ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第387回)

2022-02-28 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(5)チェコ/スロヴァキア分離革命

〈5‐1〉「プラハの春」の残響
 1989年に始まる連続革命の中で、東ドイツ革命と並び、非武装平和革命の範例として記憶されているのが隣国チェコスロヴァキアにおける革命である。この革命は学生・知識人の決起を契機としたこと、最終的にチェコとスロヴァキアの二国分離に進展したことを特徴としている。
 この二つの特徴は、元来チェコとスロヴァキアの二国連邦として微妙な均衡のもとに維持されていたチェコスロヴァキアにおいて、革命前から顕在化していた動向と関連している。
 革命前のチェコスロヴァキアでは、ナチスドイツの占領から解放された第二次大戦後1946年の総選挙で共産党が第一党に躍進するという珍事の後、48年の政変で共産党が他党を排除して政権を独占して以来、ソ連同盟国としてソ連にならった共産党一党支配体制が続いていた。
 チェコスロヴァキアは戦前から東欧では最も工業化が進んでいたが、1960年代後半に入ると、中央計画経済の行き詰まりと、党国家の運営がチェコ中心に偏り差別されていると感じたスロヴァキア側の不満が顕在化し始めた。
 そこへ、当時の全世界的な学生・知識人による反体制抗議活動のうねりの影響から、作家や学生による異議申し立ての運動も加わり、当時のアントニーン・ノヴォトニー共産党第一書記の指導部は動揺を来たした。その結果、ノヴォトニーは辞任に追い込まれ、1968年1月、スロヴァキア出身のアレクサンデル・ドゥプチェクが新たな党第一書記に就任して改革を打ち出した。
 「人間の顔をした社会主義」をスローガンとするドゥプチェク改革は、あくまでも体制の枠内での自由化を志向する限定改革策であったが、内容的には20年後のソ連におけるゴルバチョフ改革を先取るような内容であった。
 これをソ連からの離反と見て危機感を抱いた当時のソ連指導部は、チェコスロヴァキアも加盟していたワルシャワ条約機構を盾に取った「制限主権論」のロジックに基づき、軍事侵攻に踏み切り、武力をもってドゥプチェク指導部を転覆した。こうして、短い改革期であった「プラハの春」は挫折し、代わって「正常化」と呼ばれる反作用の親ソ抑圧体制が構築された。
 この反作用を主導したのは、本来ドゥプチェク派ながら寝返り、ソ連によって新たな党第一書記に抜擢されたグスターフ・フサークであった。その立場は1956年のハンガリー民主化未遂革命(ハンガリー動乱)の後にソ連に擁立されたカーダールに似るが、フサーク体制ははるかに教条的かつ抑圧的であった。
 そのような揺り戻しの中でも、「プラハの春」でいっとき解放された知識人・文化人の抗議運動は継続され、1977年には、242人の文化人らが署名をもってフサーク体制下の人権抑圧を訴え、1975年にソ連・東欧を含む東西の首脳が参集して合意した全欧安全保障協力会議におけるヘルシンキ宣言(人権尊重を含む)の順守と対話を求める文書を、当時の西側諸国の新聞に掲載した。
 この署名活動は「憲章77」と呼ばれ、それ自体は組織された反体制運動ではなかったが、フサーク体制側はこれを反国家的なブルジョワの活動とみなして署名者らを弾圧・迫害し、一切耳を貸そうとはしなかった。
 しかし、発起人・起草者には革命後最初の大統領となる劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルも名を連ねた憲章は綱領的文書として持続的な浸透力を持ち続け、革命が始まる1989年までに署名者は2000人近くに増加していた。
 このように、1968年「プラハの春」は短期で挫折しながら、その後の「正常化」体制下でもその残響は続いていき、1989年革命の遠い予行演習のような意義を持ったと言えるが、89年の「本番」の展開は、「プラハの春」とは真逆に短時日での体制崩壊を導くことになる。

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近代科学の政治経済史(連載第6回)

2022-02-27 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ裁判の残響
 ガリレオ裁判をめぐっては、カトリック教会は地動説そのものを迫害したわけではないとする弁護論も強力に唱えられてきたが、第二回裁判の直接的な契機となった著書『天文対話』は1822年に至るまで禁書とされたし、ガリレオ最晩年の著作で、ニュートンにも影響を及ぼした物理学書『新科学対話』もオランダで出版された。
 また、科学者ではないが、近代合理主義哲学の祖にして数学者であり、ガリレオ以上に太陽中心説(地動説)的と自負したフランスのルネ・デカルトも、ガリレオ同様に異端審問にかけられることを懸念して、著書の出版を中止し(死後出版)、また主著『方法序説』も偽名出版するなど、ガリレオ裁判には委縮効果も伴っていたことは否めない。
 教皇庁がようやくガリレオ裁判の再検証に入るのは、遠く19世紀後半、近代科学が普及し、科学文明の時代に入った後のことにすぎない。それでも、裁判結果を取り消すことはせず、最終的に20世紀も末の1992年になって、教皇ヨハネ・パウロ2世の謝罪声明によって、事実上裁判結果が撤回されたのであった。裁判から実に359年後のことである。
 とはいえ、ガリレオ裁判は近代科学全般の発展を阻害するほどの委縮効果を持ったわけではなく、宗教改革後のプロテスタント諸国では近代科学は大きく発展していくし、カトリック諸国でもフランスでは、次章で見るように、近代科学が王室の庇護を受けて国家公認の御用学問としても発展していくのである。
 その点、ガリレオより先に地動説を明確に支持していたドイツ出身の天文学者ヨハネス・ケプラーは、自身プロテスタントにして、勤務地はカトリックのオーストリア帝国という複雑な環境の中でも、弾圧されることなく、むしろ当時の公的な天文官であった宮廷占星術師としての地位を獲得している。
 もっとも、プロテスタントの祖の一人であるマルティン・ルターも地動説に批判的であったが、プロテスタント側には異端審問制度が存在しなかった。その代わりに魔女裁判が展開され、ケプラーの母で民間療法師だったカタリナ・ケプラーもドイツのヴュルテンベルグで魔女裁判にかけられ、ケプラー自身が弁護を買って出て無罪を勝ち取るという一件もあった。
 なぜケプラーの母が目を付けられたは必ずしも定かでなく、深層には高名な天文学者である息子との絡みで母親が魔術を行使しているという疑いをかけられた可能性はあるが、表面上は、この件はケプラー自身の問題ではなく、母の問題であり、ケプラーの科学的な所論は何ら争点ではなかったので、ガリレオ裁判とは性質の異なる事案であった。
 結局、ガリレオ裁判とは、勢力を増すプロテスタントに対するカトリック側の対抗宗教改革の中で、教会にとって脅威と映る所論を抑圧せんとするカトリックの保守的な宗教政治の文脈の中で、当時革新的な科学者として際立つ存在だったガリレオが目を付けられ、ある種の生贄に供された一件として理解されるべきなのかもしれない。

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近代革命の社会力学(連載第386回)

2022-02-25 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(4)東ドイツ解体革命

〈4‐4〉「ベルリンの壁」打壊から東ドイツ解体へ
 党内政変によるホーネッカー追い落としの後、成立したクレンツ新指導部が限定的な体制内改革を企てる中でまず着手したことは、長年にわたり厳しく制約されていた国民の海外渡航の自由の解禁であった。しかし、これが体制崩壊の起点となる。
 当初は指導部が目指した限定的な緩和策が批判を呼ぶと、最終的に出国査証発給の大幅な自由化という線で妥協し、速やかな施行が予定されていたところ、1989年11月9日の記者会見に臨んだ当局者が誤って、「東ドイツ国民は直ちにすべての国境通過点から出国できる」旨の声明を発出したことを契機に、国境警備隊も国境を全面開放するに至った。
 このような初歩的な誤発表が生じた要因として、クレンツの党内掌握が不十分でコミュニケーションが取れていなかったことに加え、発表に先立つ同月4日には推定100万人以上が参加したともされる大規模な抗議デモが首都東ベルリンで発生し、党指導部が恐慌を来していたこともあったであろう。
 しかし、誤発表が既成事実化したことで、それまで命がけの難関となってきた「ベルリンの壁」も例外でないと認識され、発表の翌日から一般市民が自主的に壁の破壊を始めた。国境警備隊もこれを阻止せず、やがては当局も正式に撤去作業を担うに至った。
 この誤発表の結果は、体制にとっては致命的な打撃となった。当然にも大量の脱出者が国境に押し寄せ、89年11月中だけで20万人を越える国民が脱出する事態となり、基本的な社会機能さえ停滞するに至った。これは、国外脱出という手段を通じた国民総体よるゼネストに近い抵抗であった。
 これにより実質上東ドイツ体制は終焉したに等しい状況となり、89年12月の憲法改正では社会主義統一党(SED)による支配体制の放棄が明記され、クレンツ書記長以下党指導部は総退陣した。
 その後、SEDはマルクス‐レーニン主義教義を放棄しつつ、民主社会党(PDS)に党名変更、改革派の前SED政治局員で、民主社会党副党首に就いたハンス・モドロウを首班とする政権が発足し、革命は一段落する。
 モドロウ政権は在野民主勢力との円卓会議を通じて、一党支配体制時代の膨大な法令の改廃作業に入り、平和的な体制移行を目指した。その中には、土地の私有を認めるという脱社会主義を象徴する基本的な法改正も含まれていた。
 この時点でのモドロウ政権は、東ドイツの存続を前提として、条約に基づく西ドイツとの国家連合構想を抱いていたが、明けて1990年になると、大衆は統一を強く望み、抗議デモの合言葉も「我々が人民だ(Wir sind das Volk)」から、「我々は一つの民族だ(Wir sind ein Volk)」に変容していた。
 さらに問題だったのは、東ドイツはすでにホーネッカー時代から膨大な対外債務を国家会計の粉飾によって隠蔽していたことが発覚しており、大量出国による労働力流出と合わせ、経済財政面ですでに完全に破産していたことであった。望んでも存続はほぼ不可能な状況にあった。
 そうした事情を見越した西ドイツの保守系キリスト教民主同盟(CDU)のコール政権は1990年3月に予定された東ドイツにおける最初で最後の複数政党制に基づく自由選挙ではキリスト教民主同盟(CDU)を支援して強力な選挙運動を行う一方、自由選挙に不慣れなPDSは苦戦し、CDUの圧勝に終わった。
 興味深いことに、CDUは東ドイツでも外形上の複数政党制の中で支配政党の衛星政党として存続していたため、CDUが政権党にある西ドイツにとってカウンターパートを支援することは容易だったのである。
 反対に、東ドイツでは旧SEDに吸収されていた社会民主党が西ドイツの政権党であったなら、異なる選挙結果になっていた可能性もあろうが、西ドイツ社会民主党はこの時、野党であった。
 東ドイツでも保守系政権が発足したことは東ドイツの解体と東西ドイツ統一のプロセスを早めることとなり、革命から一年もしない1990年10月には統一が成立した。対等合併型でなく、東が西に編入される吸収合併型の統一である。
 こうして、東ドイツは「ベルリンの壁」の打壊をほぼ直接的な契機として、非武装平和革命によって崩壊していった。結局のところ、東ドイツ社会主義体制は「壁」と共にあった冷戦の産物であり、「壁」と運命を共にすべき非人間的な体制であった。

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近代革命の社会力学(連載第385回)

2022-02-24 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(4)東ドイツ解体革命

〈4‐3〉抗議行動の拡大と党内政変
 東ドイツにおける平和集会に始まる反体制運動が革命的なうねりを得る契機は、国内以上に国外からもたらされた。以前にも見たように、党内政変によって成立したハンガリーの改革派政権がオーストリア国境の開放に踏み切ったことである。
 これによって、警備隊による銃撃の危険がなお存在する「ベルリンの壁」を越えずにオーストリア経由で西ドイツへ亡命する道が開かれ、多くの東ドイツ市民が脱出を果たした。その際、ハンガリーの民主団体による支援があったことも大きかった。
 ハンガリーの民主団体はオーストリアの旧ハプスブルク皇家当主で汎ヨーロッパ主義者のオットー・フォン・ハプスブルクと協力して、東ドイツ市民の亡命を支援するばかりでなく、ハンガリーのオーストリア国境地帯の町ショプロンで「汎ヨーロッパ・ピクニック」と銘打つ政治集会を開催した。
 これは冷戦終結後を見据えて新たな統合されたヨーロッパの将来を考えるという趣旨の政治集会であったが、改革派政権とはいえ、依然として一党支配が続いていたハンガリー当局に妨害されることを警戒して、祝祭的な性格の集会とした。このような手法は、遠く19世紀の1848年フランス二月革命に際して革命派が当局の弾圧を回避するために主宰した「改革宴会」に通ずるものがある。
 1989年8月19日に開催された「ピクニック」の効果は大きく、ハンガリー政権に翌月のオーストリア国境の通行自由化を決断させるとともに、東ドイツ市民の亡命をいっそう促進し、同盟国のチェコスロヴァキア経由での亡命ルートも形成された。
 また、同年9月10日には、東ドイツ国内で反体制知識人30人が民主団体「出発89―新フォーラム」を結成した。これは従来抑圧されていた公然たる事実上の野党組織の旗揚げであったが、教条主義で固まった当局からは反国家団体とみなされて結社登録を拒否されたため、ポーランドやハンガリーのような支配政党との協議(円卓会議)を通じた平和的な体制移行という力学は作動しなかった。
 一方、東ドイツからの亡命者は9月末までに数万人規模に達していた。すると、それまで事態を静観していた東ドイツ当局はまだ改革が及んでいなかったチェコスロヴァキアとの国境の封鎖により亡命を阻止する策に出た。
 これにより一時的に亡命にブレーキはかけられたものの、かえって内圧を強める逆効果となり、国内での反体制抗議活動が拡大した。これに対し、社会主義統一党(SED)のホーネッカー指導部は武力鎮圧の方針であったが、89年10月に東ドイツを訪問したソ連のゴルバチョフ共産党書記長がホーネッカーに暗に退陣を促したことで、党指導部内に反ホーネッカーの動きが生じた。
 その中心に立ったのは、政権ナンバー2で治安担当のエゴン・クレンツ党政治局員であった。クレンツは他の政治局員をまとめつつ、ソ連とも連絡して、ホーネッカー追い落とし計画を進め、89年10月17日の党政治局会議の席上、ホーネッカー解任動議の議決に成功した。
 この電撃解任により、1971年以来、18年に及んだホーネッカー指導部は終焉し、後任書記長にはクレンツ自身が選出され、新たな指導部を形成することとなった。とはいえ、これもソ連の意向を忖度しての動きであり、とどのつまり、東ドイツはどこまでもソ連の衛星国なのであった。
 そのうえ、元来ホーネッカー側近としてホーネッカーの引きで若くして昇進を重ねてきたクレンツはあくまでもSED支配体制下での限定改革しか構想しておらず、抗議デモの拡大を収束させる力量は持ち合わせていないことがすぐに露呈されることになる。

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近代革命の社会力学(連載第384回)

2022-02-22 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(4)東ドイツ解体革命

〈4‐2〉革命への蠕動
 東ドイツはソ連の最も忠実な衛星同盟国であったとはいえ、反体制運動の歴史は古い。最も早いところでは1953年6月、まさに東ドイツを誕生させた張本人であるソ連の独裁者スターリンの死を契機として、首都東ベルリンで大規模な民衆蜂起が発生した。
 この蜂起は元来、ソ連式社会主義労働の特徴であったノルマによる出来高制(ノルマ未達成者の賃下げ)に反発した建設労働者のストライキに端を発したものであるが、一日で数万人が参加する抗議行動に進展し、反体制側は時の指導部の総退陣を要求するなど革命化する予兆が見られた。
 これに危機感を抱いたソ連が東ドイツ駐留軍を動員して武力鎮圧に乗り出したため、蜂起はわずか一日で収束したが、この一件は1956年のポーランド・ポズナニ蜂起やハンガリー動乱など、後続する同様の事態の先駆けともなった。
 しかし、この後、東ドイツ当局は秘密警察網による厳しい社会統制を徹底するようになるため、東ドイツにおける反体制運動は長く閉塞し、代わって、東西ベルリンの境界線を越えて西ドイツに脱出する市民が増加していく。
 このような脱国自体は反体制運動というより個人的な亡命行為であったが、亡命抑止策として「ベルリンの壁」が構築されて以降は、警備隊による銃殺の危険を冒しての越境は単純な亡命とは異なる意味を持ち、直接的な反体制運動が厳しく抑圧される中での消極的な不服従の特殊な一形態となった。しかし、このような冒険的な不服従には限界があり、革命には程遠い。
 そうした中、一つの転機は、1982年にライプツィヒのニコライ教会で始まった「平和の祈り」であった。これは当時、アメリカの反共主義レーガン政権の登場により再び冷戦が「雪解け」から再活性化に転じる中、東西両陣営による中距離核ミサイル配備に対する控えめな抗議集会として始まったものであった。
 SED体制は無神論を標榜していたが、憲法上は信仰の自由を保障しており、教会に対する直接的な弾圧は差し控えていたことから、教会はある種の聖域となっており、毎週月曜日に開催された平和集会は次第に体制に不満を持つ青年層を惹きつけ、平和集会を超えた政治集会へと発展していくのであった。
 こうした平和集会の政治化を察知した当局は秘密警察を使って抑圧を企てるも、街頭集会とは異なり、教会での集会に対しては有効な抑圧手段が取れずにいたところ、革命前年の1988年頃になると、集会参加者は1000人規模に増大していた。これは革命への蠕動と言える最初の明瞭な動向と言えた。
 1989年に入ると、より大胆になった参加者は教会を出て、街頭でも「沈黙の行進」を展開するようになる。こうした非暴力の抗議運動は東ドイツ革命における一つのエートスとして定着し、他諸国における一連の革命に対しても影響を及ぼすところとなる。

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近代革命の社会力学(連載第383回)

2022-02-21 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(4)東ドイツ解体革命

〈4‐1〉教条主義体制と「ベルリンの壁」
 東ドイツ(正式名称ドイツ民主共和国:以下では、通称に従い「東ドイツ」という)は、1989年に始まる連続革命の最初の主要な舞台となった旧国であるが、その前提として、革命前の東ドイツ体制の特質を見ておく必要がある。
 東ドイツは第二次大戦でのナチスドイツの敗北後、ソ連軍の占領下にあったドイツ東部地域が、英米仏の占領する西部地域とは別途、社会主義国として独立した経緯から、ソ連の最も忠実な衛星同盟国として東側陣営の領域を中欧まで拡張するとともに、ソ連が体制教義としたマルクス主義の理論的な祖カール・マルクスを輩出した国(ただし、出身地トリ―アは西ドイツ領域)としての自負からも、教条主義的な性格が強くなった。
 その政治体制には表/裏があり、表向きは複数政党制に基づく議会制の外形を装っていたが、実態はドイツ共産党とソ連軍占領地域のドイツ社会民主党が合併した他名称共産党としての社会主義統一党(SED)が事実上の独裁政党として政権を支配し、他政党は翼賛的衛星政党の役割に限局されていた。
 こうして実質上はソ連型の一党支配下で、ソ連にならった中央計画経済と農業集団化が急ピッチで施行されたが、こうした体制を忌避して西ドイツへ脱出する者が跡を絶たなかったため、西ドイツに比べて人口が圧倒的に少ない中、労働力流出と頭脳流出を避けるためにも、1961年、西への脱出口となっていた首都ベルリンの東西境界線の通行を遮断し、脱出者の銃撃をも辞さない厳重な警備態勢を敷いた。
 最初は鉄条網の設置に始まり、最終的にコンクリート壁となったため、「ベルリンの壁」として、東西冷戦による分断を象徴する物理的障壁となったが、東ドイツにとっては良策となり、以後、1970年代にかけて、東ドイツは優良な国営企業を通じた社会主義経済のモデル国家に成長していく。
 70年代オイルショックを機に経済は後退し、西ドイツとの経済格差も顕著になったが、他方で、女性の社会進出などでは進歩的な面もあり、東側陣営の中では安定した体制を保持していた。しかし、ソ連に忠実な教条主義は修正されることなく、特に1971年にSED第一書記(後に書記長)に就任したエーリッヒ・ホーネッカーは保守的な教条で固まり、体制改革に消極的であった。
 1976年以降は元首格の国家評議会議長も兼ねたホーネッカーの指導の下、80年代にかけては経済状況がいっそう悪化し、冷戦の「雪解け」を契機として72年に相互承認条約を結んでいた西ドイツからの経済援助を受け入れて弥縫する有様となった。このような東ドイツ晩期の西ドイツ依存策は、潜在的には体制崩壊と西ドイツへの吸収、東西ドイツ統一への序章だったとも言える。
 しかし、さしあたり1980年代末まで東ドイツ体制は安定していたが、それはナチスドイツ時代のゲシュタポに匹敵する秘密政治警察・国家保安省(シュタージ)とその協力者を通じた徹底的な監視網と抑圧に基づく「安定」であった。

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比較:影の警察国家(連載第54回)

2022-02-19 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

2‐1:連邦警察任務の拡大

 現ドイツにおける連邦警察機関の主軸は連邦警察(Bundespolizei)であるが、この機関は元来、旧西ドイツの連邦国境警備隊(Bundesgrenzschutz:BGS)を前身とする。BGSはその名の通り、国境警備に専任する武装組織であった。
 その点、敗戦後の西ドイツではいったん連合国占領下で軍備が廃止された後、軍に代わる武装組織として BGSが創設された。そのため、 BGSは初発においては準軍事組織の性格を持ったが、1955年の再軍備を機に、1960年代の制度改正によって文民武装組織に転換されたため、事実上は「国境警備警察」となった。
 そうした特殊な設立と転換の経緯から、 BGSは準軍事組織ではなく準警察組織として位置づけられるようになったため、時代の進展とともに、実質的な警察組織として発展していくこととなった。
 その過程で、純粋の国境警備に加えて、大統領府や最高裁判所、首相府など連邦主要庁舎の警備任務が追加されるともに、対テロ作戦の中軸ともなった。後者は1972年のミュンヘン五輪でイスラエル選手団がパレスチナ武装集団に襲撃され、多数の死者を出した事件を機に整備されたものである。
 さらに、1990年の東西統一に際しては、両ドイツの鉄道警察がBGSに移管された。このように、主として1970年代以降に BGSの任務が漸次拡大するにつれ、国境警備隊という機関名称が実態に合わなくなったことを受け、2005年に正式に連邦警察に名称変更された。
 しかし、地方分権を指向するドイツ憲法は警察力を州の権限としていることから、憲法違反の可能性も指摘されたが、権限を制約することで憲法論議を抑えた。ちなみに、この改正を主導したのは時のシュレーダー社会民主党政権であったが、こうした「法と秩序」政策は従来「リベラル」政党であった社民党の保守的変質を示す政策と言える。
 このように、連邦警察への名称変更は、旧西ドイツ下で連邦は警察力を正式に保有しないという脱警察国家を目指していた流れを転換し、影の警察国家を進展させる意味を持ったのであるが、その基本は警備警察であって、フランス国家警察のように刑事警察や公安警察にも及ぶ自己完結型の警察組織でない限りにおいては、なお権限が制約されていることも確かである。
 とはいえ、国境警備や対テロ特殊作戦部隊に加え、デモ規制や暴動鎮圧などの集団警備力をも擁する連邦警察の物理的な実力は相当に高度であり、実態としてはフランスの国家治安軍のような軍事的な性格を持った強力な準軍事的警察組織に増強されていることが注目される。

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お知らせ

2022-02-19 | マルキシストとの対話[準備中]

旧連載『マルキシストとの論争』は、『マルキシストとの対話』に改題のうえ、カール・マルクス原典から抽出される共産論―言わば、原マルクス主義―と拙共産論との異同をより明らかにする連載として、再掲する予定です(時期未定)。

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比較:影の警察国家(連載第53回)

2022-02-18 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

2‐0:連邦警察機関の簡素な体系

 ドイツの連邦警察機関はアメリカのそれのような錯綜した迷宮ではなく、伝統的に簡素に設計されてきた。もっとも、これは東西ドイツ統一前の旧西ドイツの制度を継承したもので、旧東ドイツは強固な中央集権制の警察国家そのものであった。
 第二次大戦後の東西ドイツ分断以前のナチスドイツ時代には、ナチス親衛隊の中央本部組織の一つである国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt)に刑事警察や政治警察を含めた全警察機関を統合するという形で、極端なまでの中央集権的警察国家が構築され、人権抑圧の中枢とされたことへの反省から、戦後、旧西ドイツが連邦国家として再生された際には、連邦の警察権力を必要最小限度に制約した経緯があった。
 そうした旧西ドイツの制度が旧東ドイツの制度を全廃したうえ統一ドイツに平行移動的に継承されたことで、現ドイツの連邦警察機関も簡素な体系を維持している。
 すなわち、警備警察である連邦警察(Bundespolizei)と犯罪捜査に特化した連邦刑事庁(Bundeskriminalamt)、政治警察としての機能を持つ連邦憲法擁護庁(Bundesamt fur Verfassungsschutz)、さらに経済警察としての関税刑事庁(Zollkriminalamt)を基本構成要素とする体系である。
 以上の諸機関に加え、本来はアメリカのCIAやイギリスのMI6に対応する対外的な諜報機関である連邦諜報庁(Bundesnachrichtendienst)も、近年国際テロリズムや国際犯罪組織に対する諜報活動に乗り出している限りで、治安に関わる権限を拡張し、警察機能を獲得しつつあることも注目される。
 このようにドイツの連邦警察機関の体系は簡素であるとはいえ、後で個別に見るように、連邦警察の役割の歴史的な拡大傾向、連邦憲法擁護庁の隠密監視活動などは、簡素な体系の外観のもとでの影の警察国家化の要因となっているところである。

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近代革命の社会力学(連載第382回)

2022-02-16 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(3)ハンガリーの党内政変と国境開放
 1989年に始まる連続革命において、前回見たポーランドにおける体制移行に加え、より直接的な物理的動因となったのは、ハンガリーにおける党内政変後に成立した新政権によるオーストリア国境の開放であった。
 ハンガリーの政変も革命によるものではなく、当時の支配政党であったハンガリー社会主義労働者党(他名称共産党)の指導部でのクーデターに近い政変であったが、ハンガリーでは元来、1956年にソ連軍の介入によって挫折した民主化革命(通称ハンガリー動乱)の後、親ソ連圏では比較的「リベラル」なカーダール政権が続いていた。
 カーダール政権は「グヤーシュ共産主義」といささか揶揄された生活の豊かさを重視する緩やかな社会主義を志向したため、同政権下のハンガリーは東側陣営の中では相対的に豊かな生活水準を享受するとともに、欧州の親ソ連圏では市場経済に最も傾斜していたため、富裕層が形成され始めていた。
 しかし、1980年代になると、ポーランド同様、対外債務の累積で次第に財政経済危機が深刻化していたところ、カーダール政権は富裕層への増税を目指したが、88年に増税案が一党支配下の形式的な議会で否決されるという珍事を機に、カーダールへの反対行動が表面化、同年5月、カーダールは党書記長辞職に追い込まれた。
 こうして、30年以上に及んだカーダール体制はあっけなく終焉したが、これは単なる党内権力の交代では終わらず、新たに党指導部に入ったネーメト・ミクローシュ首相ら急進改革派を中心に、一党支配体制の放棄へ向けたプロセスが開始された。
 ハンガリーでも、89年3月、ポーランドの円卓会議にならった協議機関が設置され、反体制勢力との協議を通じた平和的な体制移行が目指されたが、ハンガリーではポーランドほどに速いペースでは進捗せず、複数政党制に基づく総選挙は1990年3月まで持ち越しとなる。
 そうした体制移行に先行して、新指導部は長年の独裁政党であったハンガリー社会主義労働者党をハンガリー社会党に党名変更するとともに、マルクス‐レーニン主義教条の放棄と西欧的な社会民主主義政党への転換、一党支配の根拠でもあった党の指導性の放棄を実行した。
 しかし、それ以上に連続革命の導火線となったのは、ネーメト政権が89年5月から9月にかけて実行したオーストリア国境の開放であった。独立革命以前は一体だったハンガリーとオーストリア間の国境線は、より有名な東西ベルリンを隔てる壁と並んで、冷戦時代の東西を分割する象徴的な障壁となっていた。
 ここには現実にも鉄条網が張られ、直接の往来が制限されていたが、ネーメト政権はこの鉄条網を撤去したのであった。実際のところ、ハンガリーはカーダール政権時代から、西側との往来制限を緩和していたが、鉄条網の撤去は新生ハンガリーが正式に西側に開放されることを象徴的に宣言し、冷戦の終結を先取りする意味があった。
 当初はそうしたシンボリックな意味を持った国境開放が図らずも革命の導火線となったのは、開放を知った東ドイツ市民がハンガリー及びオーストリア経由で西ドイツへ脱出できると考え、殺到したからである。ハンガリーはこうした東ドイツ市民を避難民とみなして、査証なしでの領内通過を容認した。
 これにより多数の東ドイツ市民が脱出に成功し、西側へ亡命したことで、同じく社会主義独裁体制の東ドイツの安定性が破れ、東ドイツ国内でも民主化運動を刺激する結果となった。これが、連続革命の本格的な始まりとなる。

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近代革命の社会力学(連載第381回)

2022-02-15 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(2)ポーランド「円卓会議」と平和的体制移行
 1989年に始まる連続革命が生起するに当たっては、ポーランドで先行した体制移行が大きな誘因となっている。ここでは革命ではなく、支配政党と反体制勢力による円満な協議を通じて平和的体制移行がなされているが、そのプロセスは周辺諸国に対しても、参照項的影響力を持った。
 そのため、ポーランドの平和的体制移行は、連続革命事象の外にありながら、その開始の契機となった序曲的要素として把握することができることから、その概要をここで見ておくことにする。
 第二次大戦後、ソ連の衛星同盟国となったポーランドは1956年のポズナニ蜂起以来、ソ連とその統制下にある統一労働者党(他名称共産党)による一党支配体制への反体制運動が根強いところであったが、ソ連式の計画経済がソ連に先行して行き詰まり、西側からの借款に依存する中、恒常的な物不足から市民の不満が高まっていた。
 その受け皿となったのが労働運動であり、とりわけ1980年に結成された自主管理労組「連帯」であった。当時のポーランド労組は、ソ連モデルにならい、支配政党傘下の翼賛的な官製労組が基本であり、独立系労組は非合法であったが、ポーランドでは体制の制約を超えた労働運動も盛んであった。
 「連帯」もそうした流れの中で結成された非公認労組であったが、それが強固に組織化され、以後、ポーランド反体制運動のうねりとなるに当たっては、「連帯」結成前年の1979年、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世の里帰り訪問も大きな精神的動因となっていたであろう。
 こうした動きに危機感を募らせた体制側は、1981年に事実上の軍事クーデターによって救国軍事評議会を樹立し、戒厳統治を開始した。これは軍も党によって統制されるソ連式社会主義体制下では珍しい軍事政権の形態であったが、このような力による強硬策では根本的な「救国」はできず、経済的にはさらなる苦境に立たされた。
 83年にはヨハネ・パウロ2世が再び訪問、軍事政権を率いていたヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍に対して暗に自由化を促したことが契機となり、同年に戒厳令は解除された。
 ヨハネ・パウロ2世は、80年代、ハイチやフィリピンも訪問し、それらのカトリック優勢諸国の民衆革命に対しても少なからぬ精神的影響力を及ぼしたことはすでに見たが、ポーランドもその例外ではなく、ヨハネ・パウロ2世の赴くところ、体制変動が起きるのであった。
 以後、戒厳令下で弾圧されていた「連帯」は、その指導者レフ・ヴァウェンサ(日本語誤称ワレサ)を中心に全国的な民主化運動の中核として台頭していく。そうした中で、盟主ソ連に改革派ゴルバチョフ指導部が発足したことは、大きな転換点となる。
 戒厳令解除後も民政の形で継続していたヤルゼルスキ体制は革命への進展を恐れ、「連帯」との協議を通じて体制改革を進める方針を決め、1988年から「連帯」と水面下で交渉し、89年2月に政権と「連帯」、さらにカトリック界オブザーバーを含めた公式協議会・円卓会議の設置に漕ぎ着けた。
 この協議会を通じて、一党支配体制の放棄と二院制議会の設置、大統領制の導入、経済改革などの諸問題が幅広く討議され、同年6月の総選挙では「連帯」系の党派が躍進する結果となった。といっても、下院はなお統一労働者党が制し、議会による選出となった新設大統領にはヤルゼルスキが選出されるなど、連立的な過渡的体制ではあったが、とりあえず平和的な体制移行が実現したのである。
 こうして、ポーランドでは革命によらずして、さしあたり一党支配体制の廃止が実現したのであるが、これが可能となったのは、ポーランドでは革命ではなく、団体交渉を基本手段とする労組が反体制運動の主軸となったことに加え、体制側代表者のヤルゼルスキが元来、旧貴族階級出自の軍人という社会主義体制指導者としては稀有の人物で、ある程度柔軟性を持っていたことも寄与していたであろう。
 ポーランドにおけるこうした先行的な体制移行は、周辺の類似体制諸国にも大きなインパクトを及ぼし、抑圧されていた反体制運動に刺激を与えた。しかし、他諸国ではポーランドのような平和的な体制移行が可能な条件は乏しく、多くが革命的経過を辿ることになる。

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近代革命の社会力学(連載第380回)

2022-02-14 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(1)概観
 中欧の東ドイツから東欧各国、さらに極東のモンゴルにまで及ぶユーラシア大陸の社会主義諸国において1989年に始まり、おおむね1992年まで連続的に継起した革命(以下、単に連続革命という)は、東西冷戦の終幕を画する世界史的な体制変動であった。
 このような連続革命が勃発した大状況として、東側陣営の盟主ソヴィエト連邦で1985年に発足したミハイル・ゴルバチョフソ連共産党指導部による体制の大規模な改革再編があった。この再編はソヴィエトの内政のみか、外交上も従来のソ連を盟主とする東側陣営の統制を大幅に緩和するものであった。
 そのため、ソ連を模倣した共産党(他名称共産党を含む)を指導政党とする一党支配型社会主義体制を維持してきた中・東欧からモンゴルに至るソ連の同盟国・衛星国の間で、続々と一党支配制の放棄と脱社会主義化のドミノ倒し的な動きが連続した。
 それらのすべてが革命の経過をたどったわけではなく、ハンガリーやポーランドでは支配政党自らが譲歩し体制変動を導いたが、多くの諸国では民衆デモを起点とする民衆革命の過程を経ているため、全体として連続民衆革命による体制変動となった。
 唯一、独裁者夫妻の処刑を極点とする古典的な流血革命を経験したルーマニアを例外として、武器を取らない丸腰の市民による民衆革命の連続的な成功という点では、連続革命は歴史的にも画期的な事象であり、21世紀以降の革命に新たな動向をもたらしたと評することができる。
 また地政学的な観点からも、連続革命は米ソ首脳による冷戦終結宣言、さらには図らずも連続革命の大状況を作り出したソ連自身にも反射的な効果を及ぼし、連続革命渦中の1991年にはソ連も急進改革派主導の革命により解体され、冷戦の一方当事者であった東側陣営そのものが消滅するという大変化をもたらした。
 そのほか、ソ連と対立しつつ、独自の社会主義連邦を形成していたユーゴスラヴィアにも影響は及んだが、ここでは革命ではなく、連邦の解体・独立運動の過程で、民族浄化の虐殺を伴う凄惨な内戦に進展した。
 なお、連続革命は、政治的には一党支配体制の解体と西欧ブルジョワ議会制への転換という限りでは、相対的な民主化という結果をもたらしたものの、時を経て、議会制の枠内で権威主義的な政権が出現してきた国もあり、無条件に「民主化革命」と規定することはできない。
 また、連続革命を経験したすべての諸国で資本主義市場経済に移行していった点でも、社会主義諸国では克服済みとされていた資本主義への回帰という後退現象を見せており、経済的下部構造の面では革命的とは言えない結果をもたらしたことも否めない。
 そうした点を考慮すると、連続革命は一党支配型社会主義体制からの脱却という共通の結果に着目して、「脱社会主義革命」と規定されるのが最も妥当な把握と考えられる。なお、ソ連邦解体も連続革命渦中で生じているが、この事象には固有の特徴が多いため、別途論ずる。

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近代科学の政治経済史(連載第5回)

2022-02-12 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ裁判の展開②
 ガリレオが前回裁判から17年も経た1633年に再び告発された理由としては、前年に公刊した『天文対話』が大きく関わっていた。前回見たとおり、この書は地動説を直接に講術しない対話の形式を取り、かつ事前に教皇庁の許可も得ていたにもかかわらず、告発されたのは、地動説を放棄し、今後論じないとした1616年の免責条項に違反したからというのであった。
 しかし、おそらく教皇庁にはめられたと感じたガリレオは、地動説を放棄するという誓約はしていない旨の反論を行ったが、このような弁明はかえって教皇庁の心証を悪くしたようであった。当時すでに前回裁判時の裁判官ベラルミーノ枢機卿は世を去っており、裁判官が入れ替わっていたことも事情を複雑にした。
 頼みは時の教皇ウルバヌス8世がガリレオのパトロンでもあったことであるが、期待に反し、ウルバヌスはガリレオを擁護しようとしなかった。その背景として、『天文対話』で天動説論者として登場する架空人物がイタリア語で「頭の鈍い者」を意味する名前を与えられていたことを自身への風刺とみなした教皇が憤慨したためとする説もある。
 それは穿った見方だとしても、『天文対話』が対話形式を取りつつも、実質上は地動説を正当とするニュアンスで書かれていることは否めないところであり、その点で、前回裁判当時の免責条件に違反したとみなした教皇庁側の立場にも一理はある。
 もう一人の頼みは、ガリレオのパトロンでもあったメディチ家のトスカーナ大公フェルディナンド2世の存在であった。実は『天文対話』もトスカーナの首府フィレンツェで出版され、好学のフェルディナンドに献呈されたものであった。
 しかし、当時のトスカーナ大公国はすでに衰退期にあり、往時の権勢を失い、教皇庁にも押されて北イタリアの小国に落ちていたため、教皇に対して何らの影響力も発揮できなかった。
 こうした不利な情勢の中、ガリレオは異端の有罪宣告を受け、明示的に地動説の放棄を誓約する文書を強制されることとなった。当初の刑は死刑を免れたものの、無期監禁刑であったが、直後に軟禁刑に減刑されたのは、教皇庁としてガリレオの学者としての名声に最大限配慮した結果かもしれない。
 とはいえ、終生にわたる軟禁であり(後にフィレンツェでの自宅軟禁が許される)、全役職を剥奪されたうえ、キリスト教徒としての埋葬も許されないという完全な社会的抹殺が強制されたことに変わりない。当然、ガリレオ著『天文対話』も禁書目録に搭載された。 
 ガリレオ裁判はすべての異端審問と同様、不公正な一方的糾問裁判であったが、それが科学者とその科学学説を対象としたという点で、特異なものであった。これにより、教皇庁は科学学説であっても、教理違反とみなす限り抑圧できるという先例を作ったことになる。このような先例の存在は、来たる近代科学の発展において、大きな制約となるであろうことは確実であった。

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近代科学の政治経済史(連載第4回)

2022-02-11 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ裁判の展開①
 通説によると、ガリレオは二度にわたり裁判にかけられたとされる。一度目は1616年のことであるが、最初にガリレオに対する教会教義の観点からの糾弾に動いたのはドミニコ会修道士らであった。
 しかし、そうした科学の素人からの教義的な非難よりも、カトリック司祭で教会法律家でもあったフランチェスコ・インゴーリから学問的な論争を挑まれたことのほうが重要な伏線となったようである。
 インゴーリは保守的な論客であったが、天動説を護持していたわけではなく、天文学もかじった知識人として、むしろ太陽と月が地球を周回し、同時に惑星が太陽を周回すると主張するデンマークの天文学者ティコ・ブラ―エの天動‐地動折衷説の支持者として、ガリレオを批判したのであった。
 この論争は本来科学的なものであるはずであるが、インゴーリは地動説批判を純粋に科学的な観点からではなく、神学的な観点からも整理し、地動説の反聖書的な性格を非難しており、教皇庁としても看過できなくなったと見られる。
 ただ、1616年に始まった審問は本格的なものではなく、裁判官ベラルミーノ枢機卿は、ガリレオが地動説の所論を放棄し、今後一切論じないことを条件に審問手続きを打ち切ることを持ちかけた。これは今日で言えば、司法取引に基づく不起訴処分のようなものであった。
 そのうえで、教皇庁は地動説の流布を禁ずる布告を発し、その典拠であるコペルニクスの『天球の回転について』を閲覧禁止とした。しかし、禁書として確定させたわけではなく、間もなく、地動説は天体観測をより容易かつ正確にする手段にすぎないと解釈する限りでは教会教理に服するものでないとして、閲覧禁止措置を解除したのであった。
 こうしたガリレオへの寛大な処分と地動説に対する第三者的な態度を見る限り、この時点でも、教皇庁は天体の動きに関する論争にはまだ積極的な関心を抱いておらず、科学論争に直接介入する意思もなかったと理解される。
 これにて落着していれば何も問題はなかったはずであるが、それから十数年後、ガリレオは再び告発され、今度こそ本格的な異端審問にかけられる羽目となる。そのきっかけは、ガリレオが長い沈黙を破り、1632年に公刊した『天文対話』であった。
 この著書は地動説を直接に展開するのでなく、タイトルの通り、仮想の人物の対話という形式を取って、地動説と天動説、さらに折衷説に近い中立説を対比させた解説書のようなものであり、地動説の講説を禁じられた先の免責条件に沿いつつ、かつ教皇庁の出版許可も得たうえでの公刊であった。
 そのように用意周到に準備したはずのガリレオが何故に再び告発されたのか。そこには、ガリレオの科学者としての信念と、当時の対抗宗教改革時代のローマにおける宗教政治とのまさしく相克が関わっていた。

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近代革命の社会力学(連載第379回)

2022-02-09 | 〆近代革命の社会力学

五十五 フィリピン民衆革命

(5)続く政情不安と残存課題
 フィリピン民衆革命と同年同月に先行したハイチ民衆革命には少なからぬ類似点が認められるが、最大の相違点は、フィリピンの場合、革命後に旧体制の中途半端な継続はなく、完全な政権交代がなされたことである。その点、革命が選挙直後のタイミングで発生したことは革命後の政権発足を円滑なものとした。
 しかし、コラソン・アキノ新政権は元来、反マルコスでまとまった八野党の寄り合い統一組織を基盤としていたところ、マルコス政権打倒の目的を達成した結果、統一組織内の不協和音が鳴り始め、88年には解散された。
 さらに、マルコス派内部から造反した功績で引き続き国防相に留任したエンリレは元来マルコス最側近という出自を持つ異分子であったため、間もなく大統領とも不和となり、辞職した。不和の最大要因は、アキノ政権が共産ゲリラ勢力との和平を追求した点にあった。
 その点は革命時にエンリレが擁護した改革国軍運動にとっても同様であり、彼らはアキノ政権下でも軍内の反対分子となり、成功例はないものの、旧マルコス派とも連携しつつ、たびたびクーデターを起こした。結局、6年間の任期中、アキノ政権は少なくとも7回のクーデター未遂に見舞われるという政情不安が常態化することとなった。
 こうした不安定な政権運営は革命政権にはしばしばありがちのことであるが、政治歴なしの主婦出身というアキノ大統領の指導力不足も大いに影響していた。とはいえ、造反の功績から国軍参謀総長に昇格し、その後国防相も務めたフィデル・ラモスがクーデターの鎮圧に努めたため、政権は任期を全うすることができた。
 アキノ政権は民衆革命によって当選を確定させることができたという点では革命政権の性格を持っていたが、実際のところ、アキノには民衆の代表とは言えない面があった。自身は強力な華人系地主財閥コファンコ家の出自で、暗殺されたことで彼女を政治的シンボルに押し上げた夫の故ベニグノ・アキノも富裕な名士階級出自という点では、アキノ政権は伝統的な支配階級から出ていた。
 そのため、ほとんど首都マニラに集中した86年民衆革命では蚊帳の外にあった農民層は87年1月、首都マニラで大規模な抗議デモを組織し、農地改革を要求した。これに対し、軍が発砲、13人が死亡した事件はアキノ政権下最大の汚点となった。
 政権はこれを機に農地改革に乗り出し、1988年には無産農民の所得向上を図るための総合的農地改革法を施行し、最終目標として約800ヘクタールの農地配分を目指したが、アキノ政権下では170万ヘクタールの配分にとどまった。
 農地改革はその後の政権にも継承されてはいったものの、地主階級の反対で改革は骨抜きにされ、本質的な農地解放には遠く、大地主制がなお残存するほか、農地の小口分配はかえって小土地貧農化を促進した面もあった。
 かくして、86年民衆革命は、時のマルコス独裁体制の打倒という目的は果たし、民主化(正確には、マルコス以前の民主制回復)という成果は得たが、歴史的な宿痾である不平等な社会経済構造全般の変革には届かず、課題を積み残した。こうした限界は上部構造のみの政治革命全般に見られる限界性に通じる。

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