スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

京都その12

2016-10-31 21:33:52 | 日本国内旅行(京都・2016)
疎水の下をくぐり抜けて坂を上っていくと、この水路閣の上を眺めることができる。上写真の通り、現役で使われている。はるばる琵琶湖からやってきた水が今でも流れ続けているのである。
京都の観光地で「哲学の道」という道がある。あの西田幾太郎などが散策し、思索をしていたという道であるが、この道の脇を流れる川はこの水路閣を通った琵琶湖疎水の分流の一つである。元はと言えばこの道は疎水の管理用道路であったのだ。
Wikipedia「哲学の道」

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京都その11

2016-10-31 00:13:13 | 日本国内旅行(京都・2016)
この水路閣、何かというとはるばる琵琶湖から京都に水を引いてきた用水路の一つなのである。なんといっても歴史ある古刹の中を通すという事で、景観にも最大の注意が払われた。
Wikipedia「琵琶湖疎水」
着工は1885年。この時期、京都は明治維新の際の戦乱で荒れ果ててしまっており、新しく京都に水運を作り産業を育成することが望まれたのである。しかしながら当時日本は開国したばかり、まともな土木技師が簡単に見つかろうはずがない。まだ日本が学術も技術も「お雇い外国人」に頼りきりだったころの話である。
横須賀その3
白羽の矢が立ったのが当時工部大学校(現在の東京大学工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎であった。当時の工部大学校は教授も外国人が多く、ほとんどの授業は英語で行われていたという。田辺はその5期生である。現代の我々からすれば「授業が英語!それは凄い!」と思うかもしれないが、現在でも開発途上国などでは、英語圏でないにも関わらず大学での専門分野の授業を英語で行ない、教科書も英語のテキストを使っている国は幾らでもあることをお忘れなく。田辺は1861年の生まれであり、計算すれば琵琶湖疎水の仕事を任せられたのは25歳の時となる。若い力が国を動かしていたのだ。
Wikipedia「田辺朔郎」
Wikipedia「工部大学校」
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京都その10

2016-10-28 00:02:05 | 日本国内旅行(京都・2016)
法堂を出て右に曲がる。木の陰に隠れるようにして、古い煉瓦の橋が見えてくる。これがこの寺のもう一つの見どころ、水路閣である。近代日本の技術発展の一里塚である。既に寺は閉まっていても、ここにはまだ幾らか観光客が残っていた。地元の女子高校生らしき人が数名、腰かけておしゃべりに興じていたりして、これもまた良い。


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京都その9

2016-10-24 23:59:00 | 日本国内旅行(京都・2016)
三門を抜けて奥に進むと、法堂という建物が現れる。ただ実はこちらは明治時代の作。一回火の不始末で燃えてしまったあと、新しく立て直したものらしい。本当の見どころはこのさらに奥にある「方丈」という建物で、こちらは1600年代の作であったようだが、時間を過ぎており入れず。ちなみに建物だけでなく、庭園も見どころらしいので、これから訪れる方はご覧のほどを。
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京都その8

2016-10-24 23:57:45 | 日本国内旅行(京都・2016)
さて三門である。高さ22mなり。独特の威容である。1628年の建築であるから随分古いものである。重要文化財に指定されている。
こちらは歌舞伎の中での場面が有名であろう。石川五右衛門がこの三門の上に登って京の街を眺め「絶景かな、絶景かな」と言う場面である。勿論夕方になり、とっくに登れる時刻は過ぎているので、自分は上に登ることはかなわず。でも人が少ない中、静かに全体像を眺める事が出来て、それはそれで良かったのかも。
Wikipedia「楼門五三桐」

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京都その7

2016-10-24 00:04:29 | 日本国内旅行(京都・2016)
境内に入る。予想外に緑が多く、人も少ないので静かな空間である。生い茂る木の奥に有名な三門が見える。絵になる光景である。
左をふと見ると大きな石碑が立っている。「この門を入れば涼風おのづから」と書いてあるのだそうで、佐賀県の禅僧で俳句でも知られた人が記したものだそうな。

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京都その6

2016-10-20 23:48:57 | 日本国内旅行(京都・2016)
さて南禅寺である。臨済宗の中でも極めて高い格式を持つ寺なのだとか。建立は1291年。もう歴史は700年を越えているのだ。
ずっと順風満帆の歴史が続いたわけではなく、応仁の乱の後には一時期荒れ果ててしまった時もあったのだそうな。これが再興したのは江戸時代、以心崇伝(いしんすうでん)という極めて政治力に長けた僧が住職となってからである。
Wikipedia「以心崇伝」
僧の身分ながら徳川家康に仕え、外交や内政、実務に力を発揮し、「黒衣の宰相」という異名を取った。有名なのは大阪冬の陣の前に発生した「方広寺鐘銘事件」。豊臣家が方広寺におさめた鐘の碑文に端を発した事件である。「国家安康」「君臣豊楽」の碑文に対して「家康の字を2つに分け、豊臣の字を隠して入れた」という解釈を行い外交問題化させた。これが崇伝の発案という説がある(もちろん異説もあるが)。いずれにしてもその知識・教養を生かして家康にとってなくてはならない能力を持った人物であったことは間違いないだろう。この時代の僧は政治家や外交官として活躍することも決して珍しくはなかったのだ。
Wikipedia「安国寺恵瓊」
門をくぐってふと右側を見ると山名宗全の墓が見えた。応仁の乱の西軍側の総大将である。つい数ヶ月前に細川家の史跡を回ってきたのも何かの縁であろうか。
Wikipedia「山名宗全」
江戸川橋周辺その16

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京都その5

2016-10-20 23:39:43 | 日本国内旅行(京都・2016)
自分も若干ヨーロッパ的になったというか、あまりに「touristic」な光景よりは少し人気が無くなって静かになってきた時の方が好きである。参道に向けて歩いていくが、すれ違うのは「帰路につく観光客」ばかり。沿線の店もみんな閉まっている。でもそれがそれで良い。どうやら豆腐料理が名物のようであるが、今回はパスしている。
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京都その4

2016-10-02 21:43:01 | 日本国内旅行(京都・2016)
京都の用事は慌ただしく終わる。結局行けた観光地と呼べるものはただ一つ、南禅寺である。
Wikipedia「南禅寺」
それもだいぶ日が陰ってからの訪問となってしまう。それでも京都の町並みは夕焼けの中でも独特の味わいを見せる。てくてく歩いて境内の入り口に辿りついた。もう観光客の姿もまばらである。さてどんな場所なのか。
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