ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第49回)

2023-02-24 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

核兵器科学の発達
 日本の広島・長崎への原爆の実戦使用は世界に衝撃を与えたが、その衝撃効果は核兵器廃絶とは真逆に、核開発の拡大的連鎖反応をもたらし、世界への核兵器の拡散を結果した。
 まず連合国内でマンハッタン計画から外されていたソ連が計画のインサイダーからの漏洩情報を利用して核開発を急ぎ、1949年に核実験を成功させた。さらに連合国のイギリスやフランスも続き、東側陣営では中国も1964年に核実験に成功、結果として国際連合の五大国すべてが公認の核兵器保有国となった。
 一方、核兵器の先発国となったアメリカでは戦後、原子爆弾を上回る爆発力を有する核爆弾の研究開発が進められ、マンハッタン計画にも参加したアメリカの化学者ハロルド・ユーリー(1934年度ノーベル賞受賞者)が1931年に発見した重水素の核融合反応を利用した水素爆弾が開発された。
 ただし、この水素爆弾は純粋のものではなく、併用される原子爆弾を起爆しつつ、その核分裂反応で発生する放射線と超高温、超高圧を利用し、重水素や三重水素の核融合反応を誘発することにより、対日使用された原爆の数百倍もの爆発力を発揮させるという原理によるものであった。
 アメリカは1952年、南太平洋のエニウェトク環礁で人類初の水爆実験を実施、史上初の水爆の起爆実験に成功した。しかし、この水爆は大型過ぎて、実戦使用不能のものであったところ、1953年にはソ連がリチウムを利用した小型水素爆弾の実験に成功したと自称宣言した。
 これに触発され、アメリカはその翌1954年に、ビキニ環礁、エニウェトク環礁の二つの環礁で実施した一連の水爆実験により、実戦使用可能な小型水素爆弾の起爆に成功した。この時、日本の遠洋漁船第五福竜丸が被ばくする事故が起き、日本は原爆・水爆双方の被爆国となった。
 こうして、核兵器開発に奉仕する物理・化学の体系―核兵器科学―が確立されていく。1955年には科学の平和利用を訴えるラッセル‐アインシュタイン宣言が発せられたが、理念的な効果以上のものはなかった。
 核兵器の原理がひとまず確立された1960年代以降は、核兵器の一層の小型化と可動化、特にミサイルなどの弾道兵器に登載する核弾頭技術の開発に焦点が移ると、核兵器科学は精密工学の性格を帯びていく。

核兵器政治経済の確立
 核兵器科学が精密工学となれば、科学者のみならず、科学技術系資本の関与が不可欠となる。それにより、核兵器産業と言うべき新たな産業分野が誕生する。その先駆けとして、マンハッタン計画にも、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックのような技術系大手が参画していたことは先述した。
 その点、1961年にアメリカ陸軍出身のアイゼンハワー米大統領が退任演説で「軍産複合体」の形成に異例の警告を発したが、こうした複合体は核開発に特化したものではないとはいえ、核兵器のハイテク化は軍産複合体―大学を含めれば軍産学複合体―の存在を不可欠の基盤とする。
 アイゼンハワーは現役軍人時代には原爆の対日使用に否定的な進言を行ったが、戦後の米大統領としては米ソ冷戦下で核兵器による大量報復戦略を展開し、アメリカの核戦略の先駆けを成した張本人であり、まさしく軍産複合体の形成を助長するという言行不一致を示している。
 その後、1960年代以降、核兵器が可動的な弾頭型になるにつれて、ロッキードやボーイングのような航空産業の参入も求められ、軍産複合体は多様化していく。今日では、世界の20ほどの企業が核兵器製造企業として特定されているが、協力ないし下請け企業も含めればより多数に上るだろう。
 もっとも、ソ連やそれを引き継いだロシア、現在も社会主義を標榜する中国のような旧/現社会主義圏では、核兵器開発を政府系科学技術機関が担うことが多く、軍産は複合というより融合しているが、これも広い意味での軍産複合体に含めてよいだろう。
 こうした軍産複合体を上部構造的に統制しているのは言うまでもなく政治であるが、戦後の国際政治は冷戦下ではもちろん、冷戦終結後も、核兵器の抑止力を安全保障の究極的な担保としている現実に変わりなく、核廃絶は理念にとどまっている。
 その意味で、第二次大戦後の世界秩序そのものが言わば核兵器政治経済によって担保されていると言って過言でないが、その原理的な基盤となっているのは「死の科学」としての核兵器科学である。その是非はともかく、核兵器科学は近代科学の集大成的な結晶でもあり、現代科学の最先端の一端を成していると言える。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第48回)

2023-02-22 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

マンハッタン計画と死の科学
 ドイツと日本でも極秘の原爆開発計画が進められる中、連合国側も1942年からアメリカ、イギリスにカナダも加わった英語圏三国による共同開発計画に着手する。これが、いわゆるマンハッタン計画である。
 その契機となったのは先述のシラード‐アインシュタインのローズヴェルト米大統領宛て書簡だったと言われるが、この書簡自体は核分裂反応を応用した原子爆弾の製造可能性とナチスドイツによる先行開発の危険性を指摘したまでで、直接に原爆開発を促す内容ではなかった。
 ローズヴェルトも当初は積極的な関心を示さず、予備的な研究を指示したのみであったが、戦況が深まった1942年になって原爆開発計画を正式に承認したことで、具体的な開発計画が始動する。
 その拠点となったのは米陸軍であるが、ドイツや日本の計画とは異なり、科学者や研究機関、さらには技術系企業の総動員的な協力態勢が敷かれたことが計画を成功に導いた。中でも、科学者の中心人物は理論物理学者ロバート・オッペンハイマーであった。
 彼はマンハッタン計画のために新設された極秘の連邦研究機関ロスアラモス国立研究所の初代所長として、まさに計画の中心にあったため、アメリカにおける「原爆の父」と称される人物である。
 それ以外にも、計画にはドイツからの亡命者を含む多国籍の科学者のほか、シカゴ大学やカリフォルニア大学などの著名大学、さらにはゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の技術系大手企業も参画した20億ドル近い資金を投入しての一大プロジェクトであった。
 こうして短期間で実戦使用可能な原子爆弾の製造に至ったマンハッタン計画とは、純粋に科学的な探求を離れ、効率的な大量殺戮を可能にする新型爆弾の開発にのみ特化した「死の科学」と呼ぶべき、科学の歴史においても異状な企てであった。
 このようなことが倫理的な検討も躊躇もなしに遂行された背景として当時の第二次世界大戦の戦況があったことは明らかであり、仮に第二次大戦なかりせば、おそらく原子爆弾は理論上の可能性にとどまっていたであろう。
 そうした「死の科学」への反省は戦後に現れ、中心人物であったオッペンハイマーはやがて反核の立場を鮮明にしたため、1950年代のアメリカ連邦議会の赤狩りキャンペーンで槍玉に上げられ、根拠のない対ソ連スパイ疑惑を理由に公職追放処分となった。
 一方、アインシュタインは計画には直接参加していなかったが、元来平和主義者であった彼は戦後、核廃絶運動に身を投じ、最晩年の1955年には哲学者・数学者のバートランド・ラッセルと共同で核廃絶や科学の平和利用を訴えるラッセル‐アインシュタイン宣言を発した。

原爆開発の成功と初の実戦使用
 計画の渦中からも、原子爆弾の実戦使用への科学者の異議がなかったわけではない。1945年3月には、ドイツの核開発が進展していないことが確証されたことを踏まえ、自身もマンハッタン計画に協力していたジェームス・フランクを中心とするシカゴ大学の科学者が原爆の無警告使用に反対する提言を行った(フランク報告)。
 しかし、これとて、主として戦後の厳重な核兵器管理体制の必要を指摘し、原爆の無警告使用に反対したまでで(有警告使用には反対しない)、大戦渦中という大状況ではマンハッタン計画の歯止めとはならなかった。
 当時の科学技術の英知を結集した計画は、1945年7月、原子爆弾の実証実験を成功させる。ニューメキシコ州で実施されたトリニティ実験と呼ばれるこの実験は、実験室での核分裂実験とは根本的に異なり、人類史上初めて核爆弾の起爆に成功したいわゆる核実験の先駆として、科学技術史上の画期となった。
 試されたのは爆縮型プルトニウム原子爆弾と呼ばれるもので、後に長崎に投下された「ファットマン」の直接的な原型となるものであった。爆縮は中性子爆弾が早発的に爆発して出力が減殺されることを防止するべく、プルトニウムの密度を高めて臨界に到達させる新たな技術であった。
 この核実験の成功は引き続き、実戦使用への道を開いた。ローズヴェルト急死を経て成立したトルーマン新政権は、フランク報告をも無視して原子爆弾の対日無警告使用を決断した。こうして実現したのが周知のとおり、1945年8月の広島、長崎への連続的原爆投下であった。
 トリニティ実験の翌月という短期での実戦使用から見て、これには実戦での使用ならぬ「試用」というそれ自体に実験的な狙いもあったと推測できる。そこには、おそらく新兵器の効果を早速に試したい軍部の戦略的な意向も働いていたことは想像に難くない。
 さらに、軍部内でも抵抗を続ける日本を降伏させるうえで原爆使用は無用との意見もあった中で原爆投下が強行されたのは、連合国内の信頼できない同盟国としてマンハッタン計画から外されていたソ連向けのデモンストレーションという政治的狙いもあったであろう。
 こうした軍事的・政治的判断はもはや科学の手の届かない領域であるが、「死の科学」に手を着けた時点で、科学はすでに一線を越えていたと言える。原爆の使用を許さないためには、たとえ世界大戦という特殊状況下にあっても、そもそもそうした科学理論の非人道的な応用を自らに禁ずる必要があったのである。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第47回)

2023-02-20 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

核兵器開発の萌芽
 核分裂反応を応用した原子爆弾の開発に関して先行したのは、シラードとアインシュタインが懸念していたように、果たして核分裂反応の発見地であったナチスドイツである。
 ドイツ国防軍は1939年には、全国の優れた物理学者を招集して、原子爆弾の開発可能性について討議させた。その理論的な中心に立ったのは、1932年度ノーベル物理学賞受賞者ヴェルナー・ハイゼンベルクであった。
 しかし、ヒトラーは原爆開発に関心を示さず、原理的な初期研究に必要な研究費を所管官庁の科学・教育・国民教化省が拠出しないなど冷遇され、頓挫しかけた。最終的に、ドイツの原爆開発計画が本格始動するのは、敗色が見え始めた末期の1943年のことであった。
 こうしたドイツの核開発計画チームはウランクラブと呼ばれ、開発の実践的な的な中心に立ったのは、原子核の結合エネルギーの質量公式ベーテ‐ヴァイツゼッカーの公式に名を残す物理学者カール・フォン・ヴァイツゼッカーであった。
 これは言わばドイツ版マンハッタン計画と言えるものであったが、ナチス体制下では、ユダヤ人追放政策のあおりで、アインシュタインをはじめ、ユダヤ系科学者が国外へ亡命を強いられていたため(拙稿)、開発計画に参加する科学者は限られており、開発チームは人材不足であった。
 そのうえ、ヒトラーは最後まで原子爆弾に積極的な関心を示さず、在来兵器の革新によって勝利できると信じていたことから、ドイツの開発は初動段階で終わった。しかし、連合軍側はドイツによる核開発を深刻に懸念し、ドイツの研究状況の査察を目的とする英米軍合同の侵攻作戦(アルソス・ミッション)を実行した。
 その結果、ヴァイツゼッカーらの研究者を拘束し、研究資料の押収にも成功したが、精査してみると、ドイツの核開発はほとんど進んでおらず、原爆を実戦使用できる段階にないことも判明したのである。
 一方、ドイツと枢軸同盟を組んでいた日本の状況はと言えば、海軍と陸軍の双方でそれぞれF研究、二号研究と暗号名を冠された原爆開発計画が1940年代初頭から進行していた。ただ、海軍には十分な人材も実験設備も欠いており、計画の中心は陸軍の二号研究に収斂されていった。
 二号研究は陸軍系とはいえ、実質上は理化学研究所を拠点に仁科芳雄研究室が中心となって進められた軍民共同研究であった。時期的に、この研究は連合軍側のマンハッタン計画とほぼ並行的に進められていった。
 しかし、研究が原爆の製造に必要なウラン235の分離実験段階まで進んだところで、1945年の東京大空襲により重要な実験器具が焼失したため、研究は続行不能となり、同年7月までに両計画ともに打ち切りとなった。
 皮肉にも、その直後の同年8月、マンハッタン計画に基づき先行して原爆開発に成功していた連合軍によって、広島及び長崎に原子爆弾が投下されることになる。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第46回)

2023-02-17 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

核物理学の軍事化への道
 19世紀末に台頭し、20世紀前半に大きく発展した物理学の新たな潮流である核物理学自体は物理現象を原子レベルでよりミクロに考察しようとする純粋に知的な探求の結果であり、本来的に軍事と結びついていたわけではなかった。
 しかし、1933年にはアメリカの物理学者レオ・シラードが中性子を介した核連鎖反応という現象を構想し、これを新たな高性能爆弾に応用できる可能性を示唆していた。シラードは、核連鎖反応の構想を自ら特許化している。
 ただ、シラードの構想は言わば理論予想の段階で、実証されていなかったところ、1938年に核分裂反応という新たな物理現象が発見されたことは、戦争に向かう時代状況もあり、早々に核物理学が軍事と結びつく契機を作った。
 核分裂反応は、原子核が分裂し、同程度の質量数を有する2個以上の原子核に分裂する核反応であり、この現象は物理学者ではなく、オットー・ハーン(1944年度ノーベル化学者受賞者)ら数人のドイツ人化学者の共同研究によって発見された。
 これに先立ち、イタリアの物理学者エンリコ・フェルミはウランに中性子を照射すると多数の放射性元素を生成することを実証し、1938年ノーベル物理学賞を受賞していたが、フェルミはその現象を充分解明できていなかったところ、ドイツ人の化学者グループが核分裂現象として実証したのであった。核分裂は一種の化学反応でもあるため、化学者に分があったのであろう。
 この画期的な結果は早速海を越えてアメリカに伝わり、コロンビア大学を中心にさらなる実証実験が実施され、確立された物理理論となった。また、日本の理化学研究所でも、日本の原子物理学の先覚者である仁科芳雄と化学者の木村健二郎の実験により、核分裂連鎖反応が確認された。
 このような連鎖反応を一挙爆発的に発生させれば原子爆弾となり、厳重に制御しつつ漸次的に進行させれば原子炉となるというように、核分裂連鎖反応は軍用・民生用いずれにも応用範囲の広い物理現象である。
 こうした物理学上の革新が再び世界大戦の足音が近づく戦間期になされたことは、科学にとっては不幸なことであった。実際、核分裂反応が最初に発見された1938年のドイツでは、ナチスがすでに権力を固め、軍備強化を急いでいた時であった。
 翌年、ドイツがポーランドに侵攻し大規模な戦争が不可避となると、核物理学者たちは、シラードが先駆的に構想したように核分裂反応が兵器製造に利用されることを懸念して、核物理学の研究結果の公表を自粛するようになった。
 一方、共にユダヤ系であったシラードとアインシュタインは、ナチスによる核兵器開発が先行することを恐れ、時のアメリカのローズヴェルト大統領に対し、ドイツが核兵器開発を進める可能性を警告する書簡を送り、注意を喚起した。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第45回)

2023-02-10 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛

19世紀末以降における物理学の発達、中でも放射線の発見に始まり、原子のようなミクロな物質構成要素の解析に立ち入る核物理学の発達は、その当事者の多くがノーベル賞受賞者となる画期的研究成果とともに、時の国際情勢に影響されて、軍事科学における革新をもたらした。とりわけ、第二次世界大戦で原子爆弾が開発・実戦使用されたことのインパクトは決定的であり、以後、東西冷戦という新たな国際情勢の中、アメリカ、ソヴィエトを中心とした諸国による核兵器の研究開発競争が激化していった。当然、それには物理学、広くは科学の寄与があり、「核兵器科学」と呼ぶべき軍事科学の特殊分野が誕生したと言える。それは科学が効率的な大量殺戮に奉仕するという科学の歴史においても異状な「死の科学」の時代を画することとなった。


核物理学の誕生
 ニュートン以来発達を続けた近代物理学は当初、力学を中心にマクロの物理現象の数理的な解明に中心が置かれていたが、19世紀末に放射線という目に見えない物理現象が発見されて以来、20世紀前半にかけて、不可視的なミクロの物理現象の解明が進んだ。
 放射線の発見者はフランスの物理化学者アンリ・ベクレルであったが、ベクレルと同時に1903年度ノーベル物理学賞を受賞した同じくフランスの物理化学者学者ピエールとマリーのキュリー夫妻が放射性元素ポロニウムとラジウムを発見したことは、物理学の歴史を塗り替えることとなった。
 放射性元素の発見はそれらが放射線の放出を伴う放射性崩壊により別の元素に変化し得る性質(放射能)を有することを明らかにしたが、物質が帯有するそうした新たなエネルギーの発見は物質を原子レベルで稠密に解明する原子核物理学の誕生と発展を触発した。
 キュリー夫妻もそうした核物理学の先駆的な功労者であったが、より直接に核物理学(または原子物理学)の祖と言えるのは、イギリスの物理化学者アーネスト・ラザフォードである。彼は理論にとどまらない実証的な実験物理学者として、原子の中心部を構成し、質量を左右する原子核を発見し、1908年度ノーベル化学賞を受賞した。
 さらに、ラザフォードの理論予想に基づき、弟子の物理学者ジェームズ・チャドウィックが陽子とともに原子核を構成する中性子の存在を発見した。この中性子こそは原子核の連鎖反応を利用した原子爆弾の原理的な基礎を成すもので、その発見は直接に核兵器科学の誕生につながる。
 実際、1935年度ノーベル物理学賞受賞者でもあるチャドウィックは後に西側の原爆開発計画マンハッタン計画にもイギリス代表として関わっており、原爆の祖の一人ともなった人物である。
 とはいえ、1930年代以前の核物理学はまだ純粋の科学研究の域にとどまっており、軍事利用の兆候は見られなかった。それが急速に軍事利用へと転化していく背景には、二つの大戦の戦間期の不穏な国際情勢が決定的に関わっていた。

コメント

日本共産党―「孤高の党」で結構

2023-02-10 | 時評
日本共産党内から、党首選挙制や自衛隊合憲論、日米安保条約容認論等を提起した古参党員(松竹伸幸氏)が除名処分となった。こうした党内異論分子に対する即時除名は、日本に限らず、世界の共産党の結党以来の慣行であるから驚くに当たらない。
 
ただ、日本共産党にあっては、従来は旧ソ連や中国の動向を絡めた党のイデオロギー的な路線対立を巡っての除名が多かったところ、今回は様相が異なる。
 
松竹氏が提起した問題は、いずれも共産党が「普通の党」に転換するかどうかという党の存亡にも関わる事柄である。現在のところ、「たった一人の反乱」のように見えるが、今般の除名騒動は党内外で尾を引き、今後の国政選挙にも影響するかもしれない。
 
現在、日本共産党が革命による共産主義社会の実現という本来的な目標をもはや棚上げして「発達した資本主義社会」の議会制度に同化適応し、共産主義社会をある種のロマン的理想郷としてしか想起しない中、党の立ち位置も揺れているのは確かである。すなわち、「孤高の党」を貫くか、それとも「普通の党」に転換するか、である。
 
近年の「野党連合」戦略は、「孤高の党」を一歩抜け出して、おずおずとではあるが、「普通の党」に向きを変えようとする新戦略とも言えるが、完全に「普通」化したわけではないため、共産党と「連合」相手党双方にぎごちない躊躇があり、中途半端なものにとどまっている。
 
その点、筆者の誤解でなければ、松竹氏の提起は、とりわけ溝の深い安全保障分野について、共産党の側が「連合」相手党に大幅譲歩し、自衛隊も日米安保も容認しつつ「普通の党」となって他の野党との「連合」をしやすくしようというもので、このような党内異論は「野党連合」という党自身による新たな取り組みとその不調から、ある程度予見された副産物でもあろう。
 
こうした問題に関する私見は「孤高の党」で結構、というものである。「野党連合」も無用である。そうした政権獲得への欲望があらゆる政治組織を変節・腐敗させることは世界の経験則であり、晴れて政権党にのし上がった海外の共産党を見ても、そのことは明瞭である。
 
まして、基本政策綱領の変更は、かつて日本社会党が辿った道と同様、従来の非武装平和主義路線を放棄して現実容認に転じる道であり、その結果は実質的な党の消滅あるいは他党への吸収である。
 
革命という歌を忘れたカナリアとなった共産党が資本主義社会でどうにか生き残るには、他党とは一線を画す愚直な平和と福祉の党としての存続以外に道はないだろう。「現実主義で躍進する」は不満分子が陥りやすい幻想である。
 
ただし、党首職(日本共産党では中央委員会幹部会委員長)の在任期間はいかにも長すぎる。日本共産党に限らず、世界の共産党の多くはレーニンが定めた民主集中制という名の中央集権指導制の原理を今も固守しており、分派活動を厳禁するため、派閥形成につながりやすい党首選挙は行わず、党首の選出は事実上中央指導部による決定によるのが通例である。
 
そのため、党首職の在任期間が長期化しがちであり(しばしば終身)、志位和夫委員長もすでに在任20年を越えている。その点で、他のどの政党よりも世代交代―民主主義の要の一つ―を欠いた党運営がなされていることは、党がいかに反駁しようと否定のしようがない。*さらに言えば、党内異論分子排除の慣行も異論に対して開かれた民主的党運営とは言い難く、意見の複数性を容認した旧ソ連共産党末期のゴルバチョフ指導部より後退的である。
 
選挙制はともかく、委員長職に厳格な任期制限を導入し、一定期間を経て世代交代をしていかなければ、党の硬直化は避け難いだろう。そのことは、国政選挙の結果にも影響してくるに違いない。今般の騒動が議席ゼロへの道とならないか、老婆心ながら憂慮する。
 
 
 
※筆者はコミュニストながら、共産党を含め、国内外のいかなる既存政党・政治団体にも属していないので、本稿で示したのは完全なるアウトサイダーとしての管見である。参考拙稿:牙を抜いた共産党
コメント

近代科学の政治経済史(連載第44回)

2023-02-06 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

軍事科学への傾斜
 ソヴィエト科学において国策として最も偏重されたのは、軍事科学であった。軍事科学はスターリン時代以来、西側とりわけアメリカに追いつき、追い越すことをひらすらに追求する富国強兵的な国策の中で、軍事力の強化を支える科学的基盤であった。
 そうしたソヴィエト軍事科学の本格的な始動は、第二次大戦中/後の核兵器、特に原子爆弾の開発からである。知られているように、原爆開発は戦前からナチスドイツや軍国日本でも着手されていたが、いち早く実用化し、実戦使用したのはアメリカであった。
 これに対して、ソ連の原爆開発も第二次大戦中に始まるとはいえ、当時のソヴィエト科学の水準では対処できず完全に出遅れていたところ、アメリカが主導した原爆開発計画(マンハッタン計画)のインサイダーから漏洩された情報をもとに、核物理学者イーゴリ・クルチャトフが主導して開発を進め、1949年の核実験の成功を導いた。
 こうしたソヴィエト原爆計画の総指揮を執っていたのはスターリンの腹心で、秘密警察長官として恐怖政治の中心にあったラヴレンチー・ベリヤであった。ベリヤは彼らしいやり方で、複数の科学者チームに秘密の同一任務を割り当て、スパイの監視のもとに競合させる手法で開発計画をスピードアップさせた。
 1949年核実験に成功した勢いでソ連は水素爆弾の開発に進み、1953年にはアメリカに先駆けて世界初の実戦用水爆実験に成功する。水爆開発ではクルチャトフの下で原爆開発に従事していた若手の物理学者アンドレイ・サハロフが寄与し、「水爆の父」の異名を得た。
 こうして核物理学を基盤とする軍事科学はソヴィエト科学の最先端となったが、続いて、ソ連は宇宙開発に乗り出していく。嚆矢は世界初となる無人人工衛星の開発・打ち上げ計画であるスプートニク計画であった。
 その最初の成果であるスプートニク1号は、1957年10月に打ち上げに成功した。このことはアメリカにショックを与え、文化面にも及ぶ「スプートニクショック」なる社会現象を惹起したが、対抗上アメリカも宇宙開発に注力し、以後、世界はいわゆる宇宙開発競争の時代に入っていく。
 そうした中、ソ連は宇宙船ボストーク1号を開発し、1961年4月に宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンを擁して人類史上初の有人大気圏外宇宙飛行を成功させた。これもアメリカに先行し、スプートニクに次ぐショックを与えることになった。
 こうした相次ぐ画期的成功により、宇宙科学はソヴィエト科学の最先端分野となるが、ソヴィエト宇宙科学は軍事目的に奉仕する軍事科学の一環でもあり、総じてソ連における軍事科学の優位性が確立されていく。
 しかし、1960年代後半以降、ソ連はいわゆる停滞の時代に入り、アメリカが人類史上初の月面着陸を成功させた1969年以降は宇宙科学分野でもアメリカの優位性が高まり、ソ連は次第に閉塞していく。
 こうした閉塞状況は情報科学分野での停滞と軌を一にしており、進取の気性が見られたフルシチョフが失権し、現状維持的なブレジネフ政権が長期化する中で、共産党指導部が科学的な技術革新に関心を失ったことが大きい。
 とはいえ、ソヴィエト軍事科学はソ連邦解体まで相当な高水準を維持し、冷戦時代の軍拡競争をアメリカとともに先導したことは確かであり、中でも次章で扱う核兵器、広くは大量破壊兵器の開発と科学を結びつける役割を果たしたのである。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第43回)

2023-02-03 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

情報科学の進展と政治的停滞
 ソ連における情報科学の研究開発は、第二次大戦後の冷戦構造の中で、西側に伍していくうえで科学技術の進歩が不可欠とみなしていたスターリン政権の国策に基づいて本格的に始動する。1948年にソ連科学アカデミー精密機械・コンピュータ工学研究所が設立され、本格的な情報科学研究の拠点となった。
 同年には、アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーが提唱し、今日のサイバースペースの基盤ともなっている生体‐機械間の相互的な情報科学理論サイバネティクスが世界で注目を集めたが、ソ連では他の西側所産の科学理論と同様、サイバネティクスも「ブルジョワ疑似科学」などとしていったん政治的に排斥された。
 しかし、情報科学の基礎理論としてのサイバネティクスはソ連でも実利的に受容され、1950年代以降、ソ連独自のコンピュータ開発が進んでいく。その嚆矢は、ウクライナ科学アカデミーのキエフ電気技術研究所を率いたセルゲイ・レベデフが開発した集積回路を持たない高速コンピューターБЭСМであった。
 БЭСМの集大成版となった半導体トランジスタによる汎用スーパーコンピュータБЭСМ6は1968年から20年近くにわたり生産され、軍用・民生用など様々な場面で長く活用された。
 БЭСМシリーズの開発をリードしたレべデフは1973年に死去したが、アメリカ電気電子学会コンピュータソサエティがコンピュータ業界における創造と活力の持続に寄与した人士を顕彰するために創設した賞であるコンピュータパイオニア賞(CPA)をソ連解体後の1996年に追贈された。
 ちなみに、同年にレべデフとともにCPAを同時追贈されたアレクセイ・リャプノフはソ連におけるサイバネティクスの浸透とプログラミング言語の第一人者としてリードした数学者・情報科学者であった。
 一方、ソ連科学アカデミーエネルギー研究所でも、全論理回路を半導体で作製したM-1コンピュータが開発されたほか、小型パーソナル・コンピュータとしては、キエフのサイバネティクス研究所が汎用性の高いミールのシリーズを開発した。
 かくして、ソ連の情報科学は1960年代にかけて大きく進歩し、当時この分野ではアメリカと並ぶか、むしろ上回る世界最先端に到達していたと見られるが、70年代以降、停滞を見せ始める。
 その要因として、ソ連では情報科学も軍事目的と密接に結びついており、機密性が強く、国際的に公開・利用されることがなかったこと、国策として国立の科学アカデミー系研究所で開発されたため、継続的な量産を予定せず、ビットや周辺機器等のスタンダードが規格化されなかったことから、更新性や互換性に欠けたことがある。
 そうした技術的な限界に加え、(おそらくは財政難から)共産党指導部が新規のコンピュータ開発を中止し、西側のコンピュータ、とりわけ米国IBM社製品の海賊版に依存するという安易な便法に走ったことで、以後の情報科学の進展が停滞したことが決定的であった。これもまた、政治と一体化されたソヴィエト科学の限界と言える。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第42回)

2023-02-01 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

物理学・化学の政治化の抑制
 ソヴィエト科学に対する政治イデオロギー統制は、自然科学の中でも最も基礎的な物理学と化学の分野にも及んでいった。ここでも、西側で提唱されたいくつかの有力な基礎理論が「観念論」として排斥されることとなった。
 物理学分野では、アインシュタインの相対性理論や量子力学など当時の物理学界における最先端の学説が槍玉に上げられた。中でも、アインシュタイン理論は中心的な標的とされ、アインシュタイン派学者への攻撃が行われた。
 実際、1940年代末には体制が認証する公式物理学理論の採択を目的に、物理学者の全国会議が企画された。そこでは物理学における観念論を排撃し、弁証法的唯物論に適合する物理学理論を構築すると意気込まれていたが、当時ソ連が注力していた原子爆弾の開発に際して相対性理論などの放棄は得策でないことが指摘され、会議は中止となった。
 このような経緯は、ソ連の軍拡政策に奉仕する軍事科学の優位性が戦後確立されていく中で、軍事科学の基礎理論としても有用な物理学のイデオロギー統制が内在的に抑制された事象として注目される。
 ちなみに、1940年代当時、ソ連の原爆開発を理論面でリードしていたのは今日もロシアの中心的な原子力研究機関として存続するクルチャトフ研究所に名を残す核物理学者イーゴリ・クルチャトフであったが、物理学における行き過ぎたイデオロギー統制にブレーキがかかったのも、クルチャトフの進言によるものであった。
 ちなみに、アインシュタインの相対性理論を修正する理論的な試みとして、スターリン没後、アナトリー・ログノフが一般相対性理論の代替案として相対論的重力理論を提唱したが、これは体制イデオロギーではなく、個人的な学説として提示された。ただし、国際的な認知を受けた学説とはなっていない。
 一方、化学の分野では、より明確なイデオロギー統制と迫害が行われた。ここでは特に量子力学を化学結合現象の説明に応用するライナス・ポーリング(1954年度ノーベル賞受賞者)の提唱にかかる共鳴理論がブルジョワ的観念論として槍玉に上がった。
 1951年には有機化学に関する全国会議が開催され、共鳴理論を「ブルジョワ疑似科学」と弾劾したが、これはあたかも基礎医学のイデオロギー統制を明確にした前年のパヴロフ会議の化学版であり、実際、生物学・基礎医学におけるイデオロギー統制とのリンクが意識されていた。
 とはいえ、有機化学は重化学工業を重視するソ連の産業政策に奉仕する実用科学でもあり、迫害がさほど広範囲に及ぶことはなかったが、化学のような基礎科学へのイデオロギー統制はソヴィエト科学の質の低下と立ち遅れの要因となった。

コメント