野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事で、半潜水型海中観光船あまんぼうからの写真を紹介しました。しかし、隠岐の磯の美しさは、シュノーケリングしながら写した方がよく判ると思います。・・・岩の隙間にいるサザエ

数年前に購入し、グアムと隠岐で数回使った水中カメラを今回も持参して、ちゃんと写るかどうか試してみました。・・・ベラの群れ

液晶画面が見にくい古いタイプの水中カメラでしたが、何とか写っています。・・・メジナの幼魚の群れ

ウミウシの仲間がいました。

ナマコの仲間

ウニと磯の巻貝(オオコシダカガンガラ)

オオコシダカガンガラ(左)とサザエの子供

海底に差し込む太陽の光の筋とメジナの幼魚の群れ

ヒザラガイ類は、磯の代表的な生き物(軟体動物)で、食用できるそうです。しかし、岩にぴったりとくっついているので剥がすのが大変でしょう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隠岐中ノ島の菱浦港は、高速船レインボー(下の写真)や大型フェリー、島前諸島を結ぶ内航船などが発着し、かなり賑わっています。

その菱浦港に、ちょっと風変わりな半潜水型海中観光船「あまんぼう」が入港するのを見つけました。そこでさっそく観光協会に申し込み、「あまんぼう」に乗船してみましたのでその航海を紹介しましょう。

出航した「あまんぼう」は、菱浦港から海中から聳え立つ三つの大岩(三郎岩)をめざして海上を移動、浅瀬となった三郎岩周辺に到着すると船底の展望室に下りて海中を観光するという1時間のコースでした。・・・係留中の「あまんぼう」

「あまんぼう」では、乗客が船底展望室に下りたタイミングで船長が周囲にエサを撒き、野生のチヌなどが近くで泳ぐ姿を見せてくれましたが、もう少し面白い演出があったらもっと楽しめたのではないかと思います。・・・航海中に見たウミウの群れ

半潜水型海中観光船をNET検索してみると、あまんぼう(料金2000円)以外に、和歌山県串本海中公園のステラマリス号(水族館入場券付で2600円)、佐賀県呼子のジーラ号(2100円)、奄美大島瀬戸内町古仁屋港のせと号(2500円)千葉県館山市のサブマリンたてやま号(2570円)などがヒット。・・・島前大橋架橋地点と書かれた看板がありましたが、架橋工事は中止となったようです。

さらに続けると徳島県海陽町宍喰浦のブルーマリン号(1800円)、沖縄県宮古島のシースカイ博愛号(2000円)、愛媛県愛南町西海のガイヤナ号(2000円)宮崎県日南市南郷町のマリンビューワー南郷号 (2100円)、鹿児島県肝属郡南大隅町佐多岬のさたでい号(2000円)、鹿児島県薩摩川内市川内港のきんしゅう号(2000円)と、全部で11隻も見つかりました。(まだまだあるかも知れません)・・・三つの岩が海中から突き出た三郎岩

どれも1時間の料金が2000円前後、ちなみに串本ステラマリス号の仕様を見ると全長16.8m、全幅5m、深さ2.6m、総トン数19トン、定員59名、乗員2名とあります。・・・三郎岩周辺の浅瀬の魚

また宍喰浦ブルーマリン号は、やや小さい全長13.5m、全幅5m、深さ2.6m、総トン数17トン、速力9ノット(時速16km/h)、定員50名、乗員2名とありましたので、半潜水型海中観光船には2タイプあるようです。・・・三郎岩周辺には黒鯛(チヌ)が多いようです。

船底の展望室には2列のベンチが並び、いずれも大きなガラス窓から、海中の珊瑚や魚を間近で見て海中を散歩している気分を味わうことができるのが特徴です。・・・菱浦港に戻る途中に見えたマリンポートホテル海士

NETに記載された写真を見ると外観がそっくりなので、同じ造船所で作られた同規格船のようで、これだけ日本各地で利用されていれば信頼性も高いのでしょう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政(中興)を果たした後醍醐天皇(1288~1339年)の政権構想は、武家政権の否定だけでなく、公家体制を含めた旧来の支配秩序の全否定でした。その後醍醐天皇の失政と隠岐の風景を紹介しましょう。・・・隠岐知夫村の後醍醐天皇上陸地

特に新しく定めた個別安堵法は、天皇権威を絶対化するために土地領有を綸旨(天皇の命令)の専権とするものでした。・・・来居港に入港するフェリーくにが

この政策は、討幕に結集した武士の激しい反発を引き起こしたため、急遽中身が変更となり、新政権の朝令暮改ぶりが露呈されています。・・・菱浦港に入港するフェリーしらしま

また新政権は、各国に国司と守護を並立させ(公家と武家が対立)、大内裏(皇居)の造営を宣言しています。しかし、税を負担させられる地方の武士や農民が大反発、各地に新政権に対する激しい批判が起こっています。原因は所領という既得権の剥奪と天皇側近への不公平な利益配分、さらに天皇とその側近達だけが恩恵を受ける内裏造営にあったのです。・・・水面から離れ高速運転中のレインボー(時速75kmくらいでしょう)

結局、建武政権は二年余りであえなく崩壊、後醍醐天皇は足利氏の押す光明天皇へ三種の神器を譲渡して吉野に遷り、朝廷は南北に分裂しています。・・・内航船いそかぜ

その後、ひとつであるべき元号が以後60年に渡って二つ存在することとなったのは、それまで全国を支配下においていた天皇の権力が失われたことを意味すると考えるべきでしょう。・・・内航フェリーどうぜん

江戸時代、水戸光圀によって編纂が開始された「大日本史」(1720年頃)では、天皇が阿野廉子を寵愛しすぎたこと、諫言した家臣を遠ざけたこと、忠臣・佞臣を区別する能力が無かったなど酷評されています。・・・これもフェリーどうぜん

新井白石(1656~1725年)も著書「読史余論」で、足利尊氏が天下の権をほしいままにしたのは、後醍醐天皇の中興政治が正しくなかったからと書いています。・・・知夫里島の後醍醐天皇行在所跡

頼山陽(1780~1832年)は著書「日本政記」で、後醍醐天皇に欠けていたのは「人主の心」とし「帝の心をして、常に元亨以前(即位したばかりのころ)の如くにして、建武以後の如くならざらしめば」と、後醍醐天皇の心が変化したのが問題としています。・・・知夫里島の後醍醐天皇行在所跡からほど近い赤壁

江戸時代の歴史家の後醍醐天皇に対する批評は、現代の政治家にも通じるものがあると思います。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




後鳥羽上皇(1180〜1239年)は、崩御の1年前に<我は法華経に導かれて、生死をば いかにも移転する也。ただしこの世の妄念にかかわられて、魔縁ともなりたる事あらば、この世のため、障りなす事あらん>と、死後に怨霊となることを書き残しています。・・・隠岐中ノ島海士町にある後鳥羽上皇御火葬塚の案内

後鳥羽上皇の19年間に及ぶ配流生活が孤独・絶望・悲嘆・怨恨・望郷等々の言葉で表現される日々であったことは、当時の公卿から武家、庶民に至るまで広く知れ渡っていたようです。・・・後鳥羽上皇を祀る隠岐神社

九条家をはじめとする朝廷は、後堀川天皇(1212〜1234年)や中宮藻壁門院(1209〜1233年)の死を後鳥羽上皇の怨念ととらえ、後鳥羽院帰京運動(1235年)を進めますが、鎌倉幕府によってあっさりと拒絶されています。…海士町後鳥羽院資料館

そのため後鳥羽上皇の死後(1239年)にあった不幸、例えば幕府の有力者三浦義村の死(1239年)や北条義時の弟(北条時房)の急死(1240年)、さらに北条泰時の死(1242年)、さらに干ばつなども上皇の怨霊のせいと考えられたようです。(平経隆民部卿の日記)・・・隠岐神社周辺マップ

さらに朝廷では後鳥羽上皇に代わって皇位についた後堀川天皇(後鳥羽上皇の甥)の皇子、四条天皇(1231〜1242年、当時12歳)の死がその怨霊のせいと考えられていました。・・・隠岐神社の拝殿

南北朝時代の「後鳥羽院御霊託記」には、後醍醐天皇(後鳥羽上皇5世の子孫)の即位(1318年)、後醍醐天皇の隠岐配流(1332年)、鎌倉幕府滅亡(1333年)、建武新政の挫折(1335年)、室町幕府成立(1336年)、後醍醐天皇の死(1339年、後鳥羽上皇崩御から100年目)は、後鳥羽上皇の霊が行ったと書かれています。・・・後醍醐天皇が隠岐配流の際に腰かけた石(知夫村)

後醍醐天皇の死後、その怨霊を恐れた足利氏は、京都嵯峨天龍寺と諸国に安国寺を創建、天皇の鎮魂に努める一方、後鳥羽上皇の怨霊を自らの陣営に取り込み、多くの人を死に追いやった強力な霊威で後醍醐天皇の怨霊に対抗しようとしています。・・・後醍醐天皇の黒木御所跡(西ノ島町)

先の後鳥羽院御霊託記では、後醍醐天皇が京都還幸時に水無瀬神社(祭神は後鳥羽上皇)へ参拝しなかったことの非礼と、足利氏が水無瀬神社へ多くの寄進をしたことを強調、後鳥羽上皇は足利氏の守護神であるとして味方に取り込んでいるのです。・・・隠岐国安国寺

かつて北条氏は、「元寇は蒙古の神と日本の神との戦い」であるとし、全国各地の神に敵国(蒙古)降伏の祈祷をさせ、足利氏は「後鳥羽上皇の怨霊で後醍醐天皇の怨霊に対抗」しようとしたのです。・・・隠岐国安国寺内部

そのために隠岐国安国寺は、隠岐国府のある島後(隠岐の島町)や配流先(西ノ島町)ではなく、後鳥羽上皇御火葬塚のある中ノ島(現在の海士町)に創建されています。そこが後鳥羽上皇怨霊の住所であると考えたのでしょう。

参考文献:後醍醐天皇のすべて 後醍醐天皇の死と足利氏 樋口 州男著



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 昨日に続き、隠岐に配流され19年後にそこで崩御された後鳥羽上皇(1180~1239年)の和歌集「後鳥羽院遠島百首」の一部を、隠岐の風景と一緒に紹介しましょう。まず隠岐に配流された直後に詠んだと思われる一首から、「同じ世に またすみの江の 月や見む 今日こそよその 隠岐の島守」・・・日の出前の隠岐中ノ島

その意味は、<承久の乱に破れ、命を助けられて以前と同じ世の中にこうして住んいでいると絶頂期、多くの歌人と一緒に住吉大社から見た住之江の月(月の名所として有名だった)と同じ月を隠岐でも見ることができる。しかし、今のわが身はそこから遠く離れた和歌を楽しむ人もいない隠岐の島守となってしまった>・・・中ノ島の山から隠岐島後方向

「思う人 さても心や なぐさむと 都鳥だに あらば問わまし」・・・朝の海に海鳥(ウミネコ)が

その意味<都にいる私の思う人は、私が都にいなくても、心安らかなのだろうか。都鳥がおればその安否を尋ねられるのだが>・・・ウミネコなら空を飛んでゆけます

「とにかくに 人の心も 見えはてぬ 憂き世の森の 鏡なるらむ 」・・・中ノ島の森から見える海

その意味<配流の身となったせいで、人の冷たい本心がすっかり見えてしまった。憂き世の森の自分の置かれた辛い状況は、他人の本心を映す鏡なのであろう>・・・中ノ島の森を切り開いた牧場

「とにかくに 辛きは隠岐の 島つどり 憂き世ばおのが 名にや答えむ」・・・中ノ島の鵜(島つどり)の背後を群れて飛ぶ海鵜(ウミウ)

その意味は<自分にとって憂き世とは辛いものだが、厳しい隠岐の自然の中で生きる島つどり(鵜)の身の上も辛いものだろう。自分をウ(憂)と呼ぶくらいなのだから>

最後に「問わるるも 嬉しくもなし この海を 渡らぬ人の 波の情けは」・・・中ノ島レインボービーチのおだやかな波

その意味は<手紙などで安否を問われても自分にとっては嬉しくもない。海を実際に渡って隠岐に来てくれない人達の 並み(通りいっぺん)の情けは何と冷たいものだ>この和歌も気力の衰えた晩年に詠んだものではないでしょうか。今から776年も前に亡くなった人の思いをこうして味わうことができる日本文学は素晴らしいと思います。

参考文献:隠岐の後鳥羽院 田邑 二枝著



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




後鳥羽上皇(1180~1239年)の崩御直後に編集された和歌集「後鳥羽院遠島百首」から、そのいくつかを隠岐の風景と一緒に紹介しましょう。・・・後鳥羽上皇火葬塚の宮内庁看板

最も有名な和歌は「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」でしょう。・・・・隠岐の海

意味は<(先の天皇という最高権威者だった)我こそは、いま新しい島守である。隠岐の海の荒い波風をおこしている大自然よ、これからは(それを考慮して)気をつけて吹くようにせよ>と、権威をかさに自然に対して命令していますので、気力が衰える前の配流直後に詠んだ歌でしょう。・・・火葬塚(火葬後に埋葬された場所)

しかし「浪間より 隠岐の湊に入る舟の 我ぞこがるる 絶えぬ思ひに」、これは隠岐配流から長い年月が経過した後の作品でしょう。・・・中ノ島の菱浦港に入港する船

意味は<隠岐の港に入る船を見ていると、絶えず(海の向こうにある京で上皇として暮らしたことが)思い出され、船を漕いで帰りたいという思いに焦がれてしまう>と、さすがの後鳥羽上皇も気弱となったようです。

さて今回、8月の隠岐中ノ島に滞在しましたので「後鳥羽院遠島百首」から夏の和歌もいくつか紹介しましょう。まず、「暮れかかる 山田の早苗 雨すぎて とりあえず鳴く ほととぎすかな」・・・中ノ島の山田

その意味は:<山田の早苗に雨が通り過ぎ、その雨が上がると、すぐに夏の野鳥(ホトトギスは、その代表でしょう)が鳴きはじめる(野鳥には翼があって、どこにでもすぐに飛んでゆけるのでうらやましいなあ)>今から770年前の中ノ島には多くの野鳥がいたのでしょう。今回も多くの野鳥を見ることができました。・・・雨の中の野鳥(イソヒヨドリ)

長い配流を経験してから詠んだ和歌をもうひとつ「今はとて そむきはてぬる 世の中に なにとかたらふ やまほととぎす」・・・後鳥羽上皇行在所跡の全景

その意味は<今はこれまでと、(帰京という未練を)棄ててしまった隠岐での配流生活に、野鳥達(ホトトギスはその代表)は、何を思い出せと鳴くのであろう>もう帰京を諦めたということを、和歌を詠むことで再確認したかったのかもしれません。・・・美しい鳴き声の野鳥(イソヒヨドリ)

この歌を詠んだのは、悟りの境地に達した最晩年だったのではないでしょうか。中ノ島では今も多くの野鳥を見ることができます。

 参考文献:隠岐の後鳥羽上皇 田邑 二枝著



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隠岐中ノ島で崩御した後鳥羽上皇(1180~1139年)は、歴代天皇の中で最もエネルギッシュな天皇(上皇)と言っても過言ではないでしょう。その理由を説明しましょう。・・・後鳥羽上皇を祀る隠岐神社

最も有名な事件としては、時の最高権力者で鎌倉幕府執権だった北条義時を追討せよとの院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して1221年に「承久の乱」を起こしたことで、乱の後に上皇(当時42歳)は隠岐に配流されています。・・・その狛犬

天皇が武力で武家に対抗しようとした例は、112年後の後醍醐天皇との2例くらいでしょう。流罪となると環境の激変で長生きできない例が多いのですが、後鳥羽上皇は、隠岐で19年間もの余生を送ったことが知られています。拝殿から門を見る

二番目は、1201年(22歳)に藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮に勅撰集の命を下し、自らもその選考に深くかかわった文化的な部分です。勅撰集への後鳥羽上皇の情熱に辟易とした藤原定家が日記に愚痴を書いているほどです。・・・拝殿前

その「新古今和歌集」(1205年に成立)には、西行の和歌が94首と最も多く撰進されていますが、西行を高く評価したのは後鳥羽上皇で、後鳥羽上皇がいなければ西行は今ほど有名ではなかったかも知れません。・・・拝殿

三番目は、歴代天皇のなかで熊野詣の回数が飛びぬけて多かったことで、歴代最多の後白河上皇が35年の在院期間に34回の御幸(ほぼ1年に1回)だったのに対し、後鳥羽上皇は1198年(19歳)からの24年間で28回(ほぼ10か月毎に1回)というレコードを持っています。・・・後鳥羽上皇隠岐山陵

四番目は、1206年(27歳)熊野参詣の留守中、寵愛する宮中の女性が、念仏法会に参加したことを知って激怒、主宰した若い僧4名に死罪を言い渡し、師匠筋に当たる「法然」と「親鸞」等7名を流罪とする宗教弾圧をしたことです。・・・御火葬塚

歴代天皇の多くは仏教の保護者として知られていますが、仏教界の大勢力である浄土宗と浄土真宗の教祖が二人とも後鳥羽上皇によって流罪となったことは意外と知られていません。・・・鳥居には天保十一年(1840年)とあります。

五番目に諸国から刀鍛冶を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を入れ、菊紋が入った「菊御作」と呼ぶ刀を残したことです。これが天皇家菊紋のはじまりですが、筋肉労働が要求される刀鍛冶までした歴代天皇は空前絶後でしょう。・・・行在所跡

以上、後鳥羽上皇がいかにエネルギッシュであったかの紹介ですが、隠岐での19年間は和歌に没頭、さらに「無常講式」などの著書も残し、その文の一部は蓮如によって浄土真宗の「白骨の御文章」に引用されています。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隠岐諸島中ノ島で今回見たチョウとトンボを紹介しましょう。・・・ジャノメ模様が美しいヒメジャノメ

ヒメジャノメは、大阪市内ではちょっと見ることができないチョウでしょう。・・・翅の裏側(翅を広げた時の上部)にもジャノメ模様があります。

中ノ島の山道では、モンキアゲハをたくさん見かけました。

ヤマトシジミは、大阪でもよく見かけるシジミチョウの仲間です。

翅の裏側が鮮やかな青(瑠璃)色をしたルリシジミも、山や里で多く見ることができました。

翅が鮮やかな黄色をしたキタキチョウは、やや少数派のチョウでした。

オオシオカラトンボのメス

オオシオカラトンボのオス

最後に情緒豊かな声で鳴くミンミンゼミ。大阪市内では殆んどその鳴き声を聞くことがありませんね。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




その他に隠岐で見かけた野鳥をいくつか紹介しましょう。・・・岸から離れた岩礁で休むウミウ(海鵜)を、あちこちで見かけました。

こちらはカワラヒワ

暗い森の中で見かけたキビタキ。明るい場所に出てくれないので、ピンボケ写真となってしまいました。

この明るい場所で撮影できた野鳥は、正面しか撮れませんでした。・・・従って、種類の特定が難しいのですが、キビタキのメスかも知れません。

大きな声で囀るヒヨドリです。

眼の周りが白いのはメジロ。・・・大きく撮影するのが難しい小さな野鳥です。

こちらの大型の海鳥は、ウミネコです。

同じ場所に飛んできたのは、ウミネコの若鳥。・・・身体の色が全く違うので、同じウミネコとは気が付きませんでした。

山中のガードレールに留まった野鳥も撮影しましたが、種類が良く判りませんでした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隠岐で次に多く見かけたのは、スズメ目ツグミ科のイソヒヨドリ(留鳥)です。体長は23cmほど、イソヒヨドリのオスは、頭から喉および背部が暗青色、胸腹部が赤褐色、翼が黒に色分けされています。

一方、メスは全身がやや暗青色を帯びた茶褐色で、鱗のような模様があり、雌雄の区別は容易ですが、若鳥のオスは、メスの個体と似た羽色をしているようです。・・・こちらはオス

イソヒヨドリは世界的には標高2,0004,000mの高山岩石地帯に生息する鳥ですが、日本では磯や港など海岸周辺が主要な生息地域で、内陸部でもよく見かける野鳥です。・・・雨の中のイソヒヨドリ

近年都市部にも生息するようになり、住宅地やビルの間を飛び回る姿を見かけたり、鳴き声を聞くことができ、おもに地上で餌を探し、甲殻類や昆虫類、トカゲなど、いろいろな小動物を捕食するようです。

レインボービーチにあるレストハウスの壁に留まったイソヒヨドリ。

また、隠岐中ノ島の山中で野生のキジを見ることができました。キジのオスは体長81 cmほど、翼の開長は77 cmもある大型の野鳥です。

キジのオスは、翼と尾羽を除く体色が全体的に美しい緑色をしており、頭部の羽毛は青緑色で、目の周りに赤い肉腫があります。

オスキジの背は、褐色斑のある濃い茶色で、翼と尾羽は茶褐色。メスは全体的に茶褐色で、ヤマドリのメスに似ていますが、ヤマドリのメスより白っぽい色をしており、尾羽が長いのが特徴です。・・・キジのオス

キジは、山地から平地の林、農耕地、河川敷などの明るい草地に生息し、主として地上を歩き、草の種子、芽、葉などの植物、昆虫やクモなども食べるようです。

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今回の隠岐旅行では、望遠機能を持つネオ一眼カメラを持参、野鳥を撮影してみましたので紹介しましょう。・・・ホオジロの幼鳥のようです



隠岐で最も多く見かけたのは、スズメとカラスを除くとホオジロ(留鳥)で、その成鳥は全長17cmほど、スズメとほぼ同じ大きさですが尾羽が長い分だけ大きくみえます。



翼開長は約24 cm、成鳥の顔は喉・頬・眉斑が白く目立ち、「頬白」の和名はここに由来するようですが、今回隠岐で出会ったホオジロはどういうわけか幼鳥が中心だったようです。



ホオジロのオスには黒、メスには褐色の過眼線があり、メスの方がオスよりも全体に色が淡く、幼鳥は顔の色分けが不鮮明で、全体的に淡褐色をしています。



ホオジロは、主に平地や丘陵地の森林周辺、農耕地、草原、荒地、果樹園、河原など明るく開けた場所に生息しています。



また地上や低い樹上で活動し、丈の高い草の茂みに潜み単独または数羽ほどの小さな群れで行動、食性は雑食性で、繁殖期には昆虫類、秋から冬には植物の種子を食べるようです。・・・こちらはヤマガラ



次に多く見かけたヤマガラ(留鳥)は、ホオジロより小型で全長1315cm、頭部は黒い羽毛で被われ、額から頬、後頸部にかけて白い明色斑が入っています。



ヤマガラの下嘴基部(腮)から胸部にかけては黒い帯模様が入り、尾羽の色彩は黒褐色、初列風切や次列風切の色彩も黒褐色で、羽毛の外縁(羽縁)は青みがかった灰色、嘴の色彩は黒く後肢の色彩は青みがかった灰色をしています。



ヤマガラは、標高の低い常緑広葉樹林や落葉広葉樹林に生息、和名は山にいる事に由来しますが、隠岐では平地に近い場所で多く見かけました。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今回、隠岐島前(どうぜん)中ノ島の隣にある知夫里島と、「ホテル知夫の里」に行ってきましたので紹介しましょう。

「山陰・島根ジオサイト 地質百選」公式HPによると、知夫里島の西海岸には、約1kmにわたって赤、黄、茶色などの鮮やかな崖の色を示す高さ50m-200mの断崖があり、赤壁として知られています。

赤壁は、高温で粘性のやや低い多孔質岩片が放出され、それらが堆積して軽度に溶結して生じた火砕岩や、火山灰を多く含む集塊岩からなる火砕丘です。

 この火砕丘は底の直径が数100m、比高数10mの規模で同じ岩質の溶岩に覆われ、この火砕丘には粗面玄武岩〜玄武岩質粗面安山岩の岩脈が観入していて、噴火の際のマグマの通り道であったと考えられています。

知夫里島を構成する岩石は、約630-530万年前に活動したアルカリ成分を多く含む火山岩類で、この時代は西ノ島の焼火山を中央火口丘とするカルデラ火山がこの地にあり、知夫里島はその外輪山の一部でした。

知夫里島の西部には、赤ハゲ山(標高325m)と呼ばれる丘陵地があり、頂上の展望台から、世界でも二か所しかないという海のカルデラを一望できます。

さて、「ホテル知夫の里」ですが、事前予約すればフェリーの寄港する来居港から車の送迎サービスを受けることができ、10分ほどでホテルに到着です。

ホテルは、今から683年前に隠岐に配流された後醍醐天皇が最初に上陸した仁夫湾を見下ろす丘の上にあり、良く管理されたグランドゴルフ場が南側に広がっていました。

ホテルのHPには<晴れた日は水平線の先に本土や大山を眺められ>とありましたが、この日は霞んで見ることができませんでした。・・・仁夫湾の右、長尾鼻の先にあるのは神島

先に紹介した観光スポットの赤ハゲ山(325m)や赤壁までは、ホテルから車で10分ほどで行くことができます。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




鎌倉時代後期、幕府は元寇以来の政局不安などがあり、諸国で悪党(その代表が河内の楠木正成)が活動、幕府は次第に武士層からの支持を失っています。・・・隠岐知夫里島の来居港と内航船

一方、朝廷では幕府と距離を置く大覚寺統と幕府寄りの持明院統が相互に皇位を交代させていましたが、天皇専制政治(平安期の醍醐天皇、村上天皇の治世)を理想としていたエネルギッシュな後醍醐天皇(大覚寺統)が1318年に即位、鎌倉幕府の崩壊が始まっています。・・・後醍醐天皇が最初に上陸した隠岐知夫里島の仁夫湾

後醍醐天皇の討幕計画は、1324年(正中の変)、7年後の1331年(元弘の変)の二度とも幕府に発覚、幕府は後醍醐天皇を捕らえ、危険人物として隠岐島に配流するのです。・・・仁夫港

今から683年前の鎌倉末期の1332年、後醍醐天皇が隠岐に最初に上陸した地点は、隠岐諸島で最も本土に近い知夫里島南部の仁夫地区、仁夫漁港の前には、後醍醐天皇上陸地の碑があり、地元に知夫里島行在所の伝説も残っているので間違いないでしょう。・・・仁夫漁港の石碑

知夫里島の最高峰、赤ハゲ山の山頂付近にも後醍醐天皇行在所の仁夫御坊跡地があり、幕府にとっての危険人物だった後醍醐天皇は、監視の容易な山上に留められていた可能性があります。その後、後醍醐天皇は西ノ島別府に遷されたようです。

太平記には、後醍醐天皇の隠岐行在所を「黒木御所」と呼んでいますが、その場所は知夫里島の隣、西ノ島の別府港の北にある天皇山(高さ60m)です。・・・天皇山の頂上に黒木神社の屋根が見えています。

その場所は、後醍醐天皇の行在所だったことが古くから島民に伝わっていて、周辺には天皇に同行した「三位の局(阿野廉子)屋形跡」や、「隠岐判官屋形跡」などの伝承地が残っています。・・・知夫里島から見た西ノ島

また西ノ島には、後醍醐天皇の遺品や古文書も多く残っていて、黒木御所跡を管理する事務所(碧風館)に保存展示されています。ところで隠岐諸島最大の島後(隠岐の島町)の国分寺跡にも「後醍醐天皇行在所址」の石碑が建っています。・・・知夫里島のアカハゲ山は牧場となっていました。

その理由は、1934年(昭和9年)に文部省が地元での調査をしないまま、同時代の文書「増鏡」と「鰐淵寺文書」を根拠として強引に史跡認定したからで、地元に後醍醐天皇の伝承は無いそうです。・・・後醍醐天皇も見た可能性がある知夫里島の赤壁

しかし、「増鏡」と「鰐淵寺文書」の著者が、わざわざ隠岐に渡ってきて調査したとは考えられないので、西ノ島町の別府を隠岐国分寺と誤認した可能性が大きいのではないでしょうか。それにしても今から683年前の天皇伝承が今に伝わっていること自体が驚きですね。

参考文献:後醍醐天皇のすべて 佐藤和彦 樋口州男著



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




久しぶりに隠岐に旅行しましたので、隠岐のことを紹介しましょう。まず隠岐諸島の中で最も本土に近く、古くから出雲や伯耆から隠岐に渡る際に必ず寄港した島が知夫里島からです。・・・知夫里島来居港のフェリー



島名は、隠岐の門戸となるこの島に安全の神「道触神」をかつて奉祀していたことから「みちふれ」がなまって「ちぶり」となったという説が有力です。・・・知夫里島来居港の内航船のりば

知夫里島の人口は、江戸時代1613年に450人、1688年には851人、明治維新後の明治19年1740人、大正4年2598人と急増します。・・・来居港近くの高台にある松養寺

終戦後の昭和25年には、まだ2349人の人口がありましたが、高度成長期に流出がはじまり、現在の人口は590人(知夫村HPより)まで減少しています。・・・松養寺境内の五輪塔

奈良時代724年、伊豆、安房、常陸、佐渡とともに隠岐は身分の高い人や政治犯の配流地とされ、764年には船親王が藤原仲麻呂の乱に連座して配流されたことが知られています。・・・松養寺にある文覚上人の墓

平安時代837年には小野 篁が隠岐中ノ島、鎌倉初期1221年には後鳥羽上皇がやはり隠岐中ノ島、鎌倉末期1332年には後醍醐天皇が隠岐西ノ島、室町時代の1443年に小倉宮教尊法親王が隠岐知夫里島配流されたことが知られています。・・・松養寺本堂の左側に小倉宮教尊法親王の墓



室町時代(1428年)、第101代天皇称光天皇(北朝系)が皇子のないまま崩御、第99代天皇後亀山天皇(南朝系)の孫に当たる小倉宮聖承を次期天皇にという動きがありました。

しかし称光天皇の父、第100代天皇後小松天皇(北朝系)は、南朝系の天皇を立てることを嫌い、崇光天皇(北朝3代)のひ孫を102代後花園天皇として即位させています。

これに不満を持った小倉宮聖承は、1428年伊勢国で南朝側の有力者である北畠満雅を頼って室町幕府と対立しますが、結局「息子(教尊)を出家させること」を条件に京都に戻っています。

1434年に聖承は出家して「小倉宮聖承」を名乗り、不遇のまま1443年に死去、遺児だった小倉宮教尊(後亀山天皇のひ孫)は、室町幕府と北朝系天皇家から嫌われて隠岐知夫里島に配流され、小倉宮家は断絶したのです。

参考文献:知夫里島 関西学院大学地理研究会編



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




フィッシュの著書から、ヤルタ会談当時にルーズベルトがとった中国外交のことを、先日乗船した淡路ジェノバラインの写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が著書からの引用です。

<ルーズベルト大統領によってポストを得て、ルーズベルト大統領を支持していたマーシャル将軍は、中国国民党の蒋介石に対して国民党政府に共産主義者を登用して、共産党の軍隊も国民党軍の一部とするように圧力をかけた。蒋介石がそれを拒否すると、国民党軍への武器供与を停止した>

<それによって中国国民党軍は、ソ連から援助された共産党との戦いに敗北することになった(中略)こうしてアメリカの極東における最大の友人であるはずだった国民党は終焉を迎えることになる>

<(第二次大戦で)アメリカとイギリスは70万人もの若い兵士の命を失った。しかしヤルタ会談後に自由な民を全体主義、共産主義の犠牲者に追いやる悲劇があった>

<蒋介石は勇敢な反共の闘士であり、我が国の友人だった。しかしルーズベルト大統領が満州をソ連(中国共産党)に譲ることを約束したことで彼は裏切られたのである。結局その裏切からわずか4年で中国全土が共産化してしまった>

<ヤルタの悲劇は、すでに歴史が証明している。東ヨーロッパが共産化し、中国人が(共産党の)奴隷同様の生活を強いられている現実がその証である>

<ヤルタ会談の直接的な結果ではないにしろ、朝鮮とベトナムでの戦争も、キューバやチベットが共産主義の支配下に入ったことも、アルジェリア、シリア、リビア、イラクが社会主義化したことも、元はといえばヤルタ会談に原因がある>

<ジョン・F・ケネディ下院議員(当時)も「対中外交について、我が国は共産党と国民党の合作の政府を作らなければ援助を停止すると脅した。中国の非共産党(国民党)政権を維持することがどれほど重要かを忘れてしまっていた>と1949年に語っています。

<マッカーサー将軍は「我が国の太平洋地域をめぐる外交の長い歴史の中で、中国の共産化を許したことは最大の失敗であると思う。我々は何世紀にもわたって苦しむことだろう」と述べている>

中国の共産化は、ヤルタ会談においてルーズベルト大統領がスターリンに迎合したことがきっかけだったのです。

参考文献:大統領が最も恐れた男の証言 ルーズベルトの開戦責任 ハミルトン・フィッシュ著 渡辺惣樹訳



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ