今年の最後に。行ったところを少し書き残しておきたい。川崎市登戸にある「藤子・F・不二雄ミュージアム」に行った。小田急線の登戸駅は上から6枚目写真のごとくすっかり「ドラえもん」仕様になっている。駅からは直通のバスが出ていた。
藤子・F・不二雄の本名は藤本弘。富山県高岡市の出身で、幼少期は病弱でいじめられっ子であった。後年「ドラえもんの『のび太』のモデルは自分自身である」と明かしている。ちなみに、「ドラえもん」でジャイアンの妹・ジャイ子の本名を絶対に明らかにしなかったのは「名前を付けると、同じ名前の女の子がいじめにあう危険性がある」と考えたからだそうな。
ただ絵を描くことはずっと好きであった。漫画を描くことに熱中し始め、同級生の安孫子素雄と意気投合し漫画家への道を歩み始める。のちに作品の中でドラえもんに「なにかしようと思ったら、そのことだけに夢中にならなくちゃだめだ」と言わせている。上京してコンビで「藤子不二雄」と名乗り、数多くの名作を世に生み出した。安孫子とのコンビの中でも「ドラえもん」「パーマン」などが藤本の作である(安孫子の作は「忍者ハットリくん」「笑うせぇるすまん」など)。上京して家を構えたのがここ川崎で、ここから都心に毎日通い続けていたという。亡くなった後にご遺族から原稿などを寄贈されて、川崎市が作り出したのがこのミュージアムである。
ミュージアムは予約制で、ローソンでチケットを買う必要がある。藤子・F・不二雄の作品、家庭のことなどが多数展示されている。徹頭徹尾読者のことを考えた人であった。例えば最初の「ドラえもん」がスタートした時、小学生向けの雑誌に連載されたが、複数の学年向けの雑誌に同時に連載開始になった。すると藤本は小学校の各学年別にすべて異なったストーリーを準備して連載したのだという。国内で大ヒットし、のちに中国、タイなどでも大人気となった。中国では新規に発見された恐竜の足跡の化石にのび太にちなんで「ノビタイ」と名付けられるということもあった。発見した教授が「ドラえもん」のファンだったのだという。
Wikipedia「エウブロンテス・ノビタイ」
家庭では3人の娘さんに恵まれた。子供思いの父親であり、子供たちに「おおかみと三匹のこぶた」の人形劇を見せるために小さな人形を手作りしたりした(その人形もミュージアムに残されている)。またアシスタントなどにも心優しく丁寧な対応をする人であった。人格者であったようである。ただワーカホリックであった。手塚治虫、石ノ森章太郎なども極度にワーカホリックであったが、大体60歳前後で死去している。藤子・F・不二雄も胃癌、肝臓癌を発症し闘病、1996年、自宅で倒れてしまう。倒れた時も机に向かって鉛筆を握ったままであったという。同年死去。62歳であった。
藤子不二雄とくれば「ドラえもん」や「パーマン」などほのぼのした作品が有名である。ただ彼は終戦時に小学校6年生であり、敗戦後の社会の理不尽も体験しており、それを反映した独特な不思議なテイストの作品も多数残している。「定年退食」「カンビュセスの籤」「ミノタウロスの皿」など、一読をお勧めする(食べることに関する作品が多いように思う)。ミュージアムの中に立ち読みスペース(上から5枚目写真)もあるので、ここに居座って漫画を読みふけることも可能である。
予約制で感染リスクが少なさそうである。また内部のコンテンツも本当に楽しめるように上手く作られており、お勧めできる。皆様もぜひどうぞ。
Wikipedia「藤子・F・不二雄ミュージアム」
Wikipedia「カンビュセスの籤」
Wikipedia「ミノタウロスの皿」