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「五日市憲法草案を作った人々」

2024-05-09 06:50:17 | 日本

「五日市憲法草案」について私が知ったのは、色川大吉氏の大著『新編 明治精神史』(1973年刊)であった。大日本国憲法制定の時、植木枝盛(1857-92)の「東洋大日本国国憲按」や片岡健吉「日本憲法見込案」など、多くの私擬憲法が発表されたが、その発案者は政治家や学者等、専門的知識を持った人が作ったものである。

しかるに、「五日市憲法草案」は無名の農民階級の若者たちが作ったものである。「東洋大日本国国憲按」や「日本憲法見込案」は、日本史の中で取扱われるから、知っている人が多いと思う。美智子皇后が高校、大学時代は「五日市憲法草案」は倉の中に眠っており、研究者でも知らなかった。美智子皇后はあきる野市の五日市を訪れてその存在を知ったと語っておられるが、推測するに自分でも調べたのであろう。
 
今であれば、山川出版『詳説日本史』の教科書は私擬憲法のところで、脚注に「東京近郊の農村青年の学習グループによる五日市憲法草案などもあった」と載せている。日本史の資料集や政経の資料集に名前と簡単な説明「1881年4-9月.千葉卓三郎ら。204条。君民共治・三権分立・人権と自由を重視」(最新日本史図表2004年版 第一学習社刊)だけを載せているものもあり、教師が教えていれば知っている人も多いだろう。
 
1968年、色川氏等は五日市の深沢家の土蔵でこの憲法私案を見つけた。五日市で発見されたから通称「五日市憲法草案」と名づけられた。正式名は「日本帝国憲法」という。
 「五日市憲法草案」を起草した人達は五日市の民権運動家たちで、その中心者が千葉卓三郎、深沢権八であった。日本中に広まりつつあった自由民権運動の刺激を受けて、彼らは五日市で学芸懇談会を結成し、多くの若者がそこで学問や政治を学んだ。
 
千葉卓三郎は1852年(嘉永五)に宮城県志波姫の仙台藩士の家に生まれたが、複雑な家庭であった。1868年(明治元年)、戊辰戦争に参戦し敗北する。その後、生活と精神のために放浪する。医学をかじり、佛教を学び、ギリシア正教に帰依し、儒学を学び、カトリックを学び、さらに、プロテスタントを学ぶ。結局は一つの宗教を信じることはなかった。思想の放浪である。この遍歴を見ると、専門的に欧米の方法理論や社会契約説や天賦人権説を学んだ足跡は見られないが、おそらく、フランス人神父やアメリカ人牧師に接する中で、耳学問的に学んだのであろう。

千葉はフランスのエミール・ボアソナードの本を愛読していた。ボアソナードが「フランス国法学大博士」と名乗っていたことを見習い、自分の名を「ジャパンネス国法学大博士タクロン・チーバー」と名乗り、署名している。1880年(明治13)に五日市の勧能学舎に教師として勤務するようになる。この頃から生活の基盤を五日市に置くようになる。
 
深沢権八は1861年(文久元年)に深沢村の名主の家に生まれた。父親の名生(なおまる)も啓蒙的な人で、五日市の文化運動の推進者であった。権八は勧能学舎の第一期生であった。15歳で深沢村の村用掛り(村長に相当)に任ぜられるという優れた子どもであったが、権八も専門的な学問は受けていない。
 
櫻鳴社という自由民権運動の結社が八王子支社を設置した影響を受けて、五日市にも学芸講談会が催されるようになった。ここに集まったのは壮年者が中心であったが、中農や貧農、さらには被差別部落の人達も加わっていた。

彼らは学術懇談会や研究会を頻繁に開き、欧米の思想や近代法学、政治学を積極的に学び、独学で民主思想を身につけた。

五日市憲法の誕生 

1880年、第二回国会期成同盟全国大会が東京で開かれ、憲法起草が決議された。1881年(明治14)の第三回大会に、各自持ち寄り議論することが決議された。

五日市に帰った民権運動家は憲法草案の作成に取りかかる。その中心にいたのが、千葉であり、深沢であった。彼らは1881年1月頃から憲法草案に取りかかる。櫻鳴社憲法草案をその下敷きにしたといわれるが、櫻鳴社憲法草案に近いものは43条しかなく、後の161条は彼ら独自の考えである。
 
作成された憲法草案の構想は「民権派に一般的であったイギリス流の立憲君主制、君民共治制で、国会は三部制(天皇、民撰議院、上院)、直接選挙による議院内閣主義、アメリカ流の三権分立主義を取っているが、「国民の権利」に関する第二編公法、第三編立法権、第五編司法権に百五十条もさいている草案は他に見当たらない」(『新編明治精神史』p230 色川大吉 中央公論社)

「基本的人権を幾重にも保障しようとする周到さは、例えばいったん公法において保証した自由権を行政府が侵そうとしたとき、国会は拒絶権を発動してこれに抗し、さらに司法部は司法権の裏規程よって二重、三重に国民の権利を保障するしくみに現れている。」(『新編明治精神史』p231 色川大吉 中央公論社)と色川氏は指摘している。
 
五日市憲法(日本帝国憲法)は第一編 国帝。第一章 帝位相続とし、相続のあり方が十条までに述べられている。
一条日本国の帝位は神武帝の正統たる今上帝の子裔に世伝す其相続する
六条 皇族中男無きときは皇族中当世の国帝に最近の女をして帝位を襲受せしむ但し女帝の配偶は帝権に干与することを得ず
二条 一〇条 皇族は三世にして止む四世以下は姓を賜うて人臣に列す
             
神武天皇を始祖とする皇室観はこの時代の歴史学では止むを得ないとしても、女性の天皇の相続を認めたり、皇族が増えないように制限している所は先進性がある。
 
第二章は摂政官で、摂政に対する規程である。第三章は国帝の権利で、天皇の権限を定めている。
 
一八条 国帝の身体は神聖にして侵すべ可らず(以下略)

二一条 国帝は海陸軍を総督し武官を拝除し軍隊を整備して便宜に之を派遣することを得 但し其昇給免黜(めんちゅつ=やめさせること)退老は法律を以って定めたる例規に準じ国帝之を決す

三六条 国帝は開戦を宣し和議を講じ及其他の交際修好同盟等の条約を準定す 但し即時に之を国会の両院に通知す可し (以下略)
 国帝(天皇)の権限は大日本国憲法と同じ、あるいはそれ以上の権限を与えているが、無制限にあるものではなく、法律の下にとか国家の承諾が必要などの但し書きをつけて制限をしている。
第二編 公法の第一章は四二条から七七条までで国民の権利である。

四五条 日本国民は各自の権利自由を達す可し

四七条 法律上の前に対しては平等の権利たる可し

四九条 其身体生命財産名誉を保固す

五六条 何宗教たるを論ぜず之を進行するは各人の自由に任す

七一条 国事犯の為に死刑を宣告さるることなかる可し

七三条 何人に論なく法式の徴募に贋(あた)り兵器を擁して海陸の軍伍に入り日本国の為に防護す可し

七六条 子弟の教育に於て其学科及教授は自由なる者とす然れども子弟小学の教育は父兄たる者の免る可らざる責任とす

七七条 府県令は特別の国法を以て其綱領を制定せらる可し府県の自治は各地の風俗習例に因る者なるが故に必らず之に干渉妨害す可らず其権域は国会と雖も之を侵す可らざるものとす
 
現在の日本国憲法の基本的人権の平等権、自由権(五一条出版の自由・五二条思想の自由・五四条集会の自由、誓願の権利)の保障のほとんどが網羅されている。五日市憲法は「三六条にわたる人権規程を展開していくが、その中でも出色なのは、権力の干渉、迫害によって個人の自由権が侵されたときの保護に細心の配慮をした点である」(『自由民権』p106 色川大吉 岩波新書)と指摘しているように、不当逮捕の禁止、裁判を受ける権利、損害賠償を受ける心身の自由の権利等々を書いている。現憲法にあるような生存権の規定や男女同権の規定がないのは当時の世界情勢からいって仕方がないとも言える。
 
七七条は地方自治の条文である。地方の自治は国会の権限をも凌駕するというもの。アメリカの州と連邦政府との関係に近い。 この時代に、これだけの発想ができたのは驚嘆すべきである。
 
第三編は立法権についてである。

議会は直接選挙で選ぶ(女子には選挙権なし)民撰議院、国帝が任命する元老院の2院制である。国会の権能と共に、第五章で憲法改正の方法を明記している。
 
一四九条 国の憲法を改正するは[特別]会議に於てす可し。

一五三条 特別に撰挙せられたる代民議員の三分の二以上及元老院議員三分の二以上の議決を経て国帝之を允可するに非れば憲法を改正することを得ず。
憲法改正に付いては特別会(改正の為に撰挙せられたる人民の代議員より成る)を設置し、そこで議論し、三分の二以上を必要としている。今の憲法と違い、国民投票という視点はないが、硬憲法にしている。
 
第四編は行政権についてである。第五編は司法権についてである。
一七一条 司法権は不羈独立にして法典に定むる時機に際し及び之の定るを規程に循(したが)い・・・執行す

一七二条 大審院上等裁判下等裁判所等を置く

一八一条 軍事裁判及び護卿兵裁判亦法律を以て之を定む
三審制を取っているし、司法の独立を書いているが、軍事裁判所の設置は認めている。
 
千葉卓三郎はこの憲法を起草中結核にかかっており、無理がたたったのか1883年(明治16)に31歳で死去する。千葉の後を次いで、民権運動を進めていった深沢権八も県会議員になった直後に病で倒れて1890年(明治23)に29歳で死去する。
 
五日市憲法は、国帝の権限は三権を統括し明治憲法よりも強いものがあるが、先にも触れたように、独学で専門的な知識を身に付けた山村の若者たちがこれだけの憲法を作り出したことは、驚嘆に値する。彼らが普通の生活人であったので、市井の人間にとって何が必要かを希望したもので、特に、人権の侵害や圧迫が権力によって行われていたため、人権条項に重きを置いた憲法草案を作ったのであった。

明治の初期には村落共同体の自治、言い換えれば草の根民主主義があった。明治政府が殖産興業、富国強兵の政策を取る中で、この草の根民主主義をつぶしていったといえる。
 
この憲法が自由民権運動の凋落と共に日の目を見なかったのは残念である。現憲法を制定する際に五日市憲法草案が明らかになっていれば、日本人の中に権利に対する要求が水脈となって流れていたことがわかり、GHQ案は日本人の底流にあったものだという認識がなされたであろう。








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