とどちゃんの縁側でひとり言・・・。

日々の生活の中で見たこと感じたことを記録していきます。

曹洞宗について・・・4

2006-10-10 21:54:27 | 宗教
さて、前回は道元の生い立ちを学習しましたので、ここで、道元の禅について学習したいと思います。


坐禅に何の意義も目的も持たず、全身全霊で坐る「只管打坐」。一切の束縛から脱する境地が心身脱落。坐禅修行の姿そのものが悟り・・・即心是仏だ。


・・・宗門の正伝にいはく、
この単伝正直の仏法は、
最上のなかに最上なり
参見知識のはじめより、
さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、
祇管にた打坐して、
心身脱落することを得よ。

威儀即仏法
作法是れ宗旨        「正法眼蔵」弁道話


・・・坐禅こそ正法である・・・

道元が伝えようとしたのは経典でも仏像でもない。厳しい修行の末、最後に学びとった釈尊正伝の仏法である。
その正法の根本にあるのが坐禅。坐禅は釈尊の教え・体験そのもの。
釈尊の教えを信じ実践すれば、貴賤・賢愚・男女の別なく、だれにでもきわめられるとした。
焼香・礼拝・念仏・懺法・看経は不必要、坐禅に打ち込むだけで釈尊正伝の仏法を学びとることができる。
悟りを求めて坐禅するのではない。ただ一心に坐る。
「身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし、心身脱落の結跏趺坐すべし」と「正法眼蔵」にある。
身体で坐り、心で坐り、ついには身体の痛みも心のなかの妄想で抜け落ちた「心身脱落」の状態で坐る。それが「只管打坐」だ。
身体は正身端坐、口は一字に結び、心は無心になって、坐っている(心のこだわりも消え失せている)。
「ただ是れ安楽の法門なり」(普勧坐禅儀)。
禅修業そのものが仏の行。一寸坐れば一寸の仏。身体で学ぶ「身学道」だともいっている。

・・・修行と悟りは一つ・・・

道元は「弁道話」で「修証一等」といい、「本証妙修」という。
修証一等とは、修行と本証(本来の悟り)は一つのものなのだという意味。悟りと修行を二つのものと考えてはいけない。悟りを目的、修行を手段と考えるのは大きな間違いだ。
こだわりを捨て、身も心も一切の束縛から脱して全身全霊で坐禅に打ちこむ「只管打坐」は、修行と悟りが一体になった人間本来の清浄な姿、仏そのものの姿にもたとえられる。
修行は坐禅に限らない。農作業・道普請などの作務、食事や睡眠、日常生活すべてが修行だ。「威儀即仏法 作法是れ宗旨」は、洗面から食事の仕方など細かに修行の仕方を説く「生活禅」を表現した言葉だが、食器を洗う作業に修業を徹底する向上心が働くかどうか。それが修行のカギだ。
本証妙修とは、仏としての可能性を持つ人間が、修行をゆるめず、一心に仏道に打ちこむことで、仏のはからいの中にある自己を自覚すること。自己という束縛から解き放たれたところに仏性が現れる。
「即心是仏」である。
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