静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

 ◆ 議論を避ける日本人  其のせいで 毎日 外国へ払い続けているコストに あなたは気づいているか?

2022-12-18 14:00:56 | 時評
★「和」を乱さない社会 議論を避ける日本人 <長谷川眞理子・総合研究大学院大学長> 毎日新聞 2022/12/11 東京朝刊  要旨転載
   長谷川氏の論考は年度か本コラムで私も述べてきた内容だが、毎日の購読者でない方には残念ながら読めない「有料記事」なので、大事な部分を転載する。
   貴方が現役で働いているなら、身の周りの組織を見渡して欲しい。あなたの子供が学齢年齢なら、教室でどうなのか?想像してみて欲しい。

(1)私(=長谷川氏)の青春時代は、学生運動が衰退する直前と言えるだろうか。あのころは随分といろいろなことを議論したものだ。私より5歳も下の年代になると、もはや
 あのころの熱気はないのだが、それでも、いろいろなことを議論してはいる。それに比べると、この数十年の変化ははなはだしい。若手の研究者たちや大学院生たちを家に
 招いてパーティーをしても、彼らどうしの間ではほとんど何も議論しない。今の社会に満足しているのではないにもかかわらず、そのような意見表明をしない。

(2)いつのころからか、日本人は議論をしなくなった。そして、そのような社会的風潮とともに、「議論」ということは、誰かのやり方に「難癖をつける」ことと同じだと
 思われるようになったのではないか。そして、それは、和を乱す、避けるべきこととなったのである。然し、そもそも議論とは、他人のやり方に難癖をつけることではない。
  議論とは、考え方も立場も異なる人たちが、ある現状に対するそれぞれの意見を表明し、さまざまな対立を越え、社会全体として、どんな解決に落ち着くのかを探る手段で
 ある。それは、文化の一つの重要な要素であろうが、それが弱くなっていると危惧している。

*まともに議論を進めるには、いくつかの作法がある。まず、建設的な議論をするには、論点をはっきりさせ、枝葉を落として論理的に話さねばならない。そして、相手と
 異なる意見を表明するならば、それはなぜなのかを互いに明らかにせねばならない。そうして、妥協点、合意点を探るのである。
  次に、このような論点における議論を、感情的対立と分離せねばならない。あんなことを言うやつは許せないというように、立場の違いが感情的対立に発展することは
 ままあるのだが、そうしてはいけないのだ。これは難しいことではあるが、誰でも自分の人生は大切であり、社会の一員として一生懸命働いているのは同じなのだ。
 そこに共感を持って、相手を完全なる「敵」とは見なさない余裕が必要なのである。

★では、日本はそのような教育をし、そのような経験を積むような社会を作っているだろうか? 私は怪しいと思う。建設的で意味のある議論を行っていくためには、まずは、
 一人一人の個人が自分の意見を持たねばならない。自分の意見といっても、要するに「自分は何をしたいか、何があればうれしいか」ということの表明なのだ。

 最近は、初等中等教育でも、大学でも、ディベートをするという機会が設けられるようになった。しかし、これが学校という特殊な環境のみで行われるものであり、
 社会に出れば、みんな暗黙の了解のもとに意見を言わないのが一番だ、という社会ではいけないのである。 ← あなたの属す組織ではどうか?
 「校則がこうだから、他の立場の人間がこうすべきだと考えているから、こうしなさい」ではなくて「あなたは何がしたいの、何があれば満足するの?」と聞かねばならない
 のだ。最近は、初等中等教育でも、大学でも、ディベートをするという機会が設けられるようになった。しかし、これが学校という特殊な環境のみで行われるものであり、
 社会に出れば、みんな暗黙の了解のもとに意見を言わないのが一番だ、という社会ではいけないのである。

◎ 昨今、ダイバーシティー(多様性)とインクルージョン(包摂)が大事だということがよく言われるようになった。しかし、それに伴うコストを日本人はどれだけ認識して
  いるのだろう。本当にダイバーシティーを認め、インクルージョンを実現する社会を作るためには、個人の考えどうしの相当なぶつかり合いが必須である。そのコストを
  負うことのできる次世代を作るのが喫緊の課題だ。

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 ギリシャに始まる西洋文明圏は「言葉ありき」の世界だが、インド・漢民族文明に比べても、日本民族は言葉を軽んじており、西洋とは真反対に位置してきた。
言葉で定義し、議論することを不得意どころか、嫌ってしまう文化を作り上げている。≪あいまいの美≫が文芸にとどまらず日常生活をも律してしまうので、その雰囲気に
そぐわない事は全て排除しにかかる。  ←【理屈っぽい】此の悪口が向けられる人を貴方は避けていないか? 此の悪口そのものが(議論からの逃避)である。


最後で長谷川氏が述べている『ダイバーシティー(多様性)とインクルージョン(包摂)に伴うコスト』の中身を日本人は具体的に考えたことがあるか?恐らくない。
だが、実際は「言葉で突き詰める文化圏」との国際競争に毎日敗れている、それがコストであり、もう何年も前から我々は払い続けているのだ! 気づかないだけで。
コメント
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