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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



今日の月齢は13です。 この13夜の月が西の空に沈む時間は、日の出の36分前となる4時54分です。そこで咲洲のシーサイドコスモまで出かけ沈む月を眺めてみました。

月の下には厚い雲があるようで、淡路島に隠れる前に、この雲に隠れてしまいそうです。

4時50分近くになると、西の空が少し明るくなってきました。

この日、月が沈む位置は、淡路島の淡路市、旧東浦町付近のようです。

淡路島上空の雲の下に、雲の切れ目があり、幸運にも沈む月の下が見えてきました。

ズームアップしてみると、ピントがあっていないか、カメラがブレてしまっているのか、残念な画像となっていました。

この朝の月は、淡路市の低い山の彼方に沈んでゆきました。

東を振り返ると、朝焼けの空に大阪市内のビルが影絵のように見えています。

大阪駅方向をズームアップしてみると、高層ビルが林立しているのが良く判ります。



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咲洲にあるインテックス大阪の道路を挟んだ北隣(写真の左側)は、安藤忠雄氏が設計した旧ライカ本社ビル。ファッションアパレルの(株)ライカ(1957年創業)が2004年に倒産後、広い敷地には囲いがしてあります。

大阪を本社としていたライカは、600億円もの負債があったそうですが、この本社ビルの建設費がかなりのウエイトを占めていたようです。インテックス大阪側から囲いの内側を良く見ると、もう解体工事が始まっていました。

民事再生法適用後に伊藤忠の100%出資会社として再スタートしましたが、2009年4月に事業を停止して解散しています。美術館のような美しい建築でしたが・・・

建物の北西部分の解体は、もうかなり進んでいるようです。

さて、旧ライカビルの解体を見て国際フェリー埠頭方向に散歩を続けると、いつもの新鑑真(右)の後ろに別の船が接岸していました。

こちらが日中国際フェリーの新鑑真。総トン数14.543トン、全長157m、乗客定員345名。週1便、2日間かけて大阪と上海を結んでいます。大阪と上海間には同クラスの蘇州号も運行しているので、2隻で週2便

左側の船体には大きくPan Ster Cruiseと書いてあるので、パンスタークルーズ社のパンスタードリーム号でしょう。

パンスタードリーム号は、総トン数21.535トン、全長160m、乗客定員681名なので、新鑑真よりも一回り大きい船でした。船尾にあるPANSTER DREAMの文字。

大阪から釜山までは、月・水・金の15:10発、釜山には翌日の10:00着です。運賃は、4人部屋のファミリールームで往復3万円、6名の相部屋となるスタンダードルームで往復2万円とHPにありました。

 



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この夏に撮った大阪港の朝の景色を紹介しましょう。日の出30分前の朝焼け

風が無い日は、これくらい海が穏やかになります。日の出直前のヨットの入港

日の出の後に正面から朝日を浴びて入港する船

西の方向を見ると、意外と近くに明石海峡大橋を望むことができます。

この日は天気が良かったので、淡路島の北端と明石海峡大橋の淡路側主塔付近付近がかなり明瞭に写っていました。

神戸市長田区方向です。左が鉢伏山(248m)、谷の部分の住宅地が高倉台、右が横尾山(312m)でしょう。

神戸のポートアイランドから三宮方向

神戸市東灘区方向、山の手のビルは、甲南大学、神戸薬科大学、甲南女子大学などでしょう。

山頂の建物は、5年前に閉鎖された六甲オリエンタルホテル。その下は東灘区住吉山手、渦森台の住宅地

この夏に撮った大阪港からの風景でした。



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夏も終わりに近づくと空気が澄み、月が美しく見える季節がやってきます。そこで今年の8月、大阪港で撮った月の写真をいくつか紹介しましょう。

早朝、大阪港の大関門赤灯台方向を見ると、西に沈む月があります。朝日が出てきているので月の光は弱く、空に溶け込みそうです。

この日、満月が水平線に沈む写真が撮りたかったのですが、この雲では無理のようです。

満月の日は月に1度(年間12回)だけ、その日に西の空に雲が無ないという条件が必要なので、撮影できる確率はかなり低いことになります。月に雲

さてある夕方、今度は三日月が水平線に沈む姿を見たいと思い、大阪港まで出かけてみました。大阪港のレーダー塔の先に沈む夕日

レーダー塔は、大阪港大関門の先に位置しています。

夕日が沈み、暫くすると雲の間に三日月が見えてきました。三日月の光っている方向に太陽が沈んだことが判ります。

雲の間の狭い場所をズームアップしてみました。水平線に沈む三日月の撮影は、この雲ではちょっと無理でしょう。

少し露出時間を伸ばし、月の暗い部分が薄く見える「地球照」の撮影にチャレンジしてみました。カメラと撮影者の能力不足のため、これが精いっぱいでした。



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京都府立植物園のバオバブの花などを以前紹介しましたので、今回はそれ以外の夏の花を紹介しましょう。ハケイトウの寄せ植え

北アメリカ原産のルリギク(紫)

北アメリカ原産のルリギク(白)

ハスの中心部

水生植物ガガブタの花

ハイビスカスの原種

温帯スイレン

ハイビスカスの原種(アフリカタンザニア・ザンジバル島原産のフウリンブッソウゲ)

テッポウユリ



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咲洲の高層ビルから見た大阪市内を昨日紹介しましたので、今回はその反対側、大阪湾の風景を紹介しましょう。ATCの前には、九州別府航路のフェリーさんふらわが停泊しています。

この日は明石海峡大橋が意外と良くみえました。

ギラギラとした海の上を旋回するのは、神戸空港に着陸する飛行機でしょう。

夢洲コンテナ埠頭の先には、六甲連山が良く見えています。

太陽が沈むと、上空手前の雲の下だけが夕焼け状態となり、左方向に雨を降らせているようです。

暮れなずむ夢洲と六甲山

夕焼けの神戸ポートアイランド方向をズームアップしてみました。

ATCと大阪港、その先は阪神間の明かりです。

明石海峡大橋のケーブルにも明かりが灯りました。強い光は、神戸空港に着陸する飛行機のヘッドライトでしょう。



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夏のある日、大阪の咲洲にある高層ビルから大阪市内を展望してみました。

梅田周辺は、いつのまにか超高層ビルで埋め尽くされていますね。

港大橋のすぐ右、あべのハルカスが小さく見えています。

ズームアップしてみると、近鉄阿部野橋駅周辺がちょっとした高台となっているのが判ります。

さらに右側にはJR堺駅前のタワーマンションが2棟、その背後の谷は水越峠でしょう。右側、金剛山の手前には富田林のPL大平和祈念塔も見えています。

暫くすると、大阪市内中心部に黒い雲が現れ、狭い範囲に雨が降ってきたようです。

黒雲は、阿倍野橋駅の東側にも出現、背後の生駒山の姿が見えなくなってしまいました。

つい、今しがたまで見えていた生駒山ですが・・・・

背後が雷雲に覆われ、周辺だけがスポットライトを浴びているような「あべのハルカス」でした。

 



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関ヶ原の戦いから14年が経ち、真田幸村と同年代で、豊臣家を支えていた加藤清正(53歳、慶長16年6月)、池田輝政(50歳、慶長18年1月)、浅野幸長(39歳、同年8月)等が次々と亡くなった、慶長19年8月(1614年)、方広寺大仏事件が勃発しています。幸村の屋敷跡と伝わる善名称院(真田庵)の門

真田幸村(48歳)の九度山での閑居も14年目となり、人生50年と考えられていた当時の武将として、戦場で戦って後世に名前を残せる死を迎えたいと考えていたことは想像できます。真田屋敷跡の説明板

徳川対豊臣の合戦が避けられなくなった同年10月初旬、豊臣秀頼の使者が密かに九度山の幸村を訪ね、支度金として黄金200枚、銀30貫目を差し出して大坂方への助力を懇請したことで、幸村の願望が実現へと動き始めています。九度山町のメインロードは「真田のみち」

10月9日、幸村は紀州藩浅野家の監視の目を欺くために近在の庄屋や名主達を屋敷に招待して酒をふるまい、彼らが泥酔した深夜、招待客の馬に荷物を載せ、密かに九度山村を抜け出しています。紀見峠方向

この日幸村に従うものは、嫡男大助以下真田の郎党130名、その中には九度山村近在の有力者も多数混じっていたようです。遍照寺の南に真田屋敷があったとも伝わっています。

九度山から橋本に出て北上、紀見峠を越えて河内長野、富田林、藤井寺、平野、天王寺というルートなら大坂城まで約57km、時速4kmとして翌日の夕方には到着したのではないでしょうか。旧萱野家も真田幸村との所縁があるようです。

幸村が脱出した翌朝、幸村のもう一人の監視役だった五條二見藩(1万石)松倉重政の配下が幸村屋敷を捜索していますが、既にもぬけの殻だったようです。善名称院(真田庵)の築地塀

失態を演じた松倉重政は、幕府の信頼を回復するためか大坂夏の陣で目覚ましい活躍を果たし、戦後肥前日野江(4万3千石、後に島原城主)に加増転封されています。

どちらが勝っても真田家の家名が残るように配慮した父、真田昌幸の思惑通り、兄信之は信濃松代藩主として93歳まで生き(途中に養子が入っていますが)真田家を明治維新まで存続させたので兄は実を取ったのです。

一方弟の幸村は、豊臣方の名将として、また真田十勇士を従えた魅力溢れる人物として、名を残したのです。父親の思惑通り、真田家では「名と実」を兄弟で残すことに成功しています。

尾崎士郎は、小説「真田幸村」の中で、保元の昔、源為義が嫡子義朝を内裏に送り、おのれは為朝等を引き連れて新院の味方をした前例があると書いていますが、真田昌幸は恐らくその事実を知って行動したのでしょう。

参考文献:真田幸村と大坂の陣(血戦真田軍団 九度山退去から天王寺口の激闘へ)渡辺 誠著



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慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦で真田信之(35歳)は東軍徳川方に、父昌幸(54歳)と弟幸村(信繁34歳)は、西軍に付いて戦い、東軍が勝利した後、父と弟は死罪に処せられるところでした。右の築地塀の内側が真田親子の屋敷跡と伝わる善名称院(真田庵)

しかし、信之の必死の嘆願で父と弟は助命され、高野山に蟄居の身となり、翌10月9日には真田家菩提寺だった高野山蓮華定院に随伴者16名と共に身を寄せています。善名称院の内側

ところが冬の高野山(標高827m)の寒さが厳しかったため、高野山の北8.4kmの地にある九度山(くどやま・標高94m)の善名称院(真田庵)に監視役の紀州浅野家の許可を得て移転したようです。真田幸村旧跡の石碑

江戸の幕府は、高野山から直線で8km北にある九度山(くどやま)を、高野山と同じように標高の高い山地と錯覚していたようですが、実は山とは名ばかりの紀ノ川沿いの低地の村(以下九度山村とします。但し現在は九度山町)だったのです。

現在でも南海電鉄高野線の快速急行に乗れば、南海難波駅から約1時間で紀ノ川と丹生川に挟まれた九度山駅に到着することができます。

奥方(大谷吉継の娘)を同伴していた真田幸村は、この温暖な九度山村で人生の絶頂期とも言える34歳から48歳までの14年間を過ごしています。善名称院(真田庵)の門

幸村の父、真田昌幸は、この地で亡くなっていて、その墓所は善名称院(真田庵)に現存しています。また長男の真田大助もこの地で生まれたようなので真田家にとっては所縁の深い土地なのです。

徳川幕府は、九度山村での幸村の生活範囲を「裏の川淵上下5丁の間」と定められていたので、丹生川が紀ノ川と合流する地点から丹生川の上流まで約1kmまでが生活圏だったようです。九度山町の丹生川

九度山村の真田家には、信州の兄からの仕送りと、紀州藩浅野家から毎年50石の米が贈られていましたが、豊かな生活では無かったようで、生活費を無心する手紙が残されています。丹生川と紀ノ川の合流地点

参考文献:真田幸村と大阪の陣 (九度山閑居の日々)清水昇著



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関ヶ原の論功行賞の場面が尾崎士郎の小説「真田幸村」の中にあるので、紹介しましょう。<勲功第一の福島正則は、天海の前に坐り家康の墨付を押し頂いた。続いて黒田長政、池田輝政、藤堂高虎、加藤嘉明、蜂須賀家政、浅野幸長と順々に進んで午後近くになった頃、天海が末座の方へ眼を移した>  橋本から九度山までの途中にある紀ノ川

<真田信之殿、出られませい(中略)、信州十郡、御高三十万二千石つかわされる、受けられませい」(中略)信之は、天海の顔をじっと下から見上げながら「恐れながら、お伺い申し上げます。父昌幸、弟幸村のご処分はいかが相成りましょうや」>  橋本から3つ目の駅が九度山です

<天海が正面から睨みつけた。「当日は仕置きのことについては何のかかわりも持たぬ、時と場所が違いますぞ」>  なかなか情緒のある駅舎です。

<「よく存じております、なれども血につながる一族のそれがし、格別のご恩徳をもってお沙汰の儀を承りとう存じまする」信之の声は鼻に詰まり、かすれていた。天海の顔にも一瞬感激の色が浮かんでいたが、しかし、彼はすぐ決然として威儀を改めた。「是非にとあらば申してつかわそう。昌幸、幸村、ともども罪一等を減じて切腹の儀、申し渡すことに内定いたしておるぞ」>  ここから高野山までは22kmもの距離があるようです

<そのとき、「ああ、これ、これ」と、御座所の上から家康が叫んだ「信之、何か不服でもあるのか?」>  弘法大師が槙尾明神と対面した所にある対面石と遍照寺の石碑

<「身に余るご恩徳、何の不服なぞが」信之の声には、さわやかなひびきがこもっている。そのまま、一座をじっと見渡してから「ただ、それがし、身を持ってお願いの筋がござります」> この下に真田一族が住んでいたという遍照寺の門

遍照寺の向かいは、旧萱野家の門。萱野家は、もと不動院という寺で、高野山真蔵院の里坊(避寒所、寺領支配事務所、高野山から京への出張中継所)。この萱野家の当主萱野正之助は、昭和初期頃に大石順教尼と親交を持つようになり、順教尼が出家する際の菩提親となっています。

<信之は「昌幸、幸村両名、上田城にて秀忠公のご軍勢に手向かいいたしたることは、弓矢の道につながるものの、やむにやまれぬ心構えのいたすところと心得ます(中略)おそれながら、それがしへのご恩賞の儀はもとより、沼田一城お召し上げとなりましても不服には存じませぬ」> 九度山町「真田のみち」にある米金と書かれた九度山焼きの人形

<「おそれながら」と、この日の恩賞で紀州和歌山三十九万五千石に加増された浅野幸長が「伊豆守(信之)のいうところ至極もっともとは存じますが、公私の問題はおのずから別、仔細の詮議はこれを後日にゆずり、昌幸、幸村の一命は、しばらくそれがしにお預け下さりますよう伏してお願い申し上げます」>  九度山の松山常次郎記念館には政治家松山常次郎の遺品、資料のほかに常次郎の長女が結婚していた平山郁夫の作品が展示してあります

<「うむ、その方の所存いかにも一理がある、家康、腹中におさめておくぞ」鶴の一声である>  こうして昌幸、幸村は切腹を免れ、浅野幸長の領地となった高野山さらに九度山に閑居の身となりますが、信之の恩賞は信州三十万石二千石から上田城九万五千石に減らされたのでした。

参考文献: 真田幸村 尾崎士郎著



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世界遺産ヴェネツィア展が京都文化博物館で開催されていると聞いたので、行ってきました。地下鉄烏丸御池駅五番出口を出て三条通りを東に向かいます。

ヴェネツィアと言えば、かなり前に塩野 七生さんの「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」を読んで、一度行ってみたいと思いながらまだ果たせていません。三条通は、この中京郵便局(1902年完成)前でクランク状になっています。

そこで、そのヴェネツィアを京都で垣間見ることができるのなら、入場料1300円は安いと思ったのです。意外と狭い三条通をさらに東に進むと、また赤煉瓦の建物が見えています。

平日の11時頃でしたが、チケット売り場には行列ができていて、5分くらい並ぶことになりました。これなら土日はもっと混雑するのでしょうね。これが日本銀行京都支店(1906年完成)だった建物で、今は京都文化博物館の一部で、三条通からの入り口となっています。

京都文化博物館本館の4階と3階が会場となっていて、内部も混雑していましたが、1時間半かけてリストに157品目とあった展示品をすべて見ることができました。日銀らしい重厚な正面玄関。

印象に残ったのは1500年のヴェネツィア景観図と、1650年頃のヴェネツィア眺望図、後者の地図に描かれたゴンドラは、今も使われているゴンドラと同じ形をしていました。ヴェネツィア展の看板も出ています。

また、今から250年くらい前のヴェネツィア人が使っていた男女の靴が展示してありましたが、そのデザインが今の靴と殆んど変わっていないことに驚きました。旧日銀京都支店の内部

今回のヴェネツィア展は、芸術、文化などを主体としていましたが、小さな海の都市国家が何故千年もの繁栄を続けたのかという視点での展示も欲しかったと思います。高倉通に面した京都文化博物館の本館

塩野 七生さんの海の都の物語には<盛者必衰は、歴史の理である。現代に至るまで、一例も例外をみなかった、歴史の理である。それを防ぐ道はない。人智によって可能なのは、ただ、衰退の速度をなるべくゆるやかにし、なるべく先にのばすことだけである。天与の資源にまったく恵まれなかったこの国は、おそらくそれがためにかえって、この難事業を、まずは及第点を与えてもよい程度にやりとげることができた>とあり、衰退の段階に入った日本はヴェネツィアからもっと学ぶ必要がありそうです。高倉通から見た旧日銀京都支店と京都文化博物館の本館

 いつか機会があれば、ヴェネツィアを訪ねてみたいものです・・・・

参考文献:「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」 塩野 七生著



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もうハスの時期は過ぎたかも・・・と思って京都府立植物園に早朝行ってみると、嬉しいことにまだ咲いていました。蓮池の白いハス

ハスの花は、7時半から9時頃まで咲いてすぐに閉じてしまうので、早朝でかけないと見ることができません。あじさい園の池のハス

しかし、このような八重咲きの品種は、昼になっても閉じることが無いようです。四季彩の丘のハス

さて京都府立植物園では、半木神社南の蓮池、あじさい園の池、四季彩の丘の3個所にハスが栽培されています。この花はもう閉じかけています。四季彩の丘のハス

なかでも宿根草有用植物園だった場所を改修した四季彩の丘には、鉢に入った花ハスが多数展示してありました。四季彩の丘のハス

また四季彩の丘にある水路にもスイレンとともにハスの展示があり、至近距離からハスの花を観察することができます。四季彩の丘のハス

普通、ハス池の中に咲いているハスは、真上からの撮影が困難なのですが、四季彩の丘のハスでは、有難いことにそれが可能でした。四季彩の丘のハス

大阪の此の花咲くや館よりも、こちらの方がハスの種類も多かったように思います。四季彩の丘のハス

大阪(此の花咲くや館)も、京都に負けないよう頑張って欲しいものです。あじさい園の葉の間に咲いたハス

つづく



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京都府立植物園の早朝開園に合わせて早めに入園し、バラ園の東側にある各種のヒマワリを見てきました。ブラドレッド

夏を代表する花は、ヒマワリでしょうが、この花は初めて見ました。ロシアという品種です。

小ぶりなヒマワリは、レモンエクレアという品種でしょうか。

外側が黄色く光っているように見えるのは、リングオブファイアー

モネのヒマワリ。フランスの画家モネが描いたのは、中央部まで黄色い、このヒマワリなのでしょう。

小ぶりな品種

これもリングオブファイアーでしょう。

中央部が黒いステラゴールド

ココアという品種。背か高く花が小さく写ってしまいました。

京都植物園に来て、ヒマワリにいろいろな品種があることを知ることができました。



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京都府立植物園のHPに7時半から早朝開園しているとあったので、8時過ぎに北山門に到着、すると改札口に「バオバブの木に花が咲いているので観覧温室も8時半まで無料開放」と表示してありました。

利用者へのサービスを考えたこうした臨機応変な対応は、大阪市の咲くやこの花館も見習って欲しいものです。さて観覧温室に急ぎ、バオバブの木と対面。床置き看板の矢印の先の枝に白い花が見えています。

これがアフリカバオバブを紹介する看板

係員に聞くと、日本でこの花を見ることができるのは、沖縄の植物園以外ではここだけですとのことでした。これがその拡大写真。

蕾が膨らみ開花が確実となれば、7時半からの早朝開園に合わせて観覧温室の入り口も開けているそうです。こちらは蕾だそうです。

ところが、たまに開花がずれ込むこともあるとか。直下からも写しておきました。

夜に開花した後、昼にはこうして落花してしまうそうです。(前日に開花した花)

係員が、水やり作業があるので一旦閉館しますと言うので、出口に向かう途中、木の幹から2個の球形の実がぶら下がっているのを見つけました。

南アメリカ原産のホウガンノキ(砲丸の木)の実でした。なるほど上の写真を見ると砲丸によく似ていますね。

つづく



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翌文久3年(1863年)、幕府老中格小笠原長行(当時42歳)は、1500名の幕府正規軍を引き連れて海路大坂港に入り、京都を目指したことを前回紹介しました。大阪港の夕暮れ

小笠原軍の撤退を見た朝廷は、京都に引きとめていた将軍家茂の東帰を許し、家茂は念願だった江戸城に戻ることができたので、小笠原は朝廷の人質同然だった将軍の救出には成功したのです。月の出

大坂に戻った小笠原は、朝廷からの強硬な申し入れで老中職を罷免され、大坂城代屋敷に預けられていますが、将軍を救出した実績と、大坂城代を指揮していた老中格という立場から重い処罰では無かったようです。月

朝廷を震撼させた小笠原長行ですが、1864年に幕政に復帰、1866年の第二次長州征伐の際には老中格から老中となって、長州藩の処分を伝えるために大坂から海路広島に出張しています。左ミズノ本社、月、右大阪府庁咲洲庁舎

しかし、薩摩藩との連合が成った長州藩との交渉が難航して、幕府は第二次長州征伐の開戦を決意、老中小笠原長行(45歳)は、九州方面軍の総指揮官として小倉に向かっています。左ミズノ本社、月、右大阪府庁咲洲庁舎

徳川政権が揺らぎはじめている中、小倉の幕府軍は、熊本の細川家(54万石)、佐賀の鍋島家(36万石)、柳川の立花家(12万石)、小倉の小笠原家(小笠原宗家、15万石)などが集結、彼らは小笠原の分家筋に当たる唐津藩(6万石)出身という小笠原長行の命令に従おうとはしなかったようです。大阪府庁咲洲庁舎の後ろの月

そのさなか、将軍家茂が大坂城で亡くなったとの報告を受けた小笠原長行は、老中として将軍後継問題の処理に当たるため、密かに小倉の陣を抜け出し大坂を経由して江戸に戻っています。

そのため烏合の衆となっていた小倉の幕府軍は、長州に敗北、敗因は小笠原長行の戦線放棄にあったとされたのです。

江戸にもどった長行は、一旦お役御免となりますが、新将軍徳川慶喜の命で三たび老中に復帰、そのすぐ後に鳥羽伏見の戦で幕府方が敗北、大坂の慶喜は密かに大坂城を抜け出して江戸城に戻り、即座に恭順の意を表明するのです。

一方、投降を嫌った小笠原長行は、老中職の慰労金(5050両)を持ったまま江戸から東北地方、函館へと逃げ、3年後の明治5年(1872年)新政府に自首、すぐに赦されて東京駒込の小邸に隠棲、明治24年(1891年)に死去しています。

参考文献:流離の譜 滝口康彦

 



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