ウィキペディアによれば、<「近畿」とは「都に近い地域」のことで、「近畿」の語が公的に用いられたのは明治36(1903)年の国定教科書『小學地理』から、2府5県 - 滋賀県、京都府、奈良県、三重県、和歌山県、大阪府、兵庫県のこと>とあります。
難波宮朝堂院南門跡から大極殿方向
さらに、<そのルーツは大化の改新(645年)で難波長柄豊崎宮(前期難波宮)に遷都された際に首都(難波)の圏域を「畿内国」(うちつくに)と呼んだことに求められる>と続いていました。
前期難波宮(赤線)と後期難波宮(青線)
つまり、近畿という言葉を使った明治時代の人は、平安、平城よりもさらに古い大化の改新直後、現在の大阪に遷都され、そこを中心とする首都圏域を「畿内国」と呼んだことを知っていたのです。
難波宮朝堂院南門は正面のマンション付近
その畿内国とは、東は名張、南は兄山(和歌山の妹背山~吉野川)、西は明石、北は逢坂山までと日本書紀に書かれ、また5畿内ともいい、摂津、河内、大和、山城、和泉の5か国を指しているとされています。
難波宮朝堂院東側
現在の行政区画では大阪府、奈良県北部、京都府南部、兵庫県の明石から東の阪神地域となり、645年当時には滋賀県、和歌山県、三重県などは畿内に含まれなかったようです。
前期難波宮の大安殿跡は中央大通りの下(上のマップ参照)
さて、孝徳天皇が亡くなると難波長柄豊崎宮(前期難波宮)は、大津宮、飛鳥浄御原宮と移り、683年に再び難波宮遷都の方針が出されましたが、686年の火災で難波の建物群が焼失、代わって藤原京が造営されています。
難波宮朝堂院跡西側
710年には藤原京から平城宮に遷都されましたが、726年に聖武天皇は(後期)難波宮造営を指示、744年には皇都となり、その大極殿の基礎が復元されています。
大極殿基礎跡から大阪城天守閣が見える
しかし、聖武天皇は、遷都の翌年にあわただしく紫香楽宮、再び平城宮と移り、それから700年以上経過した1496年、浄土真宗の蓮如がこの地に石山御坊(石山本願寺)を建立しています。
平城京跡に復元された大極殿
その間に地元でも難波京があったことが忘れ去られ、山(上町台地)の地下から(難波宮の基礎として使われていた)大量の石が出たため石山と呼ばれるようになったといわれています。
大阪城にある石山本願寺跡の石碑
石山本願寺は、現在の大阪城の場所にあったとされていますが、その土地にも難波宮関連の建物礎石が埋まっていたのだろうと思います。
参考文献:なにわの歴史、上方文化について、林屋辰三
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