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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



いまから672年前の西暦1338年の春、弱冠21歳の北畠顕家率いる軍勢は、奥州(宮城県多賀城市)から足利の勢力下にある関東、東海、奈良と苦戦しながら大坂の天王寺に入っています。

天王寺にある四天王寺



天王寺付近では足利方の細川顕氏軍を一度破りますが、援軍として繰り出してきた足利尊氏の執事(ナンバー2)高師直の率いる大軍と戦い北畠軍は敗北、堺の石津川まで後退を余儀なくされています。

石津川



2年前には破竹の勢いで足利尊氏を破った北畠勢ですが、この2年間で南朝(後醍醐天皇)の政治への民衆の支持が急速に萎んでいたのが敗因でしょう。

橋の南側、樹木の下に北畠顕家石碑がある



北畠顕家は、陸奥からここまでの転戦の途中、南朝の政治へ失望した民衆をつぶさに見て、亡くなる直前に後醍醐天皇(当時51歳)へ上奏文を提出しています。

石津の北畠顕家石碑



その内容は、地方行政組織を整備すること、租税を免除して民の負担を減らすこと、官職への登用を慎重に行うこと、高級公務員(公家や高僧)への恩賞は慎重にすること、天皇の宴遊を中止すること、法を厳格にすること、国政に害のある人を免職することの7件です。

五輪塔



当初、民衆は北条政権に代わる後醍醐天皇の「建武の中興」に期待し、後醍醐天皇側の北畠軍は、そのバックアップによって足利軍を破ったのですが、それから2年間の政治で完全に裏切られたと感じていたのです。

五輪塔の名



自民党を破った民主党への期待が急速に萎んでいる今日と実によく似た状況が672年前にあったことに驚かされます。

石津の北畠顕家石碑前の由緒書き



数え年で僅か21歳(満年齢なら20歳)の若者が、30歳も年長の後醍醐天皇に諫言をしなければならないほど新しい政治(建武の中興)は乱れていた訳ですが、はたして自民党に代わった民主党は大丈夫でしょうか。

北畠顕家石碑前の紀州街道(大阪方向)



さて、天王寺から圧倒され続けた北畠軍は、紀州街道に沿って南に後退、主従僅か12名が最後の地となった堺の石津浜で切腹したと地元の古老が語っていました。

大阪阿倍野区にある北畠顕家の墓石



切腹した北畠顕家の首は、阿倍野にある高師直の本陣に運ばれて首実検され(石津浜での伝承)、その地は今も北畠顕家の墓所とされています。

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