(日記代わりのブログなので書かせてもらいます)
おめでとう! 健太、麻美さん
明日、2018年9月15日、次男の健太の結婚式です。
親として経験する、息子の初めての結婚式です。別に心の準備はいらないのですが、新郎の父親としてどんな顔で式に出席したらいいだろうかなど、今ごろになって少しドキドキしています。
数か月前まではまだ先と思っていて、気楽に考えていました。出席者もかなり多いようなので、ダンスでも踊ってやろうか、三男康平のギターで歌おうかなどと冗談を言っていましたが、明日となると緊張してきました。どうしよう・・・・・・・・・
健太は小学校、中学校、高校、大学すべて母親と同じで、さらに教職という仕事も同じです。顔も母親に似ていますが、性格は似ていません。しっかりしています(かみさんに怒られるなあ)。
健太は3人兄弟の次男。4歳上の兄雄一郎はおもしろく、健太をいじめたりしません。世間の親が「お兄ちゃんだから我慢しなさい」という場面を見たり聞いたりしますが、私は雄一郎にそんなことを言った記憶がありません。いつも兄は健太に調子をあわせてくれました。そのせいか、健太は兄がやることを何でもやりたがりました。
3歳ぐらいのとき、兄の耳鼻科通いによくついてきて、兄が一人で座って治療されているのを見ていた健太は、自分が中耳炎になったときです。私が健太を抱いて椅子に座り、治療を受けようとしました。鼓膜の切開もあるので、痛がって暴れるのを抑えておくためです。すると、健太が「一人で、一人で」と大声で叫びながら暴れだし、治療ができなくなりました。よくよく聞いてみると「一人で座って耳を診てもらう」とのこと。「ためしに一人で座らせてみたら」と耳鼻科の先生から言われ、一人で座らせるとすぐにおとなしくなり、じっと我慢して泣くこともなく治療を受けました。案の定、鼓膜切開はありましたが、一瞬、電気が走ったようにぴくっと動いたものの、3歳の健太は耐えました(目からは涙がポロリ)。痛くて後悔したはずですが、耐えました。看護師さんたちにも褒められて、勝ち誇った顔でにっこり。兄と同じだぞ、と言っているようでした。
ただ、兄が優しいのにつけこんで、調子に乗ると兄にも偉そうなふるまいをすることがありました。そのため「兄弟では兄が一番偉く、健太と康平は兄の言うことをしっかり聞くこと」という我が家のルールを決めたこともあります。健太は、そのルールをしっかりと守ってくれたと思います。
学校でもまじめで、先生にも一目置かれていました。近所の人や学校の父母にも人気があり、「一家に一人、健太くん」と言われるほど、何でも気が付く便利な子どもで有名でした。
そんなしっかりものの健太も、生まれてすぐ手術をした三男康平が長く入院していたときにはご飯が食べられなくなったり、康平が腸閉塞で入院したときには学校へもいけなくなったりしました。とても繊細な心をもっています。
これも3歳のときです。私と長男と健太の3人で、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」を吹田のメイシアターに見に行ったときです。「火垂るの墓」が始まってすぐ怖くなり、私に抱き着いて見られなくなりました。結局,外で映画が終わるまで待ったことがあります(兄は悲惨な場面も一人で必死に見続けていました)。小学校の低学年までは、戦争=恐ろしいこと、というイメージがインプットされ、テレビや写真で戦争に関係ある内容が紹介されると、異常に怖がりました。
また、同じころ初めて新潟のスキー場に雪遊びに行ったとき、半端ない大雪に遭遇してしまい、雪が怖くなり、大阪でも雪が顔につくと嫌がってました。
親として何でも経験させてやろうとしたのですが、あまり小さいうちから刺激の強い映画や大雪はいけません。幼い記憶はトラウマになること知りました。親として失格です。
小学校ではミニバス、ソフトボール、中学校では野球に夢中になりました。
男女関係なく、保育園、小学校、中学校、大学といい友達に恵まれ、職場でもいい同僚と過ごしています。
長男と三男は芸大に進み、性格は文科系ですが、健太は違います。ソフトボール、野球、スキーにスノボ、車もバイクも大好きなアウトドア系です。私たち夫婦に似たところがあります。私をスキーやスノボに誘ってくれるし、夫婦の誕生日や自分のボーナスが出たときなどは、「なんかいるものないか」と聞いてくれます。そのときのプレゼントはずいぶんたまりました。
麻美さんとは今年の1月から一緒に暮らしているので、今さら言うことはありません。親としては仲良くしてくれることが一番です。これからは、私たち夫婦のことはあまり気にかけないでいいですよ。たまに一緒に飲めるだけで幸せですよ。
これから先、いろんなことがあると思いますが、経験した分だけ仲良くなれます。幸せになれます。いつも笑顔で明るい家庭を築いてください。私たち夫婦のような(笑い)
おめでとう! 健太、麻美さん
明日、2018年9月15日、次男の健太の結婚式です。
親として経験する、息子の初めての結婚式です。別に心の準備はいらないのですが、新郎の父親としてどんな顔で式に出席したらいいだろうかなど、今ごろになって少しドキドキしています。
数か月前まではまだ先と思っていて、気楽に考えていました。出席者もかなり多いようなので、ダンスでも踊ってやろうか、三男康平のギターで歌おうかなどと冗談を言っていましたが、明日となると緊張してきました。どうしよう・・・・・・・・・
健太は小学校、中学校、高校、大学すべて母親と同じで、さらに教職という仕事も同じです。顔も母親に似ていますが、性格は似ていません。しっかりしています(かみさんに怒られるなあ)。
健太は3人兄弟の次男。4歳上の兄雄一郎はおもしろく、健太をいじめたりしません。世間の親が「お兄ちゃんだから我慢しなさい」という場面を見たり聞いたりしますが、私は雄一郎にそんなことを言った記憶がありません。いつも兄は健太に調子をあわせてくれました。そのせいか、健太は兄がやることを何でもやりたがりました。
3歳ぐらいのとき、兄の耳鼻科通いによくついてきて、兄が一人で座って治療されているのを見ていた健太は、自分が中耳炎になったときです。私が健太を抱いて椅子に座り、治療を受けようとしました。鼓膜の切開もあるので、痛がって暴れるのを抑えておくためです。すると、健太が「一人で、一人で」と大声で叫びながら暴れだし、治療ができなくなりました。よくよく聞いてみると「一人で座って耳を診てもらう」とのこと。「ためしに一人で座らせてみたら」と耳鼻科の先生から言われ、一人で座らせるとすぐにおとなしくなり、じっと我慢して泣くこともなく治療を受けました。案の定、鼓膜切開はありましたが、一瞬、電気が走ったようにぴくっと動いたものの、3歳の健太は耐えました(目からは涙がポロリ)。痛くて後悔したはずですが、耐えました。看護師さんたちにも褒められて、勝ち誇った顔でにっこり。兄と同じだぞ、と言っているようでした。
ただ、兄が優しいのにつけこんで、調子に乗ると兄にも偉そうなふるまいをすることがありました。そのため「兄弟では兄が一番偉く、健太と康平は兄の言うことをしっかり聞くこと」という我が家のルールを決めたこともあります。健太は、そのルールをしっかりと守ってくれたと思います。
学校でもまじめで、先生にも一目置かれていました。近所の人や学校の父母にも人気があり、「一家に一人、健太くん」と言われるほど、何でも気が付く便利な子どもで有名でした。
そんなしっかりものの健太も、生まれてすぐ手術をした三男康平が長く入院していたときにはご飯が食べられなくなったり、康平が腸閉塞で入院したときには学校へもいけなくなったりしました。とても繊細な心をもっています。
これも3歳のときです。私と長男と健太の3人で、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」を吹田のメイシアターに見に行ったときです。「火垂るの墓」が始まってすぐ怖くなり、私に抱き着いて見られなくなりました。結局,外で映画が終わるまで待ったことがあります(兄は悲惨な場面も一人で必死に見続けていました)。小学校の低学年までは、戦争=恐ろしいこと、というイメージがインプットされ、テレビや写真で戦争に関係ある内容が紹介されると、異常に怖がりました。
また、同じころ初めて新潟のスキー場に雪遊びに行ったとき、半端ない大雪に遭遇してしまい、雪が怖くなり、大阪でも雪が顔につくと嫌がってました。
親として何でも経験させてやろうとしたのですが、あまり小さいうちから刺激の強い映画や大雪はいけません。幼い記憶はトラウマになること知りました。親として失格です。
小学校ではミニバス、ソフトボール、中学校では野球に夢中になりました。
男女関係なく、保育園、小学校、中学校、大学といい友達に恵まれ、職場でもいい同僚と過ごしています。
長男と三男は芸大に進み、性格は文科系ですが、健太は違います。ソフトボール、野球、スキーにスノボ、車もバイクも大好きなアウトドア系です。私たち夫婦に似たところがあります。私をスキーやスノボに誘ってくれるし、夫婦の誕生日や自分のボーナスが出たときなどは、「なんかいるものないか」と聞いてくれます。そのときのプレゼントはずいぶんたまりました。
麻美さんとは今年の1月から一緒に暮らしているので、今さら言うことはありません。親としては仲良くしてくれることが一番です。これからは、私たち夫婦のことはあまり気にかけないでいいですよ。たまに一緒に飲めるだけで幸せですよ。
これから先、いろんなことがあると思いますが、経験した分だけ仲良くなれます。幸せになれます。いつも笑顔で明るい家庭を築いてください。私たち夫婦のような(笑い)
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