鎌倉時代後期、幕府は元寇以来の政局不安などがあり、諸国で悪党(その代表が河内の楠木正成)が活動、幕府は次第に武士層からの支持を失っています。・・・隠岐知夫里島の来居港と内航船
一方、朝廷では幕府と距離を置く大覚寺統と幕府寄りの持明院統が相互に皇位を交代させていましたが、天皇専制政治(平安期の醍醐天皇、村上天皇の治世)を理想としていたエネルギッシュな後醍醐天皇(大覚寺統)が1318年に即位、鎌倉幕府の崩壊が始まっています。・・・後醍醐天皇が最初に上陸した隠岐知夫里島の仁夫湾
後醍醐天皇の討幕計画は、1324年(正中の変)、7年後の1331年(元弘の変)の二度とも幕府に発覚、幕府は後醍醐天皇を捕らえ、危険人物として隠岐島に配流するのです。・・・仁夫港
今から683年前の鎌倉末期の1332年、後醍醐天皇が隠岐に最初に上陸した地点は、隠岐諸島で最も本土に近い知夫里島南部の仁夫地区、仁夫漁港の前には、後醍醐天皇上陸地の碑があり、地元に知夫里島行在所の伝説も残っているので間違いないでしょう。・・・仁夫漁港の石碑
知夫里島の最高峰、赤ハゲ山の山頂付近にも後醍醐天皇行在所の仁夫御坊跡地があり、幕府にとっての危険人物だった後醍醐天皇は、監視の容易な山上に留められていた可能性があります。その後、後醍醐天皇は西ノ島別府に遷されたようです。
太平記には、後醍醐天皇の隠岐行在所を「黒木御所」と呼んでいますが、その場所は知夫里島の隣、西ノ島の別府港の北にある天皇山(高さ60m)です。・・・天皇山の頂上に黒木神社の屋根が見えています。
その場所は、後醍醐天皇の行在所だったことが古くから島民に伝わっていて、周辺には天皇に同行した「三位の局(阿野廉子)屋形跡」や、「隠岐判官屋形跡」などの伝承地が残っています。・・・知夫里島から見た西ノ島
また西ノ島には、後醍醐天皇の遺品や古文書も多く残っていて、黒木御所跡を管理する事務所(碧風館)に保存展示されています。ところで隠岐諸島最大の島後(隠岐の島町)の国分寺跡にも「後醍醐天皇行在所址」の石碑が建っています。・・・知夫里島のアカハゲ山は牧場となっていました。
その理由は、1934年(昭和9年)に文部省が地元での調査をしないまま、同時代の文書「増鏡」と「鰐淵寺文書」を根拠として強引に史跡認定したからで、地元に後醍醐天皇の伝承は無いそうです。・・・後醍醐天皇も見た可能性がある知夫里島の赤壁
しかし、「増鏡」と「鰐淵寺文書」の著者が、わざわざ隠岐に渡ってきて調査したとは考えられないので、西ノ島町の別府を隠岐国分寺と誤認した可能性が大きいのではないでしょうか。それにしても今から683年前の天皇伝承が今に伝わっていること自体が驚きですね。
参考文献:後醍醐天皇のすべて 佐藤和彦 樋口州男著