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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1863年(文久3年)8月、天皇の大和行幸に際して、大和(五條)で挙兵、そこに天皇を迎えて大和から全国の大名に倒幕の綸旨を出す計画だった天誅組の乱は、明治維新のさきがけと言われています。



それから約100年後、1964年のオール読物に「五條陣屋」という司馬遼太郎の短編作品があり、それが面白かったのでゆかりの五條を訪ねてみました。

五條を流れる吉野川



作品の主人公は、五條陣屋(代官所)の手付(与力格)の下、手代(同心格)の木村佑次郎と五條の仕立てやの息子乾十郎、江戸時代を通じて大和南部7万石の天領を管轄する五條陣屋は代官以下手付、手代あわせて僅か14名で運営されていたようです。



代官は、鈴木源内(旗本700石)、前年に江戸から赴任してきた温厚な人物で、徳川時代の天領には、大名への模範となる清廉な人物を任用したので、代官の中から汚職が発生したことは少なかったと書かれています。



天誅組に加わった五條出身の乾十郎は、7万石の天領が僅か14名の武士だけで運営されていることを知っていて、大和挙兵の拠点として五條陣屋を襲撃、代官所の金品を軍資金とすることを進言したとされています。

桜井寺にある天誅組本陣石碑



この事実を聞かされた中山忠光(明治天皇の叔父)以下天誅組39名は襲撃を決定、京都から堺、河内狭山藩、楠木正成ゆかりの観心寺、千早峠を越えて五條陣屋に殺到し、代官鈴木源内を殺害し、代官所に放火しています。

五條にある老舗の醤油屋さん



代官以下(木村も含む)5名の首は、代官所の近くにさらされ、五條陣屋が焼失したために桜井寺が天誅組の本陣となったようです。



立て札の罰文には、「この者ども(中略)収斂の筋すくなからず(後略)」とありましたが、鈴木代官以下には身に覚えのなかったことだったようです。

桜井寺本堂



五條陣屋襲撃の翌日、京都の政変で天皇の大和行幸は急遽中止となり、天誅組は幕府諸藩の包囲を受け五條から大和を転戦してほどなく全滅、乾十郎は逃亡先の大坂で捕えられ六角獄で処刑されています。

五條に残る古い街並み



途中、リーダー格の吉村寅太郎は、南朝ゆかりの賀名生に立ち寄り、皇居があったとされる堀家に「皇居」と揮毫した額を寄贈、その額は賀名生歴史民俗資料館に今も保存展示されていました。



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