スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

両国その18

2019-09-24 23:53:13 | 日本国内旅行(両国・2019)
常設展のあと企画展に入ってみた。こちら「茂木本家美術館の北斎名品展」と題されている。あの「キッコーマン」の創業一族のひとつ、茂木家の所有する北斎コレクションからの企画展である。茂木家は北斎に限らず日本画のコレクションを持ち、千葉県野田市に美術館をもっているのである。ちなみにこの美術館、入館は予約制なのだそうな。
Wikipedia「茂木本家美術館」
この企画展、何といっても「富嶽三十六景」のシリーズが目玉であろう。富嶽三十六景と言っても名前だけしか知らなかったのであるが、並べて鑑賞してみると北斎の工夫が随所に伝わってくる。下ウィキペディア参照。例えば5の「本所立川」では富士山は材木の後ろに隠れるようにして、18の「登戸浦」では鳥居の中に、40の「尾州不二見原」では桶の円の中に配置されているのである。また構図の妙だけにとどまらず、全体に人々の営み、当時の風俗が伝わってくるように描かれているのも特徴である。風景画は富士山だけにとどまらぬ。全国の滝を描いたシリーズ、橋を描いたシリーズもあり、旺盛な作成意欲、創意工夫を凝らした技の数々が伝わってくる。
Wikipedia「富嶽三十六景」
先の「葛飾北斎の本懐」によれば、当時の大名のお抱え絵師たちの多くは昔の名画を手本として、それを忠実に模写することを目指したのに対し、浮世絵師の場合はそうした規制が緩く、ために各自が創意工夫をする余地が多かったのだという。特に葛飾北斎はその足跡をたどると「自然の風物を、いかに己のイメージ通り上手く描くか」を追求し続けた感があり清々しい。ゴヤはかつて「俺には2人の師匠がいる。自然とベラスケスだ」と言ったそうであるが、北斎も似たような哲学を持っていたのではあるまいか。
Wikipedia「フランシスコ・デ・ゴヤ」

数時間にもならぬ旅であったが楽しかった。たまにはこういう時間が必要である。
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両国その17

2019-09-24 23:49:25 | 日本国内旅行(両国・2019)
常設展はフラッシュをたかなければ撮影OKである。中には生前の葛飾北斎を表現した模型まである。上写真がそれで、こたつにくるまりながら絵を描く北斎とそれを見つめる葛飾応為である。これは想像図ではなく、実際に書かれた絵をもとにした模型である。門人の露木為一の絵である。
Wikipedia「露木為一」
常設展は規模こそ小さいが、よく考えられた展示をされており、また作品も非常に興味深いものが多かった。一つが「北斎漫画」。有名な作品だったのであるが自分はこれまで知らなかった。門人のデッサンのお手本となるように作成したものだそうだが、北斎のユーモアが随所に感じられ、観ていて飽きない。皆様もぜひ一度ご覧あれ。
Wikipedia「北斎漫画」
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両国その16

2019-09-23 23:54:04 | 日本国内旅行(両国・2019)
さて美術館である。常設展の前に飾ってあったのが写真の絵。こちら何と126cm×276cmであり、かなりの大きさの絵である。スサノオノミコトが疫病神から『災厄を起こさないように』と証文を取っているところを描いたもので、神社に奉納された絵であった。本物は関東大震災で焼失し、こちららはレプリカである。さて、この絵を描いた時、葛飾北斎は一体何歳であったでしょう?
答えは86歳。この絵に限らず、海外でも名高い「富嶽三十六景」も作成は70歳台である。歳を重ねてからも作品数は著しく多く、また一貫しているのが「年を重ねても、常に新しいものにチャレンジしていく」という姿勢である。富嶽三十六景にしても、当時浮世絵で風景画を主題にしてシリーズにする、というのはあまり一般的とは言えなかった。彼のチャレンジが新しいジャンルを作ったのである。
Wikipedia「富嶽三十六景」
北斎は生涯に何回も名前を変えたことでも有名である。19歳で画業の道に入り、以降は勝川春朗、宗理、為一、最後は何と「画狂老人卍」と名乗ったという。各名前の時期で作風は異なり、本人が試行錯誤を繰り返しながら画風を進化させていったことが分かる。門人が伝えるエピソードとして、以下のものがある。

―ある門人が「一生懸命研鑽しているが、なかなか絵がうまく描けない」と嘆くと、北斎の娘の葛飾応為がそれに答えて曰く「私の父は子供の時から80歳を超えるまで描いているが、それでもこの間は『自分は猫一匹ですらまだ上手く描けない』と言って涙を流しながら嘆いていた。何事も『上手くならない』と嘆いている時が最も上達している時なのだ」。それを聞いていた葛飾北斎が「その通りだ。全くその通りだ」と言ったという。
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両国その15

2019-09-23 23:32:16 | 日本国内旅行(両国・2019)
そしてこちらが美術館の正面から。美術館の前は小さな公園になっていて、児童向けの遊具がおいてある。
さて、葛飾北斎である。先に「両国その4」で書いた通り、かなりの変人であったことは確かのようである。美術館で見終わった後に中で売っていた「葛飾北斎の本懐」永田生慈著も買ってみたので、その本からの情報も若干織り交ぜつつ書いてみたい。
Wikipedia「葛飾北斎」
葛飾北斎の生まれた場所は現在の墨田区内とされ、何回も転居しつつもおおむね墨田区内で生涯を過ごしている。美術館内の展示によると、本人は生前、「自分の祖先はあの『忠臣蔵』で討ち入られた吉良家の家臣で、討ち入りの時に主君を守って討ち死にしたんだ」と言っていたそうであるが、確かなことではない。有名なエピソードとして「やたらと引っ越しが好きで、生涯で合計93回も転居した」「身なりや金銭に全く気を遣うことがなかった」などがあるが、これらのエピソードはほとんどが1893年に刊行された「葛飾北斎伝」という書物に由来している。
この本は明治時代に飯島虚心という人物が葛飾北斎と生前交流のあった人物を訪ね歩いてまとめた本で、北斎研究に関しては現在でもバイブル的な本であるらしい。この本発行の段階で、北斎没後43年が経過していたので、直接の人物像を探るには文字通り「最後のチャンス」であっただろう。興味ある方はご一読あれ。
Wikipedia「飯島虚心」
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両国その14

2019-09-23 23:05:27 | 日本国内旅行(両国・2019)
見知らぬ場所を歩くときは迷走がつきものである。なぜか建物の裏側から着くことになった。御覧の通り、前衛的な建物である。すみだ北斎美術館は2016年の開館であるから、まだ3年しか経っておらぬ。内部の移動に階段は使わず、すべてエレベーターという面白いつくりになっている。何か建築でも賞を取ったりしているらしい。下記ウィキペディア参照。
Wikipedia「すみだ北斎美術館」
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両国その13

2019-09-23 22:57:20 | 日本国内旅行(両国・2019)
さて、先日出かけた両国なのであるが、
両国その12
時間がなく入れずに終わった場所で、どうにも引っかかっていたのが「すみだ北斎美術館」である。葛飾北斎、調べていけばいくほど魅力的な人物である。どんな人生を送り、どんな作品を残した人物なのか、一回確かめてみたくなった。かくてもう一回両国に足を運んでみた次第。江戸東京博物館を通り抜けた向こうに写真の看板が。行ってみることに。
両国その4
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両国その12

2019-09-01 23:48:27 | 日本国内旅行(両国・2019)
江戸東京博物館、予想外に盛りだくさんで、結局全部は見切れずに終わってしまった。最後は残った写真を適当に。上写真と下左から1枚目は当時の歌舞伎を再現したもの。江戸庶民の代表的な娯楽の一つであった。
Wikipedia「歌舞伎」

下左から2・3枚目:菱垣廻船。当時の代表的な貨物船で、3枚目にはこの船の名前の由来となった菱型の模様が見える。
Wikipedia「菱垣廻船」
同4枚目:高瀬舟。当時の川船である。東北地方から来た物資は銚子から利根川を上行し、関宿を経て江戸に持ち込まれた。いわゆる「内川廻し」と呼ばれた航路で、犬吠埼沖が船の難所であったため取られた方策である。この水路での主力船がこの高瀬舟であった。
佐原その4
Wikipedia「高瀬舟」
同5・6・7枚目:帰りのJR両国駅にて。大相撲力士の手形が並ぶ。貴乃花と曙の手形を見つけた。今は両名とも中々大変そうであるが。。。
Wikipedia「貴乃花光司」
Wikipedia「曙太郎」
同8枚目:同じくJR両国駅にて。トミカがプラレールで作った両国駅のモデル。ちゃんと国技館と江戸東京博物館も作られている。

短い間であったが楽しかった。たまにはこういう時間も必要である。

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両国その11

2019-09-01 23:35:34 | 日本国内旅行(両国・2019)
そしてこの博物館、「江戸」が「東京」へとなっていく過程、さらには現在に至る過程も見せてくれる。江戸末期、日本は列強の脅威にさらされ、海外の最新技術を必死になって取り入れようとする。上写真・下左から1枚目写真は「米利堅紀行(めりけんきこう)」と言い、万延元年の遣米使節に加わっていた小栗忠順の従者の一人がアメリカの事物を記録したもの。当時の人が全く未知の西洋世界に接し、これを必死になって記録しようとした努力の跡が伝わってくる。
Wikipedia「万延元年遣米使節」
横須賀その3
そして幕末へ。戊辰戦争が始まるが、江戸は勝海舟らの活躍もあってギリギリのところで戦場にならずに済んだ。そして明治維新。明治の街並みもここに再現されている。下左から2枚目は明治期に主要紙の一つだった「朝野新聞」の社屋、3枚目は当時の公衆電話である。
Wikipedia「朝野新聞」
そしてさらに奥まで行けば昭和の時代の東京、戦後の高度経済成長期の東京も見れるのであるが、今回は時間がなくそこまでは見れていない。




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両国その10

2019-09-01 20:26:40 | 日本国内旅行(両国・2019)
そして次は上水道。江戸時代初期の江戸の人口は15万人程度。これが江戸時代後期には100万人にまで膨張するのである。当時の江戸は世界でも有数の人口過密都市であった。そして大都市を成立させる条件の一つ、それが上水道である。あのローマも上水道が発達していたことはご存知の通りで、あの「トレヴィの泉」も上水道の終着点として作られたものである。
イタリア旅行その16 トレヴィの泉
Wikipedia「トレヴィの泉」
江戸幕府も急激に必要量の増した水を確保するべく努力する。そして立案されたのが、多摩川の上流から水を引き入れて上水道を作りだすという大計画である。これが玉川上水で、総延長43kmなり。しかもこの43kmで勾配はたったの92mである。当時の技術でどれほどの苦労が伴ったのかは想像に難くない。玉川兄弟という兄弟が担当したが、途中で計画は何度も頓挫する。しかし最後は兄弟の執念が上回り、見事に開通に成功した。
Wikipedia「玉川上水」
遠く羽村市から運ばれてきた水は、江戸市内の地中に埋められた水道管を通って各所に分配された。この精巧な技術も驚きである。上写真は市内に張り巡らされた水道管から井戸に分配されるジオラマ、下左から1枚目はその遠景、2枚目は江戸に入る前の水道(周囲には桜が植えられ、桜の名所となった)、3枚目は当時使用された木製の水道管、4枚目は先の長屋の脇に作られた当時の井戸の復元モデルである。板が渡してある下に木製の水道管が埋まっていた。
この上水、21世紀となった現在でも一部は使用されているのである。先人たちの苦労に思いをはせるべし。
ハイデン・コッコ ラーメン凛々

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両国その9

2019-08-31 23:59:49 | 日本国内旅行(両国・2019)
そしてこちらは商業のコーナー。上写真は有名な「三井越後屋」の模型である。ご存知の通り戦前は「三井財閥」へと発展して大きな企業グループとなった。あのトヨタ自動車や東レ、東芝、富士フィルムと言った名だたる大企業群ももともとは三井財閥に属していたのである。越後屋の本業は呉服屋であるが、三井越後屋から2文字を取って「三越」となり、百貨店へと形態を変えて21世紀の現在も存続していることは皆様も御存じの通り。下左から一枚目の写真は江戸時代後期に本当に使用されていた越後屋の看板である。
Wikipedia「三井財閥」
大企業に続いては江戸の小売業である。下左から2・3枚目は当時の寿司屋を再現したもの。今や全世界に広まった寿司であるが、当時の扱いは「ファーストフード」。今でいえばマクドナルドのようなものであった。左から4枚目は蕎麦屋さん。そして5枚目は野菜売りの天秤棒で、これもレプリカを実際に担いでみることができる。それほど重くはなかった。
南仏旅行その20 夜のニース市街
エストニア旅行その17 雑
寿司の作り方

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