あの震災から27年。
何回も書いているけど、記憶に残るように、当時のことを振り返ってみたい。
兵庫県南部地震。M7.3。活断層が動く直下型地震で、プレート型の東北地方太平洋沖地震とは違う。
揺れにより、高速道路や鉄道、古い家屋が倒壊したり、下の階が押しつぶされたりしたが、多くの場所で火災が発生して、それによっても多くの命が失われた。
300カ所近くで火災が発生したが、そのうちの約6割は破壊された電気機器などが、停電から復旧して電気が通ったときに火が出る「通電火災」だという。
停電を早く復旧してと誰もが願ったが、電気が通った途端に火が出たのである。懸命に救助活動をしているときに火が出たため、悲惨な状況も多々あった。寒いときであったため、電気、ガス、水道というライフラインを早く確保したことで、こんなことが起こってしまったのだ。
当時、私たち夫婦は大阪吹田で暮らし、共働きの38歳。長男は中一、次男は小三、三男は保育園年長。
地震発生時、子どもたちは3階、夫婦は2階で寝ていた。ガクンと大きな揺れの後でなかなか揺れがおさまらず、私は寝ていた部屋の和ダンスを倒れないように押さえた記憶がある。
その後、3階の子どもたちを見に行くと、2段ベットも倒れることなく、みんな無事だった。
停電はなかったが、ガスが出ない。
外に出ると、電気の電灯線が家の壁から外れていた。
関西電力に電話してみる。今、電気が通っているならば、修理は後日でと伝えられる。関西電力はそれどころじゃなかったのだ。ごめんなさい。
大阪ガスに連絡すると、ガスの開栓方法を丁寧に教えてもらい、それで解決した(この方法は大阪北部地震のとき、近所の家のガスを開栓して周り、役立った)。大阪ガスもそれどころじゃなかったはず。すみません。
ラジオからは被害の状況が刻々と伝えられた。道上洋三さんが、必死に叫び続けていた。パートナーのアサオ(高野あさお)ちゃんが泣いて喋れないのを、道上さんは叱りつけ、アナウンサーとして伝えなければならないことを説いていた。
朝ご飯のときも余震が何回かあり、トイレに入っていた三男も揺れに驚き、途中で出てきた。
自転車で会社に向かったが、内環状線沿いのビル下の歩道には、窓ガラスが散乱していた。また、豊里大橋付近は大渋滞であった。会社に着き、5階の編集部に入ると、倉庫内がぐちゃぐちゃになっていた。幸いデスク周りは、無事だった。
ただ、出社できない社員も多く、連絡がとれない社員や元同僚もいた。
ある元同僚の安否を、近くに住む社員に確認してもらった。後日、住んでいたマンションを離れて、滋賀県の大津に移ったことがわかり、ホッとした。
敏美さんの同僚でも、新築の家が目の前で燃え落ちるのを見た人、大阪で銭湯に入ってから神戸に帰る生活を続けた人などがいた。また、物資を届けるとき、車では無理なため、同僚がバイクにどっさり荷物を積んで運んだそうだ。
大阪でも、大きな被害があり、豊中や西淀川には仮設住宅が公園に建てられた。
尼崎の引っ越しボランティアもした。
当時はトヨタのエスティマというワゴン車が自家用だったので、先輩から「髙橋、車を出せるか」との連絡があるたびに、参加させていただいた。
みんな必死だった。
上郡に来て、兵庫県でもここ西播磨が、ほとんど被害がなかったことを知った。大阪でも、北摂や三島は被害が出たが、河内や泉州地区では顕著な被害は少なかった。
しかし、被害がなかった日本の各地から被災地区をなんとかしたいという思いが広がった。ボランティアが多く集まったのはその形の現れだが、そのほかにも募金や物資などの支援があった。
困っている人たちを応援することが、人のもつ本能の一つだと、はっきり自覚した。これも27年前に私が知ったことである。