ザ・コミュニスト

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NATOの第二次冷戦開始宣言

2022-06-30 | 時評

・・・・中国がロシアと結び、NATOを通じた米欧と対峙し、米欧対中露という対立構図が現れると、本格的な第二の冷戦となりかねない。

2013年の拙連載『世界歴史鳥瞰』中の記事において、冷戦終結後の世界が同盟主超大国の消滅により、枢軸を失い流極化していく状況を踏まえつつ、このように記したことがあった。

29日のNATO首脳宣言(以下、宣言)がロシアを最大脅威と断じて主敵に定め、さらに副次的に中国を国際秩序への挑戦者と指弾したのは、まさに如上の「第二の冷戦」―第二次冷戦―の開始宣言と言ってよいものであった。ただし、拙稿では、如上箇所に先立って、次のようにも指摘していた。

ロシアは一時的ないし個別的にアメリカと関係悪化に陥ることはあっても、もはやアメリカとの間に根本的な対立を抱えていないのに対し、米中間では南北朝鮮や中台関係のほか、中国の軍備増強やアジア太平洋地域での領土拡張策などをめぐって根本的な対立の芽があり、中国の軍事力のいっそうの伸長いかんでは、かつての米ソ対立と類似の状況が生じる恐れはある。

この点、今般の宣言では、ロシアが主敵と断じられており、筆者が読み違えたようにも見える。しかし、ロシアが主敵とみなされたのは、言うまでもなく当面のウクライナ侵略戦争を念頭においてのことであるのに対し、副次的に言及された中国はまさにNATOが体現する西側国際秩序への挑戦者と名指されたことで、むしろこの宣言の重心は対中国の冷戦布告にあると読むことも可能である。

そうした意味において、今般の宣言は単なるロシア非難声明のようなものとは質が異なり、まさに中国を新たな東側盟主とみなしての冷戦開始宣言の性質を潜在的に持つものである。こうして開始される第二次冷戦はしかし、第一次冷戦の単純な焼き直しとはならないだろう。

第一に、ここにはもはや資本主義vs共産主義の体制イデオロギー対立は存在していない。現ロシアは共産党支配国家ではないし、中国も共産党支配下で「社会主義市場経済」≒共産党が指導する資本主義の道を行っているからである。―自由主義vs全体主義の対立軸は設定できそうに見えるが、西側の「自由」もテロ対策・コロナ対策等々の名の下に損なわれており、相対的な差にすぎない。

第二に、東西が経済的にも分断され、独自の国際分業と相互援助でまかなっていた東側社会主義陣営が国際市場に参入していなかった第一次冷戦当時とは異なり、第一次冷戦終結後の30余年でグローバル化された資本主義のネットワークが第二次冷戦による分断により損なわれるなら、資本主義総体にとって打撃となる。―すでに生じているグローバルな燃料価格高騰、食糧危機はその最初の兆候である。

第三に、第一次冷戦当時の米国とソヴィエトのような圧倒的な盟主国家が存在しておらず、「流極化」状況は変わらないことである。米国も欧州連合の成立以降、西側盟主の地位を失っている一方、中国も経済大国ではあるが、自身を盟主とする同盟体を擁していない。―ただし、既存の「上海協力機構」が今後、軍事同盟として確立された場合には、旧ワルシャワ条約機構に近い同盟体となる可能性はある。

如上の第二点目は特に重要な相違であり、第二次冷戦はNATO首脳らが奉じる資本主義を瓦解に追い込むリスクを負うことになる。それを知らずして第二次冷戦にのめり込むのは、まさに自ら墓穴を掘るようなものである。

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近代革命の社会力学(連載第451回)

2022-06-29 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(5)毛派主導政権とその後
 2006年から08年にかけてのネパール共和革命の過程は内戦当事勢力であった毛派と前回見たマデシ勢力を含む他党派との複雑な折衝を通じて展開され、2008年4月の制憲議会選挙で毛派が圧勝し毛派主導政権が樹立されたことで、一つの区切りを迎えた。
 このように、内戦当事勢力が選挙によって政権に就くということは世界の革命の歴史の中でも稀有の事態であったが、ネパールでは農村に基盤を置く毛派への国民的期待がそれほどに強力であったことを示している。
 とはいえ、毛派指導者プラチャンダを首班とする新政権は、同じ共産党でも毛派と対立関係にあったマルクス‐レーニン主義派の統一共産党やマデシ人権フォーラムなどとの妥協に基づく不安定な多党派連立政権であり、新たな政争の勃発を予感させるものであった。
 実際、翌09年5月、毛派武装組織であるネパール人民解放軍を正規軍に編入するというプラチャンダ首相の提案に異論を唱えた陸軍参謀総長を首相が独断で罷免したことに連立他党派が抗議して閣僚を引き揚げたため、政権は早くも瓦解した。
 結局、連邦共和制への移行という枠組みだけは早期に決議した制憲議会であったが、新体制の法的裏付けとなる憲法を制定するという本来の目的を果たせないまま、首相が転々と交代した末に、2011年5月に解散した。
 最終的に新憲法が制定されるのは、2013年11月までずれ込んだ選挙を経て召集された第二次となる制憲議会の下、2015年9月のことであった。これによって、およそ10年がかりで共和革命の過程が完了したことになる。
 ちなみに、この長い革命過程を通じて、共産党系諸派の統合の流れが生じ、2018年には毛派と統一共産党が合同してネパール共産党が結党されたものの、最高裁判所により合同が無効と判断されたことで、再び分党した。
 とはいえ、毛派を含めた共産系勢力は議会において極めて強力であり、新憲法制定後も、プラチャンダの返り咲きを含め、非共産系のネパール会議派とほぼ交互に首相を輩出する勢力を維持していることは、21世紀の世界にあって他国に例を見ない稀有な政治現象となっている。
 その一方で、こうした共産勢力の議会政党としての馴化現象は、毛派をも含めて資本主義への適応化を示しており、半封建的な農村社会構造の変革が進まず、貧困問題の未解決という課題を残している。
 ネパール共和革命の性格は複雑で、ひとことではくくりにくいが、共産系勢力が主導的な役割を果たしたにもかかわらず、社会主義革命に進展することなく、多党派の妥協により、下部構造の変革に切り込まないまさに共和的な革命に収斂したと言える。

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近代革命の社会力学(連載第450回)

2022-06-28 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(4)マデシ地方自治闘争の並行
 ネパール共和革命の過程では、民主化闘争と並行する形で、ネパール南部の平原マデシ地方の自治権獲闘争も激化していた。多民族・多言語国家であるネパールのマデシ地方は隣接する北インドとの文化的連続性が強く、独自の地域であることから、民主化闘争に刺激される形で自治権獲得闘争が誘発されたのであった。
 その結果、2007年1月から3月にかけ、前年に結成されたマデシ人権フォーラム(以下、フォーラム)が主導して、連邦制と比例代表制基調とする選挙制度の導入を要求するゼネストが実行された。その過程で毛派との衝突が起き、3月には毛派党員を虐殺する事件を引き起こした。
 これを受け、4月以降、政府との交渉に入るが、9月にはフォーラムが内部対立から分裂する事態となり、交渉の行方が不透明になった。転機となるのは、08年2月に、フォーラムを含むマデシ系三党派が合同して統一民主マデシ戦線(以下、戦線)が結成されたことである。
 戦線はマデシ自治国の創設など六項目の要求事項を掲げ、2月13日以降、無期限のゼネストを実行した。このストは16日間継続されたため、その間、インド方面との物流が遮断され、ネパール全土への影響が深刻化した。
 これを受け、政府は戦線との合意を急ぎ、戦線各党の政党登録と来る制憲議会選挙への参加を認めた。こうして08年4月の制憲議会選挙では、フォーラムは52議席を獲得して第四党につけ、他のマデシ系二政党と併せて、81議席を獲得、マデシ系は制憲議会内で一定の勢力を得ることとなった。
 その結果、制憲議会ではフォーラムの幹部で最高裁判所判事も歴任したパラマーナンダ・ジャーが共和制初の副大統領に選出されるとともに、毛派主導政権には事実上のフォーラム指導者ウペンドラ・ヤーダブが外相で入閣した。
 ただし、毛派主導の制憲議会が制定した新憲法では、戦線が要求していたマデシ地方全体を包摂する「自治国」の創設は認められない代わりに、インドの制度に類似した連邦共和制が採用され、連邦の枠組み内で複数の州に分割されて自治が保障されることになり、不完全ながら戦線の要求も実現された。

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近代革命の社会力学(連載第449回)

2022-06-27 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(3)共和革命への力学
 ギャネンドラ国王による2005年2月の二度目の自己クーデターによる全権掌握は、国王にとっては大きな賭けであるとともに、大きな失策ともなった。というのも、今回は2002年の自己クーデター時以上に挙国一致的な抗議運動を誘発し、外国の支持も失ったからである。
 統一共産党を含む六政党に、統一共産党に参加しない共産主義諸派から成る統一左翼戦線も加わった政党連合(七党派連合)が結成され、05年12月にはインドで内戦当時勢力であった毛沢東派とも協定を結んだことは革命の端緒となった。
 この協定では、毛派も武装革命を放棄し、複数政党制に基づく立憲民主主義を容認し、早期に制憲議会選挙を実施することも合意された。これは国王が専制回帰の口実ともしていた内戦の早期終結に向けたステップともなる。
 これに対し、国王側も2006年に入って反対派を拘束するなど弾圧を強化したが、七党派連合側は同年4月に全国ゼネストを組織して対抗した。その結果、同月末にかけて、首都カトマンズで数十万人規模の抗議デモが隆起した。
 他方、前年2月の自己クーデター以後、主要な支援国である英・米・印の支持を失い、国際圧力も強まる中、ついに国王は4月下旬、独裁放棄に同意し、議会の再開と新首相の任命に応じた。結果、七党派連合の中心でもあるネパール会議派主導の暫定内閣が成立した。
 ここまでの経緯は1990年の民主化革命時と類似しているが、前回と決定的に異なるのは、今般は君主制そのものの是非が浮上したことである。その最初のステップとして、2006年5月、再開された議会が国王の権限を著しく制限する法案を可決した。そこには王室財産の国有化やネパール王制の精神的な基盤でもあったヒンドゥー国教の廃止も含まれていた。
 ただ、この時点では国王は権限をほぼ剥奪されながらも君主制は存置されていたが、君主制廃止を求める毛派との協議が進むと、まず07年に君主制が暫定的に停止となり、翌08年4月の制憲議会選挙で意外にも毛派が第一党に躍進したことで、君主制廃止は既定路線となった。
 その結果、08年5月28日、毛派主導の制憲議会で君主制廃止と連邦共和制移行が決議され、ギャネンドラ国王は廃位の上、王宮からの退去を命じられることとなった。こうして、統一王朝成立以来、およそ240年に及んだシャハ王朝が終焉した。
 このように今回の民衆蜂起が共和革命に進展したのは、毛派との内戦終結へ向けた条件作りとともに、専制に回帰した国王が王党派を十分に組織できなかったことも影響している。その点、ほぼ唯一の王党派として国民民主党が存在していたが、基盤が弱く、分裂した上に制憲議会選挙に惨敗し、君主制廃止を阻止できなかった。
 一方、過去の共和革命ではしばしば専制君主が処刑されたり、少なくとも海外亡命に追い込まれてきたこととは対照的に、ネパール共和革命では国王は廃位後も一般人として国内に在住することが許され、革命が制憲議会を通じて完全に平和裏に進行したことは特筆すべき点であった。

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比較:影の警察国家(連載補遺)

2022-06-26 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐1‐5:機動隊―事実上の警察軍

 機動隊は、治安警備及び災害警備を担当する集団警備警察である。このうち、治安警備とは「国の公安又は利益に係る犯罪及び政治運動に伴う犯罪が発生した場合において、部隊活動により犯罪を未然に防止し、又は犯罪が発生した場合の違法状態を収拾する警備実施活動」とされ、まさに機動隊の筆頭任務である。
 戦後の機動隊の沿革は、占領下での集団警備の必要性から、1948年に警視庁に設置された警視庁予備隊を嚆矢とするが、占領終了後、1954年の現行警察制度の創設以来、1962年までに全都道府県警察の集団警備部隊として順次設置されたものである。
 中でも、警視庁機動隊は最も強力であり、現時点で10隊を擁し、自己完結的に警備力を行使する能力を持つが、地方の多くの警察本部では1個隊態勢のため、広域応援部隊として、管区警察局ごとに管区機動隊連隊や管区機動隊、また北海独自の制度として道警察警備隊が配備されている。
 また予備部隊として、必要時にだけ召集される特別編成の第二機動隊も存在するが、この点でも警視庁は特別機動隊と方面機動隊という二重の予備部隊を備えている。
 近年は、一般の機動隊とは別途、専門機能別に対テロ対策に当たる特殊急襲部隊(SAT)や銃器対策部隊、NBCテロ対応専門部隊及びNBCテロ対策部隊 原発特別警備部隊などの専門別部隊の創設も相次いでおり、一般の機動隊が出動する大規模騒乱事案の減少の反面で、「テロとの戦い」テーゼにも対応した機動隊の専門分化が見られる。
 このように、機動隊は基本的に都道府県警察に属しながら、軍隊に類した構制で配備される戦闘警察であり、基幹隊と管区機動隊を併せて1万人を超える要員を擁し、言わば警察軍と呼ぶべき特殊な部門である。
 機動隊の全国指令部に当たるのは警察庁警備局であるが、2019年の制度改正で、同局内に機動隊の運用を主要任務とする警備運用部が設置されたのは、機動隊が言わば国家警察軍のような統合的警備警察組織としての性格を強める第一歩と言え、政治警察としての公安警察と並び、警備警察機能の強化が図られている。

1‐1‐5‐x:特殊警備警察組織

 機動隊とは別途、テロ対策を専門とする特集急襲部隊、空港や官邸など特定の施設を警備する特殊な組織がある。中でも、成田と東京の二大国際空港の警備に関わる部隊である。
 その最大のものは、千葉県警察成田国際空港警備隊である。これは組織上成田国際空港を管轄する千葉県警に属しながら、県警の定員枠外として、全国の都道府県警察から選抜された要員で構成された1500人規模から成る特別警備隊であり、その任務には政治警察としての公安活動も含まれるなど、独自の国家警察に近い性格がある。
 もう一つは、東京国際空港警備に特化した警視庁東京国際空港テロ対処部隊であり、これは東京国際空港の拡張に伴い、2014年に設置されたものである。テロ対処と銘打たれているが、基本的には成田空港警備隊と同様の空港警備組織である。なお、警視庁では如上のSATが機動隊から独立して組織されているため、これも特殊警備組織に相当する。
 ちなみに、警視庁総理大臣官邸警備隊は9.11事件後の2002年に発足した特殊警備組織であり、総理大臣の身辺警護とは別途、官邸施設警備に特化した任務を持つ。

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比較:影の警察国家(連載第62回)

2022-06-26 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐1‐4:サイバー警察の創設

 警察庁の組織構制に関連する近年の重要な改正として、まさに本年2022年4月に新設されたサイバー警察局がある。これは全国都道府県警察によるサイバー犯罪の取締りを統括する警察庁の中央部局であり、1994年に創設されていた情報通信局を改廃したものである。
 従来の情報通信局が警察通信や所管行政の情報管理といった内部業務に対応する部署であったことを改め、近年深刻化するサイバー犯罪への対策に特化した新部局として創設されたのが、サイバー警察局である。
 この新制の特徴として、警察庁の地方機関である関東管区警察局に全国の重大サイバー事案を直接捜査する「サイバー特別捜査隊」を設置したことである。これは中央の警察庁が自ら捜査するものではないが、同庁地方機関が全国を管轄するという変則を通じて、事実上警察庁が直接捜査するに等しく、警察庁が統括管理機関にとどまっていた従来の制度を改変する重要な一歩となる。
 これにより、警察庁が従来にも増して中央統制を強めることになり、都道府県警察の国家警察化が進行することになるという効果の他にも、サイバー警察が中央で統合されることにより、インターネットに対する警察監視が強化されることが想定される。
 その点、つとに情報通信局時代の1999年から同局内にサイバー監視のナショナルセンターとなる情報技術解析課が設置されており、2001年には同課内にサイバーテロ対策技術室が設置され、インターネットを常時監視し、関連情報の集約や分析を行う態勢が整備されてきた。この態勢はそのままサイバー警察局に移管されている。
 さらに、これまた本年成立した侮辱罪の刑法罰則強化とも関連して、政治的な情報統制が強化される可能性も秘めている。その点、侮辱罪は私人のみならず、政治家その他の公人に対しても当然成立する犯罪であるから、政治的な言論が侮辱罪に問われる可能性を拡大し、従来からの公安警察の活動強化と連動することで、「サイバー公安警察」のような影の警察活動が出現することも想定される。
 現時点では発足したばかりであり、国際的関心事でもあるサイバー犯罪対策の一元的強化という趣旨にも対外説明として一理あることは確かだが、今後、サイバー警察が如上の広がりを見せれば、刑事警察と政治警察が複合したより広汎な「情報警察」へと進展する可能性もあり、注視される。

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「自由平等美国」の終わりの始まり

2022-06-25 | 時評

アメリカ合衆国最高裁判所が24日、半世紀前に確立されたはずの妊娠中絶の権利を認める判例を覆し、憲法上妊娠中絶の権利は保障されていないとする新判断を六判事の多数意見として示したことは、単に「保守化」といった言葉だけでは語りつくせない意味があるように思われる。

わずか6人の判事の判断によって半世紀間認められてきた憲法上の権利を剥奪できてしまうアメリカの強力すぎる司法制度は、半世紀前には立法では解決のつかなかった妊娠中絶の権利を保障することにも寄与したのであるから、まさにアメリカ市民の生殺与奪を握る両刃の刃である。

医療的妊娠中絶(いわゆる人工妊娠中絶:この用語の問題性については拙稿参照)は、女性にとっての人生決定の自由という意味があるが、そればかりでなく、産科医療が発達した時代にあっても決して絶対安泰とは言えない妊娠・出産という身体的・精神的負担を女性にだけ強制しないという平等理念とも結ばれた自由平等理念の象徴である。

そのような理念を承認したのがちょうど半世紀前のいわゆるロウ対ウェイド判決であったわけであり、これは当時まだ少なからぬ諸国で妊娠中絶が犯罪とされていた時代にあって、米国の先進的な自由平等を示した判決でもあった。

このような確立判例のクーデター的転覆は、トランプ前政権によって送り込まれた超保守派判事の参加により実現されたことであり、それは南部の保守派州を中心に広がっている新たな政治反動の大きな成功例とも言える。

半世紀という一時代にわたって維持されてきた著名判決が覆されたことで、次に転覆の標的となり得るのは、1954年に出された人種平等判決である。ブラウン判決として知られるこの判決は、それ以前「分離すれども平等」という理屈により教育その他の公共サービスにおける人種隔離を正当化してきた状況を正し、人種平等理念を司法上確立した画期的判決であった。

これも単に平等というだけでなく、有色人種が等しく公共サービスを受ける自由を保障したという意味では、やはり自由と平等が結ばれた自由平等理念の象徴であり、人種差別が世界でまだある種の「常識」でさえあった時代に米国の先進性を示した判決であった。

しかし、この判決もまた、19世紀の奴隷解放後、それに代わる人種隔離政策を続けていた南部保守州にとっては打撃であり、不満怨嗟の種となってきた確立判例であって、転覆が待望されているものである。もしこれが覆されれば、南部は司法府から人種隔離政策再開のゴーサインを賜ることになる。

ロウ対ウェイド判決の転覆はこうした自由平等の美国(米国の中国式漢字表記)の終わりの始まりとなるかもしれない。それは同時に、中絶賛成州と反対州の対立を招き、南北戦争以来の連邦分裂の危機を惹起する可能性を秘めている。その意味では、いささか性急な予測ながら、アメリカ合衆国の崩壊の始まりでもあるかもしれない。

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近代革命の社会力学(連載第448回)

2022-06-24 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(2)内戦から復刻専制君主制へ
 ネパールにおける共和革命の契機となった復刻専制君主制が出現した背景として、1990年代後半から共産党毛沢東派(毛派)と政府軍の間の内戦があったわけであるが、毛派は1990年民主化革命後の政治的自由化に乗じて、従来の地下活動を脱し、公然たる武装革命組織に転向していた。
 これを率いていたのは学校教師出身のプラチャンダ(本名プシュパ・カマル・ダハル)であったが、彼の強力な指導の下、毛派は中国共産党にならったネパール人民解放軍を組織して、農村部に「人民政府」を設立するとともに、都市部でも警察や軍施設の襲撃などのテロ戦術を展開した。
 これに対して政府は掃討作戦にも和平交渉にも難渋し、毛派による武装革命も視野に入りつつあった時、中央権力を激変させる事件として、王室一家惨殺事件が発生する。これは2001年6月1日の王室晩餐会の席上、当時のディペンドラ王太子が両親のビレンドラ国王夫妻を含む9人もの王族を射殺するという宮中殺人事件であった。
 この事件について、公式捜査では結婚問題をめぐって国王夫妻と対立していた王太子が酒に酔って激高し、単独で銃乱射事件を起こした直後に自殺を図ったものとされたが、当時現場にいなかった叔父で王弟のギャネンドラが王位簒奪のため背後で仕組んだ暗殺事件とみなす陰謀説も存在する。
 しかし、この事件の被害者の中には当時のビレンドラ国王の姉や従妹、王太子の妹といった女性王族も含まれており、王位簒奪を狙った暗殺としては過剰な多重殺人であることからしても、ギャネンドラ黒幕説には根拠が乏しい。
 とはいえ、このようないささか無理筋の陰謀説が浮上したのも、王太子の死亡後に王位を継承したギャネンドラ新国王が従来から民主化に批判的な持論を隠さず、兄のビレンドラ国王の政策に反対していたからであった。
 実際、ギャネンドラ国王は2002年10月にネパール会議派のデウバ内閣の全閣僚を罷免して独裁を開始した。このような露骨な政治反動には、非共産系を含む主要政党が一斉に反発し、議会再開を要求する抗議デモを展開する一方、毛派も攻勢を強め、かえって内戦が激化することとなった。
 そうした中、2003年5月には主要政党の前議員らが議会再開を宣言し、君主制存続の是非を論じるとして圧力をかけたため、国王側もいったん譲歩し、2004年6月にデウバ首相の再任を余儀なくされる。しかし、政府との関係は修復できず、2005年2月、ギャネンドラ国王は再びデウバ内閣を罷免し、全権を掌握した。

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近代革命の社会力学(連載第447回)

2022-06-23 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(1)概観
 ネパールでは、1990年の民主化革命により議院内閣制型の立憲君主制が導入されていたが、これを契機に、共産党毛沢東主義派(以下、毛派)が大きく台頭し、1996年以降、政府軍との内戦に突入していた。
 内戦は革命後も温存された半封建的な社会構造の下、多数の貧農人口を抱える農村部に支持基盤を拡大した毛派優位に進み、世紀の変わり目頃には同派が農村部を中心に全土の半分以上を支配下に置き、政府の実効支配の及ばない「解放区」を設定するに至っていた。
 こうした中、21世紀初頭のネパールが向かう方向として、毛派が首都にも進撃して全土革命に成功するか、もしくは再び王権が強化され専制君主制が復活するかの瀬戸際にあった。結果は後者となったが、それは2001年6月に発生したディペンドラ王太子による王室一家惨殺という前代未聞の宮廷内殺人事件を契機とするいささか変則的な経過によった。
 この事件の犯人とされたディペンドラ王太子は父のビレンドラ国王を殺害した後、自殺を図り、重体となったが、間もなく自らも死亡したため、王位は重体のまま形式上王位を継いでいたディペンドラを介して、叔父のギャネンドラが継承することとなった。
 元来、1990年革命以降の民主化に批判的だったギャネンドラは即位するや、内戦対処の失敗を理由に、2002年以降、二度にわたる自己クーデターの手法で自身の内閣を排除し、全権を掌握して専制君主制を復活させた。
 この政治反動に対しては、毛派のみならず、非共産系を含む主要政党がこぞって反対する中、2005年に再び首都を中心に大規模な民衆の抗議活動が隆起した。これに同情した国際社会の圧力もあり、ギャネンドラは2006年に民主政府の復活に同意した。
 しかし、これをもって収束することなく、2007年以降、君主制そのものへの否定的な世論を背景に、毛派も参加した挙国一致政権の下、新憲法の制定プロセスが進行し、08年には君主制廃止・共和制移行が決定された。こうして、18世紀以来のシャハ王朝が終焉し、ネパールは共和制国家となった。
 このネパール共和革命は1951年立憲革命、1990年民主化革命に続く近代ネパールにおける三度目の革命であり、1990年民主化革命からしばらく時間をおいた二次革命の性格を持つものである。
 また、そもそも世界の君主制国家が減少してきた中、ネパール共和革命は1979年のイラン革命以来、現時点において全世界でも最後の共和革命となっており、ヒマラヤ山麓の王国に遅れて到来した共和革命であった。

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近代革命の社会力学(連載第446回)

2022-06-21 | 〆近代革命の社会力学

六十三 レバノン自立化革命

(4)限定的な成果と続く外国の干渉
 レバノン自立化革命は、2005年4月のシリア軍撤退により一定の成果は上げたとはいえ、駐留軍と諜報機関のすべての撤収を完了したとのシリア政府の発表にもかかわらず、西側ではシリアが依然として潜入諜報員を残留させ、対レバノン工作の余地を残しているとの分析がなされていた。
 このことは、親シリアのヒズボラが大きな勢力を保ち、シリアの政治的な支援を引き続き受けている限り充分にあり得ることであり、実際、革命後はヒズボラがシリアの代弁者となった。―2020年、国連レバノン特別法廷はハリーリー元首相暗殺事件に関連し、ヒズボラ構成員一人に有罪判決を下した。
 国内の政治力学的にも、反シリアと親シリアの対立は終焉せず、革命を主導した勢力を結集した反シリア派の3月14日連合に対して、親シリア派も3月8日連合を組織して対抗するなど、以前にも増して両派の対立は鮮明となった。
 一方、革命後は暫定内閣を経て、反シリア派のフアード・シニオラ内閣が成立したが、これにはヒズボラも加わり、反/親シリアの大連立政権となった。勢いを得たヒズボラは強硬な反イスラエルの立場から2006年7月、イスラエルに越境攻撃を仕掛けたため、報復としてイスラエルもレバノンに侵攻し、戦争となった。
 ヒズボラも参加していたとはいえ、シニオラ政権では後ろ盾のサウジアラビアとアメリカの影響力が増したことへの反発から、06年11月にはシーア派閣僚が集団辞職、さらに2006年12月以降2008年にかけて、親シリア派主導で再び抗議デモの波が隆起した。
 今般の抗議デモはカタールの仲介を経た2008年のドーハ合意で対立勢力が和解したため、革命に進展することはなかったが、シニオラ首相は09年に辞職、代わって暗殺されたハリーリー首相の子息サアド・ハリーリーが首相に就任した。サウジアラビア生まれで同国籍も持つサアドの政権ではサウジアラビアの影響力が一層増していく。
 一方、ヒズボラは元来シーア派教義を共有するイランの軍事的な支援を受けていたことから、革命以降、相対的に浸透力を減じたシリアに代わって、イランがヒズボラを介して影響力を増していく。その結果、レバノンは中東地域におけるサウジアラビアとイランの勢力圏拡大抗争の前線の一つとなる。
 こうして、2005年レバノン革命は限定的な成果を上げつつも、なお外国の干渉を排除できないまま収斂し、国内的にも汚職の蔓延と政局の混乱から、2020年8月のベイルート港大爆発事故後に頂点に達する経済破綻へと向かうが、この件は本稿の論外となるので論及しない。

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近代革命の社会力学(連載第445回)

2022-06-20 | 〆近代革命の社会力学

六十三 レバノン自立化革命

(3)民衆革命への力学
 内戦終結をシリアに依存したことはレバノンにとって屈辱だったとはいえ、当時人口300万人に満たなかった国で最大推計15万人の死者を出し、社会経済を崩壊させた内戦をひとまず終わらせ、復興していくには、シリアの支配を甘受するほかなかった。
 その結果、シリアは駐留軍や潜入諜報員を通じてレバノン内政に対する統制を強めていくことになるが、この体制は2000年にシリアの独裁者ハーフィズ・アサドが死去し、子息のバッシャールが世襲した後も不変であった。こうした「シリアによる平和」は90年代を通じてレバノンを安定化させ、戦後復興を経て再び経済成長を促進したこともたしかである。
 平和と引き換えの属国状態に対しては1990年代からキリスト教徒勢力の反対運動はあったが、散発的でマージナルなものにとどまっていた。その流れを変えた出来事は、2005年2月のラフィーク・ハリーリー前首相暗殺事件であった。
 ハリーリーはイスラーム教スンナ派の実業家出身で、1990年代から2000年代初頭にかけて二度、通算では12年間にわたり首相を務め、戦後復興の指揮を執った人物として定評があった。
 出自的にハリーリーはレバノン伝統のブルジョワ民主主義を象徴する人物であり、内戦中にビジネスを展開していたサウジアラビアとのパイプを持ち、復興事業では自身の建設会社への利益誘導が批判を受けたこともあるが、シリアとの関係ではシリア軍の撤退を勧告した2004年の国連安保理決議の支持者と見られていた。
 2005年2月14日(以下、日付は断りない限り2005年)のハリーリー暗殺は同時にハリーリーを含む23人が死亡する爆破テロ事件でもあったため、レバノン国民の広範な怒りを招くこととなった。
 この事件は当初未解明であったが、シリアの関与が強く疑われたことで、反シリア感情が一気に高まった。元首相を標的としたこのテロ事件を契機に、長く鬱積していたシリアへの怨嗟が封印を解かれ、表出されたとも言える。
 そのため、テロの直後から、シリアのレバノン支配と親シリア派政府に対する抗議デモが発生した。これを組織したのは、主としてキリスト教徒勢力とハリーリー支持派の世俗主義のイスラーム教徒勢力であった。空前規模のデモの拡大に直面して、2月28日には親シリア派のウマル・カラーミー首相が辞職した。
 他方、親シリア派はイスラーム教シーア派武装組織として内戦中に結成されたヒズボラを中心とするシーア派が主流を占め、3月以降、シリア支持の対抗デモを組織した。同時に、反シリア派の知識人や有力者が相次いで暗殺され、レバノンに再び内戦の予兆が表れた。
 しかし、今回は国際社会が比較的適切に介入したことで、内戦の危機は回避された。国連はハリーリー暗殺テロ事件の国際調査団の派遣を決定し、欧米やロシア、アラブ世界も互いに温度差はありながらも、こぞってシリア軍の撤退を要求した。
 その結果、シリアは4月以降、軍の撤退を開始し、同月26日までに全兵員の撤退を完了した。これによって、およそ30年に及んだシリア軍の駐留が終了することとなり、親シリア派政府の退陣とともに、民衆革命の最大目標はひとまず達成されたかに見えた。

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近代革命の社会力学(連載第444回)

2022-06-17 | 〆近代革命の社会力学

六十三 レバノン自立化革命

(2)宗派内戦からシリアの支配へ
 2005年レバノン自立化革命の前史として、1975年から15年間続いた宗派内戦がある。この内戦はレバノンの多宗派拮抗社会の力学を反映したもので、このレバノン内戦なくしては2005年の革命もなかったと言えるほどに革命の土壌を形成している。
 歴史的にレバノンはシリアと一体であったが、中東では例外的にキリスト教徒が多かったため、フランス植民統治時代にはシリアから分離されてフランス支配の拠点となり、その分割状態のまま、1943年に独立した。
 独立後レバノンの国家建設は順調で、社会主義に傾斜することの多かった周辺アラブ諸国とは一線を画し、経済的には市場経済路線を歩み、観光や金融などのサービス分野で成長を遂げ、首都ベイルートは「中東のパリ」と謳われる繁栄を享受した。
 その結果、レバノンは混乱の続く周辺諸国を尻目に中東の経済センターとなり、政治的にもフランスに範を取ったブルジョワ民主主義が定着し、クーデターや革命とも無縁の安定性を維持していた。
 また、多宗派社会の現実に即し、独立以来の不文慣習として、大統領はキリスト教徒(マロン派)、首相はスンナ派イスラーム教徒、国会議長はシーア派イスラーム教徒から出し、その他の閣僚や国会議席も宗派別に配分するという慣例が維持され、宗派間の内紛を防止していた。
 こうしたレバノンの平和を攪乱した契機は、1970年代以降、イスラエルに武装闘争を挑んでいたパレスチナ解放機構(PLO)がヨルダンを追われてレバノンに亡命拠点を設けたことであった。このような外部からの攪乱は、単独で過半を占める宗派勢力が存在しない中、微妙な均衡を維持していた社会バランスを急速に崩壊させた。
 特に政府がPLOに事実上の自治権を付与しその自立的な活動を黙認したことが、キリスト教徒勢力の強い反発を招き、内戦の引き金となった。1975年4月の騒乱事件を契機に開始された内戦では、各宗派が各々民兵組織を結成して抗争し合う凄惨な乱戦となった。
 この内戦は単なる内輪の紛争では済まず、イスラエルはもとより、冷戦時代の米ソも背後に介在したほか、バアス党支配体制下で中東の覇権を狙うシリアのアサド政権やイラン革命政権も介入して代理戦争の様相を呈し、1990年10月まで長期化した。
 内戦終結の決定因となったのは、当時イラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸危機に注力していたアメリカからレバノン制圧を黙認されたシリアの侵攻であった。シリア軍は最後まで抵抗していたキリスト教徒勢力を武力で排除し、レバノンを事実上占領した。
 こうして、1990年以降、シリアはレバノンに軍を駐留させるとともに、諜報機関を通じて選挙結果を操作し親シリア派政権を維持する形で、恒常的な内政干渉体制を構築することに成功したため、レバノンは事実上シリアの属国状態に置かれることとなった。

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近代革命の社会力学(連載第443回)

2022-06-16 | 〆近代革命の社会力学

六十三 レバノン自立化革命

(1)概観
 2005年2月から4月にかけて中東のレバノンで発生した革命は、それまで25年にわたり続いてきた隣国シリア軍の駐留とシリアによる常態的な内政干渉、及び親シリア派政権に対する民衆蜂起に端を発したものである。
 この革命も前章で取り上げた民衆諸革命と併せ、時期的な共時性からしばしば「色の革命」としてくくられることもあるが、基本的に自国体制に対する革命であった前者と異なり、レバノンの革命は外国の属国状態からの自立を求めた革命である点に構造的な相違があることから、ここでは別途扱うものである。
 もっとも、レバノン自立化革命でもセルビア革命で大きな役割を果たした青年運動オトポールの指南を受けた青年運動組織が参加しており、ユーラシア横断革命との一定のつながりは認められる。
 一方、時期的には、レバノン自立化革命は2010年以降、シリアをも含む中東アラブ諸国で継起する連続的な民衆革命の波動(いわゆる「アラブの春」)の前夜的な位置にあるが、レバノンの社会構造は周辺のアラブ諸国とは異なっており、レバノンの革命が「アラブの春」の端緒であったとは言えない。
 とはいえ、情報社会の進展により、レバノンの革命事象は周辺地域にも少なからず触発的なインパクトを与えていることからして、レバノンの2005年革命は、ユーラシア横断民衆諸革命とアラブ連続民衆革命とをつなぐような位置にあった事象と言える。
 そうした意味で、レバノンは決して大国とは言えないながらも、20世紀末から21世紀初頭にかけてユーラシア・中東にかけて広く拡散し、世紀転換期の世界情勢にも影響を及ぼす新たな革命潮流を作り出すかすがいのような役割を果たすこととなった。
 また、自立化革命という点に関しても、これは歴史上しばしば見られた宗主国に対する独立革命とは異なり、すでに独立を達成した諸国が外国の干渉から脱するべく起こされるもので、ポスト植民地主義時代における新たな革命の類型に数えられる。
 その点、後に改めて取り上げる2014年のウクライナ革命もロシアに対する自立化革命であるし、古くは1952年のエジプト共和革命も、法的には「独立」していながらなおイギリスに従属していた当時のエジプトがイギリスからの自立を追求する自立化革命としての性格を併有していたと言える。

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近代革命の社会力学(連載第442回)

2022-06-14 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(7)諸革命の余波
 ユーラシア横断民衆諸革命の余波事象は、セルビア革命が惹起した事象とグルジア革命以降の旧ソ連邦構成諸国における諸革命が惹起した事象とに分けられる。
 
 前者の余波事象として周辺への地政学的影響も大きかったのは、旧ユーゴスラヴィアが解体した1992年以来、セルビアとモンテネグロの二国連邦として構成されてきた新ユーゴスラヴィアの解体・消滅である。
 モンテネグロは1998年にミロ・ジュカノヴィチ大統領が就任して以来、ミロシェヴィチ連邦政権との距離を置くようになり、2000年のセルビア革命に際しても、ミロシェヴィチを擁護しなかった。
 2000年の革命後、モンテネグロはますます独立志向を強め、2003年には3年後に独立を問う国民投票を実施する条件付きで、セルビア‐モンテネグロ連合を改めて創設した。これは小国モンテネグロの独立を地政学的に不安視する欧州連合の仲介を経た妥協の産物であり、事実上独立は時間の問題であった。
 実際、この新連合ではモンテネグロは独自の外交・防衛制度を有しており、2006年の国民投票でも過半数の賛成をもって独立が承認されたことで、旧ユーゴスラヴィアを構成したすべての共和国が独立を果たし、名実ともにユーゴスラヴィアというレジームが終焉した。
 このことはセルビア領内のコソヴォ問題にも影響し、2007年以来、コソヴォの分離独立を促進、2008年にはセルビアの反対を押して自治州議会による独立宣言に至った。これもユーゴスラヴィア解体を介した革命の間接的余波と言える。
 
 一方、グルジア革命に始まる旧ソ連邦構成諸国の革命の余波は、同様の立場にあるいくつかの諸国にも及んだが、これらの諸国は保安機関による統制が厳しく、民衆の抗議行動の高揚は見られたものの、いずれも革命に進展することなく収斂している。以下、概略のみ箇条的に記す。
 ウズベキスタンでは2005年3月、1991年の独立以来、長期独裁を続けるカリモフ体制に対する抗議運動。東部アンディジャン市の抗議デモでは治安部隊が発砲、最大推計5000人の死者を出す事態に。
 アゼルバイジャンでは2005年11月、親子二代の世襲によるアリエフ一族体制に対する抗議運動。
 ベラルーシでは2005年3月と2006年3月、1994年以来の多選独裁を続けるルカシェンコ体制に対する抗議行動。
 ロシアでは2006年12月から2007年3月にかけ、プーチン政権(第一次)の抑圧に抗議する「反対者の行進」。
 なお、旧ソ連衛星国モンゴルでは1990年の革命以来、自由選挙制が定着していたが、2005年3月に続き、2008年7月にも、旧独裁政党・モンゴル人民党による不正選挙疑惑に対する抗議行動が見られた。

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近代革命の社会力学(連載第441回)

2022-06-13 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(6)諸革命の「その後」
 ユーラシア横断民衆諸革命はいずれも民主化を求める民衆の意志の発露ではあったが、明確な理念に基づく革命ではなく、いずれも不正選挙疑惑を契機として内爆的に生じた革命であったため、時の政権を打倒する限りでは成功したものの、「その後」には混乱が後続した。
 混乱の経緯はそれぞれに異なっているが、革命後の新政権内における確執や新政権の強権独裁化が混乱の要因となっており、各国における革命後の円滑な民主化移行プロセスを妨げたことでは共通している。
 諸革命の端緒となったセルビアでは、野党系のコシュトニツァ政権が成立した後、革命指導者の一人で、連邦構成国セルビアの首相に就任した急進改革派ゾラン・ジンジッチ首相とコシュトニツァ連邦大統領の間での確執が強まるとともに、連邦構成相手国のモンテネグロの独立志向が強まった。
 一方、国際法廷から反人道犯罪容疑で手配されていたミロシェヴィチ前大統領の身柄引き渡しが実現したが、これにはセルビア国内で民族主義的な感情からの反発も強く、引き渡しに尽力したジンジッチ首相はミロシェヴィチ時代の元警察特殊部隊員らによって2003年に暗殺された。
 グルジアでは、革命の立役者でもあったミヘイル・サアカシュヴィリが2004年の大統領選挙で当選し新政権を発足させ、市場経済改革や汚職撲滅では成果を上げたものの、次第に強権的となり、2007年には二次革命を誘発しかねない大規模な抗議デモに直面したが、前倒し選挙で再選し、2013年まで任期を務めた。
 しかし、サアカシュヴィリ政権時代、領内の南オセチアの分離独立運動をめぐり、2008年には独立派に支援介入するロシアとの間で戦争となり、国交断絶に至った。さらに、大統領退任後、サアカシュヴィリは政権期間中の人権侵害や汚職の罪状で国際手配され、ウクライナへ亡命して身柄引き渡しを免れるためウクライナ国籍を取得、異例にも同国で州知事職に就くなどし、革命指導者としての名声は失墜した。
 ウクライナでは、未遂革命後の平和的な政権交代により親欧州派ユシュチェンコ政権が発足し、満帆に見えたが、ユシュチェンコ政権の首相を二度務めた女性実業家ユーリヤ・ティモシェンコの確執が強まり、政権の求心力が弱化した。これは2010年の再選失敗と親露派の勝利・復権、さらに2014年には再革命を招くことになる(別項にて後述)。
 キルギスでは、革命後に成立したバキエフ政権が次第にアカエフ前政権と同様の縁故政治・独裁政治に傾く中、2010年には野党勢力が蜂起し、バキエフを海外亡命に追い込んだ。これは2005年の革命に続く二次革命と言うべき事象であった(別項にて後述)。
 この2010年革命は2005年革命と同様に、それ自体も暴力的な衝突を惹起したが、革命後、バキエフの支持基盤である南部で少数民族ウズベク人とキルギス人の民族衝突が勃発、多数の死傷者・難民を出す付随的な人道危機を惹起した点、中央アジアの複雑な民族構成を反映していた。

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