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共通世界語エスペランテート・総目次

2019-08-31 | 〆共通世界語エスペランテート

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より全記事をご覧いただけます。


序文 ページ1

第1部 エスペランテート総論

(1)世界語の意義① ページ2
(2)世界語の意義② ページ3
(3)世界語の条件 ページ4
(4)言語学的中立性 ページ5
(5)習得容易性 ページ6
(6)自然言語近似性 ページ7
(7)ジェンダー中立性等 ページ8
(8)エスペラント語の検証① ページ9
(9)エスペラント語の検証② ページ10
(10)エスペラント語の検証③ ページ11
(11)エスペラント語の検証④ ページ12
(12)エスペランテートの創出 ページ13
(13)エスペランテートの創出 ページ14

第2部 エスペランテート各論
(1)文字体系 ページ15
(2)発音法則 ページ16
(3)基本品詞① ページ17
    Ⅰ普通名詞 Ⅱ固有名詞 Ⅲ冠詞
   基本品詞② ページ18
    Ⅳ人称代名詞
   基本品詞③ ページ19
    Ⅴ動詞
   基本品詞④ ページ20
    Ⅵ形容詞・副詞
   基本品詞⑤ ページ21
    Ⅶ前置詞・相関詞
   基本品詞⑥ ページ22
    Ⅷ動詞の分詞
(4)接辞 ページ23
(5)種々の構文① ページ24
    Ⅰ 語順 Ⅱ疑問文
   種々の構文② ページ25
    Ⅲ 連辞文
   種々の構文③ ページ26
    Ⅳ 話法 
   種々の構文④ ページ27
    Ⅴ 関係構文 
   種々の構文⑤ ページ28
    Ⅵ 命令法と仮定法

第3部 エスペラントとエスペランテート
(1)名詞 ページ29
(2)冠詞
(3)形容詞
(4)数詞
(5)人称代名詞 ページ30
(6)動詞
(7)副詞
(8)前置詞
(9)発音 ページ31
(10)アクセント
(11)合成語
(12)否定詞の用法
(13)方向をあらわす語
(14)前置詞の用法
(15)外来語のつづり
(16)省略語

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共通世界語エスペランテート(連載最終回)

2019-08-31 | 〆共通世界語エスペランテート

第3部 エスペラントとエスペランテート

(9)発音

 すべての単語は、かかれたとおりによまれる。

 ⇒基本的に同様である。

(10)アクセント

 アクセントは、つねに最後から二番目の音節(最後から二番目の母音箇所)にある。

 ⇒基本的に同様であるが、二重母音は一個の母音とみなされる。

(11)合成語

 単純に単語をくみあわせることでつくられる(主たる単語は後置される)。その際、文法上の語尾は独立の語とみなされる。たとえば、蒸気船:vaporsipoは蒸気:vapor+船:sipoで合成されるが、全体で一語である。

 ⇒基本的に同様である。ただし、上記単語では、つづりはbwaporsipoに変形される(エスペラント語のvはbwに置換されるため)。

(12)否定詞の用法

 否定詞neは、他の否定語の前後では脱落する(二重否定文の禁止)。

 ⇒二重否定文も文章体の修辞上みとめられるが、口語体では使用が推奨されない。

(13)方向をあらわす語

 方向をあらわす語は、対格をとる。たとえば、Kien vi iras ?(あなたはどこへいくのですか)のこたえとして、Domon.(うち〔へ〕です)のように。

 ⇒名詞も疑問詞も格変化しないので、このような法則も存在しない。上例なら、Kie bo iri ?に対して、方向をしめす前置詞arをもちいてAr domo.と応答すればよい。

(14)前置詞の用法

 前置詞はいずれもさだめられた一定の意味をもつが、なんらかの前置詞が必要で、しかもどの前置詞もその意味をあらわすのに適当でないばあいには、特定の意味をもたない前置詞jeがもちいられる。前置詞jeをもちいるかわりに前置詞をともなわない対格をもちいることもできる。

 ⇒基本的に同様だが、jeのつづりは、yeに置換される(発音は同様)。ただし、名詞は格変化しないので、前置詞yeを対格でおきかえることはできない。

(15)外来語のつづり

 外来語の大部分は、エスペラント語においてもその正書法にしたがう以外は変形することなくもちいられる。ただし、一個の語根からいくつかの単語がつくられるばあいは、基本語のみが変形せずにもちいられ、それ以外はエスペラント語の規則にしたがってそこから派生される。たとえば、日本語の地名・名古屋は、名詞としてもちいられるばあい、名詞語尾-oを付加され、Nagojoと変形される。

 ⇒外来語はその語をもつ言語のアルファベット正書法にしたがい、エスペランテート特有の派生もしない。したがって、名古屋はNAGOYAと表記される(このばあい、固有名詞であるから、全大文字表記)。ただし、アルファベット正書法がない言語のばあいは、エスペランテート固有の新語を造語する。

(16)省略形

 名詞および冠詞の最後の母音を脱落させ、アポストロフィーで代用することができる。

 ⇒このような代用的省略形は存在しない。

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共通世界語エスペランテート(連載第30回)

2019-08-30 | 〆共通世界語エスペランテート

第3部 エスペラントとエスペランテート

(5)人称代名詞

 人称代名詞はmi(わたし)/ni(わたしたち)、 vi(あなた/あなたたち) 、li(かれ)・ŝi(彼女)・ĝi(それ) /ili (かれら/それら)、si(~自身;性・数共通)、oni(ひとびと)である。

 所有代名詞は、形容詞語尾-aを付することでつくられる。語形変化は、名詞のばあいと同様である。

 ⇒人称代名詞単数形はmo(わたし)、bo (あなた)、jo(かれ・彼女・それ)の三種のみで、複数形は単数形に複数形語尾‐yを付し、moy(わたしたち)、boy(あなたたち)、joy(かれら・彼女ら・それら)とすることでつくられる。

 所有代名詞は、格による語形変化をしない。

(6)動詞

 動詞は人称および数については不変である。
  
 動詞の活用形として、現在時制では語尾 -as、過去時制では語尾 -is、未来時制では語尾 -os を、条件法では語尾 -us、命令法では語尾 -u、不定法では語尾 -i をとる。

 分詞は、能動現在分詞 -ant、能動過去分詞 -int、能動未来分詞 -ont、受動現在分詞 -at、受動過去分詞 -it、受動未来分詞 -otである。

 受動態は、いずれも助動詞estiの対応する語形と対象となる本動詞の受動分詞のくみあわせによって表現される。受動態の前置詞(~によって)にはdeをもちいる。

 ⇒動詞は人称および数のみならず、時制についても不変であり、原形と活用形の区別はない。ただし、ときをあらわす副詞または副詞句をそえない文では、動詞の定形に過去接尾辞-is、未来接尾辞-osを付して時制を表現することができる。ときをあらわす副詞または副詞句をそえずに動詞定形を単独でもちいるばあいは、現在の時制をしめす。

 条件法や命令法による活用変化もない。

 分詞は、能動分詞継続形-ante、同完了形-inte、同未然形-onte、受動分詞継続形-ata、同完了形-ita、同未然形-otaである。分詞の実質的な用法はエスペラントと同様であるが、名称がことなる。

 受動態の助動詞に転用されるestiが時制変化しないことは、一般動詞のばあいと同様である。

(7)副詞

 副詞はeでおわる。比較級および最上級は、形容詞と同様である。

 ⇒比較級および最上級でもちいられるbrin、brey、zanなど単語の相違は形容詞のばあいに準ずる。

(8)前置詞

 前置詞はいずれも主格を要求する。

 ⇒そもそも名詞は格変化しないため、法則としての意味はない。

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共通世界語エスペランテート(連載第29回)

2019-08-29 | 〆共通世界語エスペランテート

第3部 エスペラントとエスペランテート

 第2部では、筆者の創案にかかるエスペランテートの基本的なしくみについて、必要に応じて祖語エスペラント語と対照しながら説明してきたが、最後にあらためてエスペラント語との文法上の異同を総覧的にまとめておく。
 以前にものべたとおり、エスペラント語には変更不可とされる16箇条の基本文法則があるところ、エスペランテートはこれらに変更をくわえているため、別言語とみなされるのであった。そこで、以下では第2部の記述との重複をいとわず、16箇条がどのように変更されているか、対照しつつみていきたい。
 各項目において、青字でしめされた法則がエスペラント16箇条の概要(一部要約)であり、⇒記号とともに赤字で付記された記述はエスペランテートにおける異同点である。

(1)冠詞

 不定冠詞は存在しない。いずれの性、格および数にも不変の定冠詞(la)があるのみである。

 ⇒冠詞は、不定冠詞・定冠詞ともに存在しない。

(2)名詞

 名詞は語尾-oをもつ。複数形をつくるには語尾-jをくわえる。格は主格と対格の二つのみである。対格は主格に語尾-nを付加してつくられる。その他の格は前置詞のたすけをかりて表現する。

 ⇒名詞は格変化をせず、したがって対格語尾も存在しない。主格および対格以外の格は、前置詞のたすけによる。結果的に、格を重視する必要はない。

(3)形容詞

 形容詞は-aでおわる。格および数については名詞のばあいと同様である。比較級はpli、最上級はplejでそれぞれあらわされ、比較級では接続詞olがもちいられる。

 ⇒形容詞は、格および数による語尾変化をしない。比較級、最上級はそれぞれbrin 、brejであらわされる(lがrに置換)。比較級の接続詞(・・・よりも)は、エスペランテート独自のzanがもちいられる。

(4)数詞

 基数詞(語形変化なし)は以下のとおりである。

 unu(一)du(二)tri(三)kvar(四)kvin(五)ses(六)sep(七)ok(八)naŭ(九)dek(十)
 cent(百)mil(千)

 十および百のくらいは単純に数詞をくみあわせてつくられる。

 序数詞をつくるには形容詞語尾-aをつける。倍数(二倍、三倍…)は接尾辞oblで、分数(二分の一、三分の一…)は接尾辞on、集合数(二人ぐみ/二個セット…)は接辞op、分配(二人ずつ/二個ずつ…)はpoという単語であらわされる。また、数詞を名詞として、または副詞としてもちいることも可能である。

 ⇒基数詞は、四以下がつぎのようにことなる(いずれも語尾が母音でおわり、vはbwに、lはrに、ŭはuに置換される)。

 kbwar(四)kbwin(五)sesu(六)sepu(七)oku(八)nau(九)deku(十)
 centu(百)miru(千)

 倍数接尾辞はobro、集合接尾辞はopu、分配数接辞はhwoである

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近代革命の社会力学(連載第10回)

2019-08-27 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命

(4)革命諸派の分岐状況  
 革命の過程では、その方向性や方法をめぐって革命勢力の間で諸派が分岐していく現象が見られるが、革命前から最初期には妥協派と革命派が対立し、革命が進展するにつれ、急進派と中庸派が対立する傾向が強い。このような状況は、いわゆる清教徒革命でも観察される。  
 当初、議会=平民院と国王の対峙状況においては、議会多数派を占めていた長老派と少数派の独立派が対立関係に立った。長老派は英国国教会の内部改革を主唱するグループであり、本質的に保守的で、国王との和解を望んでいた。  
 しかし、捕らわれたチャールズ1世に対し、長老派が単独で和平交渉を進めようとするや、独立派がクーデターを起こして長老派を追放、独立派のみで構成されたいわゆる残部議会を形成した。これを革命の本格的な開始時点とみなすこともできる。  
 残部議会を主導した独立派は、宗教的にはカルバン主義であり、英国国教会からの分離を目指した点では分離派の一派であるが、宗教的というよりは政治的な党派性が強い勢力であった。後に執権者となるオリバー・クロムウェルも出自したこのグループは内戦を戦い抜いた主戦派として、革命の中核勢力に座る。
 なお、独立派と近いながら、より宗教性が濃厚なグループとして、第五王国派という分派もあった。このグループはアッシリア、ペルシア、ギリシア、ローマに続くキリスト教による五番目の千年王国を実現するという宗教的ユートピアを掲げていたが、革命成功後により世俗的な独立派とは袂を分かつことになる。  
 独立派は革命の遂行ということに関しては強硬であり、メンバーは将校として内戦を指揮し、最終的に国王の裁判と処刑も主導したが、地方地主層が中心であったことから、革命後の施策においては基本的にブルジョワジーの利益を重視していた。そのため、平等の徹底を求めるより急進的な水平派と対立することになる。  
 水平派は1647年に憲法文書「人民協定」を策定し、その中で国民主権、法の下の平等、信仰の自由、上院廃止と王制廃止、人口比例的な選挙区に基づく普通選挙の実施などの民主的な項目を掲げた。しかし、独立派は当時としては急進的すぎたこの提案を却下し、反発した水平派の反乱を奇貨として、弾圧で応じたのだった。  
 水平派は一般兵士や都市の市民を支持基盤とする急進派であったが、農民層を支持基盤とする最急進派として、真正水平派が分岐した。これはギルド商人出自の政治思想家ジェラード・ウィンスタンリーを主唱者とするグループであり、実験的試みとして共同農場を運営するなどの理想主義的実践を見せた。  
 真正水平派はキリスト教に基づく農民社会主義的なグループであったが、そのユートピアン的実践が広く浸透することはなく、独立派にとっては取るに足らぬ小グループにとどまった。最終的に、かれらを敵視した地主によって共同農場を破壊され、消滅した。

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近代革命の社会力学(連載第9回)

2019-08-26 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命 

(3)革命主体としての議会  
 17世紀英国革命では、議会が革命の主体となったことが大きな特徴であったが、これは議会制度が他国に先駆けて中世から発達した英国ならではの特徴と言える。英国の封建議会も元来は封建貴族の利益代表機関であったが、13世紀半ば、シモン・ド・モンフォールの蜂起を機に州や都市から非貴族の代表者が参加するようになった。  
 非貴族といっても、実際に参加できたのは州の騎士や都市の有力商人を中心とする地主階級であったが、世襲貴族ではない平民階級が議会に参加するようになったのは、当時としては画期的であった。この平民議員はやがて貴族とは分離して独自の会議を持つようになり、これが今日まで続く英国平民院(House of Commons)に結実する。  
 ちなみに、House of Commonsはしばしば「庶民院」と訳されるが、17世紀当時のHouse of Commonsの議員たちは農民に代表されるいわゆる「庶民」ではなく、地主層のブルジョワジーであったから、「庶民」の訳は少なくともこの時代のHouse of Commons には適しないだろう。  
 ともあれ、英国では大陸ヨーロッパに先駆けてブルジョワ革命が中世のうちに、明確な革命によらずして―前出ド・モンフォールの蜂起は革命的なものと言えたが―、達成されていた。このような背景の下、17世紀の近世を迎える。  
 この時代、王権はテューダー朝最後のエリザベス1世女王が継嗣なくして死去したことから、遠縁に当たるスコットランドのステュアート王家を招聘して、イングランド‐スコットランド同君連合という体制に移行していた。  
 フランスの影響が強かったステュアート朝は、基本的に平民院を軽視しており、民主的な体質からは程遠かった。特にステュアート朝二代目のチャールズ1世は、急速に悪化していた財政難解決のため、議会の頭越しに国王大権によって各種の増税を断行した。議会がこれに抗議すると、チャールズは議会解散の強権行使に出たことから、議会との対立は決定的になった。  
 それにしても、議会と国王の対立が単なる政争を超えて内戦にまで飛躍したのは、父王ジェームズ1世から受け継いだ王権神受説を信奉し、妥協を苦手としたチャールズの個人的性格も影響したと思われる。他方で、議会側にも好戦的な騎士階級の議員が多く加わっていたことは、両者の武力衝突を避けられないものにした。  
 もっとも、チャールズを中心にまとまりのよかった国王派に対し、議会派には様々な派閥が分岐していたが、いまだ近代的な政党組織の出現する以前のことであり、明確な党派としては確立されていなかったため、少なくとも内戦の過程では党争は抑制されていた。  
 国王派と議会派の衝突は、二次にわたる長い内戦を経て、最終的に議会派が勝利し、1649年のチャールズ処刑と王制廃止・イングランド共和国樹立という近代史上初の共和革命を導くこととなった。  
 内戦の過程で、議会側はにわか仕立ての寄せ集めにすぎず、国王軍に対して劣勢だった革命軍をより組織的で一元的な指揮系統を擁する新型軍(New Model Army)に再編したことが勝因となったが、この新型軍は議会法に基づいて組織される近代的な常備軍の原型ともなった。  
 このように革命主体が議会でありながら、内戦を通して軍事的な性格を強めたことは、国王処刑という武断的な事後処理と、それに続き、民主的とは言い難い軍事政権型の共和制を生み出す契機となったと考えられる。しかし、このように内戦をも伴う軍事的革命というモデルは、良くも悪くも、その後の近代革命の先例となったのである。

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共通世界語エスペランテート(連載第28回)

2019-08-24 | 〆共通世界語エスペランテート

五 種々の構文

Ⅵ 命令法と仮定法

 三でものべたとおり、エスペランテート語の動詞は活用変化せず、祖語のエスペラント語にみられる命令形や仮定形の活用変化もない。

 命令法は、主語をはぶいた動詞文に感嘆符!を付すか、丁寧に命令するときは、文頭にBonborre(・・・してください)をおく。

 例;Ne diri !(いうな。) あるいはBonbwore ne diri ! (いわないでください。)となる。

 仮定法は、条件節を接続詞se(もし・・・ならば)でみちびき、動詞は主節・条件節とも活用変化しない。

 そうなると、たとえば、Se mo esti bo, mo ne diri.という文は、「もし、わたしがあなたならば、いわないだろう/いわなかっただろう」のいずれなのか、文面だけでは区別がつかない。
 
こうしたばあい、特に「いわなかっただろう」という過去の非現実仮定を表現したいときは、いわない決断をしたであろうときをしめす副詞または副詞句をそえるか、主節動詞diriに過去をしめす接尾辞-isを付することで実質的に表現できる。

 最後に、命令法と仮定法がくみあわさった応用文を一つ。Se bo bwori mardikiji, ekzercadi !(もしやせたければ、運動しなさい。)

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共通世界語エスペランテート(連載第27回)

2019-08-23 | 〆共通世界語エスペランテート

第2部 エスペランテート各論 

(5)種々の構文④

Ⅴ 関係構文

 エスペランテートに関係詞は存在しない。関係節は関係記号〈 〉でかこう。音声にたよる口語では、関係記号を音声化することができないため、先行詞と関係節の直前(下例ではbungoyとmoのあいだ)で一拍あける音声ルールを適用する。

 祖語のエスペラント語のばあい、英語と同様に疑問詞を転用した関係詞が存在し、しかも関係詞は先行詞の数・格(目的格)に連動して語尾変化するという英語以上に複雑な規則がある。
 しかし、エスペランテートに関係詞は存在しないので、文意の混乱をさけるため、補助記号をもちいる必要がある。たとえば、「わたしは、きのうかったはなたばを、こいびとにおくった」というばあい、「(わたしが)きのうかった」の部分を関係記号〈 〉でかこう。

 Mo donis ar moa amato bungoy <mo acheti hierau>.

 これによって、構文上は関係詞をもたない中国語や日本語にちかづくといえるが、関係節を後置する点では相違があることが留意される。
 すなわち、<mo acheti hierau> bungoyのように、関係節を名詞(このばあいはbungoy:はなたば)のまえに配列することはできない。その点では、英文で関係詞を省略したばあいの語順に類似するといえる。

 「うちのにわにさいているバラ」のように、関係句の主語が先行詞と一致するばあいは、関係句の主語に先行詞に対応する人称代名詞(下例では、三人称単数)をおく。このばあいの人称代名詞は実質的な意味をもたない形式主語である。

 rozo <jo bungi nun en moa gardeno>

  先行詞に前置詞がともなうばあい、前置詞は関係句のうしろに移動し、後置詞に変化する。

 たとえば、上例を変更して「あなたがはなたばをおくった女性はだれですか。」という文では、本来の語順ならdonis ar tiu hwemo(あの女性におくった)となるはずの前置詞arが、つぎのように後置詞化される。

 Kiu esti tiu hwemo〈bo donis bungoy〉ar ?

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共通世界語エスペランテート(連載第26回)

2019-08-22 | 〆共通世界語エスペランテート

第2部 エスペランテート各論

(5)種々の構文③

Ⅳ 話法

 エスペランテートの間接話法は、時制の一致を必要としない。

 英語などの間接話法にあらわれる時制の一致法則が存在しないことは、祖語のエスペラント語と同様である。ただし、この法則の意味するところは、エスペラントとはことなっている。
 エスペラント語では、動詞の時制変化を前提に、間接話法文の主節の動詞と従属節の動詞の時制がくいちがっていてもよいことを意味する。たとえば「わたしはきのう、太郎にあすくるつもりだった。」という例文では、この日本語文と同様に、主節の動詞は過去形、従属節の動詞は未来形でよいわけである。
 これに対して、エスペランテートにあっては、動詞は時制変化しないのであったから、時制の一致ということがそもそも問題とならず、動詞の形態は主節、従属節ともに一貫する。上例では、つぎのようになる。

 Mo diri ar TAROU hierau, ke mo bweni morgau.

 ただし、hierau(きのう)やmorgau(あす)のようなときをあらわす副詞をそえずに時制を表現するばあいは、動詞に時制接尾辞がつく結果として、つぎのように一種の時制の不一致がおこる。

 Mo diris ar TAROU , ke mo bwenos .

 ちなみに、上例を変更して、「太郎はきのう、あすわたしがくるつもりかとたずねた。」という疑問文を内包する間接話法では、疑問をあらわす従属節を「~かどうか」を意味する接続詞chuでみちびく。時制の一致が問題とならないことは同様である。 

 TAROU demandi mo hierau, chu mo bweni morgau.

 直接話法は、従属節を引用符で囲んだ会話文のかたちであらわす。

 前出二つの例文を直接話法でかきかえてみると、つぎのようになる。

 Mo diri ar TAROU hierau,“mo bweni morgau.”

 TAROU demandi mo hierau,“chu bo bweni morgau ?”

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近代革命と社会力学(連載第8回)

2019-08-20 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命 

(2)革命前英国の社会変動  
 ヨーロッパにおいて旧来の封建制を打破した画期点と目されている18世紀フランス革命よりも100年以上先駆けて起きた17世紀英国革命は、封建制が大陸ヨーロッパ諸国より一足先に流動化しつつあったイングランドにおける社会変動を前提としていた。  
 すなわち、英国では15世紀末、貴族層を巻き込んだ王位継承争いの内戦―「ばら戦争」―の過程で在来の貴族家系の多くが断絶すると、貴族層の家臣団に組み込まれていた地方有力者が自立化し、旧貴族所領を入手して地主領主となった。  
 こうして新たな地方紳士の地主階級(ジェントリー)が台頭していった過程は、あたかも15‐16世紀の日本で、守護大名の下で守護代を務めていた国人勢力が主家をしのいで台頭していった下克上の時代と似ており、言わば英国版下克上であった。  
 ジェントリーは「ばら戦争」を止揚して新たなイングランド王家となったテューダー朝の下で、王権を支える有力支配層の地位に座る。その中には、後に清教徒革命で主役となるオリバー・クロムウェルが出自したクロムウェル家の姿もあった。  
 クロムウェル家の祖は元来鍛冶屋だったが、法律家としてテューダー朝ヘンリー8世の寵臣となったトマス・クロムウェルの代に台頭し、一族繁栄をもたらした新興ジェントリー階級の家系である。ちなみに、オリバーはトマスの姉の子孫に当たる。  
 これらジェントリー階級の出自は当初、元有力農民(ヨーマン)であったと考えられるが、テューダー朝の時代になると、有力商人・職人等として財を成した者が地主となってジェントリーに成り上がるケースも出てきた。  
 ヘンリー8世による強権的な宗教改革によって閉鎖・没収された旧修道院所領の払い下げは、そうした成り上がりを後押しした。実は、クロムウェル家もこの時代の成金的新興ジェントリーの一つであった。  
 他方、ヘンリー8世の宗教改革は、カトリックから分離されたイングランド国教会を生み出したが、国教会自体は浮気性だった自身の離婚の自由を認めるためにヘンリー8世が断行したもので、「宗教改革」とはいえ、反カトリックとしての意義は薄く、ある意味では「英国版カトリック」にとどまっていた。  
 そのため、より純粋(ピュア)な宗教改革を求める勢力として、ピューリタンの運動が発生してくる。言わば、英国版カトリックに対抗する英国版プロテスタントの運動である。しかし、こうした対抗運動の常として、その運動論や思想上の違いから派閥の分立が生じた。  
 すなわち、イングランド国教会の内部改革を志向する最も保守的な長老派に対し、イングランド国教会からの離脱を主張する分離派が対抗する。分離派はその内部で多様な分派を生むが、その中でも独立派と呼ばれる派閥がジェントリーの間に浸透する。  
 独立派は、長老派のように権威的な教会運営を否定し、個別教会の独立性と信徒による直接的な運営を理想としたが、こうした姿勢は政治的な面では民主主義の追求に赴きやすいことは必然であった。このことは、やがて来る革命をかれらが担うことを予示していただろう。

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近代革命の社会力学(連載第7回)

2019-08-19 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命

(1)概観  
 ヨーロッパにおける近代革命の先駆けと言える位置にあるのは、17世紀半ばに勃発したイングランドの「清教徒革命」である。この革命も、日本の一向宗革命と同様、近代に先行する近世期の信仰に根ざした革命という点で共通性を持つ。  
 ただ、実のところ、日本で好まれる「清教徒革命」という言い方は英国史上ではあまりなされておらず、むしろ「イングランド内戦」(English Civil War)または「三王国戦争」(Wars of the Three Kingdoms)と呼称されることが多い。  
 「イングランド内戦」とは、「清教徒革命」を契機に革命派と反革命派(王及び王党派)の間での内戦が10年近くも延々続いたことをとらえた言い方である。一方、「三王国戦争」は、イングランドの革命を発端として、近隣のスコットランド、アイルランドをも巻き込む三つ巴の宗教戦争に及んだ点を重視してのことと考えられる。
 しかし、焦点となったイングランドでは時のステュアート朝国王チャールズ1世の処刑を契機に、現在までのところ英国史上唯一の共和体制が実現したことをとらえれば、単なる戦争ではなく、革命の実質を有する事象であったと言える。  
 もっとも、ピューリタニズムの信仰が革命においてどれほどに決定因となったかと言えば、「清教徒革命」においては、一向宗革命のように教団ないし信徒共同体そのものが革命の当事者となるようなことはなく、むしろ議会が革命主体として王及び王党派と対決するというある意味ではすぐれて英国的な経過をたどっている。  
 ただ、革命を指導したオリバー・クロムウェルをはじめとする議員たちは急進的プロテスタント(ピューリタン)であったことから、革命の動因として信仰という要因を無視することもできない。その意味では、「清教徒革命」という呼称も誤りとは言えない。  
 しかし、「清教徒革命」には続編があった。「清教徒革命」自体は、クロムウェルの没後、すみやかに終息し、王政復古がなされるが、その後、17世紀末、立憲君主制への出発点となるようないわゆる「名誉革命」を経て、一連の革命が完結している。  
 この「清教徒革命」から「名誉革命」に至る17世紀英国(スコットランドを含む)の革命的変動の全体を「17世紀英国革命」と呼ぶことができる。本節ではそのように把握された一連の革命をめぐる社会力学について見ていくことにする。

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共通世界語エスペランテート(連載第25回)

2019-08-15 | 〆共通世界語エスペランテート

第2部 エスペランテート各論

(5)種々の構文②

Ⅲ 連辞文

 「AはBである。」をあらわす連辞文では、連辞として動詞estiをもちいることを原則とするが、口語体では連辞を省略することができる。

 「・・・である」をあらわすエスペランテートの連辞は英語のbe動詞に相当するestiであるが、口語体ではこれを省略することができる。たとえば「わたしのなまえは、太郎です。」は文章体ではMoa nomo esti TAROU.となるが、口語体ではMia nomo TAROU.でよい。
 なお、「わたしの」という人称代名詞の所有格は、名詞のあとに後置することも可能であったから、Nomo moa TAROU.といういいかたもできる。ただし、推奨されるいいかたではない。

 連辞文の述部の補語が形容詞であるばあいは、口語体でも連辞を省略することはできない。

 たとえば、TAROU esti yuna.(太郎はわかい。)を、TAROU yuna.と表現することはできない。エスペランテートでは形容詞を修飾される名詞に後置する用法もゆるされることから、連辞を省略すると、「わかい太郎」という形容詞つきの名詞句との混同が生じるおそれがあるためである。

 動詞は連辞でつなげることにより名詞的に(××すること)もちいることができる。このばあいは、口語体でも連辞を省略することはできない。

 たとえば、Bidi esti kredi.(みることは信ずることである;百聞は一見にしかず)のようなばあいに、estiを省略してBidi kredi.ということはできない。このばあいは、二つの動詞相互の関係性を連辞で明瞭にいいあらわす必要があるからである。

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共通世界語エスペランテート(連載第24回)

2019-08-15 | 〆共通世界語エスペランテート

第2部 エスペランテート各論

(5)種々の構文①

Ⅰ 語順

 エスペランテートには、語順(文成分の配列)のきまりはなく、SVO、SOV、VSO、VOS、OVS、OSVのいずれも文法的になりたつ。ただし、文章体における推奨語順はSVOである。

 口語体においては、上記諸文型はすべて等価的であり、意味・ニュアンスの相違もなく、各自が母語とする民族語の基本語順によって語順を選択することができる。したがって、下記の各文はすべて等価的に「花子は茶がすきだ。」を意味する。

 HANAKO ami teo. :SVO

  HANAKO teo ami. :SOV

  Ami HANAKO teo. :VSO

  Ami teo HANAKO. :VOS

  Teo ami HANAKO. :OVS

  Teo HANAKO ami. :OSV

Ⅱ 疑問文

 エスペランテートでは、疑問文の語順も平叙文とかわらないが、諾否疑問文では文頭に疑問詞chuをおく。

 もっとも簡単な諾否疑問文は、たとえば、つぎのようになる(SVO型を選択)。なお、会話では、英語等と同様、諾否疑問文の文末は上昇調で発音する。

 Chu HANAKO ami teo ?(花子は茶がすきか。)

 ちなみに、これを理由をたずねる疑問詞疑問文に変更すると、つぎのようになる。なお、会話では、疑問視疑問文の文末は下降調で発音する。

 Kiar HANAKO ami teo ?(なぜ花子は茶がすきなのか。)

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近代革命の社会力学(連載第6回)

2019-08-13 | 〆近代革命の社会力学

一 北陸一向宗革命 

(5)一向宗革命体制の終焉  
 およそ一世紀に及んだ一向宗革命体制は、その中期には本願寺中央主導の寺院封建支配体制へと変質していったわけであるが、そこへ至る過程では、本願寺中央と北陸の出先寺院を統率する蓮如の大勢の息子たちが相い争う複雑で流血的な内紛が常態化していた。  
 多くの革命の実例で、革命成就後に革命集団内部で紛争に見舞われることが確認できるが、その点では一向宗革命も例外ではない。こうした革命後の内紛は、しばしば革命体制の自壊要因ともなり得るものであるが、一向宗革命がそうならなかったのは、一つの信仰を共有する結束性の高さとそれを背景とした本願寺中央の支配権が確立されたためでもあった。  
 そうした寺院封建支配体制の確立はまた、当時の大状況であった戦国封建社会化への適応の所産でもあった。要するに、本願寺自身が武装した戦国領主となったに等しく、そうなると、周辺戦国諸侯との抗争は避けられないことになる。  
 前回も見たように、1546年以降は要塞化された金沢の尾山御坊が本願寺支配の拠点となり、「郡」や 「組」などの内部組織も尾山御坊に直属する形で、集権的な体制が整備された。これによってまさに戦国大名並みの戦闘動員力が備わったと言える。
 この頃の周辺競合勢力として強力だったのは、越前の朝倉氏であった。朝倉氏との関係性は複雑であり、大小一揆の際の朝倉氏は本願寺中央への牽制のため賀州三ヶ寺側を支援する策に出たが、これは失敗に終わった。その後、本願寺中央が主導権を握ると、朝倉氏とは1550年代と60年代に交戦している。
 朝倉氏が織田氏に滅ぼされた1570年代に入ると、より野心的な越後の上杉氏との対決が避けられなかった。この時代の一向宗徒軍の実質的な総大将は、杉浦玄任である。彼は本願寺坊官出自の僧兵武将であり、60年代の朝倉氏との戦闘でも活躍したベテランであった。  
 杉浦は加賀・越中・越前三州の一向宗徒軍を糾合して北陸支配を狙う上杉軍と対決し、1572年の尻垂坂の戦いでは敗北しながらも、かなり互角の戦いを展開してみせたが、1575年、天下人への道を着々と歩んでいた織田氏の前に敗北し、戦死もしくは敗戦責任のかどで処刑されたとされる。  
 こうして、一向宗革命体制は一向一揆の壊滅を狙う織田氏という強敵と直面することになった。織田氏の総帥織田信長は、戦国的内乱を終わらせ、全国支配を達成するうえで障害となるすべてのものを排除せんとしていたが、その中には一向一揆も含まれていた。  
 彼は本願寺総体の本拠である石山本願寺を叩く正面作戦に出て、これに成功したのだった。その経緯を詳述することは本連載の主旨から逸れるので、省略するが、いずれにせよ、総本山の敗北は北陸の一向宗革命の終焉に直結した。  
 信長配下の部将佐久間盛政によって攻略された尾山御坊では信徒300人以上が磔刑に処せられるという結果に終わった。尾山御坊は解体されて金沢城となり、盛政が戦功により初代城主にして新たな加賀の領主に座った。  
 ちなみに、越中一向一揆は上記尻垂坂の戦いの際に壊滅していたから、1580年の加賀一向一揆の敗北により、一世紀余りに及んだ北陸の一向宗革命は完全に終焉し、以後は天下人「三英傑」による集権的武家支配体制に呑み込まれていく。

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近代革命の社会力学(連載第5回)

2019-08-12 | 〆近代革命の社会力学

一 北陸一向宗革命

(4)一向宗革命体制の構造  
 越中‐加賀の一向宗革命は、数ある一向一揆の中で最も持続的な成功を収め、守護領主の追放と自前の自治政権の樹立にまで及んだ点で異例であった。そのため、特に革命の中心となった加賀は「百姓の持ちたる国」と称されるようになる。  
 しかし、ここで言う「百姓」とは農民を指すのではなく、文字どおり諸々の民衆といった意味合いである。これは、前回も見たとおり、一向宗革命の本質が単純な農民革命ではなくして、浄土真宗信仰を共有しつつ、地元の国人や土豪などが主導したある種のブルジョワ革命の性質を有したことによる。  
 巧妙だったのは、守護の富樫氏を打倒しつつも、時の当主正親に代えて正親の大叔父泰高を名目的な守護として擁立したことである。富樫氏の内訌を利用しつつ、言わば象徴的な領主として富樫氏傍流を立てたのである。これにより、完全な共和政体ではなく、形式上は従来の封建政体を維持したことになる。  
 そうした形式的な領主支配の下で、革命体制最初期は戦闘指揮で功績のあった国人層が集団指導したが、体制がある程度安定化した後、実権を握ったのは、蓮如の子がそれぞれ住職として配置された本願寺系の三つの寺院(賀州三ヶ寺)であった。特に蓮如の三男蓮綱と七男蓮悟が、父蓮如の威光を背景に国主として二頭体制を築き、政治指導した。  
 このように、一向宗革命体制は基本的に祭政一致制であったが、16世紀に入ると、周辺地域への支配力拡大を目指して守護権力への革命戦争を継続する中で、統治の体系化が進む。すなわち、在地国人層の連合組織「郡」を本願寺家臣団兼一向宗中核組織としつつ、末端の信徒集団を「組」にまとめ、軍事化したのである。  
 1518年には革命体制の憲法文書に相当するような法令を定め、ようやく統治の基本が整理される。それは武装・合戦、派閥・徒党、年貢不払いの禁止、本願寺法主の寺院統制権の強化、本願寺系寺院の家格付けを内容とするものであった。
 しかし、こうした本願寺中央主導の「整理」は、元来地方自治的な革命を変質させることにもなったため、末端信徒の反発を呼び、内紛を引き起こした。特に、本願寺中央と賀州三ヶ寺の衝突に発展した1531年の大小一揆では賀州三ヶ寺が粛清され、支配権を喪失した。  
 これを機に、本願寺中央の権力が強まり、中央派遣の代官による直轄統治に移行していく。ただし、越中は賀州三ヶ寺とは決別し、中央と融和したため、独自の自治が認められた。  
 こうして、1546年には金沢に軍事化された要塞寺院として尾山御坊が建立され、本願寺中央支配の拠点となる。これにより、革命体制は地方自治から一種の中央集権に取って代わり、北陸全体への支配権拡大を目指し、朝倉氏や上杉氏ら周辺地域の有力大名をしばしば打ち破る勢いを見せた。  
 このような支配構造の変遷により、一向宗革命は、親鸞子孫による世襲に基づく本願寺を寺院領主とするある種の封建支配に収斂したため、民衆革命としての性格は後退し、民主主義とは遠いものとして確定していったと言える。

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