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建武の中興(1334年)から僅か3年しかたっていない、建武3年(1336年)足利尊氏は一度追われた九州から盛り返し、楠木正成、新田義貞を破って京に入り、後醍醐天皇を幽閉しています。

賀名生皇居前のバス停



しかし後醍醐天皇(1318~1339年)は、京都を脱出、大和の五條から賀名生を経て吉野に移り、1336年から日本史の南北朝時代がスタートしたのです。

梅の名所でもある賀名生



それから12年が経過した1348年、足利軍と楠木勢を主力とする南朝軍が戦った四条畷の合戦で南朝が敗退、楠木正行が戦死、足利軍はその勢いで吉野を攻撃しています。

賀名生の里歴史民俗資料館



後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇は、吉野を捨て、かつて父が立ち寄った賀名生に粗末な御所を建てて移り、皇后や女院は、柴を葺いただけの雨漏りのする庵に住んだと太平記は、その哀れな境遇を描いています。

賀名生皇居跡石碑



賀名生では、公卿、殿上人達も、木の下や岩の陰に松の葉を葺き掛け、苔の筵を敷いて宿とし、その家来達はさらに悲惨な状況だったようですが、すぐに伊勢国を支配していた北畠顕能(北畠親房の三男)からの援助があったようです。

賀名生皇居だった堀家の遠景



賀名生に滞在すること4年、1352年に足利尊氏と直義兄弟の抗争(観応の擾乱)をきっかけとして、後村上天皇は賀名生を出て、石清水八幡宮のある男山に移っています。

堀家の門(重要文化財)



1352年、京に入った南朝軍は、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、皇太子を捕らえ、河内の金剛寺を経て南朝の本拠地、賀名生に2年間幽閉したのです。





しかし、南朝軍は足利軍との戦いにまたしても破れ、後村上天皇は苦戦しながら4か月後に男山から南朝の根拠地、賀名生に再び戻っています。

堀家の前が賀名生の里歴史資料館



1354年には北畠親房が賀名生でその波乱の生涯を閉じたことをきっかけに、後村上天皇は賀名生から河内金剛寺に6年間(1359年まで)行在所を移しています。

親房の墓



後村上天皇は、その後も河内、住吉などに行在所を移して転戦していましたが、1368年に住吉御所で崩御、その転戦の期間を含め生涯の約半分の20年間、賀名生を本拠としていたのです。

賀名生の里



後醍醐天皇が吉野に移って南朝を建て、吉野を追われるまでの吉野朝廷は12年、吉野を追われて後村上天皇崩御まで賀名生を本拠地とした期間は20年、日本史の南朝とは吉野よりも賀名生に永く置かれていたことになります。


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