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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事に続き、1945年3月にあった駆逐艦天津風(艦長は森田友幸大尉、25歳、海軍兵学校68期卒)の日本回航を咲くやこの花館のハイビスカスと一緒に紹介しましょう。

1945年2月の着任時、シンガポールの艦隊司令長官(福留中将)からシンガポールに残留するよう要請を受けた森田艦長は、天津風に帰って乗員幹部と相談しますが、日本に帰りたいという希望が圧倒的だったといいます。・・・このハイビスカスは、珍しいと思いました。

実は1945年1月以降の南シナ海における日本船の航行は、決死的状況となっていましたが、遥か遠い東京の大本営は、3月17日海軍は駆逐艦天津風に輸送船団に加わって内地に回航するよう命令しています。

森田艦長は、日本回航の困難さを予想して赴任時(2月10日)から乗員に猛訓練を実施、約1か月後の3月19日、輸送船4隻、護衛海防艦5隻に天津風が加わってシンガポールを出発しています。・・・メシベが花弁になった品種

船団は、米軍の潜水艦を警戒して沿岸寄りの航路を取りますが、出港直後に機雷に触れて輸送船1隻が沈没、結局10日後の3月29日までに全部の輸送船が撃沈され、天津風も米軍機の攻撃で4月6日に大破、かろうじて中国の厦門の海岸に辿りつきそこで座礁しています。・・・原種に近い品種

東京の命令でシンガポールを出港した船団は、輸送船6隻すべてが沈み、護衛艦10隻のうち途中脱落した3隻を除く7隻が全滅したことになり、現地駐在の司令官福留中将の言う通りとなっています。現場を知らない中央の命令に従った結果、多くの犠牲者を出したのでした。

駆逐艦天津風の船団が出港した直後、大本営は日本船団が制海権、制空権の無い南シナ海を航行することが危険であることにやっと気が付き、「大本営緊急輸送作戦」の中止命令を出したのでした。・・・オシベとメシベ

米軍航空機の攻撃を受け大破した駆逐艦天津風は、厦門で物資・武装を揚陸、乗組員は退去(生存者161名、戦死者39名)、座礁した艦は積載した爆雷によって爆破されています。

沖縄特攻作戦で戦艦大和が沈没した10日後となる1945年4月17日、森田大尉は上海の司令部へ移動、乗船する軍艦が無かったため上海の特攻高速艇(震洋)の基地守備隊指揮官となっています。

 ほどなく終戦、米軍から武装解除を受けた際に森田大尉は「武器はすべて引渡した」と回答、すぐに現地人が武装解除された(と思った)日本軍の物資を略奪する事件が発生しますが、内緒で残した武器を使ってそれを撃退、非武装なら欲しいままに略奪され、生きて日本に帰れなかったと語っています。

参考文献:25歳の艦長海戦記 森田 友幸著



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上海の記事の途中ですが太平洋戦争中、25歳で駆逐艦艦長となった森田友幸氏の体験記「25歳の艦長海戦記」から、南シナ海の輸送船護送作戦と先日撮影した海遊館の熱帯魚を紹介しましょう。

 日本海軍は、日露戦争時にバルチック艦隊に勝利した成功体験を引きずって、日米開戦まで艦隊決戦に対応した兵力(大砲や魚雷)をひたすら充実させていました。

 しかし、1943年後半から船舶の喪失が激増、そのほとんどが航空機と潜水艦の攻撃によるもので、艦隊決戦用の兵器は対空、対潜には無力だったことが証明されています。

 さて、日本軍は1945年1月にルソン島を失ったことで南シナ海の制空権が米軍のものとなり、この時期から日本への南方資源(主に石油)輸送ルートが米軍の航空機、潜水艦攻撃で遮断されます。

 東京の大本営は1945年1月20日、「燃料並びに重要物資の緊急輸送作戦」を発表、連合艦隊司令長官を最高指揮官として投入可能な海軍の全戦力を集めたものでした。

 しかし1945年1月20日にシンガポールを出港した最初の船団だけは、無事日本に到着しましたが、わずか2日後に同港を出た船団(輸送船3、護衛艦4)は全滅しています。

 1944年1月、新鋭の駆逐艦「天津風」は日本からシンガポールに向かう途中、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて船体前半部が沈没、残った後部はサイゴンに曳航され修理、さらにシンガポールで修理を重ね、仮設の船首をつけ翌45年1月に航行可能になっています。

 1945年2月10日、前半部の欠損で戦闘力が四分の一に減少した天津風の艦長として赴任したのは森田友幸大尉(25歳、1940年10月に海軍兵学校卒、68期)でした。天津風クラスの駆逐艦艦長は、通常40歳前後の海軍中佐ですが、前半部欠損状態だったので森田大尉に辞令が下りたのでしょう。

 シンガポールの艦隊司令長官(福留中将)に着任の挨拶に行くと長官は、「現在、日本に向かった船団のほとんどが南シナ階で撃沈されており、損傷艦の天津風が内地に到達することは困難と思う」と言ったようです。

 参考文献:25歳の艦長海戦記 森田 友幸著

 



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今回の上海旅行の目的の一つは、今年(2014年)末に完成予定という超高層ビル「上海中心」(右端)の現状を見ることでした。どうやら鉄骨は、ほぼ最上階まで完成しているようです。

高層部だけをズームアップしてみましょう。左が上海環球金融中心(492m)、中央が金茂大厦(421m)、右の上海中心(632m)は、日本一のあべのハルカスの2倍以上の高さを誇っています。

右の金茂大厦(1999年完成、88階建)は、50階までがオフィス、機械室2階を挟んで53~87階までが超高級ホテル(グランドハイアット上海)です。

日本の森ビルが出資した上海環球金融中心(2008年完成、101階建)は、77階までが会議場とオフィス、79~93階が超高級ホテル(パークハイアット上海)、94階、97階、100階が展望台。今回は一番安い展望台94階(高さ430m、料金80元=約1500円)まで上がってみました。

上海環球金融中心94階(地上430m)から金茂大厦(先端部が421m)方向の展望です。ここはあべのハルカスより130m高いのですが、大気汚染のせいで見晴らしは良くありません。先月、同じカメラで撮ったあべのハルカスの写真と比較してみてください

上海環球金融中心から隣の上海中心(632m)を見ようと思いましたが、展望台の横方向に位置しているため、その姿を一部しか見ることができませんでした。ここから見ると上海中心ビルの外壁が二重になっていることが判ります。

430mの展望台の中で場所を移動し、そこよりもさらに200m高い上海中心の最上部をなんとか撮影することができました。上の展望階からは、もっと良く見えたのかもしれませんが、94階ではこれが精いっぱい。

帰る途中、三本のタワービルを下から見上げるポイントがありました。

上海中心(632m)を真下から見上げると、二重外壁のビル全体が緩く曲がって建っていることが良く判りますね。

つづく



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久しぶりに所用で上海まで行くことになり、朝8時半に関空に到着。JALのカウンターに近い南ゲートは凄い行列だったので、空いていた北ゲートからセキュリティチェック・出国審査を受けて搭乗待合室へ向かいます。

出発ロビーの外貨両替カウンターでは、日本円から中国元のレートが何と18.89円。円高時のレートから30%近く値上がりしていました。

さて、搭乗する飛行機はJALの891便、後で機体番号を調べてみると、2002年5月に就航したボーイング767-346/ER(237席)。既に12年が経過しているので、座席の液晶モニターが古く、機内で見た映画の画像は最悪でした。

さて、飛行機は10時25分に離陸、途中で機内食(昼食)が出ます。

そのメニューには関西御膳とあり、以下の内容となっていました。

その機内食です。

ちなみに帰り関西空港行きのJAL898便(上海18時10分発)の機内食(夕食)です。

関西空港行きの機材は、少し小さいボーイング737-800型機(165席)、機材が新しいせいで液晶モニターもご覧の通り、鮮明な画像を楽しむことができました。

上海空港には定刻11時55分よりやや遅れて到着しました。その上海空港にはもの凄い数の飛行機が待機していました。

つづく



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1772年春、本居宣長は、吉野を旅して満開の桜を見ており、その潔い散り方を日本人の純粋な心情と対比し、「敷島の 大和心を 人問はば、朝日に匂う 山桜花」と詠んでいます。・・・中千本

1911年(明治44年)に発表された軍歌「歩兵の本領」歌詞の1番は、「万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば 散兵戔(さんぺいせん)の花と散れ」といいます。

最近使われませんが、万朶の「朶」とは、多くの花で垂れ下がった枝という意味で、「万朶」とは、それが万もあることから非常に多くの花が枝に咲いている状態を言うのでしょう。

一方、明治38年戦時服制で日本陸軍の歩兵科は軍服の襟章を緋色(赤)とされ、地味な軍服を着た陸軍歩兵が多数整列した姿は、襟の赤だけが花のように鮮やかに見えたからのようです。

歌詞の中の「花は吉野に嵐吹く」とは、桜の名所として知られる吉野に風が吹けば、桜吹雪となって花びらが嵐のように舞い散る姿を詠ったものでしょう。・・・この日も至る所で花の嵐を見ることができました。

「大和男子と生まれなば 散兵戔(線)の花と散れ」とは、日本男子として生まれた歩兵は、戦場で桜の花のように潔く散るのが本領であると言う意味でしょう。・・・上千本

「歩兵の本領」のメロディが勇ましかったため、1922年の第三回メーデーで歌詞だけ変更された「メーデー歌」(聞け万国の労働者)が発表され、この歌は今もメーデーで歌われるようです。

1944年、太平洋戦争で、日本海軍は最初の神風特攻隊を編成しますが、桜のように美しく散るようにと、宣長の和歌から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名されています。・・・上千本

1945年12月1日、大場陸軍大尉が指揮するサイパン島残留の日本兵士たち(47人)は、軍歌「歩兵の本領」を全員で歌いながら米軍の投降式典会場に向かって整然と行進、映画「太平洋の軌跡 フォックスと呼ばれた男」でもそのシーンが描かれていました。

 



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先日の毎日新聞のコラム「保坂正康の昭和史のかたち」に、「戦時下にみる為政者の精神構造 本来の日本文化からの逸脱」という記事があったので造幣局の桜と一緒に紹介しましょう。<・・・>の部分がその引用・・・造幣局の琴平

<戦時下で首相・陸相を務めた東条英機は生粋の軍人で、軍事以外の知識(政治、経済、文化など)はほとんど持っていない。その東条が昭和18年、19年にしばしば、「戦争というのは負けたと思ったときが負け、決して負けたと思うな」との精神論を呼びかけた>・・・林1号

<(海軍)軍令部次長の大西滝治郎は、ある新聞記者からいつまでこんな特攻作戦をくり返すのか、と問われたときに、「国民の四分の一が特攻作戦で死に、血染めになったこの国の様子を見てアメリカはもうやめようと言い出すだろう。その時が講和のときだ」と答えたという>・・・林2号

<大本営は、昭和20年11月にアメリカ軍の本土上陸作戦を想定していて、そのために「一億総特攻」を呼号(中略)アメリカ軍が上陸してくると予想された九十九里浜や相模湾では、各種の特攻兵器に乗った義勇兵(兵士以外の少年少女、老人達)が入港してくるアメリカの艦船に体当たりする>・・・須磨浦普賢象

<陸軍の世正規部隊は(安全な)後方にいて、義勇兵の体当たりという特攻作戦により(精神的に)消耗しているであろうアメリカ軍と本格的な作戦に入るとされていた>・・・紅華

<兵士や少年少女、老人達が玉砕することで、連合軍の兵士が気味悪がってその戦場から退却するという話を、日本軍の司令官はしばしば訓示した>・・・しょうき

<日本国民が特攻作戦で死ぬことは「霊的突撃」であり、それにアメリカ軍は驚いて戦争終結の意思を持つだろう、というのが当時の戦争指導者の精神のよりどころとなっていた>・・・琴平

日本国民をどんどん死に追いやる霊的突撃をすれば、戦死した人が幽霊となってアメリカ人を苦しめるので事態を打開できると、当時の軍幹部は確信し、心理上のバランスを保っていたと保坂正康さんは結んでいます。・・・朱雀

軍事以外の知識を持たなかった当時の軍幹部は、耳なし芳一の話に出てくる平家武者の亡霊のように、特攻で亡くなった人が幽霊となってアメリカを苦しめ、日本が勝てると本気で思っていたようです。・・・松月



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明治維新の際、新政府は神仏分離政策を取ったことで仏教が弾圧され、日光輪王寺の所領であった吉野でも寺によって保護されていた桜も伐採の対象となっています。

明治時代「桜史」を書いた山田孝雄は、1896年(明治29年)に吉野を訪れ、「古来名高き景勝地であるが、その桜樹のいかにも若く、古くとも20年を過ぎるものは無い」

そうした若い桜樹を見て不審を抱き、その理由を問うと、「明治維新の際に桜のような不経済のものは切って有用の樹木を植える方が良い」としてことごとく伐採されたといいます。

「ああ文明と称する蛮風は、千古に誇るべき吉野山の桜樹にさえかくの如き実厄を与えぬ」

1877年(明治10年)、西南戦争が終わり、世の中が落ち着いてくると、地元でもその非を悟る人がでてきて、1881年(明治14年)吉野桜保全のため「芳雲会」という組織が設立され、桜の植樹が始まっています。

徳川幕府を倒して成立した明治政府は、北条幕府を倒した建武中興を意識していて、その主役(後醍醐天皇)が開いた吉野朝(南朝)を顕彰する意味でも桜の保全が必要だったのでしょう。

1894年(明治27年)には奈良県立吉野公園が開設され、名勝地として人の眼に届くところには桜樹を植え、山間部には杉や檜を植林したようです。

1969年の朝日新聞には「今見る桜は、明治38.39年(1905~6年)頃、吉野山で保養していた日露戦争の傷病兵が戦勝記念に植樹したもので、下千本、中千本の桜がそれ」という記事があるそうです。

しかし、太平洋戦争末期から終戦直後には、燃料不足から吉野の桜が多数伐採されたようなので、吉野の桜は、長期に渡る人の手による植林によって維持されてきたのです。

参考文献:花をたずねて吉野山  鳥越 皓之著

おわり

 

 

 

 

 



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先週行った造幣局のサトザクラの紹介の3回目となります。・・・なかで最も株数が多いのは関山でしょう。

最初は薄い黄色をしている須磨浦普賢象

その須磨浦普賢象は、2,3日経過すると花弁の中心部分が薄いピンク色になります。須磨浦普賢象は珍しい桜で、大阪造幣局にも1株しか無かったと思います。

最初は薄い緑色をした御衣更です。

その御衣更は、開花から数日すると花の中心が濃いピンク色となり、花弁中央部にあるピンク色の筋が目立つようになります。

純白の八重咲きは、市原虎の尾。

咲き始めの花弁が八重で黄緑色をした鬱金です。

その鬱金も、数日すると黄色からピンク色に変わる特徴があります。

つぼみが濃いピンク、開花すると八重咲きの花弁の先端部分が薄いピンク色となるのは松月です。

つづく



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吉野山は、吉野水分神社の存在が示すように稲作に欠かせない水源地として古くから尊崇されていた山でした。

672年の壬申の乱では、大津にいた大海人皇子(天武天皇)が吉野山に移り、後に吉野を出て大友皇子を破り皇位を継承していますが、吉野が大和朝廷にとって重要な土地であったことの証拠でしょう。

その吉野山の神への捧げものとして古来より選ばれたのが桜の苗木で、吉野では桜の植樹が古来より連綿と続いていたようです。

また修験道の開祖、役小角(634頃~701頃)は、植樹されていた桜の木を用いて蔵王権現像を彫ったとされ、以降桜は吉野の神木となり、蔵王権現に祈願する際には桜の苗を寄進するのが供養となる風習が起っています。

吉野における桜の数は次第に増加し、紀貫之(866~945年)の時代には、古今和歌集に詠まれ、さらに西行(1118~1189年)や新古今和歌集の時代には多くの人に知られていました。

その後も一般庶民、貴族たちが吉野山を参詣する度に地位や財力に応じて桜を植樹し続けたようで、その様子は16世紀頃までの記録に散見することができます。

今から420年前(1594年)にあった太閤秀吉の花見では、当時の吉野に見事な桜があったことが確実なので、乱世の時代でも桜の植樹や維持管理は続いていたようです。

江戸時代に入ると吉野は日光輪王寺宮の所領となり、吉野山の桜を伐採することを禁止する掟が1669年に発布され、吉野桜は領主の権力によって守られるようになります。

江戸時代初期(1671年)に出版されたガイドブック「吉野山独案内」には、吉野山を訪問した人々に桜の苗木を売っている挿絵があり、当時でもまだ桜の植林が続いていました。

江戸時代の有名人では文人画家の池大雅、本居宣長などが花の吉野を訪ね、多くの和歌を残しています。

参考文献:花をたずねて吉野山  鳥越 皓之著

つづく

 

 

 

 

 



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明治期から太平洋戦争までの市町村長、区長たちは、兵士に対する祝辞や弔辞を当時書店でふつうに売られていたマニュアル本の中から該当するものを選んで演説していたようです。そのことを造幣局の桜の写真と一緒に紹介しましょう。

1904年(明治37年)日露戦争時、のマニュアル本「軍人送迎 祝辞弔辞祭慰問文範」の中に「戦死者の遺族を慰むる文」があります。<・・・>が引用部分・・・・造幣局の紅華

あまり学の無かった村長達は事前にマニュアル本をしっかり読んでおき、戦死者遺族に対し<今回、○○君の○○において戦死せられたるは、軍人としての大名誉なるものにて、(天皇)陛下の御委任をも全うし、国民の大義務をも尽くされたるものなり>と、マニュアル通りの弔辞をはじめます。・・・造幣局の一葉

<故に、陛下は君の偉勲を賞され、賜うに金鵄勲章を以てせられ、国民は君の殊功を認め、遺族たる諸君に贈るに莫大なる尊敬と物品を以てせり>と話を膨らませて遺族の名誉心をくすぐり・・・菊桜

<嗚呼、君にして病んで家人の手に死なば 陛下は之に賜うに金鵄勲章を以てすべきか、国民は之に払うに莫大なる尊敬と物品を以てすべきか>戦死を病気で死ぬことと比較しながら・・・塩釜桜

<君は我が村の一平民に過ぎず、しかして今日の栄えありしものは、○○に戦死せられし功に由れるにあらずや>名誉の戦死が村民の栄誉であると強調します。・・・普賢象

<それ人生の免るべからざるものは死なり、今回一なる死にして、一は挙国の民をして共に涙を振るって惜しましめ、一は唯一家親族の人に限りて哀悼せしむるに過ぎずとせば、何れを以て得るとなし、何れを以て失えるとなすか>・・・妹背

どうせいつかは死ぬのだから、挙国の民から哀悼され、「莫大なる尊敬と物品」、つまり金鵄勲章(兵なら最低ランクの七級)と遺族年金が貰える戦死の方が得と説得したのです。・・・雨宿り

当時の地方幹部は、書店で販売していたマニュアル本の中から適切な箇所を選んで記憶し、遺族の前で自分の所信を述べるかのように堂々と哀悼演説をしたのでした。・・・数珠掛桜

参考文書 明治・大正・昭和軍隊マニュアル 人はなぜ戦場に行ったのか 一ノ瀬 俊也著



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紀貫之(866~945年)は、古今和歌集(912年頃)の序文に「春の朝、吉野の山の桜は人麻呂(柿本人麻呂、660~720年頃)が心には雲かとのみ(見)なむ覚えける」と記しています。

古今和歌集には、紀貫之の歌「越えぬ間は 吉野の山の 桜花 人づてにのみ 聞きわたるかな」があり、当時も吉野の桜のイ-ジは京都の貴族の間でも有名だったことが判ります。

また紀貫之の従兄で古今集の撰者だった紀友則(845~907年)の歌「みよし野の 山辺に咲ける 桜花 雪かとのみぞ あやまたれける」も古今集にあります。・・・シロヤマザクラの花弁は、ソメイヨシノよりも分厚いようですね。

古今和歌集の頃の吉野桜は、貴族の間で良く知られていましたが、平安末期に西行(1118~1189年)が吉野に入り、そこで桜を見ながら詠んだ多くの和歌を発表しています。その西行の歌で貴族以外の人々にも吉野のイメージが定着(今から830年前頃か)したようです。

新古今和歌集(1200年頃、1979首)には、吉野を詠った和歌24首のうち14首が桜を詠みこんでいて、西行が亡くなってからの和歌の世界では、吉野イコール桜となったようです。

新古今和歌集の発起人、後鳥羽上皇(1180~1239年)にも「み吉野の 高嶺の桜 ちりにけり 嵐もしろき 春のあけぼの」があり、そのサロンに集う側近達も後鳥羽院に倣って吉野の歌を詠んでいます。・・・これはヤマザクラとは別の品種のようです。

九条良経(11691206年)「吉野山 花の故郷 跡たえて むなしき枝に 春風ぞ吹く」・・・九条兼実の次男で早世しますが、長男の道家が祖父の庇護で摂政・関白となっています。

 藤原家隆(1158~1237年)「吉野川 岸の山吹 さきにけり 嶺の桜は 散りはてぬらん」・・・後鳥羽上皇の和歌の師匠、大阪上町台地の夕陽が丘に家隆の墓地があることで知られています。

慈円(1155~1225年)「花ならで ただ柴の戸を さして思ふ 心の奥も みよしのの山」・・・九条兼実の弟で天台座主

こうして吉野の桜のイメージは、後鳥羽上皇の時代(12~13世紀頃)に確固たるものとなります。・・・蔵王堂付近の吉野

後醍醐天皇の南朝(1336~1392年)は、吉野に置かれましたが、当時の吉野も桜の名所だったに違いありません。・・・後醍醐天皇陵は中千本の中、如意輪寺にあります。

参考文献:花をたずねて吉野山  鳥越 皓之著

つづく

 

 

 

 

 



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大阪造幣局の桜の通り抜けは、二日前に終わりましたが、期間中に見てきた満開のサトザクラを紹介しましょう。

今年の桜は、松前琴糸桜でした。

松前紅紫という品種もあり、名前と花の姿が良く似ています。

造幣局の桜の中で最も豪華な品種、松月です。

早咲きのため、例年なかなか見ることができなかった笹部桜を今年は見ることができました。しかし、もう満開を過ぎていたようです。

純白のサトザクラ琴平も満開でした。京都御室仁和寺の桜と似ています。

咲き始めが黄緑色の桜は御衣更です。この桜の花弁の白い部分は、左側にある花のように次第に赤くなってきます。

菊の花のように見える兼六園菊桜。

これも菊桜。そのつぼみが葉に影を落としていました。

つづく



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この日、近鉄電車吉野駅前の売店で調達した花見弁当は、上千本を見ながら美味しく頂きました。・・・花見弁当の場所です。

さて上千本を出て、来た道を戻ると、上ってくる大勢の観光客とすれ違いました。いよいよ吉野山が混雑しはじめたようです。・・・上千本のシロヤマザクラ

途中、車道から分かれ大塔宮迎徳碑公園へ入り、さらにその先にある桜展示園へと進みました。

桜展示園では、散った桜もありましたが、小高い丘となっている部分から満開の桜を見渡すことができました。

竹林院を過ぎ、少し下ると吉水神社があります。ここの一目千本のビューポイントは有名ですが、中千本、上千本までの距離が遠いので、ピンク色となった吉野山の景色を遠くから楽しめるという場所でした。

吉水神社を出て、吉野の清酒「やたがらす」のショップで桝酒を1杯頂き、さらに15分下ると蔵王堂でした。・・・蔵王堂前のシロヤマザクラ

蔵王堂に向かって左の低地が南朝の皇居があったところだそうで、現在は南朝妙法殿という三重塔が建っています。

改修工事中の仁王門を横に見ながらさらに下ると銅(かねの)鳥居、さらに進むと吉野の入り口となる黒門、この辺りから下が下千本です。

 黒門の先に赤い橋があり、その横に無料休憩所があったので、中に入って30分ばかり座って休みました。・・・下千本の桜が良く見えるポイントでした。

休憩所を出て、下千本のつづら折りの坂道をゆっくりと下ると、20分くらいで近鉄吉野駅前です。

花の吉野の滞在時間は約6時間、吉野を14時34分発の特急に乗り、阿倍野橋駅到着は15時51分。今年の吉野は、好天に恵まれ、満開の桜をゆっくり堪能することができました。

 

 

 

 



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毎年恒例の大阪造幣局の桜の通り抜けが始まると、吉野山の中千本、上千本のヤマザクラが満開となっているはずです。そこで4月15日火曜日、友人2名と一緒に吉野に行ってきました。

阿倍野橋駅7時発の特急で終点吉野まで、駅前に停車中のバスで吉野山竹林院バス停で下車すると、まだ朝の8時50分でした。

そこから上千本の絶景ポイント花矢倉を目指し、まだ観光客の少ない車道を歩いて上りました。・・・車道の左側が中千本

左側の谷、前方にかけてが中千本です。それを真横に見ながら進みます。

途中の民家に純白のモモの花が満開で、この日は桜と一緒にモモの花も楽しむことができました。

中千本横の車道をしばらく歩き、竹林院のバス停を出発してから30分、上千本の桜が見えてきました。

ここから花矢倉までの道は、桜エリアの中を通っていて、朝日に輝くヤマザクラの花が目に染みるほど。

上千本エリアは、蔵王堂を遥かに見下ろす高さとなります。そこから見える蔵王堂を中心とした吉野山。これが花の吉野を代表する風景でしょう。

竹林院バス停から吉水神社に下り、そこから吉野山を見て帰る観光客も多いようですが、この上千本からの眺めが最高ではないかと思います。

花矢倉展望台まで上り、蔵王堂方向を見ると、背後の山の彼方に薄く二上山が見えました。空気の透明度が良ければ、二上山の右側に大阪の超高層ビル群が見えるはずですが、この日はダメでした。

つづく

 



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西光寺の枝垂れ桜を見た後、帰りの山道を下る途中に室生寺の表書院が見えるポイントがあります。

表書院の門に架かる橋

桜が満開だったので、ちょっと入ってみました。室生寺の拝観は、正面門の前を右に行き、拝観料を支払い、さらに右奥にある仁王門から入ります。

仁王門の先を左に曲がると長い石段があり、その上が金堂です。その左手にある石段の上が室生寺本堂(灌頂堂)。・・・その本堂屋根越しの桜

本堂の左手にある狭い石段を上ると五重塔、その途中から本堂前の桜を振り返って見ました。

五重塔の左の小道を先に進むと奥の院へ通じています。その道はかなり急な石段で、その周囲に桜の株はありませんでした。

仁王門を出て帰ろうと思いましたが、受付の先に護摩堂の桜が見えたので、ちょっと足を伸ばしてみました。

護摩堂の奥にある表書院前から来た道を振り返って見た境内です。

表書院の奥にある慶雲殿も拝観できたので、そこに上がり、その庭から室生寺の表書院を眺めると、素晴らしい景観でした。



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