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豊饒の海【第四部】「天人五衰」読了!

2006年01月09日 21時02分08秒 | ぶつぶつ
大正時代の華族の生活を描いた「春の雪」から続く物語は昭和50年、すなわち1975年7月22日に聡子のいる月修寺にて幕を閉じる。つまり、三島由紀夫が執筆前に語ったように「未来」のことを書いているのである。なぜ、彼は未来を描いたのか、それもそう遠くない未来を・・・。

1970年11月25日、三島由紀夫はこの「天人五衰」の最終稿を書き上げた後、東京の自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決する。実は物語の中における1970年11月末という時期が第四部においてとても重要な位置を占めていることはあまり多く語られていない。本文には11月23日の二三日前と記されているその日、家庭教師の古沢が後楽園遊園地近くの喫茶店で安永透に「自己正当化の自殺」についての思想を教えた日である。更に1970年という大きな枠組の中で捉えれば、本多が「安永透を養子に迎え入れる」という過ちを犯した年なのでもある。

本多が透を養子に迎え入れる直前、三島は本多の脳裏に「或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるという天賦に恵まれている・・・なんという至福だろう・・・ああ、永遠の肉の美しさ!」という思念を抱かせている。これこそが作家・三島由紀夫本人の内に秘める心の闇であり、それを選択しなかった(平岡公威の分身である)本多の過ちは、安永という「幻」に翻弄され醜い老いに呑み込まれていくのである。

この章のタイトルである「天人五衰」とは、一体いかなるものか?本文において「天人命終の時に現れる五種の相衰のこと」と記され、五衰は大小幾つもの説に分かれる旨の説明がなされているが、いちばん最後に示される大の五衰がいちばん簡潔に書かれているので書き写してみる。

1浄らかだった衣服が垢にまみれ
2頭上の華がかつては盛りであったのが今は萎み
3両腋窩(えきか)から汗が流れ
4身体が忌まわしい臭気を放ち
5本座に安住することを楽しまない

安永透は「自己証明の自殺」を実行するも未遂に終わる。その後、メタノールを服毒した事による後遺症から失明し、狂女絹江の元で、彼女がバラ巻いた立葵の乾いて萎えた花に取り囲まれながら、潔癖であった筈の彼が、夏の暑い日にも関わらず連日連夜同じ白絣(しろがすり)を着たままの小汚い姿で胡坐を書いて座り、ドブの様な異臭を放ち、腋下に汗を滴らせる日々を送っていた。すなわち、五衰の姿そのものであるにも関わらず、安永透は死することなく、更に20歳のうちの死をも通り過ぎたことで、彼が天子でも清顕の転生の姿でもないことが逆説的に証明される事となったのである。

「純粋な悪」として語られる安永透は本多の親友・慶子によって「あなたは自分が才能に恵まれた特別な人間と思っているようだけど、全然そんなことはない」という意味のことを延々と諭される。「転生者=三島由紀夫」という図式がこの章でも残っているのならば、それは作家・三島自信の自己への懺悔のようにも聞き取れる。

しかし、問題なのはそれだけではなく、それはつまり「本多=平岡公威」に対する「転生者=三島由紀夫」であり、本文で明らかにされるように本多と安永の精神構造が同じであることから「三島由紀夫=平岡公威」であることが密かに提示されるのである。

果たして三島由紀夫は自己の一体何を証明するために自殺を図ったのであろうか?全四部を読み終えた今、この「豊饒の海」という作品は彼が綿密に作り上げた遺書に思えて仕方がないのである。

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