野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



毛馬桜之宮公園のソメイヨシノがかなり開花したようなので、3月30日の朝、早起きして桜ノ宮駅から大阪城公園駅まで散歩してみました。



桜ノ宮駅から道路1本西にある毛馬桜之宮公園に入ると、ソメイヨシノはまだ1~2分咲きくらいでしょうか。



源八橋のガードを潜ると、ソメイヨシノが密集した並木道があり、早朝の時間帯は花見客が少ないので、じっくりと桜を楽しむことができます。



そこから大川との間には池のようになった部分があり、対岸の帝国ホテルとOAPタワーが静かな水面に写って奇麗です。



この辺りは、毛馬桜之宮公園の中でもソメイヨシノが密集し、対岸のビルが奇麗に見えるお勧めのビューポイントです。



そこから東側にある土手を上がると、何度か洪水被害を受け、1674年(延宝二年)に再建されたという櫻宮神社があります。



確かに、この辺りの大川は新桜宮橋付近まで大きく左に湾曲していて、過去に何度も洪水の被害があったようです。

拝殿のサクラも2分咲きくらい



最も深くカーブしている藤田美術館の西側には、「災害は忘れたころにやってくる」と書かれた水防の石碑があり、この付近のソメイヨシノの開花も2分くらいでしょうか。



さて、新桜宮橋を潜ると、対岸に造幣局、南側に川崎橋が見えるポイントがあり、この付近も毛馬桜之宮公園の中でお勧めのビューポイントです。


大川の大きなカーブが終わり、流れが西向きとなる場所にはOMMビルがあり、そのガラス外壁に対岸のビルが写っていました。



川崎橋の手前の京阪電車のガードを潜り、そこから土佐堀通と京橋の上に架かる陸橋から見た大阪ビジネスパークのビルもなかなかの景観ですが、この辺りにはサクラが少ないようです。



陸橋を渡り終えると、そこはもう大阪城の京橋口なのです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




堺事件で有名な妙国寺は、三好長慶の弟、三好義賢(実休1527~1562年)が寄進した土地に、開基の日上人の父、油屋伊達常言が常塔伽藍を寄進、1568年に完成していますので、奈良、京都の寺院に比べると歴史は浅いといえます。



三好義賢(実休)は、寄進した土地に、1560年頃に寺のシンボルとなる大蘇鉄の株を古里の阿波から取り寄せて植えたと伝わっています。

本堂



その見事な株を見た信長は、1576年に安土城に大蘇鉄を移植させていますが、不思議な現象があったために戻されたという伝説が残っています。



1582年本能寺の変の直後には徳川家康が、さらに豊臣の天下となった1585年には大友宗麟が滞在、家康の和歌(妙なるや 国に栄ゆる 蘇鉄木の 聞きしに勝る 一もとの株)も残っている堺屈指の有名寺院です。



この蘇鉄は、国指定の天然記念物として現存していますが、最近樹勢が衰えてきたようで、再生回復事業が始まっていました。



さて、妙国寺完成から47年後の大坂夏の陣(1615年)で、豊臣方の大野道犬によって堺は焼き打ちされ、妙国寺の伽藍も焼失しています。

古い手水鉢



その直後、徳川幕府から派遣された風間六右衛門は、焼失した堺の地割を担当、現在の場所に妙国寺の敷地が割り当てられ、1627年の本堂以降、1711年までかけて伽藍の再建が完了しています。

本堂横の龍神



江戸期には霊元天皇(在位1663~1687年)の勅願寺となり、その格式の高さから維新直後にあった堺事件での切腹者(罪人)の埋葬を断っています。

北門



今の妙国寺は、堺事件での切腹場所として有名になり、本堂奥の収蔵庫にその関係資料が展示され、また本堂南側には、切腹志士の慰霊碑が建立されています。

英士割腹跡の碑



本堂の南縁側には、切腹を免れた横田辰五郎が描いた絵のコピーが展示されていて、そこには瓶ではなく20人分の棺桶のようなものが描かれていました。

慰霊碑



妙国寺は、1945年7月にあった堺大空襲で再び伽藍の大半を焼失し、1973年、本堂等が再建されています。

参考文献:本山 妙国寺縁起(広普山妙国寺)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




司馬遼太郎の作品「侠客万助珍談」の中に幕末の大坂城が書かれていたので、3月第5週の大阪城南外堀の桜の写真と一緒に紹介しましょう。

6番櫓とソメイヨシノ(2分咲き?)



慶応4年(1868年)正月、大坂に集結していた幕府軍は、京都に押しのぼろうとし、鳥羽伏見で薩長土の連合軍と戦って大敗しています。

ヒガンザクラ(満開)



幕府軍が大坂から撤退、大坂城が空っぽになり、城内の武家屋敷群からも居住者が身一つで逃げたために、大坂城代以下定番、加番、大番屋敷には家財道具がそのままとなっていたそうです。



お城に入り放題やという噂が大阪市内に流れ、衣類、什器などを取りにゆく市民の群れが毎日数千人に上ったといいます。

ヨウコウザクラ(散り初め)



しまいには女子供まで出かけ、相当な商家の御寮さんなども近所誘い合して出かけたので大阪には勤皇も佐幕もなかったと司馬遼太郎は書いています。

オオシマザクラ



やがて長州軍が筒袖、団袋の軽快な軍装で進駐してきましたが、長州軍は不思議なことにすぐに大坂城内に入らなかったようです。

オオシマザクラ(8分咲き?)



その上、市民の略奪隊がどんどん大坂城に入って行くのを長州部隊はじっと眺めているだけで咎めだてをしなかったといいます。



「なんぼでも取り得や」と市民達は安心し、大坂のすみずみから人々が群れをなしてやってきて、大坂城に吸い込まれていきましたが、長州兵はじっと見ているだけだったようです。

ヒガンザクラ



後で判ったのですが、長州軍は城内に幕府が仕掛けた地雷火があることを警戒し、まず町民の足でしっかりと踏ませて安全を確認し、それから入城しようとしていたといいます。

気の早い花見客



やがてある日、城内の2か所で「ど・どーん」と地雷火のすさまじい火柱が上がり、「なんぼでも取り得や」と中に入っていた市民数人が犠牲となったようです。

西の丸庭園前のシダレザクラ(満開)



それを見た長州軍は、もうよかろうというので隊伍を整えて入城、その後に市中に略奪禁止の布告をしたそうですが、司馬遼太郎の書いたことですから根も葉もない話では無いと思います。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




プリンセス・クルーズ社(米国)の客船サンプリンセスが大阪港天保山ふ頭に入港しました。



7時10分頃にシーサイドコスモまで行ってみると、大阪港に寄港する今年最大の客船ということで、大勢のカメラマンが待ち構えていました。



次第に近づいてくるサンプリンセスは、クイーンエリザベス2(7万トン)をしのぐ総トン数7万7000トン、乗客定員1950人、乗員900人、巡航速度21ノット(39キロ)、全長261m、幅32m、水面上高さ49,4mの巨大クルーズ船です。



1995年に就航したサンプリンセスは、パナマ運河を通過することのできる最大サイズの船で、姉妹船としてドーンプリンセス(1997年)、シープリンセス(2000年)の2隻があるようです。



大関門から大阪港に入ると同時に、シーサイドコスモの沖に停泊していた消防艇「まいしま」の消火栓から一斉放水が始まりましたが、他の港でもやっているのでしょうか。



プリンセス・クルーズ社は、サファイヤ・プリンセス(全長290m、総トン数11.6万トン)というさらに大型のクルーズ船も所有しているようですが、このサイズになると大阪港の水深が問題となりそうです。



サンプリンセス(全長261m)は、タイタニックよりも総トン数では3万トン以上大きい客船ですが、全長はタイタニック(269m)の方が少し長かったようです。



サンプリンセスの接岸した姿を近くから見て、天保山渡船に乗って海からの写真も撮っておきました。



天保山に戻り、丁度満開だったヨウコウザクラ越しにサンプリンセスの写真も撮ってみましたが、去年も同じ時期にドーンプリンセスがやってきたことを思い出しました。



バミューダ船籍のサンプリンセスの船尾を見ると、ちゃんとバミューダの首都ハミルトンの名前が書いてありました。



乗客は、オーストラリア人が多いようですが、日帰り観光バスに乗ってオプショナルツアーに出かけたようです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




慶応4(1868)年2月15日、堺港でフランス水兵に土佐藩兵が発砲、フランス側に11名の死者がでた堺事件は、明治維新直後の混乱期を象徴する事件として有名です。

現在の堺港



フランス側の強硬な姿勢に対して明治新政府は、土佐藩士20名を切腹させることとし、事件現場に近い巨刹「妙国寺」がその場所となっています。

堺港にある事件の石碑



凄惨な切腹を見たフランス側は、フランスの死者と同数の11名で切腹を中断させ、残る9名が助かった話は森鴎外の小説「堺事件」に詳しく描かれています。

妙国寺



また堺事件は、司馬遼太郎の短編「侠客万助珍談」(1964年、オール読物)にも取り上げられ、当時の侠客鍵屋万助が、この事件の陰で活躍したことを描いていますので紹介しましょう。

現在の宝珠院



妙国寺が切腹した遺体の埋葬を断わったため、北側に隣接する宝珠院に埋葬することを申し出たのが、そこで流行らない賭場を開いていた侠客万助で、そこへの埋葬一切をとりしきったと司馬遼太郎は書いてます。

宝珠院にある墓地



十一士の墓を建て、血染めの三方、指揮旗などを並べ、宝珠院の僧に終日読経させたところ大阪、河内、和泉から参詣人が殺到、多い日は5万人を超えてけが人が出たといいます。

十一士墓の横にあるフランス兵の慰霊碑



また宝珠院の近くの宿場町の両側には、線香、供物を売る露店が並び、墓前には賽銭が山のように積まれ、線香の煙が数丁に渡って匂っていたようです。

墓石



万助は、芝居小屋、見世物小屋をそこで興行、無用となった9人分の大瓶(棺桶)も展示され、「身を入れれば運が付く」と宣伝、客が争って瓶に出たり入ったりしたようです。

隊長、箕浦猪之吉の墓石(行年二十五才とある)



それまで無名の荒れ寺だった宝珠院は、一躍流行寺となり巨富を得ましたが、万助はそのカスリを取ることなく、以前からの賭場を続けたといいます。



当然賭場も大繁盛し、大阪三郷の旦那衆も博打の合間に大瓶に出たり入ったりして運をつけ、景気よく賭ったようです。

宝珠院に近い堺東駅



万助は、この寺銭の上がりでひと財産つくり、いい老人と成って大正初期に世を終えたと、事件から96年後の司馬遼太郎が小説に取り上げています。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




大阪の阿倍野神社の祭神は、南朝の忠臣北畠親房とその長子顕家ですが、親房の生涯について長文の説明書が阿倍野神社に掲示されていましたのでご紹介しましょう。



北畠家は、村上天皇の具平親王から始まる村上源氏の系統で、平安、鎌倉時代を通じて権大納言まで昇格できる家格だったようです。

一の鳥居(南側)



1333年、建武の中興を果たした後醍醐天皇の親房に対する信頼は厚く、同年(親房41歳、数え年)、長男顕家と共に奥州に下向、親房の波乱万丈の人生がスタートしています。

二の鳥居と拝殿



建武の中興からわずか2年後に足利尊氏が反乱、顕家率いる奥州勢の反撃で一旦治まったかに見えましたが、翌1336年に尊氏は九州から西上、このとき親房は後醍醐天皇の宗良親王を奉じて伊勢の玉丸城に入り、伊勢に北畠の拠点を構築したようです。

拝殿



翌1337年、親房は伊勢から海路を使って奥州に向かいますが、途中の暴風で常陸に流され、そこにある神宮寺城を経て小田城に入っています。

阿倍野神社にある摂社、旗上稲荷



その小田城で神皇正統記を著すなど南朝の復興を図っていましたが、1342年には足利勢の攻撃を受け、翌1343年、南朝の本拠地吉野に戻っています。

阿倍野神社の西鳥居



1348年、親房の命で繰り出した南朝軍は四条畷で敗戦、続く足利軍の吉野焼き討ちを受け、後村上天皇は賀名生へ避難しています。

賀名生にある皇居の額



1350年になると、足利兄弟の内紛によって直義が南朝に投降、1351年には尊氏を破り、高師直以下の尊氏側近を殺害、戦勝した直義は、賀名生に足利武家政権の認知を求めますが、親房と後村上天皇はその要求を拒否しています。

賀名生の里(当時とあまりかわっていない?)



その秋(1351年)、尊氏が賀名生に投降の使者を送ると親房はその要求を入れ、1352年には後村上天皇が石清水八幡宮まで進出、親房率いる南朝軍は京都に入り、北朝の上皇、天皇、皇太子を拉致し賀名生に幽閉したのです。

賀名生にある親房の墓地



しかしほどなく足利義詮の軍勢に追われて賀名生にもどった頃から親房は体調を崩し、1354年、その波乱に満ちた満61歳の生涯(京に40年、陸奥に2年、京に1年、伊勢に1年、常陸に5年、吉野に3年、賀名生に7年)を閉じ、賀名生御所の裏山に埋葬されています。

参考文献:北畠親房と御子北畠顕家 久保田 収 著


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




建武の中興(1334年)から僅か3年しかたっていない、建武3年(1336年)足利尊氏は一度追われた九州から盛り返し、楠木正成、新田義貞を破って京に入り、後醍醐天皇を幽閉しています。

賀名生皇居前のバス停



しかし後醍醐天皇(1318~1339年)は、京都を脱出、大和の五條から賀名生を経て吉野に移り、1336年から日本史の南北朝時代がスタートしたのです。

梅の名所でもある賀名生



それから12年が経過した1348年、足利軍と楠木勢を主力とする南朝軍が戦った四条畷の合戦で南朝が敗退、楠木正行が戦死、足利軍はその勢いで吉野を攻撃しています。

賀名生の里歴史民俗資料館



後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇は、吉野を捨て、かつて父が立ち寄った賀名生に粗末な御所を建てて移り、皇后や女院は、柴を葺いただけの雨漏りのする庵に住んだと太平記は、その哀れな境遇を描いています。

賀名生皇居跡石碑



賀名生では、公卿、殿上人達も、木の下や岩の陰に松の葉を葺き掛け、苔の筵を敷いて宿とし、その家来達はさらに悲惨な状況だったようですが、すぐに伊勢国を支配していた北畠顕能(北畠親房の三男)からの援助があったようです。

賀名生皇居だった堀家の遠景



賀名生に滞在すること4年、1352年に足利尊氏と直義兄弟の抗争(観応の擾乱)をきっかけとして、後村上天皇は賀名生を出て、石清水八幡宮のある男山に移っています。

堀家の門(重要文化財)



1352年、京に入った南朝軍は、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、皇太子を捕らえ、河内の金剛寺を経て南朝の本拠地、賀名生に2年間幽閉したのです。





しかし、南朝軍は足利軍との戦いにまたしても破れ、後村上天皇は苦戦しながら4か月後に男山から南朝の根拠地、賀名生に再び戻っています。

堀家の前が賀名生の里歴史資料館



1354年には北畠親房が賀名生でその波乱の生涯を閉じたことをきっかけに、後村上天皇は賀名生から河内金剛寺に6年間(1359年まで)行在所を移しています。

親房の墓



後村上天皇は、その後も河内、住吉などに行在所を移して転戦していましたが、1368年に住吉御所で崩御、その転戦の期間を含め生涯の約半分の20年間、賀名生を本拠としていたのです。

賀名生の里



後醍醐天皇が吉野に移って南朝を建て、吉野を追われるまでの吉野朝廷は12年、吉野を追われて後村上天皇崩御まで賀名生を本拠地とした期間は20年、日本史の南朝とは吉野よりも賀名生に永く置かれていたことになります。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ウィキペディアによれば、<「近畿」とは「都に近い地域」のことで、「近畿」の語が公的に用いられたのは明治36(1903)年の国定教科書『小學地理』から、2府5県 - 滋賀県、京都府、奈良県、三重県、和歌山県、大阪府、兵庫県のこと>とあります。

難波宮朝堂院南門跡から大極殿方向



さらに、<そのルーツは大化の改新(645年)で難波長柄豊崎宮(前期難波宮)に遷都された際に首都(難波)の圏域を「畿内国」(うちつくに)と呼んだことに求められる>と続いていました。

前期難波宮(赤線)と後期難波宮(青線)



つまり、近畿という言葉を使った明治時代の人は、平安、平城よりもさらに古い大化の改新直後、現在の大阪に遷都され、そこを中心とする首都圏域を「畿内国」と呼んだことを知っていたのです。

難波宮朝堂院南門は正面のマンション付近



その畿内国とは、東は名張、南は兄山(和歌山の妹背山~吉野川)、西は明石、北は逢坂山までと日本書紀に書かれ、また5畿内ともいい、摂津、河内、大和、山城、和泉の5か国を指しているとされています。

難波宮朝堂院東側



現在の行政区画では大阪府、奈良県北部、京都府南部、兵庫県の明石から東の阪神地域となり、645年当時には滋賀県、和歌山県、三重県などは畿内に含まれなかったようです。

前期難波宮の大安殿跡は中央大通りの下(上のマップ参照)



さて、孝徳天皇が亡くなると難波長柄豊崎宮(前期難波宮)は、大津宮、飛鳥浄御原宮と移り、683年に再び難波宮遷都の方針が出されましたが、686年の火災で難波の建物群が焼失、代わって藤原京が造営されています。

難波宮朝堂院跡西側



710年には藤原京から平城宮に遷都されましたが、726年に聖武天皇は(後期)難波宮造営を指示、744年には皇都となり、その大極殿の基礎が復元されています。

大極殿基礎跡から大阪城天守閣が見える



しかし、聖武天皇は、遷都の翌年にあわただしく紫香楽宮、再び平城宮と移り、それから700年以上経過した1496年、浄土真宗の蓮如がこの地に石山御坊(石山本願寺)を建立しています。

平城京跡に復元された大極殿



その間に地元でも難波京があったことが忘れ去られ、山(上町台地)の地下から(難波宮の基礎として使われていた)大量の石が出たため石山と呼ばれるようになったといわれています。

大阪城にある石山本願寺跡の石碑



石山本願寺は、現在の大阪城の場所にあったとされていますが、その土地にも難波宮関連の建物礎石が埋まっていたのだろうと思います。

参考文献:なにわの歴史、上方文化について、林屋辰三


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




3月も第4週に入ったので、大阪城の桃園を目指し、片町橋からパナソニック電工ビル前を通るとソメイヨシノがもう開花していました。



新鴫野橋から平野川を渡り、大阪城の桃園に入ると桃の花が満開です。



そこでクリスタルタワービルを背景に、白、ピンク、赤、白と赤のミックスなど色とりどりの桃をみてきました。



桃というくらいなので、大阪城の桃園ではピンクの花が中心です。



しかし、中には朱色に近い濃いピンクの桃もあり、これもなかなか奇麗です。



桃の花には、紅白のハイブリッド種もあり、源平合戦の旗色にちなんで源平と名づけられている品種もあるようです。



純白の花もありましたが、これもなかなか奇麗ですね。



紅白のハイブリッド品種です。



最後はビルを背景とした満開のピンクで締めくくることとしましょう。



大阪城桃園では、開花したばかりの株も多くありましたので、これから1週間くらいが見頃ではないかと思います。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




岩波新書の「遣唐使」(東野治之著)という本を読んでみると、歴史の教科書で教わった遣隋使、遣唐使(600~838年、以下遣唐使とします)と、住吉大社のことが解説されていました。



同書によると、遣唐使船には、船に祀られていた住吉神に安全を祈願する「主神」という人が必ず乗船していて、その主神には住吉大社の宮司家、津守氏が代々任じられてたそうです。

先頭は第三本宮



初期の遣唐使船は、住吉大社の南にあった住吉津から出港していたようで、奈良時代の日本書紀や万葉集の中に住吉津のことが記載されています。

先頭と並ぶ第四本宮



住吉大社の縦に並ぶ3祭神(底筒男、中筒男、表筒男)と神功皇后を合わせた4神は、航海と外征の守護神とされ、航行のために最も大切な帆柱に宿る神とされていました。

手前から第三、第二、第一本宮と縦に並んでいる



通常、遣唐使船は4隻の船団で出港しましたが、住吉大社の4本殿は、そこから西に向かう船団の形を現しているとも言われています。

左第四本宮、右が第三本宮



平安時代の延喜式には、遣唐使の派遣に際して住吉大社の津守氏が読み上げる祝詞が記載されていて、その停泊場所は難波の「那我良」(長柄)となっています。

左第四本宮、右が第二本宮(手前)と第三本宮(奥)



この長柄とは、上町台地の北西部、高麗橋付近(日下雅義氏)という説があり、遣唐使船は現在の土佐堀川、安治川に当たる水路を経て大阪湾に出たと想定されています。

第二本宮(手前)と第三本宮(奥)を北側から見る



住吉津から那我良への移転は、遣唐使船の大型化とともに、水深の深いポイントに港を移動させたと考えるのが妥当のようです。

第二本宮(手前)と第一本宮(奥)を北側から見る



つまり、遣唐使が出港したとされる難波津は、住吉大社南の住吉津、道頓堀北の三津寺付近、上町台地北西の高麗橋付近などを時代とともに移動したと考えると良いようです。

第二本宮(手前)と第一本宮(奥)を南側から見る



但し出港場所が変わっても、遣唐使船には住吉神が祀られ、津守氏が主神として必ず乗船していたので、住吉大社との関係は続いていたのです。



1400年以上前の遣唐使船団の姿を留めている住吉大社4本殿、凄い歴史ロマンですね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1863年(文久3年)8月、天皇の大和行幸に際して、大和(五條)で挙兵、そこに天皇を迎えて大和から全国の大名に倒幕の綸旨を出す計画だった天誅組の乱は、明治維新のさきがけと言われています。



それから約100年後、1964年のオール読物に「五條陣屋」という司馬遼太郎の短編作品があり、それが面白かったのでゆかりの五條を訪ねてみました。

五條を流れる吉野川



作品の主人公は、五條陣屋(代官所)の手付(与力格)の下、手代(同心格)の木村佑次郎と五條の仕立てやの息子乾十郎、江戸時代を通じて大和南部7万石の天領を管轄する五條陣屋は代官以下手付、手代あわせて僅か14名で運営されていたようです。



代官は、鈴木源内(旗本700石)、前年に江戸から赴任してきた温厚な人物で、徳川時代の天領には、大名への模範となる清廉な人物を任用したので、代官の中から汚職が発生したことは少なかったと書かれています。



天誅組に加わった五條出身の乾十郎は、7万石の天領が僅か14名の武士だけで運営されていることを知っていて、大和挙兵の拠点として五條陣屋を襲撃、代官所の金品を軍資金とすることを進言したとされています。

桜井寺にある天誅組本陣石碑



この事実を聞かされた中山忠光(明治天皇の叔父)以下天誅組39名は襲撃を決定、京都から堺、河内狭山藩、楠木正成ゆかりの観心寺、千早峠を越えて五條陣屋に殺到し、代官鈴木源内を殺害し、代官所に放火しています。

五條にある老舗の醤油屋さん



代官以下(木村も含む)5名の首は、代官所の近くにさらされ、五條陣屋が焼失したために桜井寺が天誅組の本陣となったようです。



立て札の罰文には、「この者ども(中略)収斂の筋すくなからず(後略)」とありましたが、鈴木代官以下には身に覚えのなかったことだったようです。

桜井寺本堂



五條陣屋襲撃の翌日、京都の政変で天皇の大和行幸は急遽中止となり、天誅組は幕府諸藩の包囲を受け五條から大和を転戦してほどなく全滅、乾十郎は逃亡先の大坂で捕えられ六角獄で処刑されています。

五條に残る古い街並み



途中、リーダー格の吉村寅太郎は、南朝ゆかりの賀名生に立ち寄り、皇居があったとされる堀家に「皇居」と揮毫した額を寄贈、その額は賀名生歴史民俗資料館に今も保存展示されていました。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大阪屈指の桜の名所と言えば造幣局、今年は、4月14日(水)から4月20日(火)までの7日間、桜の通りぬけができるそうです。



今回、「桜の通り抜け回顧展」が開催されていると聞いたので、サクラの開花には早いと思いましたが、ちょっと出かけてみました。



殆どの株は、まだ固い蕾のままでしたが、さすが大阪屈指の桜名所だけあって、シダレザクラ(枝垂桜)など3種類のサクラが開花していました。



シダレザクラは、ソメイヨシノよりも少し早く咲くのが特徴で、大阪城西の丸庭園前にあるシダレザクラも既に開花しています。



次に、晩秋から春にかけて咲くとされる白いフダンザクラ(不断桜)も開花していました。



フダンザクラは以前、湖東三山として有名な西明寺で秋に咲いているのを見たことがありますが、これほど大輪では無かったように記憶しています。



次に、満開を過ぎて、散り始めていたイザヨイザクラ(十六日桜)、この株は3月第2週には満開となっていたのではないかと思います。



そうであればカンヒザクラ(寒緋桜)やカワヅザクラ(河津桜)の次ぎくらいに咲く、早咲き品種のようです。



イザヨイザクラは、花弁が落下してもガク、オシベ、メシベがピンと張ってしっかりと残っています。



さて、本題の「桜の通り抜け回顧展」ですが、写真パネル、桜がデザインされた貨幣、桜の通り抜け記念メダルの展示などで、残念ながら期待したほどの内容ではありませんでした。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




天保山にある海遊館では、開館20周年記念としてスナメリ(砂滑クジラ)2頭を期間限定(3月12日~9月30日)で特別展示していると聞いたので、早速行ってみました。



スナメリは、オスは4歳半、メスは3歳で性的に成熟し体長1,8m、体重60キロ程度まで成長するとされているので、2008年春に鳥羽水族館で生まれたこの2頭(コチョボとクリン)は、まだ成長途上の子供のようです。



鳥羽水族館では、1963年からスナメリの飼育をスタートさせ、今まで14頭ものスナメリの出産を実現させた実績があると「スナメリの海コーナー」で紹介されていました。



スナメリは、笑っているような顔と、やわらかくよく動く首が特徴で、頭骨の可動範囲が5度程度しかないマイルカなどに対し、スナメリは40度くらいまで動かせると言われています。



確かに、普通のイルカにはあり得ないような、首を一杯に曲げて観客を見る動作を何度か目撃しました。



スナメリは、アジアの沿岸海域、大阪湾、瀬戸内海など日本の沿岸にも生息していますが、個体数は年々減少傾向にあるようです。



スナメリのえさは、魚やイカなどですが、大阪湾の春の名物「イカナゴ」も良く食べていることが知られています。



イカナゴを食べ終えた春から夏にかけてが繁殖期で、この時期には大阪湾でスナメリの目撃回数が高くなり、関空沖では10頭以上もの群れが目撃されたこともあるようです。



交尾が終わった8月から翌年2月頃までは、大阪湾から紀伊水道を通って太平洋沿岸部の水深の浅い地域に移動していると想定され、大阪湾での目撃数が激減するようです。



イルカは知能の高い動物と知られていますが、海遊館のスナメリも、ときどき泳ぎを止めて観客とアイコンタクトをしていました。



しかし、食事時間中は食べることに忙しく、観客に興味が無いようなので、できれば食事時間を外して見物するのが良いようです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




さて、大正区の北恩加島から千歳橋の歩道を歩いていると、アーチの頂上がみえてきます。



左は、陸地を掘削して海とした大正内港で、かつてここに電車が走り、大勢の市民が生活していたことを思うと嘘のようです。



また大正内港となる以前、この付近には多くの貯木場があったようですが、掘削の前にすべて住之江区平林地区に移転したようです。



橋のアーチの頂上を過ぎると歩道は鶴町側に下りはじめ、橋のトラスの隙間からイケアの建物が見えてきます。



下る途中、歩道の右側には、なみはや大橋と港大橋がちょうど重なって見えていました。



橋を下りると、イケアまでは徒歩10分くらいでしょうか、イケアに到着するとまず2階のレストランに入ることにしました。



カフェテリア方式となった店内でまず目に入ったのがこのフランスワイン、赤白どちらも隣に置いてあるグラス一杯が300円という驚きの安さでした。



当然、他の料理もありましたが、どれもリーズナブルな値段だったと思います。



明るい客席には、イケアデザインの椅子とテーブルが置かれていて、まるで外国のレストランに来たようです。



この日は、軽い食事としたかったのでスエーディッシュイースタープレート799円とワイン300円を選びました。



このプレートにはミートボール3個、スモークサーモン2枚、ニシンの漬物、イクラとゆで卵、パンとチーズという取り合わせで、すべてイケアの店内で販売されている食材でした。



味の方は、期待したほどではありませんでしたが、イケアの会員となると平日のコーヒーが何杯でも無料となるようです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




千歳橋を歩いて渡った後に、橋の下にある大阪市営の「千歳渡し」渡船に乗って引き返すことにしました。



大正区史によれば大正区千歳新田は、1845年に埋め立てが完成し幕府の検地を受けていて、明治42年の大正区地図には既に新千歳町と町名がついています。




戦時中の1943年の地図にある新千歳町は、戦後掘削されて消滅(赤線の内側)、左の青線はなみはや大橋、左の青線は千歳橋



つまり、江戸時代に完成した新千歳町の埋立地は、それから113年後に再び海に返ったのです。



さて、現在の千歳渡船ですが、基地を北恩加島側に置き、20分間隔(通勤時間帯以外)で出港、約2分後に鶴町側に到着すぐ引き返すという運航パターンを取っています。



たった2分のクルージング体験ですが、都市に住んでいるとなかなか乗る機会の無い船に無料で乗船できるのです。



大正内港を横断している千歳橋を、その直下から見上げることができるのも渡船だからこそ。



尻無川の河口から上流を見ると弁天町の3本の超高層ビルが



北恩加島側に戻ってから開いた防潮扉を出ると、のしきいの高さがO.P.+4,23m、引き戸が2、15mと書いてありました。



このO.Pとは大阪港における干潮時の最低潮位を示しているそうで、この防潮堤の下部はそれよりも約4,23m高いということでしょう。



1934年に襲来した室戸台風は、最大潮位がO.P.+4,5mに達した記録がありますが、この防潮堤の4,23+2,15=6,36mを越えることは無さそうです。


コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ