スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

エストニア旅行その17 雑

2012-03-25 16:14:39 | 旅行(エストニア・タリン2012)
最後は余った写真を大量に並べてみる。

上写真と下左から1枚目:タリンの市内には時折??なセンスのモニュメントがある。前衛的なのか、ユーモアなのかは知らないが、とりあえず見ていて楽しい。
2枚目:行きには気づかなかったが、これが「長い足通り」の入り口であった。ラエコヤ広場よりも北側だったのである。
3枚目:下から見上げた「山の手」地域、トームペア。
4枚目:帰り着いたタリン港Dターミナル。なお、このターミナルの建物の中にも酒店があり、価格を比べるとこっちで買った方が安いものもある。なのでスウェーデンからの旅行でお土産に酒類の購入を考えて居る方、船内と港の酒店で価格を比較された上で購入される事をお勧めする。
5枚目:船に乗る途中から見えるタリン新市街。高層ビルが立ち並ぶ。
6・7枚目:タリンから出港する船から撮った風景。
8枚目:船の中の夕食。ちと高めであるがバイキング形式。寿司はちょっとシャリが固めだった様な。。。
9枚目:水は船内でミネラルウォーターを買った。この会社が作っているものらしい。炭酸入りと無しのものがあるが、写真の方が炭酸無しのもの。しかしながら「3カ国語で商品の名前が記載してあって、その中に英語がない」という状況にはちょっと戸惑う。
10・11枚目:翌朝目覚めると既にスウェーデンである。ストックホルムに向けて既に海峡の中を走っていた。この部分を走っている時間は結構長い。2時間以上は走っていたと思う。
12枚目:最後にすれ違った、ヴァイキングライン(Viking line)の客船。こちらの船もタリン行きのクルーズを出している。
Viking Line

ちょっと慌ただしい日程だったかも知れないが、小ぢんまりとした町の規模を考えればこれで良かったのかも知れない。機会があればまた色々と訪れてみたいものである。

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エストニア旅行その16 聖ニコラス教会

2012-03-25 13:18:23 | 旅行(エストニア・タリン2012)
この旅行で最も印象に残ったのはこちら、聖ニコラス教会(Niguliste Kirik)である。聖ニコラスは航海の守護聖人なのだそうだ。
Wikipedia「St. Nicholas' Church」
そしてこちらの教会内部での最大の見どころはこちら、「死の舞踏」である。内部は撮影禁止だったので写真はないのだが、独特の迫力のある作品である。
Wikipedia「Danse Macabre」
ペスト、戦乱などで死が身近にあった中世においてはしばしばこの様な死をテーマにした芸術作品が作られた。作者は先にも紹介したベルント・ノトケ(Bernt Notke)である。こちらは彼自身が作成したコピーで、オリジナルはドイツのリューベック(Lübeck)の教会にあった。15世紀の作なのだという。ちなみにリューベックはベルント・ノトケの出身地でもある。
Wikipedia「Danse Macabre Lübeck」
オリジナルの作品と比べると、こちらの教会のものは随分短い。前者は50名近い人物が描かれているのに対し、後者はわずか13名のみ、長さにして7.5mほどである。これは描かれた当初から短かったのか、それとも後で紛失したのかどちらなのかも定かではないそうである。また人物の表情、背景なども微妙に違っている事がお分かり頂けると思う。それでもかなりの大きさの絵であるし、なかなかの迫力である。オリジナルの作品はどれだけインパクトのある絵だったのか、ちょっと想像してみたくなる。
ではオリジナルは今どうなっているか?と言うと、第二次世界大戦中、イギリス軍の爆撃で完膚無きまでに破壊されてしまったのである。
Wikipedia「Bombing of Lübeck in World War II 」
ちなみにこちらの教会も1944年にソ連軍の爆撃を受けて崩壊しているのだが、芸術作品だけは運び出されていて難を逃れている。
教会内には他にも中世芸術の作品が多数ある。中央の祭壇は聖ニコラスの一生を記したものである。またパイプオルガンのコンサートも頻繁に行われていて、ちょうど入場した時にも行われていた。パイプオルガンはかなり高い位置の中二階にあり、下からは演奏者の姿も見えない。中世の芸術作品に囲まれつつ演奏を聴くのも良いものである。
下写真は入口の写真である。名残を惜しみつつ教会を出た。


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エストニア旅行その15 大ギルドの会館

2012-03-24 15:48:32 | 旅行(エストニア・タリン2012)
聖霊教会を出ると、そのちょうど向かいの正面に大ギルドの会館(Suurgildi Hoone)がある。ギルドについてはこちら。
Wikipedia「ギルド」
エストニアにも色々なギルドがあった様である。「地球の歩き方」によるとこちらはかなり裕福な階層のギルドで、市長、議員などは全てこのギルドの会員から選出されたのだという。会員となるには妻帯者である事、自宅を持っている事が条件であったそうだ。
現在は内部は歴史博物館になっている。エストニアで歴代使われたコインの展示がある。多種多様なコインが並ぶ。ロシア文学を良く読まれる方であれば、ルーブルの下の「コペイカ」という通貨単位をお聞きになった事があるのではないだろうか。現物を見る事が出来る。あるいはドイツ占領下のマルク、ペニヒなども展示されている。
地下には武器が並ぶ。古いボウガンや火縄銃などもあるが、旧ソ連のトカレフ、ドイツのワルサ―P38、ルガーP08などの本物があったりして何とも生々しい。複雑な歴史が凝縮されている様だ。
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エストニア旅行その14 聖霊教会・貧者の聖書

2012-03-24 10:14:22 | 旅行(エストニア・タリン2012)
この教会の見どころの一つは「貧者の聖書」である。文字が読めない下町の貧しい人々に聖書の物語を伝えるため、聖書の各場面を中2階席の壁に書いて記したものだという。全部で57枚。恐らく休みの日などに貧しい人々をこの絵の下に集め、1枚1枚順に説明していったのであろう。入口の人に聞くと、フラッシュをたかなければ撮影可との事で、幾つか自分でも理解できそうなものを撮ってみた。
下左から1枚目は主祭壇から出口を見る方向で撮った写真。2枚目からは個別の絵である。まずは旧約聖書から。2枚目中央はアダムとイブ。写真右は楽園からの追放であろう。3枚目はカインとアベル。4枚目はアブラハムとイサクではないかと思う。5枚目からは新約聖書であろう。5枚目受胎告知、6枚目キリスト生誕、7枚目ヨハネによる洗礼、8枚目左側がピラトによる裁判で、中央がゴルゴダの丘ではなかろうかと思う。

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エストニア旅行その13 聖霊教会

2012-03-24 09:43:48 | 旅行(エストニア・タリン2012)
長い足通りを出たあと、ぼんやりと歩いていると辿りついたのが写真の聖霊教会(Pühavaimu Kirik)である。14世紀建立の古い教会だという。中に入ってみる。天気があいにくだった事もあり建物の中は微妙に薄暗かったが、この方が歴史の古さを感じられてかえって良かったかも知れない。教会の外外側の壁には17世紀に作られた時計があるが、これは現在でも動いている。試しに自分の時計と見比べてみたが、ちゃんと正確な時間を示していた。
建物の中の主祭壇はストックホルムの「聖ゲオルグと龍」の作者でもあるベルント・ノトケ(Bernt Notke)の作である。
ストックホルム大聖堂その2
また、その主祭壇の脇にはイギリスの旗とプレートがある。説明を読むと、先のふとっちょマルガレータの際に紹介した、エストニア独立戦争の時に応援に来てくれたイギリス海軍の兵士を記念するプレートであった。
下写真の一番左が壁の時計。2枚目は主祭壇で、写真の左端にイギリス国旗がわずかに見える。3枚目4枚目は説教壇。5枚目はイギリス海軍の兵士を記念するプレートである。


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エストニア旅行その12 トームペア

2012-03-24 00:07:33 | 旅行(エストニア・タリン2012)
ネフスキー大聖堂を見た後は周囲を軽く歩き回って見る。この周囲こそタリンの「山の手」地区である。石灰岩の台地になっていて、この上に最初に土着のエストニア人が砦を築いた場所なのだ。今は政府の中心機能が集まる場所になっている。
まず、大聖堂の道を挟んで反対側にあるのが上写真のトームペア城(Toompea Loss)である。歴史は13世紀にまでさかのぼる古い城であるが、現在は内部に国会議事堂が置かれており、一般人は立ち入る事が出来ない。カラフルな色合いの建物である。ちなみにエストニアは、国政選挙でインターネット投票を世界で初めて導入した国家として知られている。
城から少し北側に歩くと大聖堂(Toomkirik)がある。13世紀建造のエストニア最古の教会である。残念ながら内部ではなにやら儀式の最中らしく、内部に入ることが出来なかった。後で調べると、この教会の内部にはロシア海軍で最初に世界一周を成し遂げたクルーゼンステルンという人物の墓があったのだそうだ。
Wikipedia「アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン」
しかしロシア海軍で最初に世界一周を成し遂げた人物がエストニア出身で、そしてその人物が日本にも来航していたとは知らなかった。世界にはまだまだ自分の知らない事が多いものだ。
簡単に一回りした後、下町に戻る。今度は長い足通り(Pikk Jalg)を通って降りた。下写真は左から1枚目2枚目が大聖堂、3枚目が郵便局、4枚目が大聖堂近くから見た旧市街の西側の光景、5枚目は道の途中で見かけた謎のモニュメント、6枚目7枚目は長い足通りである。

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エストニア旅行その11 アレクサンドル・ネフスキー大聖堂

2012-03-22 22:50:53 | 旅行(エストニア・タリン2012)
さて、庭から歩いて外に出ると独特のタマネギ型の屋根が目に入る。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂(Aleksander Nevski Katedraal)である。19世紀にロシア皇帝の命で建てられたロシア正教の聖堂で、よりによって国会議事堂の目の前に建てられている。しかも下記記事によれば、ここはエストニアの伝説上のヒーロー、カレビポエク(Kalevipoeg)が葬られているとされている場所の真上なのだとか。
Wikipedia「Alexander Nevsky Cathedral」
以下抜粋。この大聖堂、ロシア支配の象徴と言う事でエストニア人からは疎まれ、最初の独立時の1924年には取り壊し計画が持ち上がった。が資金面の問題で中止となり破壊は免れた。その後ソ連時代に入り、宗教が公式には認められなかったため今度は打ち捨てられてしまったが、独立後に再度改装されて現在に至る。紆余曲折の歴史である。何よりも、エストニアは現在も全人口の約3割がロシア系住民なのだ。中に入ってみる。金、黄色、緑とカラフルな色彩の内装で、信者らしき人がたくさん訪れて祈っている。「地球の歩き方」を参照すると、日露戦争の日本海海戦で沈没したロシア戦艦を記念するプレートが内部にある、と書いてあるのだがロシア語の文字を読むのは至難の業である。探しているうちにようやく入口右側に「1905」という数字が見えるプレートを発見。近くにいる男性にプレートを指さして「これは何?」と聞いて見た。その男性、どうやら余り英語は得意ではなさそうであったのだが一言「ツシーマ」。対馬沖海戦、すなわち日本海海戦である。どうやらそのプレートで正しかった様だ。ロシア側から見た日本海海戦について、興味のある方はちょっと長いが「ツシマ」(アレクセイ・シルイッチ・ノビコフ プリボイ著、上脇 進訳、原書房)を一読される事をお勧めする。


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エストニア旅行その10 デンマーク王の庭

2012-03-22 22:20:21 | 旅行(エストニア・タリン2012)
さて、ラエコヤ広場からあまり考えずに高台の山の手の方向を目指す。良く地図を確認していなかった(地図だけ見ていても急坂かどうかは分からないものである!)せいもあり、恐ろしく急な階段の道に入りこんでしまう。後で調べるとこれが「短い足通り(Lühike jalg)」であり、下町の市街と山の手を結ぶ2本の道の一つであった。かつては市民はこちらを通り、もう一つの緩やかな坂の通りは貴族が使ったそうである。階段はきつかったが、左右には個性的なハンドクラフトの土産物店が立ち並んでいたので、興味がある方はご覧あれ。
さて、坂を登りきると、ちょっとした広場になっている。この辺り一帯は「デンマーク王の庭(Taani Kuninga aed)」と呼ばれているそうである。何でもかつてデンマーク王がここに侵攻して苦戦に陥った時、天から十字の旗が舞い降りて来て、それで意気を盛り返して戦いに勝ったとの事。その十字が今のデンマークの旗の由来なのだとか。
Wikipedia「Danmarks Flag」
おそらくは自然現象か何かでたまたま十字の光が空に現れたのであろうかと思う。この庭のどこかにはその国旗を記した石碑もあるらしいのであるが、足元がアイスバーンでつるつるであり、余り歩きまわる気にはなれない。
ここで目に付くのは城壁と塔、そして下の景色である。城壁には上写真の様に回廊が復元されており、その先にはどうやらカフェらしきものも営業している。城壁の階段を試しに登ってみようとしたが、思った以上に急な階段で断念した。下写真は一番左がどうやらカフェの入り口、2枚目は下の町の景色、3枚目は短い足通り、4枚目と5枚目は城壁を庭から出た位置から撮ったもの。4枚目写真の一番右の塔は「キーク・イン・デ・キョク(Kiek in de Kök)」という砲塔で、訳すると「台所をのぞけ」という意味なのだそうだ。ユニークな名前とは対照的に、この壁(厚さ4m)には今でもロシア軍の放った砲弾が埋まったままであるとの事。地下には地下道もあるそうだ。今は軍事博物館になっているらしい。
Kiek in de Kök
Wikipedia「Kiek in de Kök」


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エストニア旅行その9 市議会薬局

2012-03-21 23:28:11 | 旅行(エストニア・タリン2012)
さて、この広場の旧市庁舎のちょうど反対側に位置するのが市議会薬局(Raeapteek)である。以下はウィキペディアの記事より抜粋。ヨーロッパでも最も古い薬局の一つで、写真にある通り、少なくとも1422年から営業しているとされている。「少なくとも」と書いたのは記録によれば、1422年時は既に主人は3代目であったからだという。歴代の主人の中にはあのロシアのピョートル大帝の死の床に呼ばれた主人もいるという(ちなみに到着前に大帝は亡くなってしまったとか)。以前は薬剤師と言うのは医師も兼ねていたのだという。
Wikipedia「Raeapteek」
中に入ってみる。内装はほぼ完全に当時のままのようで、薄暗い店内で木の床がギシギシ言い、棚にはガラスの薬瓶が並ぶ。雰囲気からして何となく神秘的である。田舎の古い古い開業医の診療所を訪れた時のような感覚、と言えば良いだろうか。約600年間も続いている薬局とは驚異的である。「地球の歩き方」によると特製のハーブティーもあるとの事であるが、そちらはちょっとパスした。



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エストニア旅行その8 旧市庁舎

2012-03-20 22:49:27 | 旅行(エストニア・タリン2012)
さて、旧市街も中心部に近づくとだんだん人通りも増え、土産物屋も増えてくる。ちなみに土産物屋では、若い店員はおおむね英語をしゃべれるが、少し年配の人になるとあまり英語を喋れない人が多い印象である。
歩いていくと写真の建物が見えて来る。旧市庁舎(Raekoja)である。旧市街の中心にあるのがラエコヤ広場(Raekoja Plats)で、これはかなり広い広場である。周囲にはレストランなどが立ち並ぶ。ロシア料理らしきレストラン、カフェ、何故かインド料理のレストランもあった。もちろん土産物屋もたくさん見える。
旧市庁舎は14世紀のもので、内部の装飾もかなり良いものらしいのだが、9月~6月の間は見学は要予約との由、今回はパスとなった。建物の左側のドアは開いていたので、もしや見学可能か?と思って開けてみると、そちらはレストランであった。残念。
とりあえず、建物の外側だけを見て回る。塔の先端を良く見ると、市の伝説、トーマスじいさん(Vana Toomas)の人形が付いているのが確認できる。貧しい生まれながら幼い頃から弓の扱いに長じ(エピソードは以下参照)、軍人となって市民に親しまれた人物であったそうだ。
Wikipedia「Old thomas」
他には雨どいが独特のヘビの様な形をしているのが気になるところ。また建物の柱には、かつて囚人をさらし者にした首かせが今でも残っていた。下写真は左から1・2・3枚目で市庁舎を中心としたラエコヤ広場の全体図(ちょっとブレすぎなので縮小版で失礼する!)、4枚目がトーマスじいさんの人形、5枚目が雨どい、最後は路地から見える旧市庁舎である。


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