと患者との長年の信頼関係を前提としている。
西日本のある地方都市で高齢の認知症患者を長年診ている精神科医(59)は安楽死を肯定し「これは医学ではなく正解のない哲学の問題です」と匿名で語った。
日本では安楽死への反対論が根強い。論拠の一つが「滑り坂論法」だ。ある条件でひとたび認めれば凍った坂道を滑るように条件がどんどん緩和され、難病患者や障害者、貧しい高齢者へ拡大していく、というもの。確かに、国がやるべき福祉をおろそかにしたまま安楽死を制度化すれば、社会的弱者が安易に死へと追い込まれかねない。障害者をガス室へ送ったナチス・ドイツの例を引いて安楽死を批判する意見もある。
安楽死を認める国でも、認知症には他の病気にはない難しさがあるようだ。認める際に「本人の明確な意思」を要件とするためだ。オランダで16年、女性を安楽死させた医師が刑事訴追される事件があった。女性は自分の家系に多い認知症を恐れ、元気なうちに安楽死宣言書に署名し、のちに発症。症状が進んだ時点で医師は宣言に従い、致死薬を注射した。その際に女性は嫌がるそぶりを見せ、家族が体を押さえた状態で実行したとされる(最高裁で無罪確定)。
安楽死には危うい面がある。さりとて認知症で見当識を失っていき、自分が何者かもわからなくなるのはつらい。死ぬことまで含めた自己決定は許されないのか……。
★ そんなモヤモヤを、徳島県で緩和ケアに取り組む寺嶋吉保医師にぶつけた。日本尊厳死協会の県代表で安楽死賛成派と一線を画す寺嶋さんは、オランダの事件(上記)を
引き、逆に私に問うた。「署名した元気な時と、注射を嫌がった時のどちらが本当の自分でしょうね」
認知症だったという母の話もしてくれた。失語症を併発していたが、孫を見せると何とも言えないうれしそうな表情を見せたという。
「人は揺れ動く。認知症の安楽死を事前に望んでいても、のちにおむつをしてでも孫が見たいと思うようになるかもしれませんよ」。これにはつくづく考え込んでしまった。
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井上氏は「つくづく考え込んでしまった」が、貴方はどうか? 自分も他人も識別できない認知症状態になってからでも『本当の自分』は有りえるのか? 他者がそれを判断?
『おむつをしてでも孫が見たいと思う』のは見当識が有る間で、自分も他人も識別できない状態で幼児に微笑むのは、原始的な生物本能でしかないのでは?
・・・迷路を抜け出せないまま、我々はこの世を去るだけだ。。。。。
繰り返すまでも無く、単純に言えば「尊厳死」と「安楽死」には、<延命謝絶死>と<公認自殺>の違いがある。共通するのは【死の自己決定権の行使】だ。
自分の命は超越者に貰ったものではなく、大自然の一部。「だから、周囲に迷惑をかけてでも成り行き任せで良いのか?」の疑問を消せない人が大多数ではないか?
私はその一人。下に抜粋した井上氏の言葉を読み、答えの無い問に向かう自分を振り返った。
安楽死は正解のない哲学: 井上 英介(毎日新聞/徳島支局長・大阪本社元編集局次長)
安楽死を認めるスイスでは希望者が所定の団体に登録して審査を受け、医師が出した致死薬を自ら飲むか、体に入れる点滴のバルブを開ける。一昨年、静岡県熱海市の自宅で95歳で亡くなった脚本家の橋田寿賀子さんは晩年、スイス行きを熱望していた。オランダは医師の致死薬投与という踏み込んだ安楽死を認めるが、ホームドクター制度のもと患者との長年の信頼関係を前提としている。
西日本のある地方都市で高齢の認知症患者を長年診ている精神科医(59)は安楽死を肯定し「これは医学ではなく正解のない哲学の問題です」と匿名で語った。
日本では安楽死への反対論が根強い。論拠の一つが「滑り坂論法」だ。ある条件でひとたび認めれば凍った坂道を滑るように条件がどんどん緩和され、難病患者や障害者、貧しい高齢者へ拡大していく、というもの。確かに、国がやるべき福祉をおろそかにしたまま安楽死を制度化すれば、社会的弱者が安易に死へと追い込まれかねない。障害者をガス室へ送ったナチス・ドイツの例を引いて安楽死を批判する意見もある。
安楽死を認める国でも、認知症には他の病気にはない難しさがあるようだ。認める際に「本人の明確な意思」を要件とするためだ。オランダで16年、女性を安楽死させた医師が刑事訴追される事件があった。女性は自分の家系に多い認知症を恐れ、元気なうちに安楽死宣言書に署名し、のちに発症。症状が進んだ時点で医師は宣言に従い、致死薬を注射した。その際に女性は嫌がるそぶりを見せ、家族が体を押さえた状態で実行したとされる(最高裁で無罪確定)。
安楽死には危うい面がある。さりとて認知症で見当識を失っていき、自分が何者かもわからなくなるのはつらい。死ぬことまで含めた自己決定は許されないのか……。
★ そんなモヤモヤを、徳島県で緩和ケアに取り組む寺嶋吉保医師にぶつけた。日本尊厳死協会の県代表で安楽死賛成派と一線を画す寺嶋さんは、オランダの事件(上記)を
引き、逆に私に問うた。「署名した元気な時と、注射を嫌がった時のどちらが本当の自分でしょうね」
認知症だったという母の話もしてくれた。失語症を併発していたが、孫を見せると何とも言えないうれしそうな表情を見せたという。
「人は揺れ動く。認知症の安楽死を事前に望んでいても、のちにおむつをしてでも孫が見たいと思うようになるかもしれませんよ」。これにはつくづく考え込んでしまった。
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井上氏は「つくづく考え込んでしまった」が、貴方はどうか? 自分も他人も識別できない認知症状態になってからでも『本当の自分』は有りえるのか? 他者がそれを判断?
『おむつをしてでも孫が見たいと思う』のは見当識が有る間で、自分も他人も識別できない状態で幼児に微笑むのは、原始的な生物本能でしかないのでは?
・・・迷路を抜け出せないまま、我々はこの世を去るだけだ。。。。。
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