快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 斉藤利三は何故そこまで追い詰められていたのか

2017-11-07 12:59:10 | 地震 津波
 以前の記事の通り、筆者は切腹命令を一度を受けて追い詰められた気持ちになっていた斉藤利三が選択肢がなくなって本能寺の変に及んだと考えているのですが、では何故そこまで追い詰められていたのか?について記事にしてみたいと思います。
 切腹命令を受けた斉藤利三は明智光秀が庇う事でとりあえず即実行となるのかははっきりわからない状況だったようですが、仮に明智光秀が中国攻めに行ってしまい、斉藤利三が同行できなかった場合は、おそらく直ぐに処刑、又は暗殺される可能性が高かった事、そして仮に斉藤利三が光秀と同行できたとしても庇ってくれていた光秀は既に当時としては余命はそれほど長くなかったと見るのが通常であり、その光秀が仮に死去した場合は後ろ盾が無くなってしまう為、やはり斉藤利三は多くの面で危ない立場になったと考えられます。
 一度は様子を見てくれた信長なのだから、何年か経てば大丈夫なのではないか?とも思えなくも有りませんが、こんな話が有ります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D
荒木村重
謀反
詳細は「有岡城の戦い」を参照
天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由は後述)。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。

引用終了

 信長の考え方がこの様なものであるのを他の武将も少なからず知っていた可能性は高いと思われます。
 暫くは許したように見せてもいつかは滅ぼそうとする、と言うのを斉藤利三も認識していれば、既に逃げ場の無い状況になり、刺し違いで元々と言う判断になったのではないか? と考えています。