野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



ある晴れた休日、JR姫路駅から大手門前まで100円のバスに乗って39年ぶりに国宝の姫路城を訪ねてみた。

巨大な木造の扉がある大手門をくぐると広大な三の丸広場で、明治になって陸軍が江戸期の建物を撤去して兵舎と錬兵場にしたらしい。



姫路城は大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物が重要文化財に指定され、1993年にはユネスコの世界文化遺産にも登録されている。



現在残る城郭と遺構は秀吉時代のものではなく、徳川家康の娘婿である池田輝政が慶長5年(1601年)から8年掛かりで築造したものという。



三の丸北側の登城口で入場料を払い、左に折れる坂を登ると、大手口を固めた2階建、漆喰塗りの巨大な菱の門がある。



菱の門から、真っ直ぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守へ辿り着けるが、天守へは菱の門から右手にある石垣の中に隠された門である「るの門」から入るルートのほうが早い。

いの門



ろの門



「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない巧妙な構造となっている。

はの門



にの門




「ほの門」は極端に狭い鉄扉があり、そこを通って天守の石垣を一周しなければ天守閣への入り口には着けないようになっている。



しかし「ほの門」からの通常のルートを外れて水三門と書かれた門を通るとそこが天守の入り口であったりするので正に迷路である。



つまり姫路城の通路は曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないという防御を優先に考えた複雑な構造になっている。


門も、やっと一人が通れる狭いものとしたり、又、分かりにくい構造をしていたりと、ともかく進みづらい。



すなわち防御のため、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫が随所になされているのであるが、今から400以上年前に戦国時代に生きた大名が必死で考えたプランを現在でも伺い知ることができる。


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北野天満宮拝殿の裏側は、菅原氏の祖先と言われる「天穂日命」、道真の祖父の「清公」、父「是善」の3人を祀る御后三柱(ごこうのみはしら)の拝殿である。



祖父の清公は空海、最澄と同時に遣唐使として派遣された人で、菅原氏として最初に公卿に列せられたという。

また父の是善は大学頭、勘解由長官を歴任し太政官の重職である参議に列せられ、祖父、父共に文章博士にも任じられている。

拝殿の裏



北野天満宮拝殿の裏側をさらに西に回ると、太閤御土居(おどい)の跡が残っている。

太閤御土居とは豊臣秀吉が,京都へ侵攻する敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防を兼ねて1519年頃に築いた土塁のことで、御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶようになった。



しかし豊臣政権が崩壊すると、道路を分断していた部分の御土居が取り壊され多くの出入口が設けられている。

大正年間に京都府が行なった実測調査によると、御土居の断面は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mの台形状で、土塁の外側に沿って堀があり、その幅は10m、深さは最大4m程度であったという。

北野に残る御土居



当時洛中と洛外を結ぶ道が御土居を横切る場所を「口」と呼んだので鞍馬口、丹波口などの地名が今でも残っている。

さて、高さ5mの御土居から下りて境内の西側を歩くと、豪華な牛車(ぎっしゃ)を入れたガレージのような倉庫があった。



平安時代には牛車は貴族の一般的な乗り物であったが、今では時代祭り等の観光用として利用されているらしい。



その南側からは末社がいくつも続き、中には相撲取りのルーツである野見宿祢を祀った神社もあったが、野見宿祢が道真の祖先とは知らなかった。



楼門の近くには鉄筋コンクリート造の宝物殿があり、中には有名な国宝である北野天神縁起絵巻が展示されているが、残念ながら閉館中であった。



宝物殿の南、女子トイレの手前には1607年に豊臣秀頼が寄進した校倉も残っていた。



ところで国宝の拝殿を持つ北野天満宮が世界文化遺産「古都京都の文化財」17箇所の寺社に入っていないのは何故であろう。


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北野天満宮の参道を奥に向かい二の鳥居、三の鳥居を潜ると石段の上に桧皮葺の巨大な楼門が見えてくる。



楼門の手前には青銅製と思う美しい灯篭が置かれていたが、寄進された年号は延宝5年(1677年)と今から330年も前のもので、奉献された当時そのままの姿を留めている。



楼門を入って参道は西に向きを変えるが、その左には巨大な絵馬所があり、古い絵馬や算額等が多数奉納されている。



絵馬所の前から再び北に伸びる参道をさらに進むとこれも桧皮葺の重要文化財である三光門が見えてくる。



三光門手前東側の植え込みの中に、織部形石灯籠と名前が掲示されたかなり古い灯篭があった。



この灯籠には元和元年(1615年)に死去した古田織部の墓にある灯篭とよく似ているので名付けられたとされている。

相当古いものと思われるので、恐らく400年前からこの場所に奉献されていたのではなかろうか。

さて、三光門は1607年に豊臣秀吉の遺命に基づき、豊臣秀頼の寄進によって建てられたものとされている。



江戸初期1655年~1663年在位された後西天皇御宸筆『天満宮』の勅額を掲げてあり、豊富な彫刻の中に日月星があるから三光門の名があるという。

三光門の裏側



今から340年以上前に楷書で書かれた天満宮という金文字は今も鮮やかで、雄渾で美しく気品がある。



三光門を入ると正面に国宝に指定されている拝殿があり、三光門から拝殿までは周囲が回廊で囲まれている。



拝殿も三光門と同じ1607年に豊臣秀吉の遺命に基づき、豊臣秀頼の寄進によって建てられたものとされている。



今から約400年前に創建された国宝の拝殿は権現造りの代表的な遺構で、総面積約五百坪の雄大な桧皮葺屋根の威容は日本人の心の故郷そのものである。



拝殿の前の境内に石が風化したかなり古い灯篭があり、重要美術品、伝「渡辺 綱」奉納の灯篭とある。



源 頼光の四天王で、かつ全国の渡辺さんの祖となった、「渡辺 綱」は953年に生まれ1025年に没しているので、北野天満宮の創建時期に活躍した人ある。

従って「渡辺 綱」が北野天満宮に石灯籠を奉納したとしても時代考証的には問題が無いのであるが、石灯籠が果たして1000年の風雪に耐えて現在まで残るものであろうか。


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宇多天皇、醍醐天皇の信頼が篤かった菅原道真は藤原氏の誣告によって901年、太宰府に流され903年に逝去している。



その道真の死後、京都では疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した上に御所の清涼殿が落雷を受け、多くの死傷者が出たという。

一の鳥居



御所の清涼殿落雷があったことから道真の怨霊は雷神と結びつけられ、元々北野の地に火雷天神の「地主神」が祀られていたことから、道真の祟りを鎮めようとして947年に創建したのが北野天満宮である。

狛犬の台座には梅のレリーフ



959年には藤原師輔によって社殿が整備され、987年には「北野天満宮大神」の神号が下されたことから道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。

「影向松」前の灯篭は宝暦14年製(1764年)



北野天満宮は創建されて既に1059年が経過している古い神社で、全国1万4千社あるという天満宮の総本山である。


1587年には豊臣秀吉が、北野天満宮境内で九州平定と聚楽第の竣工を祝って北野大茶会を開いている。

この日、秀吉みずから亭主をつとめ、千人以上の参会者で賑わい、諸家の茶席に秘蔵の名物茶器・道具が展観されたというが、秀吉が見た北野天満宮は創建以来640年を経てかなり荒れ果てていたのであろう。



このときの豊臣秀吉の遺命に基づき、豊臣秀頼の寄進によって拝殿、三光門などが1607年に再建されている。

北野大茶会の遺跡として、表参道の西側には細川三斎が設けた茶席の井戸が太閤井戸として現存している。



京福電鉄の北野白梅町駅から東に歩いて10分くらい、北野天満宮一の鳥居に到着すると、タクシーが何台も客待ちしている。

参道には住吉大社に見られるような石灯籠が林立していて、寄進された年代を見ると元禄時代以降のものが多く、明治、大正、昭和のものもある。



面白いデザインの灯篭は明治のものが多いが、石の質によるものか江戸期のものよりも風化が酷いものもある。



相当古いものもありそうであるが、灯篭の竿が円柱状のものは文字の風化が激しく判読が難しいものが多かった。

手前は元禄12年(1699年)とある灯篭



道真公は、845年六月二十五日の丑年、丑月、丑日、そして丑刻に誕生したことで、牛は天神さまの使いとされている。




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最も近い阪神芦屋駅から歩いて20分かかる芦屋文化ゾーンにある谷崎潤一郎記念館の東が市立図書館、西が1991年に開館した芦屋市立美術博物館である。



小出楢重や菅井汲、吉原治良、芦屋カメラクラブの写真家など、芦屋ゆかりの芸術家たちの作品を多く収蔵しているという。



この美術館の特長は建物自体が芸術作品のようで、建物の南に広がる庭も美しい。



期待を持って中に入ったが、だだっ広いロビーには展示物は何も置いていないただの空間であった。



ロビーの奥は芦屋の歴史を展示する歴史博物館となっていたが、展示品が余りにも貧弱過ぎる。



2階には2つの展示室があり、大きい方には吉原治良の抽象画作品が展示してある。

吉原治良(よしはらじろう1905~1972年)は、吉原製油社長としてのかたわら絵画の制作と発表をしていた異色の画家である。

ロビーの吉原作品



不定形の形を激しい筆致で描いた抽象画を描き始め、居住していた芦屋市で若い美術家らを集めて1954年に「具体美術協会」を結成してリーダーとなったそうであるが、その作品には心を揺さぶる強さが無い。

せめて収蔵している小出楢重の作品の一部でも展示すれば、来た甲斐があったと客に満足して貰えるというものである。

美術館の外観



2階の奥の展示室には枕の展示があったが、これもしょぼい展示であった。

前庭には小出楢重の小さなアトリエが復元され自由に見学することが出来るが、このアトリエの中の臭い匂の元は何であろう。



芦屋市立美術博物館は、駅から遠く不便で集客力が弱く、赤字が続いていたために2003年に委託先を探し見つからなければ休館、との方針が示された。

その後、さまざまな議論の結果、芦屋市は2005年度をもって市の財団による運営を終え、2006年度からは民間業者やNPOなどが市の委託を受けて管理運営するという方針を決めたらしい。

アトリエ内部



しかし、今回のようなショボイ展示では集客力は回復しないと断言できる。


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天王寺から堺に至る国道26号線に面した高灯篭は、住吉大社の灯篭で、鎌倉時代に創建された日本最古の灯台である。



周囲は埋め立てられて完全に内陸の市街地となってしまい、西の海までは何と8kmくらいもあるが、かつては、高灯篭から西250mくらいのところまで海であった。



現在の高灯篭は旧灯篭が昭和25年のジェーン台風で破壊された後、東に200m移動して昭和46年に復元されたものである。



江戸期に描かれた浮世絵で高灯篭に近い海の風景を僅かに窺うことが出来る。



この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景で、ここを訪れた多くの歌人によって多くの歌が詠まれている。

7世紀、遣唐使が唐に渡る際には必ずここに停泊して、住吉大社へ航海安全を祈願したので、乗組員全員が住吉の白砂青松を見て気持ちを引き締め、又その美しさを歌にしたのであろう。



また鎌倉時代の元寇の時、蒙古撃退のため住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」が、住吉の浜で行われたという。

現在の高灯篭の周囲にも1790年頃の石灯籠がいくつか保存されていて、この辺りがかつて住吉大社の参道であったことを知ることができる。




元の住吉大社の境内であった住吉公園は、現在市民公園となり花壇や池、遊戯施設、テニスコートなどが整備されている。



恐らく江戸期には住吉公園の敷地に多くの石灯籠があったのであろうが、今では公園の邪魔にならない程度に僅かに残るだけで、殆どが住吉大社の境内に移設されている。



公園の中央を東西に走る「汐掛道」は、浜から続く住吉大社の表参道で、毎年の初詣で歩く時に不思議と厳粛な気持ちになってしまうのは歴史の重みというものかもしれない。



汐掛道は、住吉公園から南海電鉄住吉大社駅の真下を通って住吉大社の太鼓橋に続くのであるが、よく似たシンプルなデザインの石灯籠の列がある。



この灯篭は享保12年(1727年)から昭和初期にかけて歴代住友家の当主が寄進したもので、住友灯篭と呼ばれている。



住友の別子銅山は1691年に開かれたということなので、それから36年後には住吉大社に石灯籠を奉献するくらい儲かり始めたということか。


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住吉の象徴として有名な反り橋(太鼓橋)は、長さ20m、幅5、5m、高さ 3,6m石造の橋脚は、慶長年間(1590年代末頃)淀君が奉納したものと伝えられている。



橋脚の上の橋の本体は木造なので、当時から何度か架け替えられていて、今の橋は昭和56年に架けられたものらしい。

ネットで検索すると明治初期の反り橋の写真が長崎大学のHPにあったので、ダウンロードして、現在の反り橋と比較してみた。



正面から見ると狛犬の位置が橋に近い場所に変わって、明治初期にあった石灯籠が無くなっている。



狛犬の台座には元文元年(1736年)とあるので、今から270年前から反り橋の手前の場所にあったのであろう。



南側から橋の側面を写した写真を比較してみると、橋の右側手前に建物があるのがわかる。



この建物は江戸時代の浮世絵にも描かれているが、今は石垣の出っ張りだけが残っているだけである。



当時に比べると堀の周囲の樹木が大きく成長しているのが良く判る。

反り橋の北側を描いた1850年頃に出版された浪花百景という浮世絵には、橋脚を繋ぐ2段の梁が無く、橋の周囲には小さな石灯籠がいくつか描かれているだけである。



しかし現在反り橋の北側から見て左手にある1800年以前の巨大石灯籠が描かれていないので、浮世絵が描かれた以降に現在の場所に移設されたのであろう。



以前にも書いたが、明治になって住吉大社の敷地が大幅に削られた時に、旧敷地内にあった多くの石灯篭を狭くなった境内に移設したので、620基の石灯籠群が所狭しと並んだ現在の風景が出来上がったらしい。

当時の住吉大社の堀の周囲は今よりも樹木が少なく、空が広いのが印象的である。


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1765年(明和2年)住吉には少ない笠に蕨手のある灯篭で、大坂肥後国邸と彫り込まれているので熊本商人のものか。将軍は10代家治。



1785年(天明5年)大坂土砂商組合の灯篭、7段もある基礎は巨大であるが、竿から上は普通サイズなのでバランスが悪い。ところでコンクリートの無い時代の土砂商とはどんな商売であったのか興味深い。



1795年(寛政7年)三十石船中と彫り込まれていたが、三十石船とは淀川を使って大坂と京都を往復した船のことらしい。この時代の将軍は11代家斉。



1796年(寛政8年)基礎が4段もある薪問屋とあるので、当時のエネルギー事情を考えると今の大阪ガスのような存在であったのであろう。



1799年(寛政11年)基礎の周囲に玉垣、基礎が4段ある大坂堂島東組とあったが、堂島といえば米問屋か。



1803年(享和3年)鉄、鉄釘問屋の周囲を圧倒する巨大灯篭。基礎だけで6段、竿は角柱でドッシリしており、笠が大きく四隅が上に反っている。この時代以降の住吉の灯篭の竿は四角柱タイプが多くなる。



1812年(文化9年)竿が角柱状の大坂ざこば魚問屋の巨大灯篭。大坂雑魚場とは今の西区にあった魚市場のこと。



1823年(文政6年)江戸後期の石灯篭の特徴は竿が角柱状であることだが、この灯篭は竿が長く不安定に見える。



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620基もある石灯籠の写真を少し撮ったので、年代順に並べてその特徴を考察してみた。

1671年(寛文11年)と書かれていたが、1804年(文化元年)と併記されているのでその後再建したものらしい、基礎から火袋を支える「竿」の部分のカーブが緩く直線に近いのが特徴。当時の将軍は4代家綱。



1684年(貞享元年)とあり、文字の彫りが深く、火を燈す「火袋」の部分が球のように丸みを帯び、笠は円形、竿の断面は角となっているのが特徴である。当時の将軍は5代綱吉。



1693年(元禄6年)のもので「竿」の断面は円形「火袋」の上の「笠」がお椀の蓋状、宝珠が異様に大きいのが特徴である。



1704年(宝永元年)、「火袋」と「竿」の間にある「中台」に松のレリーフがあり、竿の腰が大きくくびれている。



1710年(宝永9年)写真一番手前の灯篭がそれで、「火袋」が丸い球に近い。
当時の将軍は8代吉宗。



1713年(正徳3年)住吉大社の石灯籠に最も多いオーソドックスなタイプ。



1720(享保5年)オーソドックスなタイプであるが「火袋」に明かりを入れるくり抜きが無い。



1723年(享保8年)手前の背の低い2台がそれで「中台」から上が大きくて「竿」が細いので、竿の途中から折れてしまいそうである。



1725年(享保10年)写真奥の2台がそれで、笠の部分だけが大きくバランスが悪い。



1727年(享保12年)「火袋」が球状、笠は円形なのに竿の断面は角である。



1748年(延享5年)中央の2基がそれで「中台」のレリーフと「笠」の下部に垂木のような装飾がある。又、竿の腰がくびれ過ぎて折れそう。当時の将軍は9代家重。



1748年その2「火袋」が8角形、住吉の灯篭としては珍しく「笠」に「蕨手」の装飾、「竿」に節がある。



1750年(寛延3年)基礎、竿、中台、火袋、笠すべて四角、非常にバランスの取れた典型的な住吉灯篭のデザインである。



1755年(宝暦5年)中台に龍のレリーフ、竿の背後に点火用の石の階段が付属している灯篭は珍しい。仙台商人の心意気か。



1759年(宝暦9年)左の2基がそれで中台が小さく、基礎の上部が台形に盛り上がり、竿の下部がそれに合致するように内側に削られたスマートなデザイン。





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住吉大社には大小620余りの石灯篭があり、特に海側(境内の西側)には他の神社には見られない巨大な石灯籠が置いてある。



中でも「さかい」魚仲買と、「うつぼ」干鰯仲間と書かれた石灯籠が群を抜いて大きかった。

うつぼの文字がある巨大灯篭(明治23年建立)



石灯篭は大阪、堺をはじめ諸国の同業商人組合、回船運送組合からの寄進のものが多く、先日発見した最も古い灯篭は333年前の寛文13年(1673年)と書かれたものであった。



それよりも古いものも探せばあると思うが、古いほど石の風化が進んでいることと、古いものは年号の彫りが浅いので、探し出すのはかなり大変であろう。

620基もある石灯篭の寄進の時期を見ると、元禄後期(1700年)以降のものが圧倒的に多く、元禄以降の江戸期の年号は殆ど網羅されているようである。

元禄六年と彫り込まれた灯篭



日本の経済がその頃から急速に発展したということが、住吉の石灯籠群から判るのではなかろうか。

もともと住吉大社の境内はもっと広大であったが、明治維新で敷地を削られたので、広大な旧境内に散らばっていた石灯籠を無理やり狭くなった境内に集めたようである。

境内北側にある越中(富山県)綿荷回船中(仲間)の大きな灯篭も明治になってから現在の場所に移設されたらしい。



この灯篭は比較的新しいもので、安政三年(1856年)という文字が深く彫込まれていて文字がクッキリとしている。



北からの参道にある阿州(徳島県)藍玉大阪積という石灯籠も大きいが、その手前にある陸奥仙台買積中という灯篭は後ろに石の梯子までついていた。



官幣大社住吉大社という石碑がある南側の住吉税務署から続く参道には、比較的古い石灯篭が集まっているようで、元禄前の寛文、貞享というものがある。



中に備後福山という灯篭があったが江戸時代、福山から住吉大社に石灯籠を寄進する人がいたことが驚きであった。



南参道を本殿まで歩く途中に、泉州 音楽講というミュージシャンのような団体が寄進した灯篭もあった。



さらに、本殿前の鳥居の手前にある大きな灯篭は翫(玩)物商(おもちゃ屋)の灯篭で宝暦十二年(1762年)と彫り込まれていた。



西側の参道には、正面に「御得意繁盛」と彫り込まれた大阪京飛脚仲間の灯篭があったが、確かに得意先が繁盛しなければ商売は成り立た無い。



この灯篭の建立年は天保十一年(1840年)、丸京合資会社とあったので、その時代には合資会社という会社組織が既にあったことになる。


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住吉大社のホームページや由緒書によれば、創建は西暦211年という非常に古い神社である。



第一本宮から第三本宮には底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神が祀られ、総称して住吉大神と呼ばれている。

さらに住吉大神の加護を得た神功皇后が三韓征伐から無事凱旋できたので、神功皇后も合わせて第四本宮に祀られ、住吉四社大明神と崇められている。

三,四本宮



この神社にお参りする人は、四社大明神それぞれに賽銭を上げることになるので、他の神社の4倍くらいの霊験が欲しいところである。

住吉大社は旧官幣大社、摂津国一の宮であり全国二千余に及ぶ住吉神社の総本宮とされている。

歴史考証できる文書が無い211年創建はかなり疑わしいが、7世紀から8世紀に書かれた万葉集には住吉大社にちなむ歌が何首かあるので、西暦600年頃にはこの地に存在していたことは確実である。



遣唐使(630年~839年)が唐に行く前には、航海安全を祈願するために必ず立ち寄ったともいわれている。

住吉大社では211年創建とされているので、5年後の2011年に御鎮座1800年大祭を計画しているという看板が立っていた。



天武天皇(在位673~686)の奉幣をはじめ、歴代天皇の行幸、神宝の奉納は多数あったらしい。

天武天皇から653年後には、南朝の後村上天皇(在位1339~1368)が九年間、住吉大社に行在所を置いているが、その時からでも638年が経過している。

今から196年前の1810年に建立された住吉造りの4つの本殿は大阪市内唯一の国宝建造物で、日本の神社建築を代表する美しい建物である。



この建立の直前、1798年頃に刊行された摂津名所図会には住吉大社の俯瞰図があるが、第一本殿と第二本殿が回廊で結ばれ、第三本殿と第四本殿の間隔が広いなど現在の本殿とは微妙に違いがある。

摂津名所図会(大阪大学図書館HP)



先日ザット確認したら1798年以前の年号の掘り込まれた灯篭は30基以上あったが、その石灯籠が殆ど描かれていなかったので、灯篭の数は当時少なかったのであろう。


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中之島図書館の旧本館(中央部分と1号書庫)は、1904年に住友本家第15代当主の住友吉左衛門氏から寄せられた15万円(現在の価値で10億円程度か)寄付によってつくられたものである。

住友吉左衛門氏



設計は住友の建築技師であった野口孫市氏と日高胖氏で、ネオバロック様式を採用している。

コリント式円柱に支えられる正面はギリシア神殿を思わせるデザインであり、2階ホールのドームは教会の天井のような造りとなっている。



1922年、隣の中之島中央公会堂の建築に影響されたせいか、再び住友吉左衛門氏の寄付によって左右の両翼が増築され、ほぼ現在の建物が完成したらしい。



1974年には本館及び左右両翼の2棟が国の重要文化財に指定されているというので、中之島まで見学に出かけた。

図書館の重厚な石造りの正面入り口は閉鎖されていて、大阪図書館という文字がいかめしい。



正面右側の植え込みの手前の小さな勝手口のようなところから窓の無い1階に入ると、ロッカーキーを渡されて、荷物は無料ロッカーに預けてくださいとのこと。



荷物を預けて、階段を2階に上ると暗いホールがあり、左右のウイング棟に続く廊下と3階へ上る階段があった。

このホールの天井は丸いドームになっていて、真ん中の小さな明り取りからの光だけなので暗い。



2階の右棟には新聞閲覧室があり、朝日、毎日、読売、日経の当日紙から、縮小版であるが昭和17年くらいの古いものまですぐに閲覧できるようになっている。

それ以前のものは係員に頼んでマイクロフィルムとなったものを閲覧できるようであった。

2階の左棟はビジネス書のコーナーで、中之島というビジネス街の需要に答えた図書が多数置かれ、閲覧、貸し出しができるらしい。

2階から3階への階段



3階の右棟は大阪の歴史や文化関係図書のコーナーで、鍵のかかる書棚には古地図などが入っていて係員に頼めば閲覧できるようである。

閲覧室



利用者カードを作っておけば一人8冊まで3週間も貸し出ししてくれるので、本の返却が面倒で無い人は大いに利用すべきであろう。

この日はザット内部を見ただけで、中之島公園まで歩き、調達した缶ビールで大阪市役所を眺めながら喉を潤す。



しかしこの図書館は大阪市役所の隣にあるので、無料で利用できる図書館がすぐ近くにある公務員は羨ましい。


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中之島国際音楽祭は才能あふれる若手音楽家に発表の機会を提供するとともに、国際コンクールの優勝者など世界レベルの出演者を呼んで中之島で開催するコンサートである。



多様なコンサートを低料金で提供することで、一人でも多くの市民が音楽に親しめる環境を提供し、大阪の音楽文化の振興を図ることを目的としているという。



そこで9月の休日、中之島中央公会堂まで出かけてみたら、会場の公会堂は大阪市中央区中之島1丁目1という番地標識がでている。

つまり中央公会堂とはその住所からして、大阪のど真ん中にある建物であった。



プログラムの殆どは入場料1000円と書いてあったので、当日会場の中之島中央公会堂に行って係りの人に聞くと大阪市役所の1階でチケットを売っているという。

そこで市役所まで引き返し、カウンターでチケットを買おうとすると、パンフレットには小さい文字でしか書いてありませんが、当日券は500円増しですというカウンターパンチがやってきた。

入場待ちの客



一瞬頭にクラクラと来たが気を取り直し、取りあえずパンフレッドだけ貰って外で息を整えることにした。

暫くするとダメージが回復してきて、僅か500円で引き返すのも勿体無いという結論に達したので、1000円のチケットを1500円出して買うことにした。



大枚をはたいて買ったチケットは、第2回上海国際青年ピアノコンクールの優勝者であるアダム・ゴルカのピアノリサイタルである。

アダム・ゴルカは1987年、テキサス州ヒューストンのポーランド系移民音楽家の家庭に生まれているので弱冠19歳という若さであるが、既にピアノ協奏曲30曲のレパートリーを持っているという。

15歳でテキサス・クリスチャン大学音楽科に入学し、18歳で全課程を修了している天才ピアニストで、第2回上海国際青年ピアノコンクールで優勝したときはまだ16歳であったらしい。

入り口で整理券を貰って大集会場の会場に入ると、1100席くらいに8割の入りである。



1時半からのリサイタルは、モーツアルト・ソナタ・イ短調トルコ行進曲、ベートーベン・ソナタ・第17番テンペスト、カプースチン・8つの演奏会用練習曲、メトネル・ソナタ・ホ短調夜の嵐という曲を2時間たっぷり聞かせて貰った。



確かにピアノのテクニックは人間業とは思えないほどのものであったので、これで2時間で1000円なら安い。

しかし1500円なら高いと思ってしまうのはパンチを受けた私だけであろうか。



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中之島中央公会堂は2002年に免震構造に改修されて、リニューアルオープンしており、ライトアップもされるようになった。



リニューアル工事については、新築同様にして九十年の風雪を台無しにしたとか、内部も改修で往時の雰囲気を壊してしまった等、疑問の声が挙がっているという。

しかし、公会堂を長く有効に活用するためには、雰囲気を残しながらバリアフリーの快適な空間としてリニューアルした方が良いと私は思う。



中央公会堂にあるトイレはウオッシュレットこそないが、清潔で快適な空間にリニューアルされていて、隣の中之島図書館の古いトイレと好対照である。



高齢者や身障者は和式便器で用を足すのが難しいが、公会堂のトイレは洋式便器や身障者トイレが用意されているので安心である。



トイレ周囲のデザインを残す工夫か、トイレの扉は真ん中から折れて開く珍しい構造の自動扉が設置されてあった。

又、地下から3階まで新しくエレベーターが設置されていて、階段を歩かなくても移動できるので有難い。



館内には、最大1700人を収容できる大集会室をはじめ、集会室、会議室があり、ホームページに利用料金表も載っているので文化活動や社会活動の拠点として、現在年間約80万人が利用している。



大正ロマン漂う華麗な外観や内部意匠は、歴史的建築物として極めて重要との評価があり、大集会室の空間デザインは豪華で美しい。



大集会室は空間のオリジナルなデザインを残しながら空調、音響、照明をリニューアルしているので、蒸し暑い夏でも快適に利用することができるようになった。

ただ、大集会室の椅子は1700人を無理に詰め込もうとしているせいか、あるいは移動式になっているせいか座り心地がもう一つであった。



創建当時貴賓室として使われた3階の特別室は、天井と壁面に明治時代の洋画の先駆者で、後に東京高等工芸学校校長となった松岡寿画伯の作品が飾られている。

階段



天井画は「天地開闢」、西側壁面上部には浪速に都を定めたとされる「仁徳天皇」を題材としたものが、南北の壁には商工業都市・大阪にちなんだ「商神・すさのおのみこと」と「工神・太玉命(ふとたまのみこと)」が描かれている。

村上ファンドの村上君には大阪に生まれた大先輩である、岩本栄之助の生き方を是非見習って欲しいものである。


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1907年、岩本栄之助がアメリカ視察旅行で公共施設の寄付を思いたち、父親の遺産全額である100万円(日銀の試算では現在の価値で60億円という)を投じて建設が開始されたのが 中之島中央公会堂である。



隣にある大阪府立中之島図書館も住友家の当主、住友吉左衛門が1900年に建設費15万円(約9億円)を寄付して1904年に建設されたので、それに比べると公会堂がいかに豪華な建物であったかが解る。



岩本栄之助は1877年両替商「銭屋」に生れた生粋の大阪町人であるが、日露戦争前後に株の仲買で莫大な利益を得て当時の大阪を代表する経済人として知られていた。



仲買人仲間の窮状を救うなど人々の信望が厚く、野村証券の野村徳七とも親友であった岩本栄之助は、第1次世界大戦を境として事業に失敗、中央公会堂の完成を見ることなく1916年39歳でピストル自殺している。



自殺した岩本に触発されたのか、住友吉左衛門は1917年になって中之島図書館左右両翼棟を増築寄付することを申し出ている。

中央公会堂の地下には岩本記念室があり、岩本の写真、銅像、岩本商店の半纏、自殺直前に書いた辞世の句等が展示されていた。



岩本が自殺する前年の定礎式には、アメリカ視察時の団長であった渋沢栄一男爵が出席して盛大に挙行されたようで、その時の写真も記念室に展示してあった。



中央公会堂の 設計は、1912年の建築設計競技により当時30歳の岡田信一郎案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行い1913年着工、1918年にオープンしている。

公会堂の北側



設計の岡田信一郎は1883年生れ、東大建築学科を卒業後、東京美術学校(東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち、多くの後進を育てて1932年48歳で逝去している。

岡田氏設計の中央公会堂は、鉄骨鉄筋コンクリート煉瓦造地上3階・地下1階、延べ面積7900㎡、意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持つ。

公会堂の南側



大阪市中央公会堂は、日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年に国の重要文化財に指定されている。




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