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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



堺事件で有名な妙国寺は、三好長慶の弟、三好義賢(実休1527~1562年)が寄進した土地に、開基の日上人の父、油屋伊達常言が常塔伽藍を寄進、1568年に完成していますので、奈良、京都の寺院に比べると歴史は浅いといえます。



三好義賢(実休)は、寄進した土地に、1560年頃に寺のシンボルとなる大蘇鉄の株を古里の阿波から取り寄せて植えたと伝わっています。

本堂



その見事な株を見た信長は、1576年に安土城に大蘇鉄を移植させていますが、不思議な現象があったために戻されたという伝説が残っています。



1582年本能寺の変の直後には徳川家康が、さらに豊臣の天下となった1585年には大友宗麟が滞在、家康の和歌(妙なるや 国に栄ゆる 蘇鉄木の 聞きしに勝る 一もとの株)も残っている堺屈指の有名寺院です。



この蘇鉄は、国指定の天然記念物として現存していますが、最近樹勢が衰えてきたようで、再生回復事業が始まっていました。



さて、妙国寺完成から47年後の大坂夏の陣(1615年)で、豊臣方の大野道犬によって堺は焼き打ちされ、妙国寺の伽藍も焼失しています。

古い手水鉢



その直後、徳川幕府から派遣された風間六右衛門は、焼失した堺の地割を担当、現在の場所に妙国寺の敷地が割り当てられ、1627年の本堂以降、1711年までかけて伽藍の再建が完了しています。

本堂横の龍神



江戸期には霊元天皇(在位1663~1687年)の勅願寺となり、その格式の高さから維新直後にあった堺事件での切腹者(罪人)の埋葬を断っています。

北門



今の妙国寺は、堺事件での切腹場所として有名になり、本堂奥の収蔵庫にその関係資料が展示され、また本堂南側には、切腹志士の慰霊碑が建立されています。

英士割腹跡の碑



本堂の南縁側には、切腹を免れた横田辰五郎が描いた絵のコピーが展示されていて、そこには瓶ではなく20人分の棺桶のようなものが描かれていました。

慰霊碑



妙国寺は、1945年7月にあった堺大空襲で再び伽藍の大半を焼失し、1973年、本堂等が再建されています。

参考文献:本山 妙国寺縁起(広普山妙国寺)


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