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近代革命の社会力学(連載第9回)

2019-08-26 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命 

(3)革命主体としての議会  
 17世紀英国革命では、議会が革命の主体となったことが大きな特徴であったが、これは議会制度が他国に先駆けて中世から発達した英国ならではの特徴と言える。英国の封建議会も元来は封建貴族の利益代表機関であったが、13世紀半ば、シモン・ド・モンフォールの蜂起を機に州や都市から非貴族の代表者が参加するようになった。  
 非貴族といっても、実際に参加できたのは州の騎士や都市の有力商人を中心とする地主階級であったが、世襲貴族ではない平民階級が議会に参加するようになったのは、当時としては画期的であった。この平民議員はやがて貴族とは分離して独自の会議を持つようになり、これが今日まで続く英国平民院(House of Commons)に結実する。  
 ちなみに、House of Commonsはしばしば「庶民院」と訳されるが、17世紀当時のHouse of Commonsの議員たちは農民に代表されるいわゆる「庶民」ではなく、地主層のブルジョワジーであったから、「庶民」の訳は少なくともこの時代のHouse of Commons には適しないだろう。  
 ともあれ、英国では大陸ヨーロッパに先駆けてブルジョワ革命が中世のうちに、明確な革命によらずして―前出ド・モンフォールの蜂起は革命的なものと言えたが―、達成されていた。このような背景の下、17世紀の近世を迎える。  
 この時代、王権はテューダー朝最後のエリザベス1世女王が継嗣なくして死去したことから、遠縁に当たるスコットランドのステュアート王家を招聘して、イングランド‐スコットランド同君連合という体制に移行していた。  
 フランスの影響が強かったステュアート朝は、基本的に平民院を軽視しており、民主的な体質からは程遠かった。特にステュアート朝二代目のチャールズ1世は、急速に悪化していた財政難解決のため、議会の頭越しに国王大権によって各種の増税を断行した。議会がこれに抗議すると、チャールズは議会解散の強権行使に出たことから、議会との対立は決定的になった。  
 それにしても、議会と国王の対立が単なる政争を超えて内戦にまで飛躍したのは、父王ジェームズ1世から受け継いだ王権神受説を信奉し、妥協を苦手としたチャールズの個人的性格も影響したと思われる。他方で、議会側にも好戦的な騎士階級の議員が多く加わっていたことは、両者の武力衝突を避けられないものにした。  
 もっとも、チャールズを中心にまとまりのよかった国王派に対し、議会派には様々な派閥が分岐していたが、いまだ近代的な政党組織の出現する以前のことであり、明確な党派としては確立されていなかったため、少なくとも内戦の過程では党争は抑制されていた。  
 国王派と議会派の衝突は、二次にわたる長い内戦を経て、最終的に議会派が勝利し、1649年のチャールズ処刑と王制廃止・イングランド共和国樹立という近代史上初の共和革命を導くこととなった。  
 内戦の過程で、議会側はにわか仕立ての寄せ集めにすぎず、国王軍に対して劣勢だった革命軍をより組織的で一元的な指揮系統を擁する新型軍(New Model Army)に再編したことが勝因となったが、この新型軍は議会法に基づいて組織される近代的な常備軍の原型ともなった。  
 このように革命主体が議会でありながら、内戦を通して軍事的な性格を強めたことは、国王処刑という武断的な事後処理と、それに続き、民主的とは言い難い軍事政権型の共和制を生み出す契機となったと考えられる。しかし、このように内戦をも伴う軍事的革命というモデルは、良くも悪くも、その後の近代革命の先例となったのである。

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