WALKER’S 

歩く男の日日

「生涯遍路,回りっぱなし遍路」と「ぜいたく遍路」の中間

2024-03-08 | 日記

 ぢぢいさんは「回りっぱなし遍路」に比べると自分の遍路はぜいたくでうしろめたさを感じる、しょせん道楽ではないかと、昨日のブログで綴られた。
 ぼくはそういう人たちと比較することも意識することもないから当然うしろめたさなど感じたことはない。ただぼくには事情があって全部宿には泊まるけれど必要以上のぜいたくはできないという縛りがある。お遍路を始めたころは宿泊食糧交通費すべて込々で13万円以内で一巡したこともある。その頃は9割以上が素泊まりだったし、食堂やレストラン、喫茶店に入ることも皆無だった。8巡目の最後に出会ったベテランのお遍路さんから多くのアドバイスをもらう中でそういうのは本当に貧しいお遍路ではないかと考えを改めるようになった。自分のためにもならないしほかのお遍路さんに対しても何の役にも立たないお遍路ではないか。多くの違う宿に泊まって、食事もしてできるだけ多くの情報を自ら集めてほかのお遍路さんに還元することこそ豊かなお遍路ではないか、そのための出費は抑えるべきではない。以後は食事のできる宿では必ず2食付きで泊まるようになったし、意識して違う宿や新しい宿にも泊まるようにした。あれから10年になるけれどいまだにその基本姿勢は変わらない。この春の遍路でも初めて泊まる宿が10軒ある。それでいて食費交通費すべて含めて17万円くらいで収まる。これだとぎりぎりぜいたくとは言われないかな。

 ぢぢいさんの言う「好んでつらい目をしに行く」というのはぼくの考え方感じ方とは違うけれど、
 F爺さんの言う
 多数のお遍路さんが
《自分のしていることは、道楽などとは無縁だ》
と確信しています。
 というのもぼくの考え方とは違う。ぼくにとってお遍路は道楽に近いと思う、ぼくに近い考え方の人も少なくないと思っている。でもぼくは自分のやり方や考え方が正しいとも間違っているとも思わない、そんなのは自由だし他人の考えに口を挟む気なども毛頭ない、人に迷惑さえかけなければどんな思いでどんな歩き方をしようと自由。自由に歩いて自由に楽しむのがお遍路だと思っている。

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