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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



地下鉄四つ橋線の難波から地上に出て、後ろを振り返るとホテルモント レグラスミア大阪(高さ144m)が四ツ橋筋を遮るかのように建っていえうのを見ることができます。今回は、通勤で散歩する四ツ橋筋を紹介しましょう。

四ツ橋筋を歩くと、御堂筋には無い、変わったビルを目にすることになります。屋上に用途不明の円筒形の部屋があるビル

四ツ橋駅上のオリックスブルーウェーブインのデザインは、ここにあった旧電気科学館を踏襲しているのでしょう。

御堂筋よりも小さな区画が並ぶ四ツ橋筋には、オーナーの個性が反映されたビルが多いようです。

外壁に特長のあるデザインを取り入れた旧INAXビルは、いつの間にかLIXILビルとなっていました。

通りの隙間を埋める超高層マンションは、サンクスタワー心斎橋ミラノグランデ、高さ105m、33階建。

風格のある長瀬産業ビル

壁面を斜めに5段階に曲げているこのビルも個性的です。

オリックス本町ビル(高さ133m)前の阪神高速をカンガルー便のトラックが通っていました。

本町交差点西側には、屋上に巨大な球体が置かれたビルがあります。

御堂筋には無い個性的なビルを眺めながら散歩できるのが四ツ橋筋の良いところでしょう。



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近鉄電車(電車と書いた理由は最後にあります)の橿原線八木西口駅で下り、そこから南東に15分くらい歩くと、バラの寺として有名な「おふさ観音」があります。

八木西口駅西側には、中世の環濠都市として有名な今井町があり、おふさ観音の周辺にも歴史を感じさせる古い民家が点在していて、ここまで来るとタイムスリップしたような気分を味わうことができます。

おふさ観音の起源は、江戸時代初期の1650年、今は高野山真言宗の別格本山で 十無量山 観音寺というのが正式な寺名だそうです。

寺伝によれば、地元の娘「おふさ」がある日突然、目の前に観音様が現れたのを見たといいます。そこで観音様を見たという場所に建てた小さな観音堂が起源とか。バラは、鉢植えされていました。

おふさ観音は、永らく小さなお堂のままでしたが、明治時代になってから寄付が集まり、現在の本堂が建てられたそうです。

バラが満開となる時期には、寺の外までバラの香りが漂っているので、おふさ観音が近いことがすぐ判ります。本堂

仏教では、仏の世界を「まんだら」と呼びますが、おふさ観音ではバラの咲く境内を「花まんだら」と呼んでいます。これが「花まんだら」の世界。

バラは、イングリッシュローズを中心に2300種以上もあるようです。

寺田寅彦(1878~1935年)の和歌に、「好きなもの いちごコーヒー 美人 ふところ手して宇宙見物」 というものがあります。バラ園の中に立つ子安観音

そこで私もひとつ 「好きなもの 朝日 コーヒー 美人 電車に乗って写真撮影」 今回乗ったのが近鉄電車ということでした。



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大阪ベイエリアの東側は大阪市の中心部、さらにその東側に生駒山があり、天気が良ければそこから昇る日の出を見ることができます。

この日も咲洲のビューポイントに立つと、大阪港の遥か先、生駒山から朝日が静かに昇りはじめました。

朝日の全面には、生駒山の送電鉄塔が微かに見えています。おっと、その下に見える薄い影は、大阪を代表するタワー通天閣です。

朝日がロウソクの炎、通天閣がロウソク本体のように見えるのでは、と期待したのですが、空気の透明度が低くてちょっと無理でした。

太陽部分を拡大すると、その光が強烈なために通天閣が完全な影になってしまいます。

太陽はしずかに昇り、通天閣から離れてゆきました。

空気のクリアな日であれば通天閣がロウソクのように見えるのかも知れませんね。

この日、日の出ポイントは、先日紹介した「あべのハルカス」の背後から、かなり北(左)寄りに移動していました。

 大阪ベイエリアの朝日は、なかなか楽しませてくれます。

 



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シーボルトの話で中断していましたが、ベイエリアから見た大阪の風景の続きです。この日、空気がクリアだったせいか生駒山が珍しく薄い緑色に見えています。

JR難波駅付近には高層ビルが密集していますね。高台にあるように見えますが、道頓堀川のすぐ前にあるので、敷地のレベルはそれほど高く無いようです。

南海難波駅となんばパークスの高層ビル3棟です。

大阪港から大阪中心部を見渡せる別の場所に移動しましょう。

そこから見ると左に北浜の超高層マンション、その右がOAPタワー、さらにその右がシティタワー大阪、中央やや左よりがエルザグレース堀江タワー、右の高層ビル群がJR難波駅辺り。

対岸は、大正区の工場地帯、その先に難波のビル群が見えています。梅田(キタ)の超高層ビル群に比べると難波(ミナミ)は盛り上がりに欠けるようです。

北浜のマンション「ザ・北浜タワー&プラザ」が見えるということは、そこの高層階居住者であれば住居から大阪港が見えるということでしょう。

ひと際高いあべのハルカスです。

ここからは、木津川河口の新木津川大橋が生駒山とほぼ同じ高さに見えています。

 明日は、通天閣の背後から昇る朝日を紹介しましょう。

 



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シーボルトについて3回目の記事となります。さて、蘭癖大名島津重豪(しげひで、1745〜1833年)は、徳川家斉(1773〜1841年)の岳父(正妻の父親)として貿易の特別待遇を要求するなど、その行動には目に余るものがあったようです。

また徳川幕府は、島津のせいで貿易の独占的な利益が減少し、貿易相手国(清国)からも薩摩藩の密貿易で損害を受けていると訴えられていました。

幕府首脳は、島津重豪が親しく会見したシーボルトを処罰することで、薩摩の密貿易を承知していることを知らせ、牽制したというのが事件の本当の姿だったようです。

実は、シーボルトが罪に問われた日本地図の国外持ち出しは、それまで処罰の対象となったことがなく、シーボルトも地図をコピーして渡した江戸幕府書物奉行高橋景保も厳しく処罰されるとは考えていなかったようです。

この事件は、書物奉行高橋景保の獄死であっさり幕が引かれ、シーボルトは国外追放となっていますが、彼が持ち出そうとした地図を含めた幕府禁制品の多くは、今もオランダのライデン博物館に大量に保管されているのです。

このことは、幕府の真の狙いが禁制品の持ち出しではなく、島津重豪への牽制であったことの証拠と考えられ、シーボルト事件の直後、1828年から島津重豪の派手な行動がピタリと止まっているのです。

しかし、島津重豪から指示を受けた島津藩家老の調所広郷(1776〜1849年)は、その後も密貿易で稼ぐと共に、藩の借金問題も片づけています。

調所広郷の手法とは、500万両の藩債(借金)を250年の長期低利返済とすることを強引に債権者に認めさせたことで、島津藩は借金から解放され、調所広郷の代だけで逆に250万両の蓄えができたようです。

シーボルト事件から僅か38年後、薩摩藩の活躍によって幕府の大政奉還が実現しますが、調所広郷がつくった蓄えは、その活動を支えたのでした。

今の日本にも調所広郷のような剛腕政治家が求められているのではないでしょうか。

バラは、5月中旬一般公開された住之江下水処理場のものです。

参考文献:文政11年のスパイ合戦 秦 新二著      人物叢書島津重豪 芳 即正著



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 昨日の記事の続きです。シーボルト(1796〜1866年)は、長崎出島に到着する寸前、船に乗り込んできた通詞(日本人通訳)についての印象を書き残しています。

「驚いたことに通詞は、私(ドイツ人)よりも流暢なオランダ語で質問してきた。そればかりか私のオランダ語を怪しんで矢継ぎ早の質問を浴びせてきた」。当時、長崎奉行配下の役人(通詞)の語学レベルは相当に高かったようです。

通詞(正式には検使)の入国審査を無事パスしたシーボルトは、1823年8月に出島に到着、早速医師としての活動を開始しています。

ドイツで最新の医学教育を受けたシーボルトは、優れた医師としての頭角をすぐに現し、翌年(1824年)には長崎で蘭学塾(鳴滝塾)を開くことが認められています。

そこで蘭学教育を受けた日本人達は、シーボルトから出される調査課題(シーボルトのミッション)に対するオランダ語でのレポート作成に取り組み、シーボルトを助けています。

長崎で蘭学塾を開いてから2年後の1826年、シーボルトは商館長と同行して江戸に参府しますが、この旅行途上にも優秀な門下生を同行させて指示を与え、精力的にミッションを遂行しています。

江戸に到着したシーボルトは、当時蘭癖大名として知られていた島津重豪(しげひで、1745〜1833年)と島津斉彬(1809〜1858年、重豪のひ孫)に面会し、オランダ語を交えて会談したと書き残しています。

薩摩藩の最高権力者だった島津重豪は、オランダ、中国との密貿易を藩に指示していて、その相手国と円滑な関係を持っておきたかったのでしょう。

島津重豪は、将軍徳川家斉(1773〜1841年)の岳父(正妻の父親)であったため密貿易も半ば黙認されていたようですが、禁制破りをする島津に対し幕府首脳部が苦々しく思っていたことは否定できません。

バラは、5月中旬一般公開された住之江下水処理場のものでした。

 つづく

参考文献 文政11年のスパイ合戦 秦 新二著

 



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ヨーロッパに日本のアジサイを紹介したドイツ人医師シーボルト(1796〜1866年)が、何故出島のオランダ商館に来ていたのか、その理由が今までよく判りませんでしたが、最近読んだ本でやっとその謎が解けました。そこで、アジサイには少し早いので、今盛りのバラの花と一緒に紹介しましょう。

シーボルトが生まれてから医学を学んでいた時代のオランダは、フランス革命軍に侵略され、20年間もフランスに支配(1795~1815年)されていましたが、1815年のウイーン会議でオランダ王国として独立しています。

20年に及ぶフランスの支配でオランダの経済活動は疲弊していましたが、国王となったウィレム1世は、国内産業の振興に力を注ぐ一方、出島のオランダ商館を使った日本貿易によってオランダの国力を高めようと考えていました。

そのため日本を徹底して調査する必要に迫られ、その隠れ蓑として最適だったのが、日本での信用を得やすい医療など尖端的知識を持った優秀な医師だったのです。

ところが、戦乱が続いていたオランダにそういう人物が見当たらなかったため、1822年、ドイツ人の医師シーボルト(26歳のドイツ人)を軍医少佐としてオランダに招聘しています。バラは、5月中旬一般公開された住之江下水処理場のものです。

祖父、父ともに医学部教授だった名門家系に生まれたシーボルトは、当時ヨーロッパ最先端のレベルにあったドイツ・ヴュルツベルク大学医学部を優秀な成績で卒業していました。

オランダに招聘されて軍医となったシーボルトは、まずオランダ領ジャワ(インドネシア)に渡り、オランダ・ジャワ総督から日本でのミッションについて指示を受け、特別活動費用まで支給されています。

シーボルトのミッションとは、医師としての活動をしながら貿易戦略調査(貿易品の中で今後の主力商品となるものを探す)、政治、軍事戦略調査(日本の政治体制や軍事拠点、北方領土などの調査)、博物学的調査(日本から輸入できる珍しい商品を探す)などだったのです。

出島で任務についたシーボルトからオランダ・ジャワ総督宛ての手紙には、「外科軍医少佐及び調査任務付きフォン・シーボルト博士」という署名があることが判っています。

つづく

参考文献:文政11年のスパイ合戦 秦 新二著



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大阪港は、西向きに開けています。従って大阪港に立つと市内中心部から朝日が昇るのを見ることができます。日の出直前の大阪港

ビルの隙間から、強く光る朝日が少し見えてきました。

手前は大阪港、左が天保山、右は港大橋、地平線上は朝焼け、その上は明けたばかりの青空と雲。

太陽はどんどんと昇ってきています。

やっと阪神高速の高さを超えたようです。

強烈に光りはじめたので、金環日食観察用に調達したフィルターを使ってみることにしました。

金環日食用の遮光フィルターを通して見た太陽の表面には、多くの黒点が見えていますね。

大阪港に入る船が太陽の前を横切ろうとしています。

船は港大橋を潜り、あべのハルカスビルの方向に向かっているようです。

大阪港の一日の始まりです。



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大阪港に入る船から大阪のビルがどう見えるのか、咲洲地区を移動しながら取材してみました。まず最初は、コスモスクエアからの大阪港です。

弁天町駅前に建つ3本のタワーが大都会らしい景観を見せています。

港大橋の向こうには、工事中のあべのハルカスビルも見えていますが、3本ある橋が邪魔しています。

少し場所を移動すると、難波駅周辺のビルが見渡せるポイントがあります。

そこからは、弁天町タワーマンション、その横にある全室ハーバービューのマンション、その後ろに大阪駅北側で工事中の「うめきた」が見えています。

原子力発電所の再稼働問題で大変な、関西電力本社ビルも大阪港から良く見えます。

なみはや大橋の向こうには、「あべのハルカス」と天王寺駅近くに建つ2本のタワーマンションが見えます。

上の写真のなみはや大橋が邪魔なので、橋が見えないポイントに移動します。写真中央やや右に通天閣が見えています。

その付近を拡大してみましょう。通天閣の文字がかろうじて判読できました。

通天閣の背後から昇る朝日を撮影できたら、通天閣がロウソクのように見えるのでしょうか。

つづく



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昨日も紹介しましたが、大阪でも金環日食を見ることができ、そのシーンを何とか撮影できました。昨日の早朝、自宅から見た太陽は赤い色をしていました。5時37分頃

さて、6時35分頃に自宅から歩いて1分の場所にある公園に出かけ、カメラを太陽に向けると、日食が始まっていて太陽の右上にあった黒点が隠れています。

この日は有給休暇を取りましたので、これからのショーを落ち着いて観測することができます。中央やや上にある黒点も隠れました。

カメラのレンズ前には、1週間前にネット通販で購入した遮光フィルム(2500円)を取りつけています。

太陽撮影用フィルターの購入も考えましたが、すでに売り切れていたので、この遮光フィルムしか選択の余地が無かったのです。「C」の形となった太陽のエッジがシャープに写っています。

今回は、ベイリービーズを写してみたいと狙っていました。 オートフォーカス機能を使ってのピント調整で、何とかベイリービーズのようなものが写ったようです。

やがて金環日食となりました。太陽のリングがもっと幅広く写っている写真も紹介されていますが、ピントが合っていないか、カメラがぶれている可能性があります。

カメラのオートフォーカス機能は、かなりもたつきましたが、どうやらピントは合っているようです。左から雲が出てきましたが、2回目のベイリービーズが何とか撮影できました。

強烈に光る太陽に向けたカメラのピントをマニュアルで合わせるのは至難の業だと思います。月は、太陽表面を左下に抜けていきました。

しかし、カメラが想定した被写体で無かったせいか、露出調整はどれもオーバー気味となってしまいました。

今回は、天体ショーを手作りの遮光フィルターで何とか撮影することができました。次の天体ショーがある6月6日の天候が気になります。

 



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少し雲が出ていましたが、大阪でも金環日食が観測できましたので紹介しましょう。6時34分の太陽

かなり欠けてきました。露出が適正である証拠に黒点が写っています。7時5分

太陽の欠けが進むと、カメラの自動露出機能がオーバー気味になっています。7時16分

金環まであとちょっとです。アルファベットの「C」の文字になりました。7時27分

金環の直前。月の山のギザギザが太陽光を遮断してリングが不連続となるベイリービーズ現象でしょうか。7時28分

太陽と月は、同心円ではありませんが、一応金環です。7時29分

金環の終わりです。7時31分

少し雲が出てきました。7時35分

大阪では、月が太陽の前を右上から左下に向けて斜めに通過していました。その際、通過する月の軌道は、太陽の中心から右方向にほんの少しずれていたようです。

つづく

 



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ホテルモントレの記事の途中ですが、明日は金環日食です。先日紹介した大阪港の日の出は、ぼんやりとした赤い太陽でした。そこで日食の数日前、大阪港の日の出写真に再チャレンジしてみました。この時期の太陽は、なみはや大橋の下から出るはずです。

橋の右上に見えている薄い雲の下辺り、そこに日の出前の太陽があるのでしょう。朝焼けの空と高層ビルと橋を渡る車が影絵のようですね。

午前5時ちょうど、太陽は「なんばパークスタワービル」の左側からその姿を現しました。

この日は予想通り空気がクリアだったために、太陽の光が強烈で、肉眼では眩しくて直視できません。左側の高層ビルは、南海難波駅の上のスイスホテル大阪ですね。

これが大阪港から見える朝日。この時期の大阪は、南海難波駅の向こうから朝日が昇ります。

太陽の光が強烈すぎ、先日のように表面の黒点を見ることができません。

なんばパークスタワーの左上まで昇ってきた太陽は、ますますその輝きを増しています。

しばらくすると、太陽はなみはや大橋の高さまで昇り、その前をトラックが横断するシーンが偶然撮影できました。

太陽が橋の少し上まで昇った段階でこの日の撮影を終了。しかし、今回は太陽の光が強烈すぎました。

さて、明日は金環日食、大阪の空がクリアであれば良いのですが。

 



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ムジンクンで有名なアコムの関連会社「マルイト」のグループ企業、ホテルモントレ(株)は、全国に17のホテルを持つホテルチェーンとして知られています。

その中でも旗艦となるホテルが、マルイト本社のあるマルイト難波ビル高層階に2009年7月27日に開業したホテルモントレ グラスミア大阪です。1階エレベーターホールへの通路

このホテルは、なんばウオークに直結しているので、地下鉄御堂筋線と四つ橋線の難波駅から地下街を通ってチェックインすることができます。22階のエレベーターからフロントへの通路

地下1階にある入り口からビルの広いホールに入りエスカレーターで1階へ、奥へ続く通路を通ってホテル専用エレベーターで22階まで上がるとホテルのフロントです。フロント前のロビーは、かなりゆったりとしています。

公式HPには、英国・イングランドの都市や風土、文化をテーマにつくられたホテル館内で、特別なひと時をお過ごしいただけますとあるので、英国風にデザインされたロビーなのでしょう。コンシェルジュデスク

22階の吹き抜け部には、オールセイントチャーチ・ブロックハンプトンと呼ぶ教会があり、フロント階まで上がってきた宿泊客を驚かせる趣向となっていました。

公式HPには、1902年にウィリアム・レザビーによって建築された茅葺き屋根とライムストーン仕上の外壁を持つ教会を忠実に再現したとあり、中は100人を収容できる結婚式場となっているようです。23階から見た教会

教会の横には、山王美術館(宿泊客の入場料500円)という美術館までありました。

フロントロビーと教会などがある22階、レストランがある23階が共用階、24階から31階までが客室(348室)で、イギリスにあるマナーハウスや邸宅をイメージしたデザインを採用したとか。23階にあるレストラン待合室の内装も豪華でした。

つづく



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大阪港から難波方向の朝の風景を昨日紹介しましたが、さらに東側の大阪を見るために難波の高層ビルに上がってみました。

なんばパークスタワービルの左に見えているのは二上山。その左側の低いところは、大和川の大和からの出口。手前が天王寺区、生野区、東住吉区その先は平野区でしょう。東に向かってすこしづつ高くなっています。

上本町から鶴橋までの間にある超高層マンション4棟。左から桃坂コンフォガーデン・上本町ヒルズマーク(126m)、ザ・上本町タワー(127m)、レジデンスタワー上本町(123m)。一番右がウエリス上本町ローレルタワー(146m)、このビルは、大阪港からでも見ることができます。

近鉄上本町駅付近から生駒まで

難波から生駒までの大阪を見ると、左側(北方向)に高層ビルが集中しています。

宗右衛門町には、工事中のままストップしたビルが見えています。このビルはかなり前からあるようですが、いつになったら再建されるのでしょうか。

この方向にあるはずの大阪城天守閣は、ビルに隠れて見えていませんが、南外堀に面した6番櫓だけが何とか見えています。

その拡大。左がアルグラッド ザ・タワー心斎橋(136m)、中央はOBPのビル群、パラボラアンテナがあるのがNHK大阪放送局ビル、アルグラッド ザ・タワーと並ぶ手前のタワーマンションは、ニューシティレジデンス心斎橋イーストタワー。

南海難波駅にあるラピートの看板

つづく



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昨日に続き、4月にあった造幣局の通り抜けの桜と一緒に源氏の名刀「真守」の持ち主についてのエピソードを紹介しましょう。

さて、甲斐源氏の流れをくむ柳沢吉保(1658~1714年)は、武田家亡きあと甲斐源氏の継承者として源氏所縁の摂津の多田神社河内の通法寺に源朝臣として石灯籠を寄贈、その石灯籠は今も残っています。

将軍綱吉の引きで大老格(1698年に左近衛権少将)となった柳沢吉保は、甲斐源氏の継承者としての立場から、名刀「真守」を見せてほしいと高松藩主の頼常(1652~1704年、光圀の長男)に迫ったといいます。

水戸家の長男に生まれた高松藩主の頼常は、柳沢吉保の政治力を恐れ、仕方なく伝家の宝刀「真守」を吉保に預けたようです。(1703年頃か)

しばらくしてから頼常が柳沢家に貸した刀の返却を迫りましたが、「真守」は返却されず、そのまま柳沢家に源氏の宝刀として秘匿されてしまいます。

柳沢家では、甲斐源氏のシンボルである武田菱の紋を入れた金の「はばぎ」(刀が鞘と当たる部分)まで新調し、柳沢家の宝物に加えたようです。

1709年、将軍綱吉が亡くなり、吉保が隠居した後に水戸藩主の徳川綱條(1656~1718年)が柳沢家の当主柳沢吉里(1687~1745年)に「真守」の返却を厳しく迫り、「真守」はやっと高松藩に戻ってきています。

名刀「真守」が高松藩に返却されたのが1709年とすると、ほぼ6年間も柳沢家が保管していたようです。

側用人柳沢吉保の絶頂期には、徳川御三家の水戸家や縁戚となる高松松平家でさえ、貸した刀の返却を口出しできなかったという逸話でした。

「真守」が返却されたのが1709年頃と考えられるので、新羅三郎が後三年の役に出陣してから626年後のこととなります。一方、「真守」が高松藩に戻ってから現在まで303年しか経っていないことに驚かされます。

名刀「真守」は、国の重要文化財として今も香川県立ミュージアムに保管されています。

参考文献:柳沢吉保と江戸の夢 島内 景二著



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