ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第99回)

2020-04-29 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(5)第一共和政の崩壊過程
 第一次世界大戦への参戦は、発足して間もないポルトガル第一共和政にとって、高い代償を支払わせることとなる。戦費調達は国家財政を疲弊させたうえ、国民には徴兵の負担がのしかかり、兵士を送り出す農村の荒廃、凶作が重なり、国民生活は窮乏した。特に農村では、暴動が相次ぐ。
 こうした社会不安は民主党内閣への不満を高め、その機に乗じた少壮軍人シドニオ・パイシュ陸軍少佐が1917年、クーデターで政権を奪取した。パイシュは革命以来雌伏していた王党派から強い支持を集めたばかりか、民主党に反発する労働組合など、翼賛的な支持基盤のもとに、翌年1918年に初の直接選挙による大統領に就任した。
 しかし、これは民主化の進展というより、全体主義ポピュリズムの動きであり、後のファシズムの予行演習のようなものであった。パイシュ新大統領は、選挙で得た正統性を旗印に権威主義独裁政治を展開し、「国王大統領」の異名を取った。
 しかし、このような政治反動には革命のバネが働き、軍内部の反乱を機に、全国的に反政府行動が拡大する中、18年末、パイシュは一人の左派活動家の手によりあっけなく暗殺された。明けて19年1月、王党派が南北で反乱を起こし、王政復古宣言を行うが、こうした復古反動にも革命のバネが働き、反乱は短期で鎮圧された。
 かくして民主党内閣が復活するのであるが、パイシュ政権は短命に終わりながら、二つの点で第一共和政の終わりの始まりを画していた。一つは、革命で退けられていたカトリックの復権であり、もう一つは軍人、広くは軍部の政治介入である。後者は、民主党自身が権力基盤強化のため、軍人に依存したことで、助長された面もある。
 さらに、王党派の復権は成らなかったとはいえ、パイシュ政権以降、ポルトガルの政治座標軸が保守・右傾化したことは否めず、1919年10月には共和党派生政党のうち民主党と競合的な鼎立関係を形成していた改進党と統一党が合併し、共和主義保守政党としての自由党が結党された。
 こうした中、第一次世界大戦終結後の1920年代は、右派軍人による反乱、クーデターが相次ぐことになった。幾度かの失敗の後、1926年5月、大戦の英雄でもあるマヌエル・ゴメシュ・ダ・コスタ将軍を担いだ軍事クーデターが成功し、第一共和政は崩壊したのであった。
 このクーデターは第一共和政末期の混乱に嫌気がさしていた左派をさえ含めた国民各層から支持を受け、反対行動は起きなかった。軍政内部の権力闘争から7月には第二次クーデターにより、アントニオ・オスカル・カルモナ将軍が政権を掌握したが、大勢に変わりはなかった。
 軍事政権大統領に就任したカルモナが財政再建のため起用したのが、経済学者出身のアントニオ・サラザールであったが、彼は単にテクノクラートのお雇い大臣にとどまらず、首相就任の翌年、1933年からカトリック保守主義に基づく独自のファシズム思想から「エシュタド・ノヴォ」(新国家)の樹立を宣言し、病気で罷免された68年まで首相の座を独占して権威主義独裁体制を率いることになる(その特徴については、拙稿参照)。
 こうして、1910年共和革命によって成立した第一共和政は民主的共和体制を確立することに失敗した結果、軍部の台頭を許し、最終的にファシズム体制に転化していったと言える。その契機となった第一次世界大戦は、同じ連合国陣営に付いたロシアの場合とは逆に、革命を反転・反動化させる触媒として機能した。

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近代革命の社会力学(連載第98回)

2020-04-28 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(4)革命的政策展開と共和党の分解
 1910年10月革命で成立した第一共和政で、前面に出てきたのは共和党である。臨時政府初代大統領に就任したのも、共和党重鎮で文学者のテオフィロ・ブラガであった。臨時政府は旧王制との革命的断絶を強調するべく、国旗・国歌から通貨に至るまで、国の象徴を変更した。
 それだけにとどまらず、伝統的な国是であったカトリック教権主義との決別にも踏み込んだ。その具体化として、カトリック修道会の解散と財産没収が強行され、1911年には政教分離法の制定に至った。こうした精神面での革命は、当時国民の多数を占めた農民にとっては性急すぎ、革命の農村浸透を妨げる結果となった。
 政治的には、普通選挙制度が導入されながら、立候補者は共和党の指名を条件としたため、事実上の一党支配体制が形成された。その結果、新憲法に基づく議会の議員は中産階級中心となり、ブルジョワ支配の性格を強めた。このことは、当時新興の労働者階級と保守的な農民層の離反を招いた。
 労働者階級は革命直後から賃上げや時短を求めてストライキを起こし、12年にはゼネストを組織するほどの力量を示したが、革命政府はこれを弾圧し、反労働者階級の立場を鮮明にしていく。
 新憲法は議会中心主義を採り、大統領の任免も議会が行うこととされたため、大統領権限は弱く、議会共和制に近い形態であった。そのため、第一共和政の大統領は臨時政府初代のブラガを除けば、1926年の最終的な崩壊までに計八人を数えた。
 こうした不安定さは、共和党そのものの分裂によっても助長された。元来、共和党は共和主義という一点を共有する諸派の結集体であり、革命成就に際しては有効に機能したが、革命成就後、包括的なアンブレラ政党によく見られるように、速やかに分派活動が始まり、最終的には多数の派生政党に分解された。
 1913年の総選挙で、アフォンソ・コスタが指導する派生政党の民主党が勝利すると、農村部と軍の影響力を削ぐべく、非識字者(農民層に多かった)と現役軍人の選挙権を奪う法改正を行い、中産階級を支持基盤とする内閣を形成した。これによりブルジョワ民主政が確立されるかと思われた矢先、ポルトガル第一共和政は第一次世界大戦に直面する。
 世論が親英か親独かで二分される中、コスタは親英を打ち出すが、時の大統領マヌエル・デ・アリアガは1915年、コスタ内閣を反民主党内閣に建て替えた。対抗上、民主党はクーデターでこれを打倒したうえ、総選挙に勝利、最終的に連合国側で参戦したのである。

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近代革命の社会力学(連載第97回)

2020-04-27 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(3)10月5日革命への展開
 若いマヌエル2世国王の下、1909年にはポルトガルの内政は不安定を極め、急進的共和主義者は革命に動き出そうとしていた。特に、海軍に浸透した共和派は最も革命に積極的であった。しかし、王党派政府軍の警戒態勢も強く、革命の導火線はなかなかつかめなかった。
 そうした中、1910年、ブラジル大統領エルメス・ダ・フォンセカが国賓として訪問したことが一つの転機となる。フォンセカはブラガンサ朝親戚国ブラジルにおける共和革命の立役者で初代大統領となったデオドロ・ダ・ファンセカ元帥の甥に当たる人物である。
 ポルトガルの旧植民地ながら共和革命先発国となったブラジルの大統領の来訪は共和主義者を鼓舞し、10月1日に共和主義者による大規模なデモ行動を呼び起こした。これに加えて、重要な共和派理論指導者で医師でもあったミゲル・ボンバルダが10月3日に自身の患者に殺害されるというアクシデントが起きたことで、革命派の決起が促され、同日、海軍及び陸軍内の革命派が行動を起こした。
 ここで主導的役割を果たしたのは、アントニオ・マシャド・サントス少尉をリーダーとする海軍革命派であった。もっとも、決起の時点で政府軍7000人に対し、革命軍は海軍主体で2000人ほどと数的には劣勢であったが、政府軍側はおおむね士気が低く、小規模な戦闘は行われたものの、政府軍部隊の中には革命派に共鳴するものもあり、政府軍は精神的に劣勢であった。
 そうした中、事態を掌握できないマヌエル2世はリスボンを脱出して、西海岸の都市マフラへ避難した。国王が首都を捨て、さらに英領ジブラルタルへ亡命したことで、革命はほぼ帰趨を決し、10月5日、王政廃止と共和国の樹立が宣言された。蜂起からわずか二日の出来事であった。革命はほぼ軍部隊の同士討ち戦闘に収斂されたため、無血とはいかなかったが、公式には死者50人余りと記録されている。
 このように、ポルトガル共和革命において軍青年将校の役割が大きかった点では、軍長老のフォンセカが軍部をまとめてクーデターの形で決起したブラジルよりも、トルコにおける青年トルコ革命に近かったと言えるが、ポルトガルでは共和党の知識人政治家が背後にあり、革命成就後は彼らが中心となって第一共和政を運営していくことになる。

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貨幣経済史黒書(連載第35回)

2020-04-26 | 〆貨幣経済史黒書

File34:世界大不況―住宅ローン地獄

 21世紀の世界経済は、インターネット・バブルの崩壊で始まった。NASDAQ市場は暴落し、その影響から米国GDPも連続のマイナス成長となり、情報産業を中心に失業率も増加した。これは、アメリカ経済にとっては、20世紀最後の繁栄期となった1990年代の総決算でもあった。
 アメリカにとって、1990年代は冷戦終結と長年のライバル・ソ連の解体を受けて、一人勝ちの様相を呈する繁栄期であり、その状況は、やはり繁栄の時代であった1920年代と類似していた。90年代中間期の96年末には、当時のグリーンスパン連邦準備制度理事会議長が株価の異様な投機を指して「根拠なき熱狂」と警戒感を示すも、対策は取らず、漫然と金融緩和を進めた。
 この時代の熱狂を支えた一つの慣習的制度が、いわゆるシャドウ・バンキング・システム(影の銀行システム)である。これは厳格な監督規制下にある銀行以外のヘッジファンドや投資会社のような機関投資家が実質的な与信仲介を行うシステムであり、2008年にアメリカ史上最大級の経営破綻を来たし、世界大不況の引き金となる投資銀行リーマン・ブラザーズも、そうしたシャドウ・バンキング・システムの一翼を担う存在であった。
 これとも深く関連するもう一つの慣習的制度は、サブプライム・ローンと呼ばれる一種の住宅ローンであった。貨幣経済の恐怖という点では、こちらのほうがシャドウ・バンキングより深刻である。というのも、これは普通の人の暮らしを直撃する問題だからである。
 サブプライム・ローンはその名の通り、上層中産階級を含む裕福で与信力の高いプライム層の下に位置する下層中産階級、すなわちサブプライム層に向けた住宅ローンの一種である。そのメリットは、伝統的な住宅ローンでは与信力審査にパスしないレベルの人でも、簡単な審査で住宅ローンを受けられ、住宅を購入できる点である。
 これだけですでにハイリスクであることが見て取れる仕組みであるが、そのうえにサブプライム・ローンは担保証券、さらには債務担保証券として証券化され、投資家向けに販売されることで、単なるローンから金融商品に変身する。
 希望的観測としては、住宅価格の上昇局面では住宅を転売することによってローンを返済し、お釣りとして差益を得ることさえ可能となるので、ハイリスクとはいえ、住宅購入者にとっても旨味のある一種の金融商品となる。
 しかし、これはまさに希望的観測であり、住宅価格が永久に上昇を続けることはあり得ない。アメリカでは、2001年から06年にかけてのバブル的な住宅価格上昇局面が07年夏には終了し、下降局面に入った。これにより、サブプライム・ローンは一気に不良債権化した。当然、サブプライム・ローンを組み込んだ金融商品も連動して低価値化し、投資家による投げ売り、暴落現象が発生した。
 その過程で、サブプライム・ローン証券の販売を大々的に行っていたリーマン・ブラザースの損失が大きく、急速に経営状態が悪化、最終的には負債総額6000億ドル(約60兆円)という史上最大規模の倒産に至ったのであった。
 このリーマン・ショックを引き金としてグローバルな金融危機が招来され、ひいてはサブプライム・ローンのようなハイリスクなローンが認可されていない日本のような国にも波及する同時多発的な世界大不況に至ったことは、十年余りを経た現在でも記憶に新しく、各国とも未だその後遺症を抱えている状態である。
 サブプライム・ローンの発祥地アメリカでは、返済不能に陥り、住宅を差し押さえられ、住居を喪失してホームレスに転落するような人も相次ぎ、現在でもその状態から抜け出せていない人もいるほどである。波及的な不況で失業した人も同様である。
 そもそも住宅ローン破綻は、日本のように与信審査が比較的厳格な国でも発生しており、ここでは差し押さえにより年金頼みの老後生活が崩壊するという深刻な問題を生じさせている。
 元来、借金は、貨幣が見せる変幻自在の形態の中でも最も恐ろしく、富裕層をも破滅に追い込む形態であるが、与信力の低い人にも借金を抱えさせるサブプライム・ローンは、早晩破綻することが必然の安易な商品であった。しかし、その安易さゆえに時代のヒット商品にもなったという皮肉なパラドックスがある。
 なお、ここでは詳論しないが、世界大不況は世界恐慌に発展せずに収束したその過程で、各国は金融システム安定化のためになりふり構わぬ財政出動により債務を拡大させ、財政赤字を助長、間接的には引き続いて欧州債務危機のような新たな危機を招いた。今度は、言わば国庫のローン地獄である。

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共産法の体系(連載第28回)

2020-04-24 | 〆共産法の体系[新訂版]

第5章 市民法の体系

(5)財産権法②
 相続は通常親族間における財産権の承継であるから、市民権法に含まれる法律関係とも言えるが、共産主義的相続制度は親族間に限らず、人が死亡した場合の財産権の承継法として広く認められるので、市民権法ではなく、財産権法がこれをカバーする。
 資本主義的相続制度は、財産権を親族間(通常は親子間)で継承させることにより、財産の多寡に基づく社会階級制を助長する機能を果たしているが、共産主義的相続制度は、後に残された家族やパートナー(広い意味での遺族)の生活保障を目的とする制度となる。
 そうした共産主義的相続制度には、被相続人の意思表示にかかわりなく発生する法定相続と、生前の意思表示に基づいて発生する約定相続の二種がある。
 被相続人の生前の意志にかかわりなく発生する法定相続は、私有財産として留保される日常的な衣食住に関わる物品の家族間での承継を認め、遺族の生活の便宜及び安定を保証する制度であるので、相続の対象となるのは物権に限られ、債権・債務が相続されるのは、生前の公正証書遺言によって承継が指示されている場合だけである。
 法定相続人の範囲は被相続人と死亡時において同居していたパートナー及びその他の同居親族に限定される。如上のような相続制度の本旨からすれば、相続による生活保障が必要なのは通常この範囲内の同居親族だからである。
 また法定相続人が複数存在する場合の相続は均等割合での共有となる。この割合は被相続人の生前の意思表示によって変更することはできず、持分の変更・調整は事後に相続人間で行なうことができるにすぎない。これも、共産主義的相続の本旨が遺族の生活保障にあることからの帰結である。
 法定相続人以外の別居親族が財産を承継するためには、被相続人と予定相続人との合意に基づく約定相続による必要がある。約定相続は法定相続人が存在しない場合に限って認められる。なお、相続人以外の人(法人)の遺産を継承する場合は、遺言による贈与(遺贈)の方法による。
 約定相続において、被相続人は相続の対象財産や相続人の範囲、またその共有持分を自由に生前決定することができるが、必ず法的証明力のある証書(公正証書)によらなければならず、単なる口約束や私的に作成された遺言書によるものは無効である。

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共産法の体系(連載第27回)

2020-04-23 | 〆共産法の体系[新訂版]

第5章 市民法の体系

(4)財産権法①
 非貨幣経済社会を規律する共産主義的市民法において、財産権法は市民権法よりも比重を下げるが、無になるわけではない。財産権法の体系が大きく債権法と物権法とに分かれることも基本的に変わりないが、その内実は大きく異なる。
 中でも、債権法に属する契約法に関して、貨幣経済下では圧倒的に枢要な売買契約が貨幣経済を前提としない共産主義社会においては消失するため、その内実は一変することになる。
 売買契約の原型でもある交換契約は残存するが、それは金銭による売買に代わる物々交換の法的基礎を提供する。実際、共産主義社会では物々交換が復活するとともに、電子的システムを駆使した交換などその手段も多様化していくため、そうした多様な形態における物々交換取引の安全を保証するための規定が市民法に置かれることになる。
 一方、貸借型契約にあっては、有償の貸借契約である賃貸借契約が消失し、無償の使用貸借契約が基本型となる。使用貸借は多くの場合、慣習的な口約束の世界であるが、共産主義的財産権法においては口頭だけの使用貸借に法的効力は認められず、契約書面に基づく使用貸借に限って法的効力が付与される。
 また貨幣経済下では金銭の貸借関係のように同種同等の物を用立てて返還しなければならないために、しばしば破産など経済的悲劇の要因ともなってきた消費貸借契約という類型も廃される。
 以上に対して、物権法の分野では所有権の概念は維持されながらも、事実上の所持状態である占有権がより優先される。ただし、それは占有状態に所有権の存在が推定されるからではなく、占有そのものを固有の財産権として保障する趣意である。
 共産主義的所有権は、所有という絶対的な支配を内実とするものではなく、広義の占有権の中でも特にその掌握力が強いゆえに妨害排除を主張できる権利を指すにとどまるのである。従って、それは主として日常の衣食住に関わる物品について成立することになる。
 一方、貨幣経済下では金融手段として消費貸借契約と一体的に猛威を振るい、生活手段の喪失にもつながる抵当権・質権をはじめとする担保物権の制度も廃されるので、共産主義的財産権法における物権の種類は限られたものとなる。

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近代革命の社会力学(連載第96回)

2020-04-21 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(2)共和主義者の結集
 1910年ポルトガル共和革命は、その名の通り、共和主義者の結集体である共和党によって実現されたという点で非常に明快であった。ポルトガルにおける共和主義運動の歴史は古く、19世紀前半まで遡るが、近代的な政治勢力として結集したのは、ポルトガル共和党が結党された1876年のことである。
 共和党とは別に、欧州第一次連続革命時の急進自由主義派カルボナリ党の後継を称するグループも1896年に組織され、1908年の国王・王太子同時暗殺事件では中心的な役割を果たすことになるが、この新カルボナリ党とも言うべき系統は共和革命後の政権中枢からは排除されていくことになる。
 一方、共和党は革命後の初代大統領となる文学者テオフィロ・ブラガや第二代大統領となる法律家マヌエル・デ・アリアガなどの知識人を中心とする政党であったが、当時の王国議会にも進出し、新興の進歩的勢力として台頭した。それに伴い、共和主義は議会外にも勢力を広げたが、議会外勢力はともすれば急進的に暴発しやすい。
 事実、1891年に第二の都市ポルトで急進派共和主義者が暴動を起こすと、政府による共和主義者弾圧が強まり、選挙区改悪などを合わせた硬軟両様策により、共和党は1901年に議席を失い、議会外政党に追いやられた。結果として、議会は王党派勢力が独占することとなった。
 しかし、王党派も保守派と改革派に分裂していたうえ、時のカルロス1世は放漫財政により財政破綻を来すなどの失政で信頼を失っていた。そうした中で、前回も見たように、1908年、国王と王太子に対する暗殺事件が発生した。
 このテロを実行したのは共和党ではなく、新カルボナリ党であったと見られているが、事件の背後関係などの詳細については未解明な点が多い。共和主義陣営にとっても暗殺の時点で革命の準備はできておらず、事件は突発的な出来事にすぎなった。
 一方、国王と王太子の同時暗殺という前代未聞の危機に際して、当時の王朝はより強硬な措置で威信を回復するだけの力をもはや持ち合わせていなかった。王太子の死亡に伴って、現場に居合わせながら辛くも難を逃れた18歳の次王子マヌエル2世が即位したが、若い王は政治的妥協を目指すのが精一杯であった。
 その結果、共和党が再び議会政党として呼び戻され、1908年と10年の議会選挙で着実に議席を伸ばした。しかし、すでに共和党内では武力革命を目指す急進派が台頭しており、軍部内にも浸透し始めていたところであった。こうした地殻変動が1910年の一年に凝縮され、革命的蜂起へと発展する。

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近代革命の社会力学(連載第95回)

2020-04-20 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(1)概観
 欧州では、1871年のパリ・コミューン革命が無残な失敗に終わって以降、革命運動は20世紀にかけていったん冬の時代を迎えていた。その間、欧州各国では君主制の枠内で程度の差はあれ、立憲主義が浸透していき、立憲君主制(または立憲帝政)が標準モデルとして定着していく。
 その反面で、君主制を廃する共和革命にまで進む例は、パリ・コミューン以前に共和革命を経験していたフランスを除けば、なかった。そうした中、20世紀最初の10年は、立憲主義が脆弱な欧州の主要国のいくつかで共和革命が連続する潮流を見ることになる。その先駆けとなったのが、南欧ポルトガルにおける1910年10月の革命であった。
 ポルトガルでは、第一次欧州連続革命を契機に勃発した自由主義派と絶対主義派の内戦における自由主義派の勝利を経て、ドイツのザクセン-コーブルク-ゴータ家から婿を迎えたブラガンサ朝が継続し、19世紀後半には限定的な立憲君主制が現れていたが、低下した王権の下で大臣が独裁権を振るうような事態も起きていた。
 そうした中、1889年にはブラガンサ王家分家が独立して統治していたブラジル帝国で共和革命があり、廃皇帝ペドロ2世が亡命してくる一幕もあった。この海を越えた親戚国での革命はその時点で直接に影響することはなかったが、19世紀後半期に隆起していた共和主義運動に刺激を与えたことは間違いない。
 そのブラジル共和革命の年に即位したカルロス1世は共和主義者を弾圧し、親政を試みたが、放漫ゆえ財政破綻をきたし、社会経済を混乱させた挙句、1908年に王太子と共に共和主義テロリストによって暗殺された。これが革命への序曲となり、二年後の共和革命につながる。
 しかし、ポルトガル共和革命は民主主義確立への道とはならず、革命後、軍部の台頭を許すこととなり、最終的には1930年代に共和制の下でのファシズムの成立を誘発する。
 この体制が1970年代の民主化革命で改めて打倒されるまで延々と続いたため、ポルトガルは第二次世界大戦をはさみ、現時点で世界最長のファシスト独裁体制に囚われてしまうのであった。
 類似した経過をたどったのが、ポルトガルに遅れて1930年代に共和革命を経験した隣国スペインであるが、こうした共和革命→ファシズムという流れは、第一次世界大戦を経て確立された集権的な国民国家という20世紀的な新たな国家形態を極限まで体現したモデルでもあった。

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共産法の体系(連載第26回)

2020-04-19 | 〆共産法の体系[新訂版]

第5章 市民法の体系

(3)市民権法②
 共産主義的市民権法の三番目の要素は親族権である。これは住民権・公民権に対して私的な身分にまつわる権利であり、資本主義的法体系では、民法に属する親族法がカバーする領分であるが、その内実は相当に異なる。
 すなわち親族法が婚姻家族関係を中心に組み立てられているのに対して、共産主義的親族法は婚姻制度に代わる公証パートナーシップを中心に組み立てられる。
 近代的な婚姻制度が伝統的な家ではなく、個人間の結合という本質を次第に強めながらも、家と家の結合という前近代的慣習をなお引きずっているのに対し、公証パートナーシップは個人と個人の純粋に対等な結合を本質とする。
 従って、公証パートナーシップは異性同士か同性同士かの性別組み合わせを問わず、かつ両パートナーは異姓を原則とする(任意に同姓を選択することも可)。また、このような公証パートナーの親族間にいわゆる姻族としての親族関係が発生することもない。
 公証パートナーシップはパートナー関係の成立を法的証明力のある合意書で証明されて初めて有効に成立する。自治体への届出は義務的ではないが、届け出ない場合は行政サービス上単身者としての扱いを受けるので、届出が推奨されるであろう。
 離婚に相当する公証パートナー関係の解消も合意書をもってし、自治体に届け出ている場合は、解消の届出も要する。解消の事由に制限はなく、両当事者の合意だけで可能である。
 公証パートナー間の子(養子を含む)は、原則どおりにパートナーが異姓を名乗る場合は両パートナーの姓を名乗る復姓となる。例えば、鈴木氏と山田氏の間の子・某であれば、「鈴木山田某」となる(復姓の順序は五十音順なりアルファベット順なり、各公用語の文字配列順とする)。
 公証パートナーシップにおける親権は両パートナーが共同で保持するが、「子どもたちは社会が育てる」共産主義的教育理念のもとでは(拙稿参照)、親権は社会の付託を受けて子を養育する義務的性格が強いものとなる。
 従って、養育能力の欠如や不適切な養育を理由とした親権の停止・剥奪の余地は広い。反面、子の家庭的保護の制度として、認定里親や保護養子の制度は拡充され、広く活用される。

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共産法の体系(連載第25回)

2020-04-18 | 〆共産法の体系[新訂版]

第5章 市民法の体系

(2)市民権法①
 共産主義的市民法の中核は市民権法にあり、その内容は(1)住民権(2)公民権(3)親族権から成ると述べた。このうち、今回扱う前二者は公的な身分に関わる権利である。
 筆頭の住民権は、居住権と言い換えることもできる。具体的には各領域圏及びその内部の地方自治体への居住の権利である。国家の観念を持たない共産主義社会では当然「国籍」の概念も存在しないため、住民権が国籍に相当するような役割を果たす。
 こうした住民権の不文上位概念として、地球市民権がある。これは世界共同体(世共)に属する領域圏住民は世共内のどこにでも居住することのできる権利である。
 従って、この地球市民権の内実は移住の自由である。この権利については、世共憲章で定められる。地球市民権は住民権を基礎に発生するため、この地球市民権を行使して他の領域圏に移住するためにも、いずれかの住民権が要求される。
 一方、住民権を前提として、所定年齢に達した住民に公民権が与えられる。共産主義的な公民権とは、いわゆる選挙権ではなく、より積極的に代議員となる権利である。共産主義社会では、抽選制に基づく民衆会議が代表機関となるからである。
 こうした住民権は手続上、現住所を置く自治体に住民登録することで成立する。この登録によって、同時に各領域圏並びにその内部の広域自治体または準領域圏及び世共への居住権(移住権を含む)もすべて包括的に獲得される。
 このように、住民権は公民権、さらには上位権としての地球市民権の法的条件となるため、今日の無国籍に相当する住民権不保持という状態は法的に認められず、すべての人は必ず世界のいずれかの住民権を保持しなければならない。
 また住民権はいかなる事情があっても停止されることはないが、公民権は重大な犯則行為を犯した場合、一定期間停止されることがあり、また代議員として職務上の不正行為を犯した場合は永久剥奪されることもあり得る。こうした例外を除けば、公民権に関する制限は存在しない。

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共産法の体系(連載第24回)

2020-04-17 | 〆共産法の体系[新訂版]

第5章 市民法の体系

(1)共産主義的市民法の内容
 市民法とは市民としての権利及び義務について定める法典であり、資本主義的法体系では「民法」にほぼ相当するが、共産主義的市民法と資本主義的民法の内容は完全に重なるわけではない。
 資本主義は所有権と契約を二大法的基礎概念として成り立つので、この二つの法的な諸規定を収めた民法が法体系上最も重要な意義を持つ。これに対して、共産主義においては所有権と契約の概念は否定されないものの、それらの比重は低下するため、市民法の比重自体も前回までに見た環境法や経済法に比べて劣後することになる。
 共産主義的市民法において中心を成すのは市民権法である。市民権法は民法の一分野である家族法にほぼ相当する内容を含むが、ここには市民としての身分に関する規定、すなわち住民権や公民権に関する諸規定も包括されるので、家族法と完全にイコールではない。
 その意味で、共産主義的市民法は純粋の私法ではなく、公法的な性質を併せ持つ。そもそも共産主義社会には国家という観念が存在しないので、法体系上も国家と国民の関係を規律する公法と私人間の権利義務関係を規律する私法という二項対立的な概念区別は想定されていない。
 共産主義的市民法の編成をより具体的に述べれば、それは(1)住民権(2)公民権(3)親族権を内容とする市民権法及び(4)契約法(5)物権法(6)相続法を内容とする財産権法とから構成される。
 財産権法は資本主義的民法にあっては個人財産に関する諸規定を収めた中核部分を成すが、これは資本主義において個人財産は憲法上も不可侵と宣言される最大の法的基盤を成すことからして、自然なことである。
 しかし、共産主義的市民法における財産権法は共産主義的に留保・保障される個人財産の内容とその譲渡、貸与、相続を含む承継をめぐる技術的な諸規定を収めた二次的な部分を構成する。

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マスク2枚と10万円

2020-04-16 | 時評

絶句中につき、本文なし。

[付記]
真に必要なこと、それは非常時生産制度を創設して、必要な医療・衛生用品や育児・介護用品の増産を企業に義務付けること、休業する零細事業者従業員への公的な賃金保障制度、事業者への休業補償制度を確立することである。

[追記]
マスク2枚と10万円申請用紙がようやく手元に届いたところで、少しばかり発語を回復しつつあるが、この子供騙しの「対策」のために投入された/される公費及び国内外における労働力の大きさを考えると、改めて絶句しかける次第。

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近代革命の社会力学(連載第94回)

2020-04-15 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(4)トルコ立憲革命(青年トルコ人革命)

〈4‐3〉革命の迷走と三頭体制
 30年に及ぶ専制の主人公だったアブデュルハミト2世を廃位して立憲革命をひとまず成功させた「統一と進歩委員会」(以下、委員会と略す)であったが、この革命組織が正式な政党となることはなかった。というのも、組織名が示唆しているように、委員会は帝国の統一を軸とするグループと、進歩を軸とするグループに分裂していたからである。
 統一派は青年将校に多く、その出発点はマケドニア独立運動の鎮圧にあった。かれらは近代的なトルコ民族主義者でもあり、トルコ人を中心とした集権的な帝国の構造を維持する考えであった。進歩派は、より緩やかな分権国家体制を志向し、少数民族自治にも寛容であった。
 当初、委員会内では進歩-分権派が優位にあったが、革命の過程では軍人の貢献が大きく、軍事革命の形を取ったことで、委員会内では統一-集権派が主導することになった。後者は分派して「自由と調和党」を結党するも、議会選挙では大敗し、勢力を失った。
 こうして、委員会指導部は統一派の軍人主導で固まっていくが、政党化されなかったことや、近代的な議院内閣制が未整備で、旧来の政府首班である大宰相の制度も存置されていたことから、委員会が直接に政権を掌握することができず、革命に成功しながら、革命政権を形成できないという膠着状況が続いた。
 この状況は四年にわたって続き、この間に内政面では権力闘争が繰り広げられる一方、帝国領内の支配下民族の独立運動が蠕動し始め、帝国は動揺した。このような状況を打破すべく、1913年、委員会は改めてクーデターにより、直接の政権獲得を目指し、成功させた。
 このクーデターを主導したのはエンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャ、タラート・パシャの三人のパシャ(殿)称号を持つ指導者であった。このうち、エンヴェルとジェマルは軍人、タラートは郵便局員出身の文民である。この三人は文民のタラートを含め、いずれも統一派であり、以後は三人に権力を集中させる三頭政治体制が構築された。
 この三頭体制は、集権・トルコ民族主義を旗印とする革命的専制体制と呼ぶべきもので、最初の大仕事は1914年に始まる第一次世界大戦への参戦であった。この過程で発生したアルメニア人独立運動への鎮圧作戦が、大虐殺に発展した。
 この出来事は現在でもトルコ政府が公式には認めていないものであるが、トルコ民族主義で固まった三頭体制が領内の支配下民族の独立に敵対的であったことは間違いなく、この点では、支配下少数民族に対し比較的寛容であったオスマン帝国旧来の政策以上に、強硬かつ反動的であったとも言える。
 三頭体制が存亡をかけた大戦であったが、まだ近代化の途上にあったオスマン軍は列強連合国軍の攻勢に耐えられず、エルサレム、バグダッドなど中東の主要都市を落とされる中、1918年の休戦協定をもって、実質的に敗戦を迎えた。
 タラートは戦時中に大宰相に就任していたが、敗戦直前に辞職し、敗戦後、彼を含む三頭パシャは同盟国であったドイツへ亡命していった。これにより、「統一と進歩委員会」政権も事実上瓦解した。戦後、委員会は解体され、多くのメンバーが軍法会議にかけられ、処罰された。
 ただし立憲革命の成果そのものはまだ有効であり、以後は、ムスタファ・ケマルのような次世代の軍人革命家が台頭し、オスマン帝国そのものを解体する最終的な共和革命を主導していく。
 ちなみに、三頭パシャのうち、タラートとジェマルはいずれもアルメニア人虐殺への報復として、アルメニア人テロリストの手により亡命先で暗殺され、エンヴェルは最後の亡命地中央アジアで、ロシア十月革命後の反革命軍に参加し、革命派赤軍との戦闘で奇襲を受けて戦死するという、それぞれに壮絶な最期を迎えている。

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近代革命の社会力学(連載第93回)

2020-04-14 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(4)トルコ立憲革命(青年トルコ人革命)

〈4‐2〉立憲革命の展開
 トルコ立憲革命の発端は、「統一と進歩委員会」に集う青年将校らの武装蜂起として、1908年に始まった。きっかけとしては、大きな潮流としてロシア、イランで先行していた立憲革命からの触発ということが考えられる。
 ロシア、イランとトルコは地政学的な対立・緊張関係にあり、トルコの革命は先行する革命と直接連動してはいないが、いずれも近代的な立憲思想に基づく専制への抵抗と蜂起という点では、共通の思想的基盤のもとに連続した革命であると言える。
 より直接的には、イギリスとロシアの間で独立運動が起きていたマケドニアの問題が協議され、オスマン帝国がカージャール朝イランのように両大国により干渉される恐れが生じたこともあったと見られる。革命派青年将校は、前回見たように、マケドニア駐留第三軍団を基盤としており、マケドニア問題に敏感だったのである。
 これに対し、30年あまりにわたって専制政治を続けていたアブデュルハミト2世は、当然の反応として、反乱の武力鎮圧に出たが、軍の将兵には反乱将兵への共感も強く、ミイラ取りがミイラになるのたとえ通りの寝返りが起き、武力鎮圧の限界を悟るや、アブデュルハミト2世は一転、憲法の復活を宣言し、妥協した。
 これにより、1876年憲法が30年ぶりに復活施行され、帝国史上初の議会選挙も実施された。通常、ここまでの経過を、革命の担い手の総称にちなんで「青年トルコ人革命」と呼ぶ慣習があるが、実際のところ、これは武装反乱とその結果としてのスルタンの妥協による憲法復活であり、真の意味での革命ではない。
 むしろ、立憲革命は、翌年1909年、アブデュルハミト2世が廃位された時点で、さしあたり完成するとみなすべきであろう。スルタンが廃位される契機となったのは、同年3月31日に発生した反革命クーデター事件であった。
 この事件は、保守的なイスラーム神学生や「統一と進歩委員会」のエリート将校に反発する兵卒、「統一と進歩委員会」内部の非主流派など雑多な不満分子が起こした反革命行動であったが、規模は大きく、「統一と進歩委員会」主流派の多くがいったんは首都イスタンブルを脱出する事態となった。
 とはいえ、雑多な不満分子に統一的な理念はなく、反革命政権を樹立することには失敗し、首都は事実上の無政府状態の混乱に陥った。ここで第三軍団が介入し、首都に進軍して、反革命クーデターを鎮圧した。この鎮圧作戦では、後の共和革命指導者ムスタファ・ケマルも参謀として貢献し、最初の名を上げることにもなった。
 ところで、アブデュルハミト2世がこの3月31日クーデターに関与したという明確な証拠はなかったが、議会は関与を認定し、議会の決議により、廃位されることとなった。しかし、そのまま共和制移行とはならず、アブデュルハミト2世の弟メフメト5世が新たに即位した。
 このような議会によるスルタン追放・交代劇は、17世紀英国の名誉革命のプロセスとも類似するところがあり、いわば近代トルコにおける名誉革命と呼び得るものかもしれない。ただ、その背後で革命派将校の力が大きく働いていたことは、確かである。
 近代トルコの諸革命では、最終的にオスマン帝国を廃した十数年後の共和革命も含め、革命派職業軍人の寄与が大きい反面、文民知識人や民衆の参加は限られており、軍事革命としての性格が強いことが特徴である。このような特徴は、20世紀以降の中近東地域で継起する諸革命にも共通する。

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近代革命の社会力学(連載第92回)

2020-04-13 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(4)トルコ立憲革命(青年トルコ人革命)

〈4‐1〉青年トルコ人運動
 13世紀末から連綿と続いてきたオスマン帝国は、19世紀に入り、西欧列強からの攻勢にさらされるとともに、その時代遅れな中世風の社会経済諸制度も疲弊を来し始めていた。そこで、上からの西洋近代化政策(タンジマート)が19世紀前半期に導入された。そうした潮流の中で、近代憲法の制定へ向けた動きも生じる。
 改革派のクーデターを経て1876年に即位した第34代スルタン・アブデュルハミト2世も、当初はそうした革新的な流れの中にあった。その目玉は帝国初の近代憲法の制定である。改革派大宰相ミドハト・パシャが主導して制定された1876年憲法がそれであった。
 この憲法は欽定憲法という限界はあったものの、当時のアジアでは日本の明治憲法にも先行して発布されたアジア初の近代憲法とも称された。しかし、スルタンにとっては権限を制約される障害物であった。
 そのため、保守的なアブデュルハミト2世は、折からの露土戦争に伴う国家非常事態を口実に、制定されたばかりの憲法を停止し、旧来の専制政治に立ち戻ってしまった。この1878年憲法反動以降、アブデュルハミト2世は秘密警察を駆使した帝政ロシア張りの恐怖政治を続けることになった。
 しかし、一度は着手された西欧近代化の波は、多くの近代的知識人の青年を誕生させていた。かれらは、日本の近代化革命であった明治維新に関心を寄せた。同時に、哲学的には唯物論に立脚したが、マルクス主義ではなく、オーギュスト・コントの実証主義に影響されていた。その点では、1889年ブラジル共和革命を主導した勢力に通ずるものがある。
 こうした近代的青年トルコ人はスルタンの専制政治を批判し、憲法の復活を求めた。このような立憲派青年グループの活動は19世紀末から盛んになったが、国内の弾圧により、ネットワーク化には難渋していた。
 そうした中、海外亡命者のグループが反専制運動の統一組織として、「統一と進歩委員会」を結成した。この組織は、やがて反体制派皇族の参加も受け、1902年に、パリにて第一回青年トルコ人会議の開催に漕ぎ着けた。この会議を最初の核として結集した立憲派青年グループが、やがて立憲革命の中心となる。
 ただし、「統一と進歩委員会」は一個の政党ではなく、当初は憲法復活を求める立憲主義者の運動体であったが、当局の弾圧を受ける中で、次第に革命組織として成長していく。その過程では、近代的な士官教育を受けた青年将校の寄与が大きかったことが特徴である。
 特にオスマン帝国支配下の東欧マケドニアに駐留した第三軍団の将校たちは、マケドニア人の独立運動鎮圧への動員と貢献に対して十分な待遇を受けていないことへの不満を抱えていた。この第三軍団将校は、やがて「統一と進歩委員会」の基幹的な細胞となり、その中からは後にオスマン帝国に引導を渡す共和革命立役者となったムスタファ・ケマルも出た。

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