まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
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ポーランド公レシェク2世妃 グリフィナ

2014-02-24 19:46:26 | ポーランド王妃
肖像画で損してるかもしれない…
レシェク2世妃 グリフィナ・ハリツォカ


1248~1309/在位 1279~1288

コンラト1世とヘンリク2世の血をひくレシェク2世の妃は
ハールィチ公子ロスチスラフとハンガリー王ベーラ4世王女アンナの公女グリフィナです。
        
ボレスワフ5世がアレンジして、1265年に結婚しました。

レシェク24歳、グリフィナ17歳ですね。
むちゃくちゃな年の差で結婚させられてしまう王女たちがいることを考えれば
バランスがとれている夫婦だと思うのですが、この二人、6年後には別居します。

グリフィナは「夫が不能なので!」と公式に断言しました。
これに対してレシュクは「そんなことない!!」と完全否定。
国を巻き込んでの大がかりな夫婦喧嘩ですが、他の理由にしとけなかった?

結局、ボレスワフ5世が4年後に二人を強制的に復縁させたわけですが
恥ずかしいことを公言しちゃった嫁と仲良くできるわけないと思うけど…

1285年、レシェク2世に対する反乱の時には、グリフィナはクラクフのヴァヴェルに避難して
市民の保護下に入りました。

1287年、モンゴルの三回目の侵攻の時には
レシェク2世とグリフィナはハンガリーに逃亡しました。

いろいろありましたが、度重なる大きな危機に
「こりゃ夫婦喧嘩してる場合じゃないな」と、関係が修復されたのかもしれませんね。
ただ、グリフィナの言ったことが正しかったのか嘘かは別にして、二人にお子はいません。

1288年にレシェク2世が亡くなると、グリフィナの甥にあたるヴァーツラフが
ポーランドの後継者争いに名乗りを上げました。
この件にグリフィナが絡んでいるのかどうかは不明です。

グリフィナは未亡人になると、スタリソンチのクレア派の修道院に入りました。
この修道院の院長は聖キンガです。
家系図は省いたけど、聖キンガは、グリフィナの母アンナのお姉様にあたります。
キンガの死後はグリフィナが修道院長になりました。

1300年、甥のヴァーツラフと婚約したプシェミスル2世の王女リクサ・エルジェビエタの
監督役としてボヘミアまで付き添いました。

グリフィナの没年ははっきりしていませんが、たぶん、1509年と言われています。
ポーランドではなく、プラハのクレア派修道院に葬られました。

肖像画はなんだか恐ろしそうな女性に見えますね。
だけどこれは、レシェクとケンカしてる場面の絵なのでしかたないと大目に見てほしい…
いくら伯母がいるからって、清貧がモットーのクレア派修道院に入っているあたり
無欲で心優しい人だったかもしれないじゃない?

それにしても、 ハンガリー・ポーランド・チェコと、東欧の王侯家の関係は
どんどん複雑さを増していきますね。
さらに、ロシアやドイツも加わり、家系図に書ききれない… 頭の中がぐちゃぐちゃ~

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
少女時代と2NE1の同時カムバック、目が離せないわ! 各音楽番組も華やかになりそうですね
SMとYGから所属アーティストが応援にかけつける…なんてことないかしら?
コメント
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