野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



東北旅行の2泊目は、雫石プリンスホテルに泊まりました。

バブル真っ最中の1990年12月に開業したホテルの客室数は266室、収容人員784名という巨大さです。

1992年にはアルペンスキーワールドカップ、1993年にはアルペンスキー世界選手権がここ雫石で開催されています。

1997年にはスノーボードのワールドカップが、2003年にはアルペン女子スーパー大回転の全日本選手権が開催されるのなど、スキー関連の大きな大会にここが利用されています。

東京から秋田新幹線(こまち)が直通で雫石駅まで2時間30分、雫石駅からホテルまでタクシーで15分という利便性の良さが人気なのでしょう。・・・ホテルの前はゴルフ場

ホテル前に岩手山2038mの標識があり、その向こうに岩手山が見えるはずですが、この日は雲が多くて山の全体が見えませんでした。

雲の切れ間を待ってなんとか撮影できたましたが、頂上が雲に覆われた岩手山でした。

次の観光地に行く途中に、秋田県仙北市にある田沢湖(直径約6kmの円形、最大深度は423.4m)に立ち寄りました。

田沢湖の湖面標高は249m、最深部の湖底は海面下174.4m、この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはないそうです。



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先日の東北旅行では十和田湖に立ち寄りましたので、晩秋の十和田湖の景色を乙女の像の歴史(十和田湖公園協会のHPから)と一緒に紹介しましょう。・・・下の地図の左下

十和田湖畔の御前ヶ浜に建つ「おとめ像」は、詩人にして彫刻家であった高村光太郎(18831956年)の傑作として知られ、十和田湖のシンボルとして知られています。

1952年(昭和27年)、青森県から依頼を受けた光太郎は「自然美には、人工を受け入れるものと受け入れないものがある。現地を見て決めましょう」と答えたといいます。

その年の6月、友人の佐藤春夫(18921964年)達とともに十和田湖入り「十和田湖の美しさに感動した。湖上を遊覧しているうちに制作イメージが湧いた」と言って快諾。

光太郎は「湖水に写った自分の像を見ているうちに、同じものが向かい合うなかで深まっていくものがある。二体像の背の線を伸ばした三角形が″無限″を表す。二体の間にできるスキ間に面白味がある」と語っています。

完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれる説を確かめると「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と回答しています。・・・十和田湖はカルデラ湖

完成は1953年(昭和28年・66年前)の晩春。記念像の除幕式は同年10月。この日の湖面と同じように紅葉を静かに濡らす雨が落ちていたそうです。

その除幕式には佐藤春夫をはじめ多数の関係者が参列。なお奥入瀬渓流・銚子の滝近くに佐藤春夫の「奥入瀬渓谷の賦」の詩碑がありますがそれも同じ日に除幕されています。・・・恵比寿大黒島

光太郎はこのあと病に倒れ、この「おとめ像」が最後の作品となっています。・・・湖畔にあるナナカマドの実



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東北旅行の2日目は、秋田県鹿角市湯瀬温泉から十和田湖に向かいました。11月下旬の東北の山はもう冠雪しています。

発荷峠からの十和田湖

十和田湖の子ノ口に架かる橋。ここから右に流れる川が奥入瀬川となります。

この奥入瀬渓流沿いの道は「瀑布街道」とも呼ばれ、銚子大滝、白糸の滝、玉簾の滝、雲井の滝等多くの滝があることで有名です。・・・奥入瀬歩道の案内図

落葉した奥入瀬渓流沿いの遊歩道

十和田湖への魚の遡上を阻止してきた魚止めの滝という銚子大滝。

奥入瀬渓流は、1928年(昭和3年)に十和田湖と共に名勝および天然記念物となっています。・・・九段の滝

さらに1936年(昭和11年)に十和田国立公園の一部となり、1952年(昭和27年)には特別名勝および天然記念物に格上げされています。

特別名勝の遊歩道を散歩したあと、石ヶ戸休憩所で休憩、そこで調達した奥入瀬珈琲を飲んでおきました。



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今回東北旅行で宿泊したのは、秋田岩手青森の県境に近い山の中にある湯瀬温泉の「姫の湯」です。

「姫の湯」の住所は秋田県鹿角市なので、夕食には秋田名物のキリタンポ鍋が出ていました。

秋田と言えば日本酒が名物です。そこで秋田銘酒3種類のセットを注文。どれも呑みやすい酒でしたが、この中で本醸造 雪が一番でした。

翌朝、少し時間があったので湯瀬温泉「姫の湯」の近くを散歩してみました。・・・客室からの眺望。

ここにはJR花輪線(一部開業は1914年・大正3年。湯瀬温泉駅を含めた全線開業は1931年・昭和6年の湯瀬温泉駅があります。旅館から徒歩で5分で到着した無人のJR湯瀬温泉駅。かつては賑わっていたのでしょうね。

花輪線は岩手県盛岡市の好摩駅から秋田県の大館市(約107km)を結び「十和田八幡平四季彩ライン」の愛称があります。午前7時以降の盛岡行きは4時間に1本、大館行きは6時間に1本となっている時刻表。

湯瀬温泉駅にあった地図、川の瀬から温泉が湧き出していたので湯瀬温泉と呼ばれるとか。地図右下の川の中がそれでしょう。

関西の人間には馴染みのない駅名がずらりと並ぶ運賃表。湯瀬温泉を挟んだ鹿角花輪と荒屋新町間の一日当たりの平均通過人員は僅か89人。これでは列車の本数は増やせないし、それが増えなければ利用者も減るという悪循環にあるようです。

花輪線は2013年8月の豪雨で一時全線不通となっていましたが、9月には復旧しています。・・・駅近くにあった立派な湯瀬郵便局



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今回の東北旅行初日は好天に恵まれ、訪問した中尊寺の紅葉が見事でした。一昨日、昨日に続き中尊寺の歴史と綺麗な紅葉を紹介しましょう。

源義家のひ孫、源義朝(11231160)の九男として生まれた牛若丸(後の源義経・11591189)は、11歳で鞍馬寺へ預けられますが、 僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔、1174年に奥州の藤原秀衡を頼って平泉に下っています。・・・京都から平泉まで徒歩で移動したのでしょうが距離を考えると凄い

1180年兄・源頼朝(11471199)が伊豆国で挙兵すると、義経は平泉を出て、富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣で対面を果たし、頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねています。

しかし、平家滅亡後に義経と頼朝が対立、1185年、頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は奥州藤原氏(かつて先祖の源義家が援助)の藤原秀衡(11221187・父源義朝と同年配)を頼って奥州へ入り、1187年から平泉(衣川の館)に居住しています。

秀衡は頼朝からの義経引渡を拒み続けていましたがほどなく死去、4代となる藤原泰衡(11551189)は、親の遺言を無視して義経の衣川の館(中尊寺表参道東南東500メートルの丘陵)を襲い、義経は自害するのです。

奥州藤原氏も同じ年に鎌倉軍の攻撃で滅亡しますが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺であったため、源頼朝の庇護を得て存続しています。・・・中尊寺の紅葉が綺麗なのは、東北の気温のせいでしょう。

しかし南北朝時代(1337年)にあった火災で金色堂を残して中尊寺の伽藍は焼失、江戸時代になって仙台伊達氏の庇護を受けて堂宇の再建・補修があり、1665年には江戸・寛永寺の末寺となっています。

松尾芭蕉は1689年(奥州藤原氏が滅亡してから500年後)に中尊寺を訪問、そこに寂しく夏草が茂る風景を見て「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠み、続いて金色堂を参詣「五月雨の 降り残してや 光堂」と詠んでいます。

明治になってから中尊寺の本堂が再建(1909年)され、それから約100年を経た2011年、中尊寺はユネスコの世界遺産リストに「平泉仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として登録されています。・・・中尊寺本堂



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藤原清衡(10561128)が本拠地の平泉に1105年に創建着手、1124年に完成した中尊寺と奥州藤原三代の歴史を中尊寺の鮮やかな紅葉と一緒に紹介しましょう。

藤原清衡や子の基衡(11051157)孫の秀衡(11221187)が朝廷や藤原摂関家に奥州で産出する砂金や馬などの献上品を続けたため、奥州は源平合戦(11801185)中も独自の政権と文化を確立しています。

また基衡は、陸奥守として下向してきた藤原基成(11201190?・院の近臣という実力者)と親交を結び基成の娘を後継者秀衡の妻に迎え入れています。院の近臣が京都から平泉まで転勤してきていたとは驚きました。

そのため初代清衡は朝廷から陸奥押領使、2代基衡は奥六郡押領使、出羽押領使、3代秀衡は鎮守府将軍、4代泰衡(11551189)は出羽、陸奥押領使となり、軍事指揮権を公的に行使することが認められていました。

また、奥州にある摂関家の広大な荘園の管理も奥州藤原氏に任されていたようで奥州藤原氏の滅亡時、平泉には陸奥、出羽の省帳、田文などの行政文書が多数あったといいます。

奥州藤原氏は北宋や沿海州などと独自に交易していて、マルコ・ポーロ(12541324)の東方見聞録に登場する黄金の国ジパングの記述は、奥州の豊富な砂金と金色堂を見た中国人交易業者からの伝聞という説が有力です。

奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となり、平安末期の戦乱が続く京を尻目に発展を続けていました。

平泉の経済文化を支えた金鉱山は北から今出山(岩手県大船渡市)、玉山(岩手県陸前高田市)、鹿折(宮城県気仙沼市)、大谷(宮城県気仙沼市)など、平泉から東方に位置する三陸海岸沿岸に並んでいます。

そのなかの大谷鉱山は最盛期の昭和10年代に年間約1トンの金を産出していたといいます。・・・中尊寺の紅葉が綺麗なのは、東北の気温差のせいでしょう。

つづく



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今回の東北旅行では、藤原清衡(10561128)が自身の廟堂として建立した金色堂で有名な中尊寺に行ってきました。奥州藤原氏と中尊寺の歴史を中尊寺の紅葉と一緒に紹介しましょう。

律令制時代、東北地方には陸奥国と出羽国が置かれ、11世紀半ば陸奥国の安倍氏、出羽国の清原氏の勢力争い(前九年の役)があり、それに介入したのが清和源氏の源頼義(9881075)です。

奥州藤原氏の初代、藤原清衡は陸奥の豪族だった藤原経清の子で、母親は安倍氏の出身、前九年の役で安倍氏が滅亡したあと、清衡は母親の再婚相手となった清原家の養子(兄・真衡、弟・家衡)となっています。

長兄清原真衡の死後となる1087年、清衡と家衡の間に相続争い(後三年の役)が生じ、清衡は源義家(10391106・源頼義の嫡男)の助力を得て勝利、このあと養父の姓(清原)から実父の姓「藤原」に戻って「藤原清衡」と称するようになっています。

1094年頃になると藤原清衡(当時39歳)は、居館を中尊寺のある平泉に移し、そこで中尊寺の創建に着手したのは1105年(清衡50歳)とされています。

清衡が平泉に中尊寺を造立したのは、戦没者の追善と、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことでしょう。現存する金色堂の竣工は、堂内にあった棟木銘から1124年と判明しています。

金色堂内部の須弥壇内には、藤原清衡(10561128)と子の基衡(11051157)、の遺体(ミイラ)、さらに孫の秀衡(11221187)の首が安置されています。1950年に藤原氏三代の遺体調査があり、その結果、奥州藤原氏は東北人ではなく京都人と位置付けられたようです。

金色堂は当初屋外に建っていましたが、建立から数十年の後に「霧よけ」のような施設が造られ、創建から64年後の1288年には金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設されています。

現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のものですが、室町時代の建築と考えられている旧覆堂(重要文化財)は金色堂の北西に移築現存しています。・・・旧覆堂



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松島観光の船着き場のすぐ近くに瑞巌寺の総門があります。これほど海に近い寺院は珍しいでしょう。

瑞巌寺は松島海岸のすぐ目の前にありますが、2011年の東日本大震災による津波被害を免れ、観光客や被災した住民の皆さんの避難所として開放されています。・・・総門の臨済宗妙心寺派瑞巌寺専門道場の看板

津波で大きな被害の出た南三陸地方よりも震源地に近いのに津波被害が少なかったのは、松島海岸の海岸線が陸に深く湾入しているいわゆる「湾」と呼ばれる水域になっていることや湾内に浮かぶ島々が防波堤となって津波の威力が軽減されたからと考えられているようです。・・・参道の紅葉

大津波は、瑞巌寺へ通じる参道の半分くらいの場所で止まり、奥の境内に被害がなかったのですが、参道に林立していた杉並木が塩害により立ち枯れし、倒木の危険性のある杉約300本が伐採されています。

拝観料は700円、本堂と青龍殿という宝物館の中に入ることができます。・・・拝観受付前の紅葉が見事でした。

御成門前辺りの大杉、松など

中門前の2本の大杉が歴史を感じます。

本堂右手にある庭園の紅葉も見事でした。

1609年に完成した国宝本堂・正面38m、奥行き24m、内部には10の部屋。材料の多くは熊野から運ばれたとされています。



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日本三景のうちの二つ(厳島、天橋立)は訪問したことがありますが、最後の松島は未だ。そこで今回の東北旅行で訪ねてみました。・・・日本三景の石碑

松島は、松島湾に点在する260余りの小島の多くに松が生えていることからそう呼ばれるようになったとか。

観光船は約30分かけて点在する小島を巡ってくれます。

島の上部はすべて松。

松島湾の小島も津波の被害を受けたのでしょうが、いまでは何も無かったかのようでした。

船着き場の横にある五大堂

下船するとちょうどお昼だったので、近くのレストランに入り「あなご丼」を注文

ついでに仙台名物の牛たんも追加、どちらも美味しく頂きました。



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秋の東北名所を訪ねる旅に行ってきました。・・・伊丹空港発仙台行きのANA731便はボーイング777-200型機

機体番号JA713Aを検索すると、2005年3月に登録された機体だったので、かなり古い機材でした。

ANAボーイング777-200型機は客席横10列のワイドボディで、座席数405席という大型機です。

左の窓からは、頂上部が冠雪している日本アルプスなどの高山が良く見えました。

仙台到着前の雲の下に、蔵王国定公園と樹氷が見えていました。

蔵王のお釜のようですが、底の水が写っていません。

仙台空港のほど近い阿武隈川河口とその南にある湖(鳥の海)

仙台空港に着陸直前。8年前、ものすごい津波が左の海から押し寄せてきたところです。

仙台空港の国内線到着出口



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大和川に野鳥撮影に行ってきましたのでそこで見た野鳥を紹介しましょう。・・・イソシギ・胸の白と薄茶色の羽毛がきれいですね。

これもイソシギ。イソシギ(全長19~21cm)のクチバシは意外と長く2.2~2.8cmもあるようです。

カンムリカイツブリ(全長56cm)・大和川に沢山渡来してきていました。

眼をもっと大きく撮りたかったのですがこれが精一杯。まだ夏羽が残っています。

ヒドリガモ(全長49cm)のペア・大和川に多数渡来してきています。

ヒドリガモ♂翼鏡のメタリックグリーン部をズームアップ

オカヨシガモ(全長50cm)のペア

オカヨシガモ♂。一見地味に見えますが奥ゆかしい色彩でしょう。

カモを代表するマガモ♂(全長59cm)・これからもっと多くの水鳥達がシベリアなどの繁殖地から大和川に渡来してくるはずです。



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近所の公園に渡来してくるチュウヒ(全長♂48cm、♀58cm・環境省レッドリスト絶滅危惧ⅠB指定)です。

この日、280m先(マピオンキョリ測で測定)でトビ(全長♂59cm、♀69cm・英名ブラックカイト)が空中から何かに向かっていました。

280m離れていましたが、ニコンのデジタルカメラ(P1000)でズーミングしてみると、下にいるのはどうやらチュウヒです。

チュウヒが捕獲して食べていた獲物を横取りしようとしているのでしょう。上空からチュウヒを追い出しにかかっています。

チュウヒもすぐに飛び立ちました。チュウヒは英名でハリアー。英国の垂直離着陸攻撃機がハリアーと命名されただけあってチュウヒの垂直上昇力は優れています。

チュウヒの右足を見ると獲物をしっかりと掴んでいます。トビはそれを狙っているのでしょう。

飛行能力に勝るチュウヒが飛び立つと、トビは慌てて逃げてしまいました。

280mも離れた場所での猛禽類のバトルを何とか撮影できたのは換算3000mm(60倍)というカメラのお陰ですが、距離があるので画像クオリティは良くありません。



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秋が深まるとシベリアなどの繁殖地から近所の公園に渡来してくる小型の猛禽類ハイタカ(全長♂32cm、♀39cm)です。

葦原に生息するオオジュリンなどの野鳥を狙ってやってくるようです。

ハイタカはオオタカとよく似ていますが、体が小さいこと、白い眉斑が細いことから識別できます。

オオタカでは、体下面の暗灰色横斑は本数が多く細くて、体下面がもっと白っぽく見えます。・・・ハイタカの飛び出し

距離が遠かったのでこれ以上大きく出来ませんが、ススキの群生の前を飛行するハイタカは美しい。

背の色が薄い茶色なので♀の若鳥かも知れません。

池の水面上を飛行

最長初列風切の暗色横斑はハイタカでは(先端部を含め)5~7本(下の写真では6本)なのにたいし、オオタカでは7~8 本、従ってこの個体はハイタカに間違いなしでしょう。

翼の裏面の鷹斑(たかふ)がきれいですね。



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ハヤブサ2羽、左の幼鳥(全体に茶色)が右の親鳥(背中と翼が灰色)から獲物を分けてもらおうとしていましたが、親鳥が怒って追い返しました。

すぐに親鳥も飛び立ちました。

胸から腹にかけてある横縞模様と翼の裏側の鷹斑が綺麗です。

猛禽類のハヤブサがオナガガモの集団に向かって飛行すると、オナガガモが一斉に飛び立ちました。

大慌てのオナガガモ

すごいスピードで飛ぶハヤブサを撮影するのは至難の技で、顔の無い腹部の写真だけなんとか撮影できました。

水面上空を低空飛行するハヤブサ。これも顔が写っていません。

撮影場所の前を通過するのですが、そのスピードのためにこんな写真になってしまいます。

ハヤブサを追いかけていると、偶然ホオジロガモが写っていました。



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大阪市内の干潟に飛来するハマシギの集団飛行の写真、今回が4回目の紹介です。

100羽近い野鳥が集団で飛行する姿は美しいもの

こちらはハマシギの背と翼上部、白い翼帯は仲間識別に役立っているのでしょう。

ハマシギの上を飛ぶのはムクドリ、下の水面にはオオバンの姿があります。

これほど密集しても空中衝突は無いようです。

着陸のために干潟に向けて低空飛行

足を下ろして着陸準備、先頭集団は着陸完了

次々と舞い降りてきました。

ハマシギは環境省レッドリスト準絶滅危惧に指定された野鳥です。これほどの大集団を見ることが出来るのはあと僅かの期間だけかも知れません。



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