此花区の先端にある桜島は、対岸の大阪築港と並行して1904年(明治37年)5月~1908年9月にその大部分が、さらに1908年と1923年にも沿岸部分の一部が数回に渡って埋め立てられている。
天保山大橋から見た桜島
大阪市は、埋め立てられたその桜島地区に1907年(明治40年)5月上屋2棟、倉庫2棟を建設、その全面に横桟橋2基を翌年3月に建設完成させている。
現在の市営1号上屋
今でも桜島埠頭には、巨大な市章を外壁に描いた大阪市営の1,2号上屋があり、港町独特の雰囲気を残している。
市営2号上屋
1908年(明治41年)12月三菱倉庫は、大阪市が築造した上屋と倉庫を借り、桜島で業務をスタートしているので、今年がちょうど100周年となるようである。
三菱倉庫桜島営業所
今でも、JRゆめ咲線の桜島で下り、天保山大橋の下を通って桜島3丁目に入ると三菱倉庫の巨大な文字を目にすることになる。
100年前の主要な貨物は、インドから輸入する綿花と綿実で、荷捌き量は日本の綿紡績業の発展とともに急増することになる。
三菱倉庫の桜島倉庫は、1916年(大正5年)の4800坪が1921年(大正10年)に8100坪と5年で倍増しているのである。
安治川
この経済発展を見て桜島の先の梅町地区の埋め立てが、1924年(大正13年)頃から着工され、1931年(昭和6年)頃には完成している。
しかし、1934年(昭和9年)9月に来襲した室戸台風では、大阪港の潮位が5,3m、中之島でも3,7m、道頓堀で3,9mまで上昇し、建物流失1万7千戸、死者行方不明1888人という甚大な被害を出している。
海遊館のあるハーバービレッジ地区
大きな被害を受けた三菱倉庫は、2年後に防水性を徹底的に高めた倉庫(現在のD、E倉庫)を建設しているが、これが14年後のジェーン台風の際に役に立つのである。
DE倉庫
1707年(宝永4年)10月、大阪市内は地震による津波に襲われ541人が溺死している。
桜島桟橋の防潮堤
それから147年を経た1854年(安政元年)、11月にも大阪市内は地震による大津波(高さは3mを越えていたと記録されている)を受け272人が溺死している。
桜島から見た海遊館
現在、その安政地震から154年が経っているので、次の津波が来る可能性は高まっているのではなかろうか。
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