竹とんぼ

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糸瓜咲て痰のつまり 仏かな 子規

2018-07-24 | 子規鑑賞
糸瓜咲て痰のつまり 仏かな 子規




こちらの俳句は、1896年に詠まれた
「正岡子規の絶筆三句」の1つともいわれる有名な作品です。
この俳句を含めた3つの俳句を書き上げた瞬間、
そのまま筆を落として倒れ込んだという逸話も有名です。
こちらの俳句の意味を簡単な口語に直して見ていきたいと思います。

「薬となる糸瓜が咲いたけれど、
痰がつまって仏(死人)となる身には間に合わないだろう」

長いこと結核を患っていた正岡子規。
当時、糸瓜は薬として使われていました。
咳止めとしてや、結核の痰を切るのに、
糸瓜の根本から採取できる液は効果があったそうです。

つまり、薬として植えた糸瓜が咲いたけれど、もはや、自分には間に合わない。
死を悟った正岡子規が、死の直前に残した最期の俳句なのです。

因みに、他の2つの俳句は、こちら。

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「をとヽひのへちまの水も取らざりき」

この3句を合わせると、このような意味になるのではないかと思います。

「薬となる糸瓜が咲いたけれど、
どんなに効果のある糸瓜の薬水も、
もはや痰を詰まらせ仏となるこの身には効果もなく
間に合うこともないだろう。
だから、効果が高まるという
十五夜である一昨日も、糸瓜の薬水は取らなかった」

なんとも切ない内容ではあるのですが、
これを死に瀕した本人が詠み上げるという点に、
子規の凄みがあると言えるでしょう。
臨終の際まで、俳人として生き抜く。
そこに、さすがは名を遺す俳人だと称賛せずにはいられません。

参照 http://nihonshimuseum.com/masaokashiki-haiku/

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