シーボルトについて3回目の記事となります。さて、蘭癖大名島津重豪(しげひで、1745〜1833年)は、徳川家斉(1773〜1841年)の岳父(正妻の父親)として貿易の特別待遇を要求するなど、その行動には目に余るものがあったようです。
また徳川幕府は、島津のせいで貿易の独占的な利益が減少し、貿易相手国(清国)からも薩摩藩の密貿易で損害を受けていると訴えられていました。
幕府首脳は、島津重豪が親しく会見したシーボルトを処罰することで、薩摩の密貿易を承知していることを知らせ、牽制したというのが事件の本当の姿だったようです。
実は、シーボルトが罪に問われた日本地図の国外持ち出しは、それまで処罰の対象となったことがなく、シーボルトも地図をコピーして渡した江戸幕府書物奉行高橋景保も厳しく処罰されるとは考えていなかったようです。
この事件は、書物奉行高橋景保の獄死であっさり幕が引かれ、シーボルトは国外追放となっていますが、彼が持ち出そうとした地図を含めた幕府禁制品の多くは、今もオランダのライデン博物館に大量に保管されているのです。
このことは、幕府の真の狙いが禁制品の持ち出しではなく、島津重豪への牽制であったことの証拠と考えられ、シーボルト事件の直後、1828年から島津重豪の派手な行動がピタリと止まっているのです。
しかし、島津重豪から指示を受けた島津藩家老の調所広郷(1776〜1849年)は、その後も密貿易で稼ぐと共に、藩の借金問題も片づけています。
調所広郷の手法とは、500万両の藩債(借金)を250年の長期低利返済とすることを強引に債権者に認めさせたことで、島津藩は借金から解放され、調所広郷の代だけで逆に250万両の蓄えができたようです。
シーボルト事件から僅か38年後、薩摩藩の活躍によって幕府の大政奉還が実現しますが、調所広郷がつくった蓄えは、その活動を支えたのでした。
今の日本にも調所広郷のような剛腕政治家が求められているのではないでしょうか。
バラは、5月中旬一般公開された住之江下水処理場のものです。
参考文献:文政11年のスパイ合戦 秦 新二著 人物叢書島津重豪 芳 即正著