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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昭和18年11月下旬、水雷艇 鵯(ひよどり、排水量840トン、全長87m)は、ラバウル近海での戦いを終え、艦橋を腐食しやすいアルミ合金から鋼鉄製へ取り換える工事のため母港舞鶴に戻ってきています。昭和18年の大晦日にあった鵯の話を長居植物園の冬バラを一緒に紹介しましょう。

アメリカ軍との戦いが熾烈となっていた中、舞鶴海軍工廠の着工会議では、年内12月31日に工事を完工させ、同日(大晦日)に南方に向けて出港させることに決定しています。

そのとき艇長の小谷正春少佐は「これだけの大工事をそんな短期間では無理だろう。年を越しても良いから、ちゃんとした仕事をしてもらいたい」と発言。

しかし、海軍工廠の幹部は「工廠は、やると決めた仕事はちゃんと期限通りやる」ときっぱりと言い。さらに各部門の担当者に「一日でも繰り上げるように努力しろ」と指示しています。

海軍工廠の各部は、不眠不休の体制で工事に当たり、12月30日の夜には進藤技術少尉が水雷艇 鵯の先任将校と立会検査を行い、完工の確認を済ませています。

ところが、翌12月31日大晦日の夕刻、進藤少尉に「舞鶴鎮守府機関参謀から残工事のために水雷艇 鵯の出撃が伸びるとは何事かっ!、至急手直しして一刻でも早く完工させよ」と、叱責の電話が入るのです。

進藤少尉は、すぐに沖合の水雷艇 鵯に向かい、鵯の先任将校に会うと、「ジャックステー」(部材の固定金物)の付け落としがあると聞かされます。

進藤少尉は、「立会検査のときになぜ言ってくれないのです。今朝にでも私にひとこと言ってくれれば、今頃はとっくに手直しできているはずです。些細な残工事にいいがかりをつけて出撃を伸ばすとは卑怯ではありませんか」と、先任将校を押しのけて小谷艇長に向かって言ったそうです。

艇長は苦しそうな顔で「君にはすまないことをしたが、怒らないでくれ」と言うので、「手直しはすぐします。でき次第出撃して下さい。出港準備をすぐ始めたらどうですか」と、進藤少尉は捨て台詞を残して鵯を離れています。

つづく

参考文献:小さな英雄 水雷艇 鵯から「鵯事件」進藤洋三著

 



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伊丹市昆虫館には、マダラチョウの仲間としてはやや小型のツマムラサキマダラがいます。

このツマムラサキマダラ、翅を閉じて止まっているとき黒っぽい色をした地味な蝶です。

明るい太陽の光のもとでは、胴体は黒ですが翅が茶色に見えます。

しかし、一旦翅を開くと、内側にメタリックなコバルトブルーが見えてきます。

角度によって、そのコバルトブルーの見える範囲が変化しますが、♂の方が広いようです。

ここからはツマベニチョウの紹介です。ツマベニチョウの♀

これもツマベニチョウの♀がホバリングしながら蜜を吸っていました。

ツマベニチョウの♀とオオゴマダラ

こちらがツマベニチョウの♂



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伊丹市昆虫館に行けば、冬でも沖縄地方に生息する蝶の写真を撮ることができます。・・・ツマベニチョウの♀(上)と♂(下)

ツマベニチョウは、漢字で褄紅蝶と書くように、翅を着物と仮定して褄(着物のすその左右両端)の部分が紅色をした大型の蝶です。この蝶の褄は、太陽の光が強いと紅色に見えますね。

しかし、その褄は太陽光線が弱いとオレンジ色にしか見えません。・・・ツマベニチョウの♂。

こちらはツマベニチョウの♀。褄の色が薄いのが特徴です。

翅を着物と仮定すれば、着物の場合に外側になる褄とは反対に、ツマベニチョウの紅(オレンジ)色の部分は内側となるようです。・・・着物を合わせる前の状態のツマベニチョウ

ツマベニチョウの♀

このツマベニチョウ♀は、翅がボロボロになっているので、かなり高齢の蝶ではないでしょうか。

翅の損傷が少ない蝶(ツマベニチョウ♀)は、新鮮な蝶と呼ぶようです。どうも野菜のような呼び方ですね。

新鮮な♂のツマベニチョウです。



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中之島公園の冬バラを紹介したあと、長居植物園のバラ園が気になってしかたがありません。・・・これが長居植物園の冬のバラ

そこで、天気の良い日を選んで訪ねてみました。

するとこの通り、中之島公園よりも、はるかに多くのバラが咲いているではありませんか。

12月下旬のバラ園を訪ねる人は殆んどいませんが、多くのバラが花を付けていました。

春や秋のバラ園は、いつも多くの人で賑わっていますが、さすがに年末には空いていました。

広いバラ園を独り占めにして、心おきなく写真が撮れるという贅沢を味わいました。

冬のバラは、春や秋の花と比べると開花まで時間がかかり、そのぶん開花したあと長く楽しめるようです。

厳冬期に入っているせいで、ハチやアブなどの昆虫も姿を見せることがありません。従って危険なハチなど、まったくいないバラ園で、思う存分、花を楽しめる訳です。

真冬の植物園に、こんなに立派なバラが咲いているとは知りませんでした。



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昆虫が空中を飛ぶ姿をちゃんと撮影するのは、意外と難しいものです。年末年始の休暇に入ったので、その撮影に挑戦してみました。・・・ツマベニチョウ♀が、蜜を吸おうとしている直前の空中写真

まずカメラをシャッタースピード優先として1/2000に設定しました。オオゴマダラが3頭(蝶は○○頭と数えます)、空中に浮遊しています。

絞りとISO感度は自動で決まるため、下の写真のような明るい場所では絞りF4、ISO400となります。・・・リュウキュウアサギマダラ(左)とスジグロカバマダラ(右)

暗い場所では、ISO感度が自動で3200くらいまで上がり、少しざらついた画面となってしまいます。・・・オオゴマダラが空中で直立している姿が撮れました。

ツマムラサキマダラ♂のホバリング。ホバリングしているのは、下にツマムラサキマダラの♀がいるせいです。♀は、翅のコバルトブルーがもっと地味ですね。

クロテンシロチョウ、下の写真で名前の由来が良く判りますが、翅の黒点を肉眼で見るのは至難の業です。・・・小さな蝶なので、なかなかピントが合いません。

 

キタキチョウ。この蝶もクロテンシロチョウと同じくらいピントが合わせにくい小さな蝶でした。

リュウキュウアサギマダラの♂が♀に向かっているところです。この写真はSS1/2000、F4、ISO800。少し露出オーバー気味ですね。

花の蜜を吸おうとする直前のツマベニチョウ♀です。

アマチュアカメラマンでも蝶の飛翔する写真が撮れるのは、カメラの進歩のおかげですね。

 



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長居植物園を散歩していると、冬でも多くの野鳥に出会うことができます。・・・カワラヒワ

カワラヒワは、風切羽外側の一部に鮮やかな黄色の筋があるスズメと同じくらいの留鳥です。

松の木に止まっているのは、目の後ろが薄茶色のヒヨドリです。ヒヨドリは、長居植物園の林の中に数多く生息しているようです。

腹が黄色いのでアオジのようです。・・・アオジなら奈良県絶滅危惧Ⅱ種に指定されている野鳥ですが、遠いので定かではありません。

ハクセキレイも長居植物園で良く見かける野鳥です。この鳥は人に馴れているのか、かなり傍まで寄ってきてくれました。

樹木の中のカワラヒワ。カワラヒワは10羽くらいの群れで移動していました。かなり用心深い野鳥なので、これ以上近づくことができません。

大池の上を飛ぶのはヒヨドリでしょう。

池には北国から水鳥が渡ってきていました。・・・・左はホシハジロの雌、右の赤い目をしたのが雄ですね。

カモ類は、雌雄で姿が大きく違う特色があります。・・・左はマガモの雌、右がマガモの雄。マガモはホシハジロよりも用心深い野鳥でした。



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日本海軍の新鋭空母「翔鶴」は、南太平洋海戦(昭和17年10月26日)で飛行甲板が使用不能となり、また搭載していた飛行機とその搭乗員の多くを失ったために、海戦の後すぐ横須賀に向かっています。

空母翔鶴の戦闘機搭乗員だった小町定氏(元海軍一等飛行兵曹)が翔鶴の有馬正文艦長(当時47歳、鹿児島県出身)のことを書いていますので、中之島公園の冬バラと一緒に紹介しましょう。<・・・>が本からの引用

<開戦以来の生存搭乗員は全員内地勤務となり、新任搭乗員と交代することとなった。久しぶりに内地の土が踏めるのである。誰しも喜びを隠し切れなかった。(昭和17年11月6日)愈々退艦の日となった。搭乗員は整列の姿勢のまま、だが浮き浮きと心は既に故郷に飛んでいた>

<私達の前に立たれた艦長有馬正文大佐は、一人ひとりの顔をまるで自分の脳裡に刻み込むかのようにジッと見て回られると、再び私達の前に立たれた。その時、艦長の頬の肉がブルブル痙攣したかと思うと、滂沱たる涙がこぼれ落ちた。搭乗員すべてがこの様子に気付いたと見え、一瞬シーンと静まり返った>

<「今までの度重なる戦闘に諸君はよく立派に働いてくれました。しかし諸君の若い優秀な戦友を私は沢山殺してしまいました・・・・・」>と、部下に対して敬語で話しはじめ

<艦長の絞り出すような声が辺りに響き、更に激しくあふれ出る涙を拭おうともされず、そのままの姿勢で「諸君は今後くれぐれもお身体を大切にしてください」やっとそこまで言われたが、あとは言葉にならなかった。そのとき私の胸はギュと締め付けられた>

<つい先刻まで内地の土が踏めることをあれ程まで喜んでいた者も、申し訳ない様な恥ずかしいような表情で艦長の涙を見つめた。軍の命令は苛酷なものだ。殊に戦場においては・・・。しかし心の中まで揺さぶられる斯くの如き暖かい退艦命令もあったのだ>

有馬艦長は、兵や部下に「お疲れ様です」「お早う御座います」と丁寧な言葉使いで接し、未だ帰還しない艦載機の為に艦の危険を顧みずサーチライトの照射を命じ、自ら双眼鏡を抱えて艦橋を離れなかったといいます。また、戦死した部下の家族に欠かさず自筆の手紙を書き送っていたようです。

その有馬艦長は、翌18年に海軍省航空本部に転勤となって海軍少将に昇進、昭和19年10月の台湾沖航空戦では海軍少将でありながら特攻出撃して戦死後しています。

「一億総特攻のさきがけとなってくれ。我々もすぐあとに続く」と、言って特攻出撃を命じた海軍中将、大将達の多くは、終戦後も長生きして平和で豊かな老後を楽しんだようですが、有馬艦長のような人物もいたことを忘れてはいけません。

参考文献:海戦・空母翔鶴 翔鶴軍医官日記 渡辺直寛著

 



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大阪大学医学部在学中に海軍二年現役軍医に採用が決まっていた渡辺直寛氏の「海軍軍医日記」を、中之島公園の冬バラと一緒に紹介しましょう。<・・・>が著書からの引用です。

<日米開戦直前、昭和16年頃の日本の医学生は、卒業と同時にその殆どが遅かれ早かれ、延期されていた徴兵検査を受けて陸軍軍医に徴集されて行った>

<海軍では、陸軍に(医学生が)全員徴集されないように各医学校に出張して、最終学年者に対して海軍二年現役軍医の選考試験を実施した>

<昭和16年も二期(5月、9月)に分け、大学出は中尉に、医専出(漫画家の手塚治虫は大阪大学医専卒)は、少尉に即日任官した>

<元々陸軍では即日任官制度は無く、見習尉官の期間があって、その後、中尉または少尉になり、「短期現役軍医」と称したが、(海軍のように)二年後の昇進は無く、中尉は軍医中尉のままで予備役になった>

<しかし、海軍軍医の有利さは、まず即日の任官(見習尉官の期間なし)であり、二年後に中尉は軍医大尉に昇進して予備役になれたことにあった>

<その他、陸海軍ともに永久服役の軍医(本チャン)としての軍医委託生制度があり、在学中に志願者より選抜した。また二年現役軍医から(本チャンに)志願する制度もあった>

<医学生の間には「どうせ兵隊にとられるならば海軍二年現役軍医を志願しよう」と人気があったが、実際には「太平洋戦争」が始まり、勅令により現役期間が二年から自動的に延期されて終戦を迎えるのである>

海軍二年現役軍医は、海軍省に出頭して海軍中尉の軍服を受け取り、海軍大臣、海軍軍令部総長と面会、その後横須賀の海軍学校で海軍軍医士官としての講習を1か月(本来は3か月)受けたといいます。陸軍のように見習士官ではなく、最初から中尉だったため、講義に当たったベテラン下士官達は、敬語を使って若い軍医達に接したようです。

このように戦時中であっても医学部卒業生は、特別待遇だったようですが、軍艦に配属され戦死した軍医も多かったようです。

参考文献:海戦・空母翔鶴 翔鶴軍医官日記 渡辺直寛著



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地下鉄大阪港駅から歩いて30分で行ける「なみはや大橋」から見た大阪の朝を紹介しましょう。・・・正面やや右は弁天町駅の超高層マンション。そのすぐ左側の遠方が千里中央

これが、なみはや大橋から見た千里中央駅の朝の景色です。すぐ後ろが箕面の山並み

ユニバーサルシティ駅のホテル群、その左が川西市から宝塚市のベッドタウンでしょう。一番低い谷間を武庫川が流れ出ているはずです。

さらにズームアップ。手前にUSJのハリーポッターエリアの城が見えています。

西宮北口駅から芦屋六麓荘方向のズームアップ

さて、こちらは大阪市内方向の朝の風景です。ちょうど鵜の群れが上空を通過しています。

中之島から梅田方向の超高層ビル

中之島から本町にかけての朝の風景です。

生駒山と通天閣。・・・暗峠の谷から朝日が横向きに射しこんでいました。



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中之島公園を早朝散歩していると、真冬でも健気に咲いている花を見ることができます。・・・バラ

冬の朝、弱い太陽の光で見るバラは、春や秋に見るバラとは違った良さがあると思います。

どのバラも葉の陰にひっそりと咲いているので、まず見つけるのが大変です。

氷点下に達する日もあるこの時期、これから咲こうとしているバラの蕾です。しっかり探すと、こうした蕾がアチコチで見つかります。

こちらは朝日を受けた黄色いバラ

弱い朝日を受け、花弁のエッジが白く光っている赤いバラの花

中之島公園では、ツワブキの花も咲いていました。

小さなバラの蕾が3つある株を見つけました。

こちらは中之島公園で咲いている中で最も豪華なバラかも知れません。

 



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春日大社と興福寺は藤原氏の氏神、氏寺として平安遷都(794年)後も繁栄を続けますが、841年には藤原緒嗣の奏請によって春日山(春日野)の狩猟と伐採が禁止される勅命が出されています。・・・飛火野の鹿

春日山原始林と奈良公園の野生鹿が天然記念物として保護される歴史がこの時点(今から1173年前)から始まったことになります。鎌倉、室町時代のことはよく判っていませんが戦国時代の混乱では数を減らしたようです。・・・手向山八幡宮前の鹿

江戸時代に入ると幕府によって保護され、興福寺の古文書によれば、寛文11年(1671年)に「70余頭の雄鹿の角を切った」記録があるので、江戸初期に既に数百頭近い鹿がいたようです。

元禄時代(1700年代初め頃)となると、200頭の角切りがあったと記録されているので、現在と同じ千頭近くまで増えたようです。

ところが明治維新の混乱と、廃仏毀釈による興福寺の衰退で奈良公園の鹿は数を減らし、明治10年(1877年)には30数頭にまで激減しています。

しかし奈良県庁の保護もあって明治29年(1896年)には500頭、大正年間(1920年頃)には800頭まで回復、戦前(1940年頃)までの奈良公園では、常時700~800頭の鹿を数えることができたといいます。

奈良公園の鹿がそれ以上増えなかったのは、奈良公園内の芝生や草地、樹木などの面積と均衡した頭数が700~800頭ということなのでしょう。

ところが太平洋戦争末期の食糧難時代、奈良公園の鹿は手じかな蛋白源として狙われて急激にその数を減らし、終戦直後には僅か79頭となっていました。

昭和22年、財団法人奈良の鹿愛護会が設立されて鹿の保護がはじまり、昭和26年(1951年)に200頭、昭和30年(1955年)300頭、昭和33年(1958年)500頭、昭和36年(1961年)に戦前と同じ頭数に達しています。

ところで奈良の鹿愛護会による今年の調査では、奈良公園内の野生鹿の総数は1076頭、現在の奈良公園の面積では、これくらいの頭数が生息数の限界のようです。

参考文献:こんなに面白い奈良公園 入江泰吉 青山茂著



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最近、出勤前に散歩を続けている中之島公園を紹介しましょう。・・・・淀屋橋の上から左側が中之島公園

中之島公園では、真冬にもバラが咲いていました。

こちらはイルミネーションのイベント会場となっているようです。

夜にはここもイルミネーションで彩られるのでしょう。・・・淀屋橋方向を見ると、朝日が射しこんで来ました。

バラ園にあった「光のルネサンス2014」の案内看板。会期は、12月14日から12月25日とあるので、まだ開催中です。

バラ園にあったイルミネーションのフレーム。その美しさは夜でないと判りませんね。

バラ園を探すと、意外に多くの冬バラが咲いていました。・・・バラのつぼみ

時間があったので剣先の突端まで歩いてみました。

これも冬バラ。冬に咲く牡丹には、寒牡丹と冬牡丹の区別があるようです。その定義でゆくと、このバラは寒バラと言うことになりそうです。

 



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「ユリカモメへの餌やり」は、なぜ悪いのかという千葉県市川市HPの記事をもう少し詳しく紹介しましょう。<・・・>がその記事からの引用です。・・・栴檀木橋前を飛ぶユリカモメの群れ

<人間が栄養価の高い食物(パンやスナック菓子など)を(野生のユリカモメなどに)大量に与えることによって、適正な数を超え増えてしまう可能性があります>

<数が増えることにより、元来その地域に生息していた他の動物を圧迫してしまうなど、自然のバランスを大きく崩してしまうことになりかねません>

<また、ユリカモメなどの繁殖地のロシアや極東地方では越冬に成功した個体が急増したために餌が不足し、他の鳥の卵や雛を大量に捕食するという問題も起きており、海外の生態系への影響も言われています>

<人間が定期的に餌をあたえることにより餌やりに依存してしまい、自分では餌をとれない、もしくはとろうとしないものが出てきます>・・・中之島公園でもオジさんが餌やりをしていました。

<また、餌が容易に手に入るために、本来遠方にわたっていくはずの渡り鳥が渡りをやめてしまうという例もあります>・・・ユリカモメたちがオジさんの撒いたエサに群がっています。

<野生動物の本来の習性が変わってしまうことにより、既存の生態系への影響が出ることも懸念されます>

<野生の動物はペットではありません。「かわいい」、「かわいそうなど」の人間側の感情で接するのではなく、自然のバランスに配慮した接し方が必要です>

<野生動物のために良かれと思って行ったことであっても、餌やりにより急激に増えた動物と人間との間に大きな軋轢が生じれば、やむを得ず駆除をしなければならなくなることもあります>・・・このランナーは関係ありません。

<人間と野生動物とがよりよい関係を築いていくためにも、むやみな餌やりを行わないようお願いいたします>・・・ということなので、中之島公園での「エサやり」もやめましょう。



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東大寺の南大門をくぐり、大仏殿に向かうと右手に鏡池と呼ばれる池があり、その東側(右側)の少し高くなった土地に紅葉の名所の手向山(たむけやま)八幡宮があります。・・・鏡池

手向山八幡宮は、宇佐八幡宮(712年に官幣社)を東大寺建立に際して大仏の守護神として勧請した八幡神で、最初は天平勝宝元年(西暦749年)12月、平城宮の梨原宮に神殿を構えて祀られました。これが宇佐八幡宮からの分社第一号なので、全国にある八幡社(7817社)の中の最古参筆頭分社です。・・・手向山八幡宮

手向山八幡宮の創建を750年頃とすれば、石清水八幡宮(860年創建)よりも110年、鎌倉鶴岡八幡宮(1063年創建)と比べれば300年以上も古いこととなります。

手向山八幡宮は、翌年に大仏殿内の東脇に神輿を祀り、その後、大仏殿前の鏡池の東南、東岡の地に社殿が建ったたようです。・・・東岡の地の紅葉

手向山八幡宮のある手向山は、昔から紅葉の名所として知られ、菅原道真(845~903年)の「このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」が小倉百人一首に取り上げられています。幣(ぬさ)とは神へ捧げる御幣のことです。・・・・手向山八幡宮の前の紅葉

また紀貫之(866?~945年)は、手向山を意識して「秋の山 紅葉をぬさ(幣)と たむくれば すむ我さへぞ たび心ちする」と詠っています。手向山の紅葉が当時有名だったことが判りますね。・・・東岡の鹿

さて、手向山八幡宮は、創建から430年を経た平安末期、平重衡による南都焼き討ち(1181年)で焼失しますが、1250年、現在の土地(千手院丘)に再建され、鏡池は八幡池と呼ばれるようになったようです。・・・奈良公園の紅葉

しかし、1892年(明治25年)の地図には鏡池と表記してあるので、明治中期以降には鏡池と呼ばれていたようです。大仏殿の姿を鏡のように映す池はやはり鏡池と呼ぶ方がふさわしいのでしょう。・・・南大門南東の鏡のような池(鏡池ではありません)

1250年の再建から約400年を経た江戸時代初め(1642年)、手向山八幡宮は奈良の大火で2度目の焼失をしています。・・・南大門のさらに南にある鷺池も鏡のよう

焼失から約50年後の1691年、現在の大仏殿を再建した公慶上人によって手向山八幡宮は再建され、現在までその姿を留めています。



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地下鉄大阪港駅から歩いて30分ほど「なみはや大橋」の上からは、大阪の夜明けを見ることができます。この日、天気が良さそうだったので行ってきました。

6時30分頃に「なみはや大橋」の北詰めに到着、昇り始めるとすぐに大正内港への運河が見えてきます。

12月中旬の大阪の日の出時刻は6時50分過ぎ、日の出までは少し時間がありそうです。

なみはや大橋の西側には港大橋が良く見え、その左にある関西電力南港発電所の煙突の煙が横に流れているのでこの日の風の強さが判ると思います。

この日、太陽が昇る二上山左側方向に厚い雲がありました。これでは日の出の撮影は無理でしょう。

そのポイントをズームアップしてみましょう。

二上山の上空にある厚い雲の裏側に太陽が昇ったようです。

生駒山の山頂から少し右側、暗峠の谷間から西側に朝日が射し込んでいます。

しばらくすると大阪市内の高層ビル群にも朝日が当たりはじめました。雲のために少し時間が遅くなりましたが、これが大阪の夜明け写真です。



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