20世紀後半から拍車の掛かった科学技術の発達で世界は時間と空間が圧縮され、ひとつひとつの行動に費やす時間/結果の現れるまでの時間が短くなり、我々は精神行動に元来あったリズムを外れ、その活動テンポをせかされるようになった。そして、いつの間にか”急かされている感覚 ”は残りながらも抵抗しなくなり、流されてゆく。流されてゆくうちモノを考える時間は短くなり、或いは失い、考える手段である言葉をおろそかにしていく羽目に陥る。
留まることを知らない近年の現象、つまり言葉を端折り・縮め、語呂・耳障りを優先する語法が「かっこいい」の一言できちんとした物言いを押しのけ、<ラぬき言葉>のように文法すら無視して憚らないのは、この<考えることの端折り>から来ている。
何語でも言葉は音と意味の結びつきが一体に保たれて成り立つものだが、音/リズムの心地よさが優先され、意味や文法の約束/文化伝統/慣習を端折り無視し始めた瞬間、人は考える行為の落ち着き/冷静さまで失い、面倒くさくなる。そこで「考える面倒くささ」に耐える力が弱い/養われていない人は言葉を大事にしない傾向がさらに強くなる。従い、言葉を大事にしない人ほど「深く考えなくなる」悪循環に陥るというわけだ。
ここで私が注意を喚起したいのは(脱法ハーブ吸引による殺人)(死刑になりたいから犯す理由なき無差別殺人)(ストーカー殺人)などは、特定の個人との対立に発する<憾み/憎しみ/衝動的怒り>が犯行動機ではなく、全て「考えることの放棄」に真因を集約できるということである。これら事件の容疑者は、自分の言葉で周囲のナマ身の人間と落ち着いた言語関係が築けないタイプに見受けられ、どこかの時点で考えることを止めてしまったのではないか、と推察されるからだ。
言葉をおろそかに扱い「考えることを放棄する」人は、犯罪を犯さないまでも、人生を送るうえでの<落ち着き><こらえ性>を失う。そのような人が増えると、劇場型演出と浮薄なムードに流され空疎な情緒に酔う、うわついた国民が増産されるばかりだ。
室町時代このかた、日本人は識字率の高さで基礎教養が整っていると自惚れてきた。だが、本当の教養水準とは言葉を大切にし、考えることを尊ぶ”こらえ性 ”がどれほど国民に備わっているか、ではなかろうか?
留まることを知らない近年の現象、つまり言葉を端折り・縮め、語呂・耳障りを優先する語法が「かっこいい」の一言できちんとした物言いを押しのけ、<ラぬき言葉>のように文法すら無視して憚らないのは、この<考えることの端折り>から来ている。
何語でも言葉は音と意味の結びつきが一体に保たれて成り立つものだが、音/リズムの心地よさが優先され、意味や文法の約束/文化伝統/慣習を端折り無視し始めた瞬間、人は考える行為の落ち着き/冷静さまで失い、面倒くさくなる。そこで「考える面倒くささ」に耐える力が弱い/養われていない人は言葉を大事にしない傾向がさらに強くなる。従い、言葉を大事にしない人ほど「深く考えなくなる」悪循環に陥るというわけだ。
ここで私が注意を喚起したいのは(脱法ハーブ吸引による殺人)(死刑になりたいから犯す理由なき無差別殺人)(ストーカー殺人)などは、特定の個人との対立に発する<憾み/憎しみ/衝動的怒り>が犯行動機ではなく、全て「考えることの放棄」に真因を集約できるということである。これら事件の容疑者は、自分の言葉で周囲のナマ身の人間と落ち着いた言語関係が築けないタイプに見受けられ、どこかの時点で考えることを止めてしまったのではないか、と推察されるからだ。
言葉をおろそかに扱い「考えることを放棄する」人は、犯罪を犯さないまでも、人生を送るうえでの<落ち着き><こらえ性>を失う。そのような人が増えると、劇場型演出と浮薄なムードに流され空疎な情緒に酔う、うわついた国民が増産されるばかりだ。
室町時代このかた、日本人は識字率の高さで基礎教養が整っていると自惚れてきた。だが、本当の教養水準とは言葉を大切にし、考えることを尊ぶ”こらえ性 ”がどれほど国民に備わっているか、ではなかろうか?