スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

代官山その18

2020-02-23 00:27:58 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
あまり時間が取れた旅ではないので、もう早々に用事に戻ることになる。上写真と下写真左は東急線代官山駅。下右は西郷山公園の花壇である。

ほんの数時間の旅であったが楽しかった。またどこかに行ってみたいものである。

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代官山その17

2020-02-22 23:55:14 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
最後は庭に出る。屋敷は台地上に建っているので、自然と坂を下りながら屋敷を見上げる形になる。写真は庭のもの。

さて、虎治郎が東京府会議長(第17代)にまで上り詰めたのが1932年のこと。翌年に政界引退となるのだが、このころは木造の貸しアパート事業が全盛期だったころで、朝倉家もアパートを手広く手掛けた。またこのころに「猿楽興業」なる会社を朝倉家が設立、これがのちに現在も存続する「朝倉不動産」という不動産会社になっているのである。
しかし何事も良い時があれば悪い時もやってくる。やがて始まるのが太平洋戦争である。戦局は日を追って悪化、米の販売には統制が引かれるようになり、1943年に朝倉精米所は閉鎖された。そして終戦。戦後はすべてのルールが変わる。相続税、富裕税が朝倉家にのしかかり、大変な苦労を強いられる。この屋敷も売却され、旧農林省(大臣の公邸となっていた)を経て、経済企画庁の渋谷会議所となり、近年まで使用されてきた。下一番右は屋敷の出口であるが、内側から見ると「渋谷会議所」の文字が残っているのが分かる。
建物の文化的価値が見直され、重要文化財に指定されたのが2004年のこと。2006年からは渋谷区が管理団体となって現在に至るのである。
御徒町その19



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代官山その16

2020-02-22 23:42:04 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
最後は中央の大広間である。「第一会議室」と名付けられ、1階最大の広間である。朝倉家のこれまでの歩みを書いたパネルなどが置いてあった。上写真はここから庭を見たところ。下一番左写真が第一会議室の遠景、二枚目が「洋間」、玄関入ってすぐ右の部屋であるが、これは実際には執事の事務などのスペースであったようである。三枚目は玄関である。盆栽が飾られていた。

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代官山その15

2020-02-22 23:12:25 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
階段を下りて1階へ。今度は建物の西側に入る。家人が暮らしていたプライベートのスペースである。「杉の間」と名付けられた部屋が3つ並ぶ。落ち着いた部屋ではあるが、やはり手がかかっており、小さな襖の絵も手が込んでいる。上写真は「杉の間」近くの窓から母屋を眺めたところ。母屋の屋根が上向きにカーブしているのが見えると思う。これを「起り屋根(むくりやね)」という。

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代官山その14

2020-02-22 22:09:48 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
2階の中央にはかなり広い広間が取られている。虎治郎が公職にあった時、公式の会合などにこのスペースを使用したのだという。柱には良質のヒノキが使用されている。襖の絵の保存状態も良好で、品の良い空間である。

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代官山その13

2020-02-22 21:49:29 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
2階の窓から見える景色である。

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代官山その12

2020-02-20 23:58:09 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
応接間を通ったあと順路は2階へ。2階は1階よりもだいぶん手狭である。上写真は2階の廊下。ここからの眺めも綺麗であった。

応接間は別として、1階は基本的は家族が暮らすスペースであった。これに対して2階は主に来客を通し、陳情などを聞く場所であったと伝えられる。応接間にも絵があったが、2階にも襖絵が飾られていた。この邸内の絵は狩野永信の教えを受けた日本画家、小猿雪堂(こえんせつどう)が描いたものと伝えられているそうである。一般に襖絵というのは保存が悪いとたちまち消えていってしまうもののようだが、旧前田邸和館などと比べると、かなり良好な保存状態のようである。
Wikipedia「狩野永信」
駒場公園その24
駒場公園その22

下写真は左から順に2階に向かう階段、階段を昇ったところ、2階の部屋の一つ、小猿雪堂の襖絵である。


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代官山その11

2020-02-20 23:42:52 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
前述の如く、この屋敷を建てたのは東京府会議員、さらには府会議長まで務めた朝倉虎治郎という人物である(当時は東京「都」ではなく東京「府」であった)。愛知県の出身で、東京で働いて頭角を現し、朝倉家に入婿として入ったのである。
Wikipedia「朝倉虎治郎」

虎治郎は材木店で働いた経験もあり、屋敷に使う材木に至るまで自分で選定したのだという。まずは玄関を入って左に曲がる。廊下に出る。上写真のごとく左手には庭が広がっている。もともと台地の端を屋敷にしたので、見晴らしがよいのである。外側は障子紙のかわりにガラスをはめ込んだ戸となっているのだが、下を見ると(下左から2枚目)、レールとなっているのは金属ではなく、堅木を細く切ったものである。比較的珍しいという。
この廊下の右手にあるのが応接間である。確かに窓から見える庭園も綺麗なので、お客さんを通すには良かったのであろう。応接間のつくりは書院造りになっている。下写真は左から入ってすぐにあった木製の飾り、レール、廊下、あとの3枚は応接間である。




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代官山その10

2020-02-20 00:29:12 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
さて西郷山公園から駅に向かって、今来た道を戻る。先のヒルサイドテラスまで戻って来たところで、その裏にある屋敷に入ってみる。
代官山その3

並んだ木々の奥に、古い品格のある建物が現れる。これこそが大正時代の朝倉家の当主、朝倉虎治郎が建てた屋敷、旧朝倉家住宅である。
Wikipedia「旧朝倉家住宅」
この屋敷の建設が始まったのが1918年。ちょうど100年ちょっとが過ぎたことになる。関東大震災で東京の多くの建物が被害を受けた中、この建物は奇跡的に少ない被害で済んだ。大正期の邸宅の姿を現在に伝える数少ない建築であり、重要文化財に指定されている。

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代官山その9

2020-02-19 00:19:26 | 日本国内旅行(東京・代官山2020)
丘から下に下ると、比較的急な斜面があり、そこを道が通っている。ここからさらに下に降りて進むと、菅刈公園に行けるはずである。
Wikipedia「菅刈公園」

菅刈公園こそ西郷従道の邸宅があった場所で、庭園や池などが復元されている。ただ肝心の邸宅(洋館)はすでに移築されている。移築先は愛知県犬山市にある「博物館明治村」。ここで重要文化財に指定されている。
Wikipedia「博物館明治村」

そして余談。この屋敷と庭園、有名な物語の舞台となっている。三島由紀夫の「豊饒の海」の第一巻、「春の雪」に詳細に記されている松枝侯爵邸のモデルこそ、西郷従道邸と言われているのである。主人公・松枝清顕と綾倉聡子のロマンスが繰り広げられる訳だが、確かに調べると菅刈公園、池の中に島があったようだし、この西郷山公園は斜面に滝が作られている。いつか博物館明治村の方にも行って見たいものである。
豊穣の海
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