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近代革命の社会力学(連載第357回)

2021-12-31 | 〆近代革命の社会力学

五十一 グレナダ・ニュージュエル革命

(4)アメリカの侵攻と革命の挫折
 革命が挫折するに際しての要因としては、革命政権または革命組織内部での内紛と、外国または外部勢力による反革命武力干渉とがある。グレナダ革命は、内紛が外国の武力干渉を招来するという形で、両法則が因果的に作用するケースとなった。
 これまで見たように、グレナダ人民革命政府はイデオロギーより政策を重視する施政を展開し、成果も上げていたのであるが、革命から数年を経ると、政権内部により教条主義的な一派が台頭してきた。
 それは、バーナード・コード副首相を中心とするグループであった。コードはビショップ首相の長年の盟友であり、NJMでも協働して活動してきた間柄であった。しかし、コードはビショップよりも教条的なマルクス‐レーニン主義者であり、親ソ連派であった。
 コードは、ビショップがソ連との同盟関係強化に踏み込まず、相対的な友好関係にとどめようとする姿勢に不満を強め、1983年10月、行動を起こしてビショップを自宅軟禁下に置き、自ら首相に就任した。この事実上のクーデターには、人民革命政府の正規軍である人民革命軍の司令官ハドソン・オースティンの支持も得ていた。
 ところが、クーデターに対する抗議デモが発生し、デモ隊がビショップを自宅軟禁から救出するという事態となった。その後、ビショップは権力奪回のため、軍司令部へ向かったが、そこでオースティン配下の部隊により拘束、略式処刑された。
 この後、クーデターの実質的な黒幕と見られるオースティンがコード首相を罷免しつつ、自らを議長とする革命軍事評議会を樹立した。元兵士・警官・刑務官のオースティンは革命に際してはNJMの軍事部門を担い、ソ連とも密接につながる親ソ派であったため、このクーデターの背後にはグレナダを英語圏カリブ諸国における衛星国化しようとしていたソ連の支援があったと見られている。
 このような親ソ派の軍事クーデターという新たな局面に対しては、当時ソ連との対決姿勢を強めていたアメリカのレーガン政権が即応的な反応を示した。アメリカはクーデターから12日後の1983年10月25日、約7000人の米軍部隊と東カリブ諸国機構(OECS)の有志国部隊をもって奇襲的に侵攻した。
 迎え撃つのはわずか1500人ほどのグレナダ軍と武装キューバ人のみであったが、グレナダ側はソ連をはじめとする東側陣営からの多国籍軍事顧問団に支えられていたことに加え、米軍の指揮系統の混乱もあり、数日間の戦闘で米軍側死者19人を出したものの、最終的には全土を制圧、革命軍事評議会は瓦解した。
 この後、コードやビショップらクーデター首謀者は拘束・訴追され、死刑判決を受けた(後に終身刑に減刑)。こうして、ニュージュエル革命は完全に挫折、アメリカとOECS合同でのカリブ平和軍の監視下での暫定移行政権を経た1984年12月の総選挙で旧野党のグレナダ国民党が勝利し、正常化が成った。
 グレナダ革命は政策的に相当の成功を見せながら挫折したという点では惜しまれた革命であり、2009年になって、首都の玄関口となる国際空港が、クーデターで処刑されたビショップ元首相を記銘してモーリス・ビショップ国際空港(旧称ポイント・サリナス国際空港)に改名されている。

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近代革命の社会力学(連載第356回)

2021-12-30 | 〆近代革命の社会力学

五十一 グレナダ・ニュージュエル革命

(3)人民革命政府の樹立と展開
 労働組合独裁政治が強固に定着していたグレナダで、突如革命の道が切り開かれた遠因として、1976年の総選挙におけるゲイリー政権与党による不正行為があった。この選挙では、前出の私兵集団マングース・ギャングが有権者を脅迫するなどの投票妨害が指摘されていた。
 しかし、選挙結果はまたしても与党・統一労働党の勝利であったが、与党は議席を減らし、NJMを中心とする野党連合が15議席中6議席を獲得する躍進を見せた。しかし、ゲイリー独裁は変わらず、選挙後は政府支持派とNJM支持派との流血的な街頭抗争が激化していく。
 そうした騒乱状態の中、NJMは単独での武力革命の可能性を模索するようになり、アメリカの黒人活動家の支援を受けつつ、軍事部門をソ連を含む海外で秘密裏に訓練した。
 1979年に入り、ゲイリー政権がマングース・ギャングを使ってNJM指導部の殺害を企てているとの風評が流れると、NJMは同年3月、ゲイリー首相がニューヨークの国際連合本部に滞在中の空隙を狙って革命蜂起し、無血のうちに政権を掌握した。
 NJMは人民革命政府の樹立を宣言し、NJM指導者モーリス・ビショップが首相に就任した。革命後、NJMはそれまで混合的だったイデオロギーを整理し、マルクス‐レーニン主義を公称したが、共産党の結成には至らず、イデオロギー的には曖昧なままであった。そのため、通常は革命政府が第一に取り組む新憲法の策定を先送りし、立憲統治を確立しないまま、政令による統治を継続した。
 もっとも、人民革命政府はイデオロギーや憲法起草はさておき、NJM本来の政策志向的な性格を反映して、教育や医療などの社会政策や道路建設などのインフラストラクチャーの整備に優先注力した。その結果、1981年までにグレナダはカリブ地域内で相対的に低い失業率と高い経済成長率を記録したほか、識字率の向上や医師数の増加などの社会開発も急進展した。
 他方、外交的には、ゲイリー政権を支持していた旧宗主国イギリスとは関係が悪化し、経済援助の差し止めを受ける反面、キューバとの結びつきが強まり、キューバからの建設労働者がインフラの整備に貢献した。しかし、こうした親キューバの外交方針はアメリカの強い警戒を招き、IMFや世界銀行からの融資の差し止めなどの間接的な経済制裁を招き、最終的には武力侵攻への動因ともなる。
 しかし、グレナダ人民革命政府はそうした英米からの制裁措置にもかかわらず、政策志向の展開により、先述したような社会経済開発に一定成功した点で、第三世界の小国の社会主義革命における成功モデルとなろうとしていたが、それを内的に妨げるような動きが顕在化してくる。

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近代革命の社会力学(連載第355回)

2021-12-28 | 〆近代革命の社会力学

五十一 グレナダ・ニュージュエル革命

(2)独立と独裁
 グレナダでは英領時代の1951年に初の自由選挙が実施されたが、この時勝利したのがエリック・ゲイリーに率いられたグレナダ統一労働党である。ゲイリーは1950年代から労働運動指導者として若くして頭角を現した人物で、労働運動を土台にグレナダ統一労働党を結党した。
 この党は労働の名を冠しているが、実際には民族主義を基盤とした右派労働者政党という特質を持っていた。その点で、英国本土の最大左派政党である労働党とはイデオロギー的にも異なる独自の政党であった。しかし、当時、独立運動を抑圧する方針を採っていた英国はゲイリーの政治活動を禁じたため、彼は一時議席を喪失した。
 61年に許され、補欠選挙で返り咲くと、初めてグレナダ首席大臣となるも、英国総督により会計上の不正を理由に罷免され、62年の総選挙で敗北、67年までは野党に回った。しかし、67年に勝利して首相に返り咲くと、74年の独立をはさんで連続的に首相を務め、グレナダにおける最高実力者の地位を固めた。
 こうして、表向きは労働運動と独立運動の指導者して初代首相という輝かしい履歴の人物と見えたゲイリーであるが、その支配には裏があった。彼は、独立前の60年代から、マングース・ギャングと称された私兵集団を培養し、抗議デモの粉砕や政敵の暗殺に利用していたのだった。
 この私兵集団は公式の警察と協力する形で司法的にも免責されて不法な活動を公然と行い、ゲイリーの支配下で恐怖政治の道具として機能していた。そのため、有力な野党は育たず、統一労働党の一党優位が確立されていた。
 そうした中、1970年になると、弁護士出身のモーリス・ビショップが設立した新党・人民会議と教育、福祉及び解放のための運動の両団体が合併して、独立直前の73年にニュージュエル運動(NJM)が結成された。
 ビショップの旧人民会議は元来、タンザニアのアフリカ社会主義の影響を受けており、NJMのマニフェストも教育や福祉などの社会開発に重点を置くなど、イデオロギー的には混合的であったが、一方でNJMは当初から軍事部門として国民解放軍を備え、武力革命を想定した組織として成長していく。
 これに対し、ゲイリー政権は早速にNJMの弾圧を開始する。1973年から翌年の独立の前後にかけて、政府とNJMの衝突が続き、この間、NJMの統一指導者となったビショップも繰り返し拘束された。
 この時点で、都市労働者層は組合を通じてゲイリーの統一労働党に包摂されており、新興のNJMは充分な大衆的基盤を持っていなかったため、私兵集団を含めた圧倒的な物理力を擁するゲイリー体制を前に、NJMによる革命が成就する客観的な可能性は乏しく見えた。

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近代革命の社会力学(連載第354回)

2021-12-27 | 〆近代革命の社会力学

五十一 グレナダ・ニュージュエル革命

(1)概観
 1979年のイラン革命と同年に、中米の二つの小国で、国際秩序にも少なからぬ影響を及ぼすことになる革命が連続した。これらは、いずれもマルクス‐レーニン主義を奉じる運動体による革命であり、そうした傾向の革命としては、現時点で最終となるものである。
 その二つの革命のうち先行したのが、1979年3月のグレナダ革命である。グレナダは当時人口10万人にも満たないカリブ海の島国であったが、この地で発生した革命は、最終的にアメリカによる武力侵攻という事態を招くことになった。
 ニュージュエル(New Jewel)とは、グレナダ革命を主導した革命運動団体であるNew Joint Endeavor for Welfare, Education, and Liberation(福祉、教育及び解放のための新合同運動)の頭文字を抜き出した略称である。合同という標榜からも知れるように、元来は二つの左派系政治運動体が合同して結成された組織である。
 グレナダは、西欧列強が競争的に侵出し、奴隷貿易で獲得した黒人奴隷を使役するプランテーション植民地化したカリブ海域の島嶼の一つであり、曲折を経て18世紀以来、英国植民地として確定、第二次大戦後は、近隣の英領島嶼域と併せて、西インド連邦に編入されていた。
 その後、1960年代に西インド連邦が解体され、単独植民地となった後、67年に自治政府樹立、74年には英連邦に属する連邦王国として独立を果たした。独立の過程は、周辺の旧英領島嶼域とともに、英国自身の植民地放棄政策にも沿った平和裏なものであった。
 黒人解放奴隷の子孫が多数派を占めるカリブ海の旧英国植民地は独立後も英国モデルの議会制を採用し、ほとんどが平穏な滑り出しを見せていた中、グレナダでは例外的に独立から程なく革命が勃発することになった要因として、労働運動指導者として台頭し、独立前からグレナダ政界を支配してきたエリック・ゲイリーの独裁政治があった。
 ニュー・ジュエルは、そうしたゲイリー独裁へのアンチテーゼとして、独立に際して青年活動家を中心に結成された革命的政治運動であった。その際、マルクス‐レーニン主義が志向されたのは、この地域における革命の成功例となっていたキューバの影響であろうが、ニュー・ジョエル運動は教条的な共産党組織ではなく、名称通り、福祉や教育分野での革新と黒人解放に重点を置いていた。
 外交上は親キューバながら、内政面ではキューバと一線を画したカリブ式の新たな社会主義の試みとして注目されたグレナダ革命であったが、運動内部の権力闘争から、1983年にクーデターが発生、親ソ派の教条主義的な一派が政権を奪取したことに危機感を抱いたアメリカによる武力侵攻により、革命は挫折させられた。
 グレナダのような小国にアメリカがあえて軍事介入するのは異例のことであったが、これによって小国における革命は国際事件に進展することになった。それは、イラン革命とソ連のアフガニスタン軍事介入によって冷戦が複雑化した新たな緊張関係を象徴する出来事であった。

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続・持続可能的計画経済論(連載第26回)

2021-12-26 | 〆続・持続可能的計画経済論

第2部 持続可能的経済計画の過程

第5章 経済計画の細目

(3)世界経済計画の構成及び細目
 持続可能的計画経済の中軸を成す世界経済3か年計画は、世界全体のグローバルな計画として、世界共同体を構成する各領域圏における経済計画の規準となるものである。そのため、それは各領域圏における計画のひな型でもある。
 ただし、世界経済計画は、生産目標というよりも、各領域圏における生産活動の上限を示すキャップのような意義を持つから、その記述は大綱的なものとなる点で、各領域圏経済計画の序論に当たるような計画と考えてよい。
 その構成として、まず冒頭で3か年計画の全体像を示す総論が提示される。これは計画の各細目への導入部であると同時に、3か年計画の要約ともなる部分である。
 続いて、エネルギー計画が提示される。これは、持続可能的計画経済が地球環境の持続可能性を担保するために実施されることを反映して、環境破壊の主因でもあるエネルギーの持続可能な計画供給を実現するための土台となる部分である。世界経済計画においては主要部分と言ってよい項目である。
 その中心点は再生可能エネルギーの供給計画であるが、注意すべきは化石燃料の供給も排除されないことである。化石燃料は供給をおよそ排除するのではなく、再生可能エネルギーの補充として、計画的かつ縮減的に供給されていくことになる。その点で、資本主義経済におけるエネルギー構成とは逆転的である。
 続いて、生産計画の細目である。ここでは、業種別の産業分類によるのではなく、前回も見たように、地球環境の主要素のいずれに負荷のかかる業種かによって分類されることが、持続可能的計画経済の要諦である。
 すなわち、大気負荷産業・土壌負荷産業・水資源負荷産業・生物資源負荷産業といった分類基準となる。複数要素にまたがる包括的な負荷産業は、重複的に分類される。
 この生産計画の細目は世界計画経済の各論に当たる部分である。その策定に当たっては、世界共同体における五つの汎域圏ごとの地域な計画量が考慮されるが、汎域圏同士の分捕り合戦とならないよう、生産計画を汎域圏ごとに分割することはしない。
 なお、世界経済計画の別表として、世界共同体の直轄自治圏(及び信託代行統治域圏)の経済計画が付属する。直轄自治圏(及び信託代行統治域域)は一般の領域圏とは異なり、世界共同体が直轄するため、その経済計画も世界共同体が直接に策定するのである。その内容は、領域圏経済計画に準ずる。
 また、各次世界経済計画にはその全体概要の根拠となる環境上の指針を直接に盛り込むわけではないが、別表として明示することで、根拠を明確にするとともに、事後的な評価及び中途での修正にも対応できるようにする。

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ソヴィエト連邦解体30周年に寄せて

2021-12-26 | 時評

1991年12月26日、それまで米国と並んで二大超大国として世界に君臨してきたソヴィエト連邦が解体されて、ちょうど30周年である。遡ること10年前の20周年―当ブログの開設年でもあった―にも、筆者は本時評欄で記銘の小論をものしたことがある。

20周年は単なる節目の一つに過ぎなかったが、30周年と言えば、一世代の経過を意味する。この間、ロシアをはじめとする旧ソ連圏でも、また全世界においても、旧ソ連時代を知る人は減少し、解体時には幼少だった世代や解体後に生まれた世代、すなわち「旧ソ連を歴史としてしか(としてさえ?)知らない世代」が育ってきている。

それでも、なお旧ソ連時代の記憶が残っている現時点では、ソ連は歴史上の失敗国家とみなされて、顧みられることもほとんどなく、忘却された状態となっている。用語チェックが厳しいはずのメディアの報道でさえ、ソヴィエトと言うべき文脈でロシアと誤称することも時に見られるほどである。

しかし、30周年という一世代の節目は、旧ソ連に対するノスタルジーを排した客観的な回顧―「懐古」でなく―の最大の好機である。なぜなら、二世代近くを経過する50周年では回顧するに遠くなりすぎるからである。「懐古」ならぬ「回顧」であるには、旧ソ連社会を構造的に特徴づけた二大基軸に関して、21世紀の新たな観点から再発見する作業が必要となる。

旧ソ連社会を構造的に特徴づけた二大基軸とは、計画経済と、まさにソヴィエトの名称由来でもある会議体民主主義であったから、この二本柱が回顧=再発見の二大対象ということになる。残念なことに、旧ソ連はこの二本柱を自ら活かすことができず、構造的に失敗したわけである。

そのうち、土台構造を成す計画経済は、旧ソ連式の経済開発一辺倒の視点ではなく、新たに地球環境保全、生態学的な持続可能性の視点からの再発見を待っている。

ソ連邦解体以降の過去30年、資本主義が絶対的テーゼとして世界に拡散する中、社会主義標榜国も一斉に資本主義に適応化していく過程で、地球環境危機の加速化が進んできた。

もはや資本主義経済と環境保全の両立などと言ってはいられない状況に追い込まれている。さらに追い打ちをかけているのが、なお出口の見えない感染症パンデミックである。これも、温暖化した環境に適応し、夏季や温暖な冬季にも構わず蔓延する温暖化適応ウイルスの誕生が一因となっている。

他方、上部構造を成す会議体民主主義は、旧ソ連式の一党支配制によって骨抜きにされることなく、真の民主主義を確立するうえでの再発見を待っている。

これまたソ連邦解体以降の世界で、疑問の余地なく民主主義の標準とみなされてきた選挙議会制が堕落し、議会は社会の革新を阻止する政治的保守装置として退化、ひいては世界の主要国の議会が扇動的かつ反動的な自国第一主義のポピュリスト勢力に占拠されつつある。

党派対立に明け暮れる議会はその諸祖国でも機能しておらず、地球環境問題はもちろん、日常的な課題に対してすら、まともな討議を通じた解決を導くことができず、民衆の信頼を失っているところである。そのことは、民主主義標榜国でも議会軽視の大衆扇動型独裁者が選挙を通じて出現する可能性を作り出している。

そうしたことから、次の重要な節目となるソ連邦解体50周年に向けては、経済開発でなく、環境保全を第一目的とする計画経済及び政党支配によらず、かつ選挙という方法にもよらない会議体民主主義の理論構築と制度設計が課題となる。

・・・とぶち上げたところで、50周年を迎える2041年の世界が実際どうなっているのか、予断は許さない。その頃には、当ブログはもはや存在しないだろうし、筆者が存命しているかもわからないが、現状が惰性的に継続しているなら、世界はより破綻に近づいているだろう。

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近代革命の社会力学(連載第353回)

2021-12-24 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(9)革命の余波
 1979年イラン革命は、イランでは国教ながらイスラーム世界全体では少数派のシーア派教義に基づいていたため、その規模の大きさにもかかわらず、イスラーム世界に直接波及することはなかった。
 むしろ多数派スンナ派が優勢な諸国にあっては、国内シーア派への波及とかれらの革命的蜂起を警戒し、「敵の敵は味方」の論理に従い、イラン‐イラク戦争では世俗社会主義のバアス党が支配していたイラクに肩入れしたほどであった。
 これに対し、イランの革命体制は国際的な孤立状態を打開する目的からも、中東各国に対する革命の輸出政策を推進した。中でも、レバノンのシーア派武装組織ヒズボラは、イラン革命から程ない1982年にイラン革命政権の直接的な支援のもとに創設され、イランの革命防衛隊によって軍事訓練を受けた。
 この組織はイラン革命政権が敵視するイスラエルの抹殺を設立目的に掲げ、自国レバノンにおける革命以上に、隣国イスラエルへの軍事攻撃を主たる活動としている組織であり、今日に至るまでイラン革命体制の中東政策の中核を担う連携組織となっている。
 しかし、こうした事例は例外的で、スンナ派が優勢な諸国への革命の輸出政策には限界があったが、イラン革命の持続的な成功は、スンナ派イスラーム諸国でも、それまで革命勢力の主流的イデオロギーであった世俗的な社会主義に代わって、イスラーム急進主義が台頭する動因を作ったことは確かである。
 その点、隣国アフガニスタンの内戦における反革命勢力ムジャーヒディーンにあっても、イラン革命政権による支援は全面的ではなく、ムジャーヒディーンを組成するシーア派小組織に対するものに限定されていながら、間接的にはイラン革命による刺激が長期の抵抗運動を可能にしたとも考えられるところである。
 他方、ソ連がイラン革命のアフガニスタンへの波及、ひいてはイスラーム圏でもあるソ連の中央アジア地域への波及を警戒したことをも動機の一つとして、イラン革命と同年の12月に、アフガニスタン社会主義政権を安定化させるための軍事介入に踏み切ったことも、イラン革命の反面的な余波に含まれる。
 最終的に、アフガニスタンでソ連及びその傀儡社会主義政権が敗北し、イスラーム勢力が勝利したことはイランの直接的な貢献とは言えないとしても、如上の経緯からすれば、イラン革命の長期的な波動の帰結であったと言えるかもしれない。
 時代的に、イラン革命は戦後の東西冷戦時代晩期の始まりに当たっており、その成功は冷戦時代の第三世界における革命の主流であったマルクス‐レーニン主義をはじめとする社会主義革命の潮流を概して退潮させる効果を持ち、1980年代以降の革命の性格を大きく変える転換点ともなった。
 また、それまでソ連を主敵としてきたアメリカにとっても、米大使館占拠事件の屈辱以来、イランという第二の主敵が現れたこととなり、米ソ対立を軸とする東西冷戦構造に風穴を開ける変化をもたらした。
 そうした意味では、イラン革命の余波は直接的な影響よりも、間接的かつ長期的な影響のほうが大きく、それ自身の想定を超えて、世界秩序全体への波及効果を持っていたと言えるであろう。

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近代革命の社会力学(連載第352回)

2021-12-23 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(8)軌道修正から半民主化へ
 対イラク戦争は、イラン側の最大推定戦死者数60万人という犠牲を出しながらも、実質上イランの勝利に近い引き分けに終わった。しかも、この戦争を通じてホメイニーの原理主義的支配は強化され、イラクやその背後の大国の思惑に反し、イスラーム共和制は盤石なものとなった。
 しかし、ホメイニーは終戦の時点ですでに80歳代半ばに達しており、余命は長くなく、翌年の6月に死去した。10年近い最高指導者在任期間の大半が対イラク戦争に費やされたことになるが、すでに体制を揺るがす政敵となる勢力はほぼ一掃されていたため、ホメイニーの死去は動乱要因にはならなかった。
 もっとも、ホメイニー生前の1980年代後半期以来、革命与党のイスラーム共和党内部で、経済政策をめぐり自由経済派と統制経済派の派閥が形成されてきていたところ、ホメイニーはこれが深刻な政争につながることを懸念して、87年に党の活動停止を決断していた。
 一方、ホメイニーの後継候補者として、よりリベラルで女性や少数派の権利擁護にも積極的だったナンバー2のホセイン‐アリ・モンタゼリ副最高指導者がいたが、モンタゼリは1988年の左派政治犯に対する大量処刑を批判したことで、ホメイニーと対立し、失権していた。そのため、ホメイニー死去に際してはハメネイ大統領が後継の最高指導者に選出された。
 ただ、ハメネイはホメイニーの高弟とはいえ、宗教上の権威や名声に乏しく、ホメイニーのような指導性は期待できなかったが、かえって宗教上の最高指導者は元首として国民統合的な役割を果たし、政府の指導は選挙された大統領が行う機能分離が実現し、ファッショ化していたホメイニー時代の体制を軌道修正する契機となったと言える。
 その結果、1990年代以降、現在に至るハメネイ体制下では、定期的な大統領選挙により一定の政権交代が慣例化されるようになった。とはいえ、大統領候補者が事前に思想的な資格審査をされる点で、ある種の制限選挙ではあるが、俗人を含む候補者が選挙戦を展開する点では、独裁体制と異なる。
 また、政党政治は定着していないものの、指導的な聖職者を囲む形で、ホメイニーの原理主義に忠実な保守派と、ある程度までリベラルな改革派及び両派を均衡する中間派のおおまかな政治グループが形成され、この鼎立関係が大統領選挙では色濃く反映され、議会にも緩やかな会派的細胞の形成が見られる。
 このように、ホメイニー死去後の軌道修正されたイスラーム共和制は、不完全ではあるも、限定的な体制内民主化が進行し、半民主制とも言うべき体制に変異してきている。とはいえ、革命防衛隊とも直結する保守派の組織力は強く、議会・大統領ともに保守優位の状況は、本質的に不変である。

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近代革命の社会力学(連載第351回)

2021-12-21 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(7)干渉戦争とファッショ化
 1981年10月のハメネイ大統領の就任により、ホメイニー最高指導者‐ハメネイ大統領の子弟ラインによるイスラーム法学者の統治という独異な共和体制がひとまず確立されたが、これは、革命の対内的な防衛態勢が整備されたことと軌を一にする。
 その点、1979年5月のイスラーム革命防衛隊の創設が重要な意味を持った。これは、共和革命の時点で「中立」を守ったものの、ホメイニーをはじめ革命派の間では旧帝政時代の国軍に対する不信感が根強い中、革命防衛を目的とした独自の親衛組織として創設された武装組織であった。
 当初は民兵組織の域を出なかったが、短期間で拡充され、旧国軍を引き継いだ正規軍を凌ぐほどの装備と権限を持ち、系列企業さえも擁する軍産複合組織へと変貌し、今日に至るまで、イラン体制最大の守護者となっている。なお、ハメネイも短期間ながら、革命防衛隊の暫定最高司令官を歴任している。
 こうして、早期に対内的な革命防衛態勢が整備されたため、反革命派との内戦の勃発を抑止できたのであるが、対外的にはなお脆弱であった。周辺諸国にも波及する大規模な革命の常道として、1979年イラン革命にも、外国からの反革命干渉戦争の手が伸びてきたのである。
 それは西の隣国イラクからであった。当時、イラクでは世俗社会主義のバアス党支配体制内で政権交代があり、従前より事実上の最高実力者であったサダム・フセイン副大統領が1979年に大統領に昇格し、権力固めに余念がなかった。
 フセインは、イラク国内最大宗派ながら抑圧されてきたシーア派が拠点の南部でイラン革命に呼応して革命蜂起することを恐れており、このことと、イランの石油利権の喪失やイスラーム革命の連鎖を懸念する米欧、さらに東の隣国アフガニスタンの社会主義政権の後ろ盾であったソ連の利害は一致していた。
 こうして1980年9月、イラク軍の奇襲によって火蓋が切られた通称イラン‐イラク戦争―開戦経緯からすれば、イラク‐イラン戦争と呼ぶべきか―は、決定力を欠く両国の間で膠着し、1988年まで継続する長期消耗戦となった。
 この戦争は、二国間の戦争でありながら、背後では米欧、ソ連のほか、シーア派と対立的なサウジアラビアをはじめ中東のスンナ派イスラーム諸国も、イラクに直接間接の支援を行う代理戦争の性格を持った。
 中でも、レーガン共和党政権に交代したアメリカが戦時中の1984年にイラクと国交を回復し、多額の援助を行ったことは、フセイン政権の軍国主義的膨張、ひいてはイラクをめぐる二度の湾岸戦争の遠因ともなった。
 一方、ほぼ孤立無縁状態のイランは、この長期戦で前出の革命防衛隊を前線にも投入する総力戦を強いられたが、戦争を通じて、革命防衛隊は海軍や空軍をも備え、正規軍とともに対外戦争にも対処可能な軍事組織に成長していった。
 戦時中、革命体制は勝利を目指し、最高指導者ホメイニーを至上とする精神統一を進めたため、1989年のホメイニー死去までの時期は、統制的な戦時体制と相まって全体主義的な色彩を持ったある種のファシズム体制の様相を呈した(ファシズムの側面については、拙稿参照)。
 これはイスラーム法を基盤とした民主的共和体制を構想していたバニサドル初代大統領らの想定からは大きく外れた帰結であり、バニサドルに代表されるようなリベラルなイスラーム主義の革命潮流が、対イラク戦争の過程で一掃されたことを意味する。

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近代革命の社会力学(連載第350回)

2021-12-20 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(6)イスラーム共和制の樹立まで
 1979年イラン革命は純度の高い民衆革命として遂行されたとはいえ、党派性が皆無であったわけではない。革命運動の精神的支柱であったホメイニーを取り巻く革命運動の党派を大別すれば、大きく親ホメイニー派と反ホメイニー派とに分かれる。
 ホメイニー支持派は革命運動の主流派で、それはホメイニー自身を含むイスラーム教シーア派教義を重視するシーア派原理主義者と、臨時政府から革命政権の初代首相となったバーザルガーンに代表されるリベラルなイスラーム主義者に分かれていた。
 親ホメイニー派は、革命直後の1979年2月にイスラーム共和党を結党し、これ以降は同党が革命与党となるため、党派性が増していくが、同党は最終的に1987年には解散され、過渡的な役割しか果たさず、以後のイスラーム共和制では政党政治は根付かなかった。
 他方、反ホメイニー派は、主に左派であるが、これにも、革命前から武装活動を活発化させていたモジャーヘディーネ・ハルグのような左派イスラム主義系と、歴史の古いトゥーデ党のようなマルクス主義系とがあった。
 これらの反ホメイニー派も共和革命の過程にはそれぞれの立場で参加したが、革命後はホメイニーを中心とする革命政権には参加することなく、1980年代以降、非合法化されていき、イスラーム共和制に対する敵対勢力となった。
 ホメイニーを軸に形成された革命政権は、当然ながらホメイニー支持派が優位であり、当初は内外の警戒を抑制するためにも、政権実務の前面にリベラルなイスラーム主義者が立ち、原理主義者は背後からイデオロギー面を掌握していた。
 1979年10月に国民投票をもって制定された新たな憲法が、シーア派最高指導者を元首とするイスラーム法学者(≒聖職者)による統治という神権制の要素と西欧的な選挙に基づく大統領共和制の混合憲法となったのも、ホメイニー支持両派の折衷の産物だったからにほかならない。
 しかし、革命政権が安定化するにつれ、ホメイニーを高く奉じる原理主義派の勢力が優位になる。そうした中で、旧帝政派要人に対する革命裁判による大量処刑やその他の反革命派に対する弾圧が並行して拡大されていき、あたかもフランス革命期のロベスピエールによる恐怖政治を思わせる状況が現れた。
 一方では、モハンマド・レザー廃皇帝の亡命をアメリカが受け入れたことへの反発が大衆の間で高まったことを背景に、反米感情が沸騰し、79年11月には、ホメイニーを信奉する急進的な学生グループがアメリカ大使館に乱入し、大使館員を人質に取って立てこもるという前代未聞の国際事件が発生した。
 この占拠事件は解決まで一年以上を要する国際問題となり、事件の早期解決に失敗したカーター大統領の再選失敗とレーガン共和党政権への交代をもたらすなど、アメリカ政治にも直接の影響を及ぼすこととなった。
 イランにおいても、この事件は転機となり、事態の収拾に難渋したバーザルガーン首相の辞任を結果した。リベラル派代表者の下野は同派にとっては打撃であったが、1980年の大統領選挙でバーザルガーン政権の財務相を務めたアボルハサン・バニサドルが初代大統領に当選したことで、リベラル派が勢力を維持した。
 60年代から反帝政運動の活動家だったバニサドルは聖職者ではないが、ホメイニーからも信頼されていた俗人で、リベラル派と原理主義派をつなぐ存在として期待されたが、原理主義派が優勢な国会との協調関係を築けず、大使館占拠事件でもアメリカに対する融和的姿勢が批判を受け、1981年6月、国会による弾劾罷免決議を経て、大統領の地位を追われ、最終的には亡命者となった。
 バニサドルの放逐はイラン革命の大きな転機となり、後任に俗人ながら反米強硬派のモハンマド・アリー・ラジャーイー首相が就いたことで、原理主義派の優位性が高まった。しかし、ラジャーイー大統領は反政府活動を活発化させていたモジャーヘディーネ・ハルグによって在任16日にして暗殺された。
 この後、ホメイニーの門弟にして側近でもあった聖職者アリー・ハメネイが第3代大統領に選出されたことで、ホメイニーを中心とする原理主義派の権力が確立されることになる。

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比較:影の警察国家(連載第51回)

2021-12-19 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

1‐2:州刑事庁と州憲法擁護機関

 ドイツの州警察は集権性と統合性が強いため、州レベルの警察機構の圧倒的な中核を成す点で、同じ連邦国家でも、アメリカとは大きな相違が見られるが、刑事警察を補う犯罪捜査専門機関としての州刑事庁と、政治警察としての州憲法擁護庁は例外である。
 州刑事庁(Landeskriminalamt:LKA)は、州警察の刑事部門では対処し切れない麻薬密輸、組織犯罪、ホワイトカラー知能犯罪、テロリズムなどの重大事犯の捜査に専従する専門機関である。LKAはまた、一種の諜報機関として、内外の情報分析と分析結果の州警察への提供も行うほか、州によっては警察特殊部隊である特別出動コマンドを擁する場合もある。
 ちなみに、連邦レベルにも、相似的な形で連邦刑事庁(Bundeskriminalamt:BKA)が設置され、各州刑事庁の支援・調整を行っており、ドイツ的な連邦‐州の二元相似性を象徴する態勢となっている。
 同様の構造は、政治警察である憲法擁護庁についても見られ、各州には州憲法擁護機関(Landesbehörde für Verfassungsschutz)―正式名称や組織構造は州ごとに異なる―が設置され、連邦レベルの連邦憲法擁護庁(Bundesamt für Verfassungsschutz:BfV)の支援・調整のもとに、反憲法的とみなされる組織や個人の監視を行っている。
 これは、後に改めて見るように、「闘う民主主義」という理念に基づき、憲法上の民主主義の護持という名目で種々の監視活動を行う態勢であり、戦後ドイツ流の政治警察の在り方である。近年は「テロとの戦いテーゼ」の下、イスラーム主義者の監視が主要な活動となっている。
 ただし、戦前はナチスのゲシュタポ、戦後は旧東独のシュタージという二つの抑圧的な秘密政治警察による大量人権侵害への反省から、憲法擁護庁は秘密裏の諜報権限のみで身柄拘束等の強制権限を持たないため、事件としての捜査・立件は、州警察や州刑事庁が担当する。
 とはいえ、各州と連邦に政治警察が二元相似的に設置され、日常的に社会を監視する態勢は本連載で扱う他の四か国にも見られない稠密な監視システムであり、権限が法的に制約されている点を考慮しても、ドイツにおける影の警察国家化の中心点と言える。

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近代革命の社会力学(連載第349回)

2021-12-18 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(5)共和革命の成功
 1978年のムハッラム抗議デモの後、明けて1979年に入ると、情勢は一挙に革命化していく。その最大の契機となったのは、帝政を支える物理装置である軍の士気の低下であった。当時のイラン警察は暴動対処の訓練を受けておらず、抗議行動の鎮圧は軍にかかっていたから、その士気の低下は致命的であった。
 もう一つの要因として、最大の支援国・同盟国であったアメリカのカーター民主党政権が帝政を支えることに消極的となっていたことも、革命を後押しした。その点では、1950年代にクーデターを誘導して当時のモサデク民族戦線政権を打倒し、帝政を助けた共和党政権とは異なり、人権外交を掲げるカーター政権は人権抑圧で悪名高いパフラヴィ―朝の延命支援には消極的であった。
 こうした内外の体制維持の鍵を失ったモハンマド・レザー皇帝は権力維持を断念し、軍事政権に代えて野党・民族戦線系のシャープール・バフティアールを首相に任命したうえで、国外へ脱出した。形式上皇帝から任命されたとはいえ、事実上は帝政を離れた権力移行政権となったバフティアール政権は民主化と自由化を掲げ、ホメイニーの帰国を許可した。
 こうして実現した1979年2月のホメイニーの帰国は、熱烈な歓迎を受けた。バフティアールとしては、ホメイニーを取り込んで民主体制を樹立する狙いであったが、ホメイニーはすでに1月中に支持者で構成されたイスラーム革命評議会(以下、革命評議会)を組織し、水面下で革命政権の樹立準備を開始していた。
 そのため、ホメイニーは帰国後直ちに、臨時政府の樹立を宣言し、革命評議会のメンバーでもあったリベラルなイスラーム主義者メフディー・バーザルガーンを首相に任命した。これは、公式政府に対抗する並行政府の樹立に他ならなかった。
 この動きに反発し、退陣を拒否するバフティアール公式政府との間で武力衝突が生じた。臨時政府支持者は政府の武器庫を襲撃し、市民に武器を配布するなど、あたかもフランス革命当時のような騒乱状況に発展する兆しが見える中、軍部が不介入方針を示したことが駄目押しとなり、2月11日に、バフティアール政権は総辞職した。
 これによって、革命評議会・臨時政府が名実ともに新政権として立つこととなった。1978年から約一年に及ぶ共和革命のプロセスがひとまず一段落したわけであるが、ここまでのプロセスは政党・政治団体その他の組織された革命集団によらない革命運動によって遂行されており、相当純度の高い民衆革命であった点において、新しい革命の形を示したと言える。
 中でも、女性の果たした役割には看過できないものがあった。イスラーム社会における女性に対するステレオタイプの見方に反して、イラン革命には多くの女性が様々な形で参加しており、ホメイニーも女性の参加を奨励していた。特に、子連れ女性のデモ参加は兵士に発砲を躊躇させ、士気をくじく物理的な要因の一つとなったと言われる。
 このような純度の高い民衆革命が完全なアナーキーの内乱状態に陥らなかったのは、海外亡命中のホメイニーがその宗教的な権威をもって外から革命運動を指導的に鼓舞し、時宜を得た声明を通じてかなりの程度運動をコントロールさえしていたことが大きかった。その意味では、ホメイニーの革命でもあった。
 ちなみに、革命成就の時点で、ホメイニーはすでに80歳近くに達していた。通常は、青壮年層の人物が指導的な役割を果たすことが多い革命にあって、80歳に近い老人が革命の精神的な支柱とともに、革命後の最高指導者となる例は稀であり、この点でも、イラン革命には他の革命には見られない特徴があった。

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近代革命の社会力学(連載第348回)

2021-12-17 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(4)共和革命への力学
 1979年のイラン革命は、当時西アジアで最も安定し、資本主義的経済成長著しかったイランで突発したように見えたため、通常の革命の法則が妥当しない、変則的な革命とみなされることが多い。革命後に現れたイスラーム共和制という特異な政体を含め、特に西側ではイラン革命は異形視されることが多い。
 表層的に見れば、たしかに1979年イラン革命には様々な点で従来の革命とは異なる特徴が認められようが、深層的に見てみれば、そこには革命につながる法則的な作用が認められる。
 まずは、「白色革命」のひずみである。前回も見たとおり、その筆頭政策でもあった農地改革は、地主層にも農民層にも不満をもたらす不完全なものであった。結果は、農業生産力の低下と農民の都市部流出に伴う都市の低所得労働者階級の増大であった。これは、農村における階級分裂とともに、都市でも階級分裂を引き起こした。
 さらに、1970年代に入って、モハンマド・レザー皇帝が政治的にもいっそう専制化したことがある。彼は1971年、伝統の「シャー」に加え、「アーリア・メヘル」(アーリア人の光)を皇帝の第二称号とし、古代ペルシャ帝国の建国を記念するイラン建国二千五百年祭を盛大に挙行するなど、いささか誇大妄想的なアーリア民族主義にのめり込んでいった。当然、それは国費の膨大な費消を伴った。
 とはいえ、イラン経済はオイルマネーにより金余りの局面にあったことがこうした豪勢な政治的投資をも可能にしていたわけであるが、1973年のオイルショック後は、インフレーションに見舞われた。このインフレは、皇帝や皇族には収入増をもたらしたが、インフレ対策としての緊縮政策は庶民の生活難をもたらした。
 そうした状況下で、皇帝が大衆慰撫策として、ある程度言論・集会の自由を緩和したことは、革命運動に弾みをつける結果となった。こうした慰撫策は1977年頃から徐々に進められた。
 一方で、同年の4月に当時進歩的なイスラーム主義思想家として知られたアリ・シャリアティ、10月にはホメイニーの子息にして側近で、自らも聖職者のモスタファ・ホメイニーがいずれも不可解な状況下で死亡している。反体制派はこれらを政治警察SAVAKによる暗殺として宣伝した。真相は不明であるが、この二つの「事件」が抗議活動を刺激したことは確かである。
 明けて1978年は、一年を通じて抗議運動が全国に拡大する年となった。政府系雑誌に掲載されたホメイニー批判に抗議する一月の神学生によるデモで数十人の死者を出した事件を皮切りに、抗議行動が全国に波状的に拡大していく。
 一年間に様々な革命の予兆的な出来事が集中的に継起しているが、当初は極力慰撫策で臨んだ政府の対応は9月、テヘランの街頭デモに対する治安部隊の発砲で100人近くが死亡した事件(黒い金曜日事件)を機に、皇帝がテヘランほか主要都市に戒厳令を布告して以降、一変する。
 しかし、この強権発動は逆効果となり、同月から11月にかけて、全国にストライキの波が拡大していった。11月にテヘラン大学生による大規模なデモが発生すると、皇帝は自ら政府を総辞職させ、軍事政権に取って替えた。
 これは皇帝自身による自己クーデターとも言える究極的な非常措置であったが、時機遅れであった。ホメイニーが亡命先から軍事政権の樹立を非難し、さらなる抗議を呼びかけたことに呼応し、ムハッラム月(イスラーム暦による最初の月)となる12月には抗議デモが一層拡大した。
 人口の5パーセントが参加したとも推計されるこの1978年ムハッラム抗議デモには多くの女性を含む一般市民層も参加し、この段階になると、デモ隊は皇帝の退位とホメイニーの帰国を公然と要求するようになっていた。後から振り返れば、この時こそ抗議運動が革命運動に転化した画期であったと言える。

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近代革命の社会力学(連載第347回)

2021-12-16 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(3)革命運動の隆起
 パフラヴィ―朝による「白色革命」が掲げた多数の改革項目の中でも、特に革命につながる反作用を招いたものは、農地改革と脱イスラーム化である。この両項目は、それぞれイラン社会の永年にわたる下部構造と上部構造とに変革に加える要素であったから、必然的に強い反作用を招いたのであった。
 政府が買収した土地を農民に分配した農地改革では、まず地主層が反発したことは言うまでもないが、農地分配は不完全であり、かえって分配を受けた中産農家と貧農の階層分化を促進し、貧農の都市部流出を招いた。
 一方、脱イスラーム化は当然にも、保守的な聖職者のイデオロギー的な反発を招いたが、実は高位聖職者のかなりの部分が地方の地主層の出自であり、モスクの運営資金源も不在地主としての地代に依存していたため、農地改革への不満と脱イスラーム化への反発とは構造的につながっていた。
 中でも、後に革命の最高指導者として台頭するルーホッラー・ホメイニーはそうした地主階級出自の有力な聖職者として、1940年代から頭角を現す。彼は先代のパフラヴィ―朝初代皇帝レザー・シャーの時代から続く近代化政策に一貫して異論を唱え、イスラーム保守派の代表的な理論指導者と目されるようになった。
 ホメイニーは1963年に始まる「白色革命」に対しては最も強硬な反対論者となったため、彼を危険視した政府によって64年以降、国外追放処分となり、トルコ、イラクを経てフランスに亡命を余儀なくされた。
 ただ、こうした保守派の蠕動のみでは、革命に進展することはない。革命が隆起するに当たっては、左派の活動も寄与している。左派は、「白色革命」の反社会主義的な要素(または中途半端な折衷主義の要素)に反発していた。
 その点、イランにおける最大左派トゥーデ党は前に見たとおり禁圧され、閉塞していたが、新たにイスラーム教義とマルクス主義を融合したユニークな理念に立つモジャーヘディーネ・ハルグ(イラン人民聖戦士団)なる左派イスラム主義のグループが台頭し、武装ゲリラ活動を開始した。
 一方、50年代に失権したモサデク元首相の実質的な後継者としてイラン自由運動を結成したメフディー・バーザルガーンが60年代以降、リベラル民主派の中心人物となり、主としてパフラヴィ―朝の専制主義を批判し、より民主的な体制の樹立を目指していた。
 このように、「白色革命」は種々の反体制運動を刺激していたが、統一性を欠き、運動は決定力を持たずにいたところ、ホメイニーは亡命中の身ながら、その思想家的なカリスマ性から、イデオロギー上の相違を超えた運動全体の精神的な指導者として、次第にその影響力を増していく。
 一方で、「白色革命」が特に重視した教育の整備は、大衆の識字率を飛躍的に高めるとともに、大学生など有識青年層を分厚くしたことで、革命的な意識の覚醒を助長した。この社会変化が革命の時機を早める働きをした。皮肉にも、「白色革命」における重要な成果面が革命を促進したのである。

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近代革命の社会力学(連載第346回)

2021-12-14 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(2)パフラヴィー朝と「白色革命」
 1979年イラン革命の端緒となるのは、当時のパフラヴィ―朝第二代皇帝モハンマド・レザーが開始した大々的な近代的社会経済開発計画であった。それは真の意味での革命ではなかったが、強大な皇帝権力を背景に、反共の立場から、社会経済の全般的な改革に及ぶ計画であったことから、「白色革命」と称された。
 この上からの大改革策は未完に終わったものも含めれば、19項目にも及ぶ総合的な計画であったが、そのうち優先度の高い6項目は1963年に国民投票をもって決定されたため、それらは憲法化されることこそなかったものの、憲法に近い規範性をもって施行されることとなった。19項目を貫くイデオロギー的な基軸は、反社会主義と反イスラーム主義の二本柱から成る。
 前者は、1950年代前半に立憲革命以来のベテラン政治家モハンマド・モサデクが首相として率いた民族戦線政府が施行した石油産業国有化を柱とする社会主義的政策の否定を意味した。そのため、「白色革命」では、国営企業の民営化が追求された。
 ただし、一方で、農地改革(大土地の有償による買収と農民への分配)、水資源や森林・牧草地の国有化、民営企業における労働者の利益共有(職場の純利益の20パーセントを取得)、物価統制、地価統制・土地投機規制などの社会主義的な施策も相当に包含するなど、折衷的な性格が見られた。
 他方、後者の反イスラーム主義は、伝統的なイスラ―ム的慣習の排除を意味した。具体的には、女性参政権の保障、ヒジャブ(ベール)着用の禁止、一夫多妻制の禁止など、女性の権利の向上に重点を置いた施策が志向された。
 その他、具体的な改革項目には、無償の義務教育制度、全国民を対象とする社会保険制度、乳幼児を持つ母親への無料の食糧配給などの福祉国家政策も包含されており、全体を見ると、「白色革命」は西欧的な福祉国家をモデルとした修正資本主義的な傾向を持つ社会経済改革であったと評することができる。
 しかし、その改革項目は社会経済の下部構造の改革に集中し、上部構造の柱となる政治制度の改革には及んでいないことが注目される。政治的には立憲君主制の外形を取りつつも、実態は皇帝の独裁であり、反帝政運動はいかなる理念によるものであろうと、悪名高い政治警察・国家諜報保安機構(SAVAK)によって容赦なく弾圧された。
 中心を成す下部構造に関する改革に関しては、年率10パーセント近い経済成長を促すなど成功を収めたとはいえ、オイルマネーと結びついた贈収賄も横行し、改革項目の19番目に小さく掲げられていた汚職撲滅は全く効果がなく、かえって汚職が構造化された。
 こうして、専制君主制の下での修正資本主義的・世俗主義的改革という性格を持つ「白色革命」は、矛盾を含んだまま1970年代を迎える。ただし、革命勃発までには16年の年月を隔てており、その間に「白色革命」が矛盾を内発的に克服できていれば、革命を回避し得た可能性はあるも、そうはならなかった。

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