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静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【言葉を大事にする vs ちゃんと考える】 こらえ性

2014-07-16 22:57:30 | トーク・ネットTalk Net
 20世紀後半から拍車の掛かった科学技術の発達で世界は時間と空間が圧縮され、ひとつひとつの行動に費やす時間/結果の現れるまでの時間が短くなり、我々は精神行動に元来あったリズムを外れ、その活動テンポをせかされるようになった。そして、いつの間にか”急かされている感覚 ”は残りながらも抵抗しなくなり、流されてゆく。流されてゆくうちモノを考える時間は短くなり、或いは失い、考える手段である言葉をおろそかにしていく羽目に陥る。
 留まることを知らない近年の現象、つまり言葉を端折り・縮め、語呂・耳障りを優先する語法が「かっこいい」の一言できちんとした物言いを押しのけ、<ラぬき言葉>のように文法すら無視して憚らないのは、この<考えることの端折り>から来ている。
 何語でも言葉は音と意味の結びつきが一体に保たれて成り立つものだが、音/リズムの心地よさが優先され、意味や文法の約束/文化伝統/慣習を端折り無視し始めた瞬間、人は考える行為の落ち着き/冷静さまで失い、面倒くさくなる。そこで「考える面倒くささ」に耐える力が弱い/養われていない人は言葉を大事にしない傾向がさらに強くなる。従い、言葉を大事にしない人ほど「深く考えなくなる」悪循環に陥るというわけだ。 
 
 ここで私が注意を喚起したいのは(脱法ハーブ吸引による殺人)(死刑になりたいから犯す理由なき無差別殺人)(ストーカー殺人)などは、特定の個人との対立に発する<憾み/憎しみ/衝動的怒り>が犯行動機ではなく、全て「考えることの放棄」に真因を集約できるということである。これら事件の容疑者は、自分の言葉で周囲のナマ身の人間と落ち着いた言語関係が築けないタイプに見受けられ、どこかの時点で考えることを止めてしまったのではないか、と推察されるからだ。
 言葉をおろそかに扱い「考えることを放棄する」人は、犯罪を犯さないまでも、人生を送るうえでの<落ち着き><こらえ性>を失う。そのような人が増えると、劇場型演出と浮薄なムードに流され空疎な情緒に酔う、うわついた国民が増産されるばかりだ。  

 室町時代このかた、日本人は識字率の高さで基礎教養が整っていると自惚れてきた。だが、本当の教養水準とは言葉を大切にし、考えることを尊ぶ”こらえ性 ”がどれほど国民に備わっているか、ではなかろうか?
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書評: # 20-2  裏がえしの自伝 <梅棹 忠夫>  中公文庫 

2014-07-16 11:36:59 | 書評
 承前;  <なれなかった分野>とは、(大工)(極地探検家)(芸術家)(映画製作者)(スポーツマン)(プレイボーイ)。昨日紹介した(大工)以外で私にとり面白いのは(極地探検家)と(映画製作者)。この二つは梅棹氏の本業に関連が深く、日本の山岳・砂漠・極地探検の歴史でもある。
 梅棹氏の学術調査活動は戦前の内モンゴル草原に始まり、カラコルム踏破、アフリカでのフィールドワークと幅広い。功績は繰り返すまでもないが、興味深いのは北極も南極も氏自身は探検に参加する機会を持たなかったことだ。だが、樺太での犬そり訓練の調査報告書(戦前)や高山での対氷雪技術知識などが後輩たちの極地探検に役立てられており、それは植村直己や本多勝一などを支えたのである。植村に直接指導はしていないが植村はエスキモーでの耐寒訓練や犬そり操作に梅棹氏の経験を参考にしているし、本多は直に梅棹の教えを請うている。また、氏のアフリカフィールドワークでは今西錦司氏の、極地探検には西堀英三郎氏の影響を強く受けたと述べており、京大学派の絢爛たる伝統を馥郁とさせる。

 映画製作について述べている部分で印象深いのは、未踏の荒地で16/8mmフィルムを廻すカメラマンへの敬服から、膨大な編集作業を通した世界構築に強く惹かれつつも学究に傾く自分を弁えた点だ。これは、南極越冬隊長の誘いを受け、迷いながらも砂漠・草原でのフィールドワークに本分を見出す決断とも通じる。(大工)の中でも述べているように、氏は手で触り造る感覚を離れられない行動人だ。生まれながらの行動力、これが<なれなかった自分>においてさえ全篇を貫いている。 改めて、すごい人だった。    《 おわり 》
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いま靖国から # 30&31  < 大分県宇佐市にとり 特攻とは? >

2014-07-16 10:41:48 | トーク・ネットTalk Net
 昨日・本日は続けて、宇佐市で地道に戦争と特攻を捉える地元の二人を取り上げている。一人は、大分県宇佐市のまちづくり市民グループ「豊の国宇佐市塾」塾頭、平田崇英(そうえい)住職(65)。もう一人は、今戸公徳さん(89)、昨年も「宇佐海軍航空隊始末記」文庫版を刊行した現役の郷土作家である。
 平田さんは<京都の大学にいた1970年ごろ、ベトナム反戦デモや広島・沖縄問題が流行だった。学友から非難されても、下宿から出なかった。デモで世の中が変わるとは思えなかったからだ。寺を継いで、郷里の戦争の歴史と四半世紀も向き合ってきたのは、声高な反戦平和運動に対する自分なりの回答でもある>。<28年目の市塾は「出入り自由・政治党派に偏しない」がモットー。参加者のべ100人、通常15~30人。「続けるには何より中立性を心掛けた。批判は右からの方が強かったなあ」証言集、講演会、戦跡遺構の保存、記念碑設置、戦跡巡りウオーキング大会、戦没者慰霊追悼式典。まちの景観に近代戦争史を織り込み、生活の中で学び伝えるしくみを作ってきた>。

 今戸さんは<全国約4万社ある八幡様の総本宮・宇佐神宮にお神酒を納める家業を継ぐため1963年に帰郷すると、多感な10代に憧れた「宇佐空」は跡形もない。人々も忘れたがっていた。一念発起し、毎日新聞大分版で「僕の町も戦場だった」の連載を始める。当時、話題だった旧ソ連の映画監督タルコフスキーの第1作からタイトルを借りた。以来半世紀>。
 二人に共通するのは<郷里の歴史の事実と地道に正直に向き合う。国家とか精神とか正義とか大言壮語しない>。

 宇佐空は真珠湾攻撃に出た空母が凱旋(がいせん)後、3年余で特攻基地と化し、空襲で壊滅した。<「一つの戦争遺跡に正と負の遺産が含まれる。特攻はあくまでも一部で、負の部分。なぜそこへ追い詰められたかを示し、伝えたい」。平田さんは靖国神社付属博物館「遊就館」や知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)の展示には、情が勝ちすぎると懐疑的だ>。
 <「事実を伝えるには控えめに。答えを言うのは行き過ぎ。人が体調を言い出すのは不健康な証拠。愛国心は言われなくても皆にある」

 <「国のために亡くなった方々に哀悼の誠をささげるのは当然」。なのに戦後約20年、私たちは特攻死者を忘れたがった。冷戦後25年、特攻ブームでも特攻死の意味を忘れかけている。思い出すのは名もなき一人の営為から。公や組織が乗り出すのは、町おこしや観光振興や町村合併の事情で、慰霊は付けたしだった> <では、戦争死者全体についてはどうだろう。靖国問題とは、本当は何の問題なのだろう?>
 特攻基地を取材してきた伊藤記者の言葉は、我々ひとりひとりに投げかけられている。
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