ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

持続可能的計画経済論(連載第22回)

2018-06-27 | 〆持続可能的計画経済論

第5章 計画経済と企業経営

(3)自治的労務管理
 前回も見たとおり、計画経済下における企業経営にあっては労働者の自主管理もしくは労使共同決定が基本となる。このことが意味するのは、労務管理が労働者自身によって自治的に行われるということである。
 この点、市場経済下の企業活動における労務管理は、経営と労働の分離に基づき、経営者が企業の収益獲得のための人的資源として労働者を使用するための管理政策であるから、それは本質上命令的かつ統制的なものとなる。
 これに対抗するべく、民主的な諸国では労働者に労働組合の結成を認めているが、労組はあくまでも社外の労働者組織に過ぎず、企業の内部的な意思決定に直接参加することはできないうえ、労組の活動には法律上も事実上も種々の制約があり、企業の労務管理への対抗力としては限界を抱えている。
 これに対し、計画経済下での自主管理や共同決定は、労働者が企業の内部的な労働者機関を通じて直接に企業経営に参加する制度であるから、そこにおける労務管理は本質上自治的なものとなる。
 反面、労働組合のような社外組織は必要性は減じるため、労働組合制度は廃止してさしつかえない。「労組廃止」という言い方が不穏であるならば、共産主義企業においては、資本主義的な労働組合の制度が企業の総監督機関たる内部機関としての従業員総会という形で発展的に解消される、と理解することもできよう。
 こうした自治的労務管理をもってしてもなお発生し得る個別的な労働紛争に関しては、社内に社外専門家から成る労務調停委員会を設けるなどの方法で個別に対処することが考えられる。
 ちなみに、広い意味での労務管理は準役員級の幹部労働者を含めた人事管理にも及ぶが、こうした幹部級人事管理の扱いについては別途考察を要する。基本的には、人事案件も自治的労務管理の範囲に含まれ、少なくとも幹部人事については自主管理ないし共同決定の対象となると考えられる。
 しかし、企業規模の大きな生産事業機構や生産企業法人の場合には人事の効率性を考慮して、一定以下の幹部人事については定款をもって経営責任機関の権限に委ねることも許されてよいかもしれない。

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持続可能的計画経済論(連載第21回)

2018-06-26 | 〆持続可能的計画経済論

第5章 計画経済と企業経営

(2)民主的企業統治
 計画経済における企業経営では、企業統治の民主化が大きく進展する。市場経済下では「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と言われるとおり、株式会社をはじめ、市場経済的な企業経営は代表経営者のトップダウンや少数の重役だけの合議で決定されることになりやすい。
 これは、市場経済的な企業経営にあっては収益獲得が最大目標となるため、同業他社との競争関係からも可及的迅速な意思決定が求められることによる。
 これに対し、前回述べたように公益増進を目標とする計画経済下の企業経営にあっては民主的な討議に基づく意思決定―民主的企業統治―が可能であり、また必要でもある。
 そのあり方は前章で見た種々の企業形態に応じて様々であり得るが、すべてに共通しているのは、従業員機関が基本的な議決機関となることである。その点では株式会社における株主総会制度と類似する面もあるが、株主総会はあくまでも投資者としての経営監督機関にすぎず、株式会社の従業員機関は社外組織としての労働組合が不十分に事実上これを代替し、内在化されていない。
 従業員機関を基盤とする究極の民主的企業統治は、労働者自らが直接に経営に当たる自主管理である。その点で、共産主義的な私企業に当たる自主管理企業としての生産協同組合は、民主的企業統治のモデル企業となる。
 しかしこれは計画経済の対象外にある企業であり、計画経済の対象となる公企業としての生産事業機構にあっては、企業規模からしても文字どおりの自主管理は可能でない。そこで、この場合は労使共同決定制が妥当する。
 その詳細はすでに企業形態について議論した前章で言及してあるが、繰り返せば経営委員会と労働者代表委員会との共同決定制である。特に労働条件や福利厚生に関わる事項は、労働者代表委員会の同意なしに決定することはできない。
 さらに民主的企業統治のもう一つの鍵は、経営責任機関の合議制である。いずれの企業形態にあっても、強大な権限を与えられたトップは存在しない。生産事業機構の経営委員長にせよ、生産協同組合の理事長にせよ、経営責任機関をとりまとめる議長役にすぎず、いわゆるワンマン経営の余地は全くない。こうした合議制を徹底するうえでは、あえて経営責任機関に代表職を置かない制度も一考に値する。

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持続可能的計画経済論(連載第20回)

2018-06-25 | 〆持続可能的計画経済論

第5章 計画経済と企業経営

(1)公益的経営判断
 計画経済における企業経営は、当然にも市場経済におけるそれとは大きく異なったものとなる。すでに述べたように、真の計画経済ならば貨幣交換を前提としないから、およそ企業活動にはそれによって貨幣収益を獲得するという目的が伴わない。とりわけ計画経済の対象となる公企業にあっては、まさに公益への奉仕が企業活動のすべてである。
 こうした公企業の経営は経済計画会議が策定した共同計画に準拠して行われるから、経営機関の裁量は限られたものとなる。ここでの経営判断は共同計画の範囲内で、いかに環境的に持続可能で、安全かつ良質の製品・サービスを生産し、公益の増進に寄与し得るかという観点からなされることになる。
 このことは、ソ連式計画経済の下で起きていたように「中央計画」にただ従うだけの機械的・官僚的な経営判断を意味していない。持続可能的計画経済にあっては、経済計画会議を通じた企業自身による自主的な「共同計画」―「中央計画」ではない―が経営の共通指針となるのであるから、この共同計画(3か年計画)の策定へ向けた見通しと準備も重要な経営判断事項となる。
 こうした非収益的な経営判断を公益的経営判断と呼ぶことができるであろう。ただ、このような経営判断は主として計画経済の対象となる公企業に妥当するものであり、計画経済の対象外となる私企業については全面的に妥当するものではない。
 とはいえ、私企業であっても、市場経済下とは異なり、やはり貨幣交換による収益獲得が存在しない点では公企業と同様であり、公企業から製品・サービス等の供与を受ける限りでは、間接的な形で経済計画が及ぶことからすれば、その経営判断はある程度公益的性質を帯びることになるだろう。
 もっとも、私企業にあっては、物々交換の形で一定の交換取引に従事することも認められることから、その面では収益的な活動を展開する自由がある。その限りで、私企業では収益的経営判断が必要とされるだろう。
 総じて言えば、計画経済下での経営判断はいかに儲けるかではなく、いかに社会に貢献するかという公益性を帯びるという点において、市場経済下ではせいぜい企業の二次的な責務にすぎず、所詮はPRの一助でしかない「社会的責任(CSR)」が、そうした特殊な用語も不要となるほど、企業経営の本質として埋め込まれると考えられる。

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持続可能的計画経済論(連載第19回)

2018-06-20 | 〆持続可能的計画経済論

第4章 計画経済と企業形態

(5)企業の内部構造〈3〉
 前回まで見た企業形態は、いずれも一般的な生産活動に当たる生産組織の例であったが、今回はそれ以外の分野における特殊な企業形態について概観する。
 まず計画経済の適用があり、生産計画Bに基づいて運営される農漁業分野のような第一次産業分野は社会的所有型の生産事業機構(農業生産機構や水産機構)によって担われる。ただ、その内部構造は通常の生産事業機構とは異なる。
 第一次産業は地方性が強いため、地方ごとの分権的な分社構造を採ることが合理的である。どのレベルでの分社構造かは政策的な判断に委ねられるが、集約性を高めるには相当広域的な分社構造とされるだろう。その点で、細胞化された地域協同組合の連合組織として運営されてきた日本の農協・漁協とは根本的に異なる。他方で、ソ連の国営農場ソフホーズのような中央集権構造とも異質である。
 これら各生産事業機構の地方分社はそれぞれが生産事業機構としての構造を備えるが、中央本社にも各分社から選出された委員で構成する経営委員会と労働者代表委員会が置かれる。
 他方、地方ごとの消費計画に基づく消費事業を担うのは、消費事業組合である。これは自主管理型の生産協同組合とは異なり、各地方ごとの住民全員を自動加入組合員とする一種の生活協同組合組織である。
 そのため、その運営は組合員の代表者で構成する組合員総代会をベースに、経営に当たる理事会と組合従業員の代表から成る労働者代表役会が共同決定する二元的な内部構造となる。
 以上とは異なり、福祉・医療・教育などの公益事業に関わる公益事業組織のあり方も問題となる。こうした公益事業組織は、資本主義の下では非営利事業体として特殊な法人格が与えられていることが多いが、共産主義経済ではそもそも営利事業が消失することから、営利と非営利の区別は明瞭には存在しなくなる。
 そこで、こうした公益事業組織も自主管理型の生産協同組合でよいとも考えられるが、単純な生産活動とは異なるため、特別な公益事業組合/法人の組織とし、特に公益確保のため、日常運営に当たる理事会のほかに、外部の識者や市民から成る監督・助言機関として、監事会を常置するべきであろう。 

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持続可能的計画経済論(連載第18回)

2018-06-19 | 〆持続可能的計画経済論

第4章 計画経済と企業形態

(4)企業の内部構造〈2〉
 経営と労働が分離する社会的所有型の生産事業機構に対して、自主管理型の生産協同組合は、労働者自身が経営にも当たる構造となる。そのため、生産協同組合では全組合員で構成する組合員総会が最高経営機関となる。
 こうした自主管理が可能な企業規模はどのくらいかということが一つの問題となるが、最大で組合員数1000人未満が限度と考えられる。あるいはより限定的に500人といった水準まで下げることも考えられるが、これは政策的な判断に委ねられる。
 組合員数500人を超える場合、全員参加による総会を常に開催することが現実的でないとすれば、生産事業機構の労働者代表委員会に準じた組合員代表役会を設置することが認められてよいだろう。また500人未満の場合でも、委任状による代理参加が認められてよい。
 いずれにせよ、生産協同組合では組合員が総会を通じて直接に経営に当たるが、零細企業よりは大きな規模を持つ以上、経営責任機関としての理事会は必要である。理事は組合員総会で選出され、総会の監督を受ける。監査制度については、生産協同組合でも業務監査と環境監査が区別され、それぞれに対応して業務監査役と環境監査役が常置されなければならない。
 以上に対して、組合員数が1000人を超える大企業となると、もはや生産協同組合の形式では律し切れないため、社会的所有企業に準じた生産企業法人を認める必要があろう。従って、生産協同組合が組合員の増加により、生産企業法人に転換されることもあり得ることになる。
 この大企業形態は、生産事業機構に準じて経営と労働が分離され、経営役会と労働者代表役会が常置される。その余の内部構造も生産事業機構に準じたものとする。
 他方で、組合員20人以下のような零細企業に対しては、生産協同組合の形式では融通が利かない恐れがあるので、こうした場合はより自由な協同関係を構築できるように、協同労働団(グループ)のような制度がふさわしいだろう。
 この場合、監査役を最低一人は置くこと以外(業務監査役と環境監査役を区別する必要はない)、企業の内部構成については任意とし、経営はメンバー全員の合議によるか、数人の幹事の合議によるか選択できるようにする。

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持続可能的計画経済論(連載第17回)

2018-06-18 | 〆持続可能的計画経済論

第4章 計画経済と企業形態

(3)企業の内部構造〈1〉
 前回まで、共産主義的な企業形態として、大きく社会的所有型公企業としての生産事業機構と自主管理型私企業としての生産協同組合の種別を見た。ここからは、これら諸企業の内部構造に立ち入って考察する。
 まず計画経済の主体ともなる社会的所有型の生産事業機構は企業規模に関しては最大であり、それは資本主義経済における一つの「業界」の大手企業すべてを統合するに匹敵するような規模を擁する。 
 こうした大規模企業体を運営していくうえでは、労働者が自ら経営に当たる自主管理型の経営と労働の合一は現実的に無理であるので、株式会社と同様、経営と労働は分離せざるを得ない。
 そこで、経営責任機関として株式会社の取締役会に相当する経営委員会が置かれるが、企業規模が大きいことに加え、民主的な企業統治を保証するためにも、最高経営責任者のような独任制の経営トップは置かず、経営委員長を中心とした合議制型とする。
 ここで経営と労働の分離といっても、資本主義的な労使の指揮命令関係ではなく、経営と労働の共同決定制を確立する必要がある。こうした共同決定制は進歩的な資本主義諸国ではかねて株式会社形態でも導入されてきたが、労使の上下関係からこうした共同決定は事実上形骸化しているのが実情である。
 これに対し、共産主義的な公企業では、共同決定制を実質的なものとするため、労働者の代表から成る労働者代表委員会を常設し、特に労働条件や福利厚生に関わる分野では、経営委員会と労働者代表委員会の共同決議を議案の有効成立要件とする。その他の議案についても、経営委員会は労働者代表委員会に事前開示し、労働条件に関わる限り共同決定事項とするよう要求する機会が保障されなければならない。
 ところで、およそ共産主義的企業には株式会社の総監督機関である株主総会に相当するようなオーナー機関は存在しない。しかし、社会的所有型の生産事業機構の場合、究極のオーナーは民衆であるから、民衆代表機関が究極のオーナー機関となるが、これは多分に政治的・象徴的な意義にとどまり、実際上は職員総会が総監督機関となる。従って、上記経営委員会及び労働者代表委員会の委員はいずれも職員総会で選出され、両機関の活動は職員総会で監督される。
 ただし、職員総会といっても、生産事業機構は大規模であるため、全員参加型の総会開催は技術的に無理があり、総会代議人による代議制的な制度となるだろう。その代議人の選出法は抽選または投票によるが、それぞれの企業ごとに選択できるようにする。
 さて、最後に株式会社の監査役会に相当する監査機関として、業務監査委員会が置かれるが、これは主として法令順守の観点からの監査機関である。
 加えて、持続可能的計画経済下では企業活動に対する環境的持続可能性の観点からの内部監査制度の確立も求められるから、業務監査委員会とは別に、環境監査委員会が常置される。両監査委員会の委員も、職員総会で選出される。

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奴隷の世界歴史・総目次

2018-06-15 | 〆奴隷の世界歴史

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より全記事(原則別ブログに掲載された記事に飛びます)をご覧いただけます。

 

序言 ページ1

第一章 奴隷禁止原則と現代型奴隷

奴隷禁止諸条約の建前 ページ2
残存奴隷慣習と復刻奴隷制 ページ3
性的奴隷慣習の遍在 ページ4
児童奴隷慣習の遍在 ページ5
隷属的外国人労働 ページ6

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

奴隷制廃止の萌芽 ページ7
英国の奴隷制廃止運動 ページ8
英国の奴隷制廃止立法 ページ9
人種隔離国家・南アフリカの形成 ページ9a
フランス―革命と奴隷制 ページ10
ハイチ独立―奴隷の革命 ページ11
ラテンアメリカ独立と奴隷制廃止 ページ11a
アメリカの奴隷制廃止運動 ページ12
リベリア―解放奴隷の帰還国家 ページ13
ルーマニアのロマ族奴隷廃止 ページ14
アメリカ内戦と奴隷解放宣言 ページ15
「苦力」労働制への転換 ページ16
イスラーム奴隷制度の「廃止」 ページ17
奴隷制禁止の国際条約化 ページ18
ナチスとソ連による強制収容所労働 ページ18a(準備中)
旧奴隷制損害賠償問題 ページ19

第三章 世界奴隷貿易の時代

世界奴隷貿易 ページ20
イスラーム奴隷貿易:前期 ページ21
大西洋奴隷貿易:初期 ページ22
大西洋奴隷貿易:最盛期 ページ23
インド奴隷貿易 ページ23a(準備中)
奴隷供給国家 ページ24
逃亡奴隷共同体Ⅰ:サントメ島 ページ24a(準備中)
逃亡奴隷共同体Ⅱ:中南米 ページ25
北米のブラック・セミノール ページ26
大西洋奴隷貿易の終焉 ページ27
イスラーム奴隷貿易:後期 ページ28
世界奴隷貿易の全体像 ページ29

第四章 中世神学と奴隷制度

イスラーム奴隷制の基底 ページ30
マムルークと女奴隷 ページ31
奴隷制と中世キリスト教会 ページ32
ローマ教皇の奴隷貿易容認勅許 ページ33
スペインにおける奴隷論争 ページ34

第五章 アジア的奴隷制の諸相

中国の奴隷制① ページ35
中国の奴隷制② ページ36
日本の奴隷制 ページ37
朝鮮の奴隷制 ページ38
インドの奴隷制 ページ39
東南アジアの奴隷制 ページ40

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ギリシャの奴隷制 ページ41
古代ギリシャ人の奴隷観 ページ42
古代ローマの奴隷制 ページ43
古代ローマの剣闘士奴隷 ページ44
古代ローマの奴隷大反乱 ページ45
古代ローマの解放奴隷 ページ46

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制①:メソポタミア ページ47
古代「文明」と奴隷制②:エジプト ページ48
古代「文明」と奴隷制③:中国 ページ49
古代「文明」と奴隷制④:インド/ペルシャ ページ50
古代「文明」と奴隷制⑤:古代ユダヤ ページ51

結語 ページ52

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朝鮮戦争終結に向けて

2018-06-13 | 時評

12日に行なわれた「歴史的な」米朝/朝米首脳会談については、その準備不足と内容希薄に見える点について批判も根強いが、何はともあれ、1948年の朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と略す)建国以来、初めて両首脳が直接に顔を合わせたことの意義は過小評価できない。

こうしたことが可能となったのは、トランプ大統領の「ハンバーガーを食いながら朝鮮首脳と会談する」という事実上の公約に加え、イデオロギーや国情こそ異なれ、両国首脳の独裁的なトップダウン手法が奇妙に合致したことによるところが大きい。

他方で、会談の曖昧な「成果」に関する懸念にも一理以上ある。最も懸念されるのは、会談が両国間限りでの相互不可侵条約的な「成果」に終わることである。これは、第二次世界大戦前の独ソ不可侵条約のように、毛色の異なる独裁者に率いられた両大国が互いの権益を承認し合うことに終始し、結局のところ合意破棄・開戦を避けられなかった歴史を思い起こさせる。

こたびの首脳会談では、「朝鮮半島非核化」という多義的な解釈の余地を残す大雑把な枠組み合意がなされたにとどまっており、たしかに具体的な内容に乏しい。その点では初めの半歩にすぎず、さらに数回は首脳会談を重ね、その間に実務者協議を通じて、そもそもの緊張要因である朝鮮戦争の完全終結をもたらさなければならない。

冷戦終結から30年を経過してもなお冷戦の氷が固く張っている唯一の場所が朝鮮半島及び日本を含めた周辺地域である。この異常を正すには、半世紀以上も「休戦」という半端な状態が続く朝鮮戦争を終結させる必要がある。トランプ大統領がいささか性急に示唆した在韓米軍の撤退も、朝鮮戦争終結あって始めて現実性を帯びるだろう。

トランプはヒトラーに匹敵するほどの煽動政治家だが、ヒトラーとは異なり、積極的な対外侵略には消極で、得意の標語「アメリカ・ファースト」に象徴されるように、むしろ内向きの愛国主義=自国優先主義=ファースティズムのイデオロギーに基づき、世界各地からの米軍の引き上げを志向していることは、朝鮮戦争終結にとっては追い風となる。

しかし、朝鮮戦争を完全に終結させるためには、二国間協議では足りず、韓国及び朝鮮戦争の交戦当事者である国連も交えた包括的な多国間協議が必要である。ここではファースティズムの手法は妥当せず、インターナショナリズムを活性化させなければならない。

トランプをノーベル平和賞に推薦する政治的動きが見られるが、取り巻きによるお追従ではなく、真に平和賞に値するのは朝鮮戦争終結がトランプ政権下で成った場合のことである。その場合もいいとこ取りの単独受賞ではなく、南北朝鮮首脳(プラス国連)と分かち合う同時受賞が国際平和の道である。

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持続可能的計画経済論(連載第16回)

2018-06-12 | 〆持続可能的計画経済論

第4章 計画経済と企業形態

(2)公企業と私企業
 持続可能的計画経済の対象である環境高負荷産業分野以外の分野は、自由経済に委ねられる。もっとも、自由経済といっても、貨幣経済を前提としないため、貨幣交換経済ではなく、経済計画の規律を受けないという意味での「自由」である。
 こうした計画経済の対象外となる自由経済分野の生産活動は、私企業によって担われる。この点で、その純粋形態においては私企業の存在を容認しないソ連式の社会主義体制とは異なることが留意されなければならない。
 私企業であるということは、設立が自由であること、その活動が経済計画に拘束されず、関係法令を順守する限り自由であることを意味する。ただ、私企業といっても、もちろん株式会社ではなく、共産主義社会に特有の私企業である。
 共産主義社会特有とは、第一に株式会社のように利益配当を目的とする営利企業ではなく、非営利企業であることを意味する。第二に、株式会社のように経営と労働が分離され、経営者が労働者を指揮命令して生産活動に従事させるのではなく、生産活動に従事する労働者自身が自主的に経営に当たる労働と経営が一致した自主管理企業である。
 このような企業形態は会社というよりも組合であり、こうした共産主義的私企業の法律的な名称を「生産協同組合」としておく。名称の点ではマルクスが想定していた生産協同組合と重なるが、マルクスの生産協同組合が計画経済の運営主体と位置づけられていたのに対し、ここでの生産協同組合は計画経済の外で活動する自由な私企業である点において相違する。 
 こうして共産主義的生産様式の下での生産活動の基軸は、公企業として計画経済の主体となる生産事業機構―設立は認可制―と、自由経済分野を担う私企業としての生産協同組合―設立は登記制―の二本立てとなる。企業規模で言えば、前者は大企業、後者は中小企業である。
 ただし、私企業でありながら、その規模が大きいために自主管理を文字どおりに実行することが困難であり、社会的所有企業に準じた内部構造を持つ中間的な企業形態や、反対に組合よりも小さな零細企業に特化した協同労働形態も存在し得る。こうした修正型企業形態の法律的な名称と内部構造については後述する。

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持続可能的計画経済論(連載第15回)

2018-06-11 | 〆持続可能的計画経済論

第4章 計画経済と企業形態

(1)社会的所有企業
 近現代の主要な生産活動は、労働力と物財を集約した企業を拠点に組織的・継続的に行われる。計画経済にあっても、この点は変わらないが、その企業形態は生産活動の様式(生産様式)に応じて定まってくる。
 資本主義的生産様式の下では、民間から広く投資資金を調達しやすい株式会社形態が代表的な企業形態となる。他方、ソ連式の行政主導型計画経済による社会主義的生産様式の下では、国家が直接投資し、運営する国有企業形態が代表的な企業形態となる。
 これに対して、生産企業が主体的に策定した共同経済計画に基づく共産主義的生産様式では、株式会社でも国営企業でもない公企業が代表的な企業形態となる。
 この点に関して、マルクスは共産主義社会を「合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合からなる一社会」と定義づけている。
 この定義によると、マルクスが構想する共産主義社会の生産活動は生産協同組合という企業形態によって行われるであろう。実際、マルクスの計画経済は、こうした協同組合企業の共同計画に基づくことが想定されていた。
 しかし、この定義と構想はいささか理想主義的に過ぎる感がある。現代の基幹的産業分野では大規模かつ集約的な生産活動が要請されるし、環境的持続可能性を組み込んだ計画経済を実行するためにも、計画経済が適用される環境高負荷産業分野については協同組合よりも大規模な企業体を活用することは不可欠と考えられるからである。
 仮にマルクスの構想を生かしつつ、基幹的産業分野の生産活動に照応する生産企業体を設計するとすれば生産協同組合合同のような形態が想定できるが、このような企業合同は統合的なガバナンスの点で問題を生じる恐れがあり、一つのモデル論にとどまるだろう。
 そこで、より現実的な企業形態としての共産主義的公企業は、株式会社のように投資家株主が所有者となるのでも、国有企業のように国家が所有者となるのでもなく、社会的な共有財として社会に帰属するという点で、社会的所有企業と規定することができる。その法律的な名称を、ここでは「生産事業機構」と命名する。
 こうした生産事業機構が生産する分野は、計画経済が適用される環境高負荷分野に限られる。言い換えれば、計画経済の運営主体は公企業である生産事業機構である。

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奴隷の世界歴史(連載最終回)

2018-06-10 | 〆奴隷の世界歴史

結語

 本連載では、奴隷(制)という慣習に焦点を当てて、世界歴史を現在から過去へと遡ってとらえ直すという異例の叙述を試みてきた。結局のところ、奴隷制は少数の例外を除けば「文明」の開幕時にはすでに存在していたという哀しい事実が改めて確認された。
 その場合、「文明」を拓いた古代国家の時代に奴隷制が初めて創始されたか、それ以前の先史時代にすでに創始されていたかはなお検証の余地が残されている。私見は、先史時代に立場の弱い他者を拘束して使役するという言わば始原的奴隷慣習が創始されていて、古代国家はそうした慣習を法律という「文明」の所産に仮託して制度化したとみなしている。
 もっとも、先史時代と言っても純粋な狩猟採集生活の時代には奴隷は必要とされなかっただろう。狩猟採集生活では各人の狩猟採集の技能がすべてだからである。その後、農耕生活に移行しても、原始農耕は比較的平等な共同体成員によって担われ、奴隷労働を必要としなかった。
 おそらくは、生産活動の組織化とともに雑務に従事する被用者を必要とするようになり、とりわけ肉体労働的な部分労働を拘束下の他者を使役して担わせる習慣を生じ、そうした奴隷を安定供給するべく、人間そのものを商品として売買する奴隷取引・交易が活発化したものと考えられる。
 最も初期の奴隷は戦争捕虜ないしは戦争に伴う略奪によって拉致された被征服地の住民であっただろう。奴隷制と戦争は相即不離の関係にある。その後、貨幣経済の発達に伴い、借金を負った債務者が奴隷に落とされる債務奴隷も増大していく。戦争と貨幣経済が奴隷制を支えた―。そう断じても過言でない。

 現代においては、戦争捕虜の奴隷化も債務奴隷もほとんど見られない代わりに、第一章各節に見たような種々の形態での現代型奴隷制が依然として残されている。これらの奴隷は、旧来の奴隷とはいささか異なり、表面上は「契約」に基づく労働の形態を取っていることも多く、身体的には拘束下にないこともある。
 序説冒頭で紹介した「人格としての権利と自由をもたず、主人の支配下で強制・無償労働を行い、また商品として売買、譲渡の対象とされる「もの言う道具」としての人間」という文字どおりの奴隷を「形式的意味の奴隷」と名づけるとすれば、現代型奴隷の多くは形式のいかんを問わず、実態として雇い主に隷属している点で「実質的意味の奴隷」と呼ぶべきものである。
 厳密には前者だけを「奴隷」と呼ぶべきかもしれないが、奴隷の定義を狭めると、現代型奴隷の多くは奴隷でなく、単なる労働者ということになって、その禁止と保護をゆるがせにすることを恐れるため、本連載では「実質的意味の奴隷」を含めて、奴隷の定義を広く取ってきたものである。
 もっとも、「実質的意味の奴隷」を拡大解釈していけば、賃金を報酬として受け取りつつ、雇い主の支配下で剰余労働搾取を受ける賃金労働者もある種の奴隷―賃金奴隷―ということになる。
 しかし、正当な賃金労働者には入退職の自由が保障されていることから、本連載では、総体として領主に隷属しながら相対的な生計の自由が保障されていた歴史上の農奴を奴隷に含めないのと同様に、賃金労働者も奴隷には含めなかった―強いて言えば「農奴」に対し「賃奴」―。
 いずれにせよ、人類が自己利益を拡大するために他者を「道具」として利用しようという欲望を断ち切れない限り、奴隷制は何らかの形で残存し続けるだろう。人類は果たして奴隷制と絶縁することができるか否か―。これは、人類の未来がかかった大きな問いである。(了)


※以下のリンクから、別ブログに再掲された本連載全記事を個別リンクで一覧できる目次をご案内しています。

http://blog.livedoor.jp/kobasym/archives/24000952.html

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持続可能的計画経済論(連載第14回)

2018-06-05 | 〆持続可能的計画経済論

第3章 持続可能的計画経済の概要

(6)持続可能的経済計画の実際〈4〉
 前回まで述べてきた経済計画はドメスティックなものであるが、地球環境の持続可能性に配慮する環境計画経済は、その究極的な完成形態においては、地球全域をカバーするワールドワイドな計画を必要とする。
 それを実際に可能とするためには、個別国家の枠組みを超えた地球全域での政治的統合―世界共同体の創設(その概要については別連載でもたびたび述べているが、改めて計画経済と絡めて最終章で言及する)という難事業を経る必要があるが、そうした政治問題についてはここではいったん棚上げし、世界規模での経済計画の概容について考えてみたい。
 このような世界規模の計画経済にあっても、基本的にはドメスティックな経済計画の策定と同様に、行政機関主導の官僚制的計画経済ではなく、生産企業体自身による共同計画となる。また計画の中心が環境高負荷産業分野となる点も同様である。
 この場合、ドメスティックなレベルでの環境高負荷産業分野の企業体がワールドワイドな統合体(例えば世界鉄鋼事業機構体、世界自動車製造事業機構体など)を結成し、それら統合体が計画策定の責任主体となることが想定される。こうした企業体合同による世界経済計画機関は、ドメスティックなレベルでの経済計画会議に相当するものであって、その組織的な構造もほぼ同様に考えてよいであろう。
 以上の計画はドメスティックな経済計画で言えば生産計画Aに対応するが、食糧分野に特化した食糧計画も必要となる。これはドメスティックな計画で言えば農漁業分野の生産計画Bに対応するもので、環境的に持続可能かつ安全な農漁業の世界規模での展開と食糧の公平な世界的分配を目的とし、その策定責任主体は、世界食糧農業機関である。さらに基礎的医薬品の平等な世界的普及のため、ドメスティックな生産計画Cに対応する製薬計画は、製薬事業機構体が世界保健機関と連携しながら、策定する。
 これらワールドワイドな経済計画は、その範囲内でドメスティックな計画が策定される総枠としての条約的な意義を持つと同時に、資本主義的な世界貿易に代わる世界的な物財融通計画の意義を持つ。
 従って、それはドメスティックな計画策定手続きが開始される前に策定・施行され、それに基づいて経済計画会議がドメスティックな経済計画を策定・施行することになる。

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持続可能的計画経済論(連載第13回)

2018-06-04 | 〆持続可能的計画経済論

第3章 持続可能的計画経済の概要

(5)持続可能的経済計画の実際〈3〉
 前回まで持続可能的経済計画の内実を述べたが、こうした計画をどのようなプロセスで策定するかという手続き的な問題も、計画経済の成否を左右する。
 その点、ソ連式計画経済では支配政党・共産党の統制下に、国家計画委員会を司令塔とする行政機関が主導しつつ、生産企業体(国有企業)も参加する複雑なプロセスを経て計画案が策定されていたが、持続可能的計画経済はそうした官僚的なプロセスではなく、生産企業体による自主的な共同計画となることは既述した。
 その場合においても、計画経済を成功させるポイントとなるのは、いかに現場からの正確な経済情報に基づき、簡素かつ迅速な計画策定プロセスを確立するかである。
 具体的には、まず全土的な共通計画である生産計画A(環境高負荷産業分野)及び生産計画B(農漁業分野)については、該当生産企業体の代表者(計画担当役員)で構成する「経済計画会議」(以下、単に「計画会議」と略す)が計画策定の責任機関となる。
 生産企業体はまず3か年の計画年限の初年度が始まる半年前に各企業体自身による需給予測と労働時間配分を踏まえた個別計画案を提出する。それを基礎資料としつつ、計画会議調査局が環境経済学的な知見をもとに作成した意見書を踏まえ、計画会議で審議したうえでA、Bそれぞれの計画案を策定する。
 このうち、計画Bは農漁業分野の性質上、地方性があるため、全土的な計画とはいえ、広域地方ごとに区分けされた計画となるが、コメのように全土的に流通する主食については全土的な融通計画も必要である。
 計画会議で議決された計画案は、民衆代表機関である全土民衆会議へ送付される。この段階で民衆会議が修正提案をした場合は計画会議に差し戻し、修正の必要性を審議するが、修正不要とされた場合は、原案どおりに可決・成立する(計画会議優先の原則)。
 こうして可決・成立した経済計画は法律に準じた規範性を有するが、通常の法律とは異なり、施行後も計画会議がフォローし、環境経済的な条件の変化に応じて事後的に随時修正される(修正プロセスも、上記と同様である)。
 なお、全土的な計画の中でも製薬に関わる生産計画Cについては計画A及び計画Bとは別枠とし、製薬企業体自身の策定した計画案を直接に民衆会議へ送付し、別途審議・議決することになる。
 以上の全土的な計画に対し、地方的な消費計画の策定は、全く別個に行われる。これは広域の地方ごとに設立される消費事業組合が策定主体となり、広域圏の民衆会議に送付し、審議・議決される。
 消費計画は、消費事業組合の組合員たる広域圏住民からの要望と環境的持続可能性及び健康・安全にも配慮された消費財の生産計画と公平な分配を目的とする流通計画的な性格を帯びた計画である。また、この計画には災害時備蓄のための余剰生産計画が含まれる。

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奴隷の世界歴史(連載第51回)

2018-06-03 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制⑤:古代ユダヤ
 古代ユダヤ人は、聖書で有名な出エジプトに象徴されるように、古代エジプトによって奴隷化されていた時代もあった。もっとも、出エジプトは同時代の他史料による裏づけができておらず、史実性には慎重な留保が必要であるが、まったくの虚構と断じる根拠もない。
 いずれにせよ、旧約聖書(ヘブライ語聖書)以来、語り継がれていった出エジプト‐脱奴隷化はユダヤ人の歴史的原体験とも言える。ところが、一方で、古代ユダヤ人自身がその社会に奴隷制を有していたことは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記された奴隷に関する数多くの法的規定からも明白である。
 古代ユダヤ社会の奴隷は家内奴隷が中心的であり、非ユダヤ人奴隷とユダヤ人奴隷とに系統が分かれていた。このうち非ユダヤ人奴隷の多くは戦争捕虜出自であり、ユダヤ人奴隷は貧困者や債務者出自であったという点では、他の古代社会と類似するところが多いが、古代ユダヤ社会では、この両系統の奴隷が異なる法規によって規律されていたことに特徴がある。
 非ユダヤ人奴隷の多くは、ユダヤ人が征服対象とみなしていたカナーン人から徴発されることが多く、奴隷の大半を占めていたと見られる。その待遇はユダヤ人奴隷に比べても劣悪であり、ユダヤ人奴隷は一定年数の経過後、また聖書にいわゆるヨベル(大恩赦)年ごとに解放されたのに対し、非ユダヤ人奴隷は恒久的かつ遺言相続の対象とされた。
 古代ユダヤ社会では元来、他者を完全に人格支配する文字どおりの奴隷化は許されていなかったとされるが、この人格尊重論が適用されたのはユダヤ人奴隷だけであり、非ユダヤ人奴隷には適用されなかったのである。
 このような差別待遇は、ノアのカナーンに対する呪い―ノアが自身の酔った寝姿を見た息子ハムの子カナーンを呪い、カナーンの子孫がセムとヤペテの子孫の奴隷となると予言したとされる聖書説話―によって、宗教的に正当化された。
 このような民族差別的な二元奴隷制の一方で、古代ユダヤ社会の奴隷法制は外国から逃亡してきた奴隷の送還を禁じ、これら外国人逃亡奴隷を通常の外国人居住者と同等に扱うこととしている。ある種の亡命者庇護権の先駆として注目される規定である。

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イタリアにファースティスト政権誕生

2018-06-02 | 時評

イタリアで1日、成立の運びとなった五つ星運動と同盟(北部同盟)の連立政権は、イタリア戦後史を大きく変える陣容となった。五つ星と同盟は共に大衆迎合的なポピュリスト政党として近年急速に台頭してきた新興政党である。

従来のイタリアは長く保守政党を軸とした連立政権が続いた後、強力な万年野党・共産党の実質的な解体を受け、中道左派と中道右派の二大政党(勢力)政へ移行していたところ、両者の近接によりイデオロギー対立が解消される一方、中道的な政治の八方美人的限界を露呈していた。

そこへ、急増する移民に対する排斥策と反EU論を引っさげて現れたのが、ポピュリスト政党である。もっとも、五つ星は表面上、直接民主主義や環境主義を打ち出すなど、緑の党に似せた進歩主義を装い、左派政党的な色彩を出していたが、より右派色の強い同盟と連立を組んだことで、その正体が明らかとなった。

こうした反移民・反EU政党は、大衆迎合=ポピュリズムを手段としつつ、自国(民)優先主義=ファースティズムを共通イデオロギーとしている。ファースティズムは表面上、労働市場における自国民優先や国家主権の回復を謳うが、根底には人種/民族差別主義と強い国民国家の構築を願望する国家主義を秘めている。

人種差別と国家主義の結合は、ファシズムの特徴でもある。結局、ファースティズムとはファシズムの現代版=ネオ・ファシズムの土台となり得る政治潮流にほかならないのだ。歴史を振り返れば、戦前のオールド・ファシズム潮流の発信源も、ほぼ百年前のイタリアだった。

もっとも、今般のファースティスト連立政権には、ファシスト党の直系政党とも言える「イタリアの兄弟」は参加しておらず、旧ファシスト党とは別系統の流派である。だからと言って、この政権はファシストとは無関係と油断してはならない。二つの流れは地下でつながっているからである。

現状は毛色になお相違あるファースティスト政党同士の連立という不安定さを残しているせいか、政権トップの首相には無所属で政治経験なしの大学教授を据えるという妙策を採った。この首相は両党の仲介人にすぎず、権力は当面、両党が分有するだろう。

その点では、一般的にかつてのムッソリーニのような独裁者が指導する一元支配体制を取るファシスト体制にはまだ遠い。しかし、「歴史は繰り返す。一度目は悲劇、二度目は喜劇として」とは、マルクスの名言である。

イタリアのオールド・ファシズムは敗戦による体制崩壊と首領ムッソリーニの殺害という悲劇に終わったが、ネオ・ファシズムはどんな喜劇を見せるのであろうか。五つ星運動の共同創立者がコメディアンであることも、すでに喜劇の始まりを予感させる。

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