関ヶ原の戦いから14年が経ち、真田幸村と同年代で、豊臣家を支えていた加藤清正(53歳、慶長16年6月)、池田輝政(50歳、慶長18年1月)、浅野幸長(39歳、同年8月)等が次々と亡くなった、慶長19年8月(1614年)、方広寺大仏事件が勃発しています。幸村の屋敷跡と伝わる善名称院(真田庵)の門
真田幸村(48歳)の九度山での閑居も14年目となり、人生50年と考えられていた当時の武将として、戦場で戦って後世に名前を残せる死を迎えたいと考えていたことは想像できます。真田屋敷跡の説明板
徳川対豊臣の合戦が避けられなくなった同年10月初旬、豊臣秀頼の使者が密かに九度山の幸村を訪ね、支度金として黄金200枚、銀30貫目を差し出して大坂方への助力を懇請したことで、幸村の願望が実現へと動き始めています。九度山町のメインロードは「真田のみち」
10月9日、幸村は紀州藩浅野家の監視の目を欺くために近在の庄屋や名主達を屋敷に招待して酒をふるまい、彼らが泥酔した深夜、招待客の馬に荷物を載せ、密かに九度山村を抜け出しています。紀見峠方向
この日幸村に従うものは、嫡男大助以下真田の郎党130名、その中には九度山村近在の有力者も多数混じっていたようです。遍照寺の南に真田屋敷があったとも伝わっています。
九度山から橋本に出て北上、紀見峠を越えて河内長野、富田林、藤井寺、平野、天王寺というルートなら大坂城まで約57km、時速4kmとして翌日の夕方には到着したのではないでしょうか。旧萱野家も真田幸村との所縁があるようです。
幸村が脱出した翌朝、幸村のもう一人の監視役だった五條二見藩(1万石)松倉重政の配下が幸村屋敷を捜索していますが、既にもぬけの殻だったようです。善名称院(真田庵)の築地塀
失態を演じた松倉重政は、幕府の信頼を回復するためか大坂夏の陣で目覚ましい活躍を果たし、戦後肥前日野江(4万3千石、後に島原城主)に加増転封されています。
どちらが勝っても真田家の家名が残るように配慮した父、真田昌幸の思惑通り、兄信之は信濃松代藩主として93歳まで生き(途中に養子が入っていますが)真田家を明治維新まで存続させたので兄は実を取ったのです。
一方弟の幸村は、豊臣方の名将として、また真田十勇士を従えた魅力溢れる人物として、名を残したのです。父親の思惑通り、真田家では「名と実」を兄弟で残すことに成功しています。
尾崎士郎は、小説「真田幸村」の中で、保元の昔、源為義が嫡子義朝を内裏に送り、おのれは為朝等を引き連れて新院の味方をした前例があると書いていますが、真田昌幸は恐らくその事実を知って行動したのでしょう。
参考文献:真田幸村と大坂の陣(血戦真田軍団 九度山退去から天王寺口の激闘へ)渡辺 誠著