日本海軍の新鋭空母「翔鶴」は、南太平洋海戦(昭和17年10月26日)で飛行甲板が使用不能となり、また搭載していた飛行機とその搭乗員の多くを失ったために、海戦の後すぐ横須賀に向かっています。
空母翔鶴の戦闘機搭乗員だった小町定氏(元海軍一等飛行兵曹)が翔鶴の有馬正文艦長(当時47歳、鹿児島県出身)のことを書いていますので、中之島公園の冬バラと一緒に紹介しましょう。<・・・>が本からの引用
<開戦以来の生存搭乗員は全員内地勤務となり、新任搭乗員と交代することとなった。久しぶりに内地の土が踏めるのである。誰しも喜びを隠し切れなかった。(昭和17年11月6日)愈々退艦の日となった。搭乗員は整列の姿勢のまま、だが浮き浮きと心は既に故郷に飛んでいた>
<私達の前に立たれた艦長有馬正文大佐は、一人ひとりの顔をまるで自分の脳裡に刻み込むかのようにジッと見て回られると、再び私達の前に立たれた。その時、艦長の頬の肉がブルブル痙攣したかと思うと、滂沱たる涙がこぼれ落ちた。搭乗員すべてがこの様子に気付いたと見え、一瞬シーンと静まり返った>
<「今までの度重なる戦闘に諸君はよく立派に働いてくれました。しかし諸君の若い優秀な戦友を私は沢山殺してしまいました・・・・・」>と、部下に対して敬語で話しはじめ
<艦長の絞り出すような声が辺りに響き、更に激しくあふれ出る涙を拭おうともされず、そのままの姿勢で「諸君は今後くれぐれもお身体を大切にしてください」やっとそこまで言われたが、あとは言葉にならなかった。そのとき私の胸はギュと締め付けられた>
<つい先刻まで内地の土が踏めることをあれ程まで喜んでいた者も、申し訳ない様な恥ずかしいような表情で艦長の涙を見つめた。軍の命令は苛酷なものだ。殊に戦場においては・・・。しかし心の中まで揺さぶられる斯くの如き暖かい退艦命令もあったのだ>
有馬艦長は、兵や部下に「お疲れ様です」「お早う御座います」と丁寧な言葉使いで接し、未だ帰還しない艦載機の為に艦の危険を顧みずサーチライトの照射を命じ、自ら双眼鏡を抱えて艦橋を離れなかったといいます。また、戦死した部下の家族に欠かさず自筆の手紙を書き送っていたようです。
その有馬艦長は、翌18年に海軍省航空本部に転勤となって海軍少将に昇進、昭和19年10月の台湾沖航空戦では海軍少将でありながら特攻出撃して戦死後しています。
「一億総特攻のさきがけとなってくれ。我々もすぐあとに続く」と、言って特攻出撃を命じた海軍中将、大将達の多くは、終戦後も長生きして平和で豊かな老後を楽しんだようですが、有馬艦長のような人物もいたことを忘れてはいけません。
参考文献:海戦・空母翔鶴 翔鶴軍医官日記 渡辺直寛著