【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:永観堂禅林寺」
東山三十六峰の1つ 永観堂禅林寺 総門→中門(江戸中期に再建)→伽藍 中門右手弁天池には弁財天が祀られる 池の西側岩垣もみじ もみじの名所永観堂でも見応えがある 平安時代からもみじの名所 藤原関雄の別邸だった 官僚試験に合格大臣になる資格を得るが、宮仕えせず和歌にいそしむ
今回は是非行ってみたいと思っている永観堂(永観堂(Eikando,Kyoto))。後に出て来るみかえり阿弥陀様を見たいからなのだけど、こんなに紅葉が素晴らしいとは思わなかった。藤原関雄(Wikipedia)はかなり風流な方だったようで、そういう方の別邸なのであれば、納得という感じ。もみじの頃に行ってみたい。
多宝塔 山の斜面に回廊=臥龍廊 → 開山堂 真紹僧都開祖 853年真言宗の寺として創建 瑞紫殿 阿弥陀如来坐像 1467年応仁の乱 5体の阿弥陀如来のうち4体が焼失 残る1体 手に焼け跡残る=火除けの阿弥陀
現在は浄土宗の禅林寺、そもそもは真言宗の寺として真紹僧都(Wikipedia)開山。浄土宗に変わった経緯については後に出て来るけど、1人の僧侶により寺の宗派が変わってしまうというのも不思議な感じ。とはいえ、もともとは仏教という部分で共通であって、そのアプローチが違っているからということなのかな?
唐突に阿弥陀如来が5体とtweetしちゃってるけど、要するに5体の阿弥陀如来が京都の各地に安置されたという部分が抜けてしまった。確か、この真紹僧都によって置かれたと思ったのだけど、聞き逃した 応仁の乱(Wikipedia) で京都は戦火に包まれてしまい、4体が焼失してしまったのだとか。残念
御影堂 寺で一番大きい 大正時代に再建総瓦ぶき 現在は浄土宗 真言宗=空海 人は仏になれる 浄土宗=法然 念仏により救われる 極端な宗派の転換 平安時代 永観律師(ようかんりっし) 奈良で修行浄土教に目覚める 法然が浄土宗を開く100年前 幼い頃を過ごした禅林寺に入る
真言宗(Wikipedia)の開祖空海(Wikipedia)と、浄土宗(浄土宗|公式サイト)の開祖法然(Wikipedia)の教えは一見全く真逆に見えた、永観律師(Wikipedia)は奈良での修行中、浄土教に目覚めた。法然が浄土宗を開く100年前から浄土教という教えはあったってことなの? なかなか難しい
maru ◖ฺ|´⌣`*|◗·˳♪˚♫ @maru_a_gogo
禅林寺に入った10年後、念仏行を1人で行う 明け方永観の前を歩き念仏行道を行う阿弥陀如来の姿 驚く永観に「永観、遅し」と声をかける。仏は苦しむ人々と共にいると永観が悟った瞬間 その時の姿を現したのが見返り阿弥陀 みかえり阿弥陀を祀ったのが永観堂 豊臣家から移築
永観は1日6万回念仏を唱える修行を行っていたそうで、その際永観の前に阿弥陀如来が姿を表したという有名な話。「永観、遅し」と声を掛けたと言うと、永観を叱責しているように感じるけど、たしか永観堂のみかえり阿弥陀の英語の説明文だと「Eikan,Follow me」となってるんだよね? となると、これは激励しているということなのかも? なので、永観も苦しむ人々と共にいると感じたのでしょう。
豊臣の誰のどこから移築されたのか聞き逃し 秀吉と秀頼ではなかった気がする・・・ ちょっと調べてみたけど分からず(´・ω・`)
みかえり阿弥陀 鎌倉時代作 75cm 来迎印 極楽浄土から阿弥陀如来が来迎する時の姿 永観の前に現れた時の姿を模している
75cmと意外に小さなお姿なのね・・・ この阿弥陀様その見返っているお姿に気を取られてしまうけれど、本当に美しく慈愛に満ちたお姿をされている。この清らかで永観を導こうとされているお顔。素晴らしい 実物絶対見に行く!!
永観 浴室を設ける 現在のサウナのようなもの 病に苦しむ人々を救う 悲田梅 病に苦しむ人々のために梅を与える 鴨長明→永観の人柄を書き残す 宗派や教義にとらわれずに人々を救う 人々は親しみを込め、禅林寺を永観堂と呼ぶ
浴室は写真のもの。病に苦しむ人々をサウナのような浴室に入れると何故病気が治るのかがイマヒトツ分からないのだけど、念仏行道でみかえり阿弥陀様のお姿を見た後、人々を救うために尽力したのはスゴイ。
鴨長明(Wikipedia)が永観のことを書いたのは、何という随筆だったか聞き逃し。仏教説話集だというから「発心集」(Wikipedia)かな?
浄土宗 厳しい修行を否定するものとして法然は仏教界から弾圧 禅林寺の住職静遍 浄土宗を否定する目的で学ぶ 学ぶうちに考えが変わる 法然の教えと、永観の教えに共通点を感じる 人々を救うこと 11代を永観とし、自らを12代として、既に永観は亡くなっていたが弟子入りした
静遍(Wikipedia)は法然の「選択本願念仏集」(Wikipedia)を読んで感動したのだそう。真言宗の寺として始まった禅林寺が、浄土宗に変換したのは永観によるものなのかなと思っていたのだけれど、この静遍の時点でも迷いがあったってことなのかな?
山越阿弥陀図 静遍が描かせる 阿弥陀如来来迎図 観音菩薩と勢至菩薩が向き合って描かれる 山越阿弥陀は数多く描かれたが、禅林寺のものは傑作であり異質 左上に大日如来を表す梵字の阿 ←理由は聞き逃す
山越阿弥陀図(山越阿弥陀図(やまこしあみだず)とは|コトバンク)はどこかのお寺でも見た気がする。手前の雲に乗っておられるのが右が観音菩薩で、左が勢至菩薩。このお姿はいいね。左上が問題の阿。
唐門 天皇の勅使が出入りした=勅使門 庭園 修行僧により砂が毎朝整えられる 小判型の市松模様の盛り砂 勅使は盛り砂を踏んで清めた 月明りを反射させ明り取りとしていた?
要するに唐門から入ると目の前に小判型の盛り砂がある。かなり大きい。この盛り砂の上の部分が市松模様になっていて素敵。勅使はこれを踏んで進んだそうだけれど、もったいない 月明りを反射させたというのは素敵な話。
盛り砂を進むと釈迦堂 釈迦如来像 鎌倉時代に入って来た宋文化が色濃く反映 四季の間の襖絵 狩野永徳の一門 桜 虎の間 長谷川等伯の一門 竹虎図 上段の間 勅使を迎える部屋 仙人の間 仙人図 鯉に乗り天を駆ける仙人
要するに唐門から釈迦堂に入る際に、盛り砂で清めたということ。ここに安置されている釈迦如来様は宋文化が色濃く反映しているそうだけれど美しかった! 釈迦堂には当時の有名絵師たちが腕を競い合ったらしく、襖絵はどれも素晴らしかった。狩野永徳(Wikipedia)一門のもさすが狩野派(Wikipedia)だったけれど、長谷川等伯(Wikipedia)一門の竹虎図が良かった! 仙人の間の絵師については紹介がなかったので不明なのかな?
与謝野晶子の歌碑 みだれ髪にも収録 人生の分岐点に永観堂を訪れる 明星で短歌を発表名声を得た頃、与謝野鉄幹に山川登美子と共に永観堂旅行に誘われる 登美子と晶子はライバル関係 妻子持ちの鉄幹と三角関係にあった 永観堂を訪れた時、鉄幹への熱い思いを歌う
正直、与謝野晶子(Wikipedia)と与謝野鉄幹(Wikipedia)の恋物語についてはビジュアル的にグッとこない(失礼)のだけど、確かに芸術の生まれる背景としては興味がある。短歌(Wikipedia)は全然分からないのだけど、やっぱり文学は芸術だものね。山川登美子(Wikipedia)は名前しか知らなかったけれど、三角関係だったのね? っていうか、鉄幹妻がいたなら四角関係なのでは? と、意外にドロドロした話題で終わる永観堂でした(笑)
古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます